2013年5月26日日曜日

三位一体主日

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」
ヨハネによる福音書16章12説

【説教要旨】「ウジヤの勢いはこの上もなく増大し、その名声はエジプトに近い地方にまで届いた。」歴代誌26:8

これは紀元前800年のときのユダヤ、正確には南ユダヤ王国の出来事でした。王ウジヤはユダヤ王国の中興の人でしたが、しかし、国力と経済の繁栄をもたらしましたが、人々に人としていく道を失わせていきました。王も傲慢になりました。その傲慢さ故に神は王を打ち、病気を与え、死をもって償わせました。「ウジヤ王が死んだ」、このとき天使セラフィムが、預言者イザヤの前にあらわれ、彼の口を火で清め、イザヤは神のことばを告げる決意をするのです。まだ、繁栄が残る時代に、神のことばを伝えるなど人に受け入れられていくことは困難極まりないことでした。しかし、イザヤは「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」とはっきりと神に応えるのです。これが、イザヤ召命の記事です。先週は、聖霊降臨日を迎えました。聖霊がくだった日は、このイザヤの出来事が、使徒たちにも起きたのです。使徒たちも「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」というイザヤの言葉の成就として、全世界へ神のことばを伝えるべく出ていったのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と。その前には困難さがあるでしょう。しかし、困難さが見えていてもなお、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と神に言い切る勇気を与えられるということが聖書の示すところです。
先日、U兄から刑務所を出所した方々が生活を立て直していくための活動をなさっている方の支援をされている話を聞きました。出所された方々も高齢化が進むなか就職の難しがあり、施設が自分たちの町にやってくるとなると反対運動が起こるという困難さの中で活動をされているクリスチャンがいると聞きました。誰が見ても活動は困難さが前に見えて、活動を妨げている。しかし、なぜ、彼は続けるのでしょうか。それは神の召命だからです。
「神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。」とセラフィムについて説明されています。今日の聖書でセラフィムは「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」」とあります。弟子が聖霊を受けたということは、セラフィムが神の言葉をうけたように、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方、聖霊は、自分から語るのでなく、ただ聞いたことを語るのです。誰から聞いたのか。それは神からです。神ご自身が語られたことを聖霊は語るのです。神ご自身が語られることは、イエス・キリストにおいて示された出来事にほかならないのです。聖霊が語るのは、イエス・キリストを通して示された神のみ心を語るのです。困難が待ち受けていても、神のみ心が語られるということを受け入た故に、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」とありますように、キリストに属しているという揺ぎ無い安心感が、安定感が彼ら弟子を、それを継いだ私たちも大胆に変えらていくのです。
聖霊を受けるということは、キリストを感じるということ、自分が神に愛されてることに他ならないのです。
パウロは大胆にもこのように告白します。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
聖霊から示される真理とはこのパウロの告白に他ならのです。
ここで「真理の霊」というとき、わざわざ「真理」という冠をつけたことに注目したいのです。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」とありますように、真理、そのものは人を賢くするような知識でなく、それはイエス・キリストという具体的な方を通してのみ知ることです。真理とはこの世を生きたもうたイエス・キリストによって愛されたという経験です。真理をことごとく知るということは自分がイエス・キリストによって真実に愛されているということを知るということです。ここを生きることが霊を生きるということです。また、神に愛された神の子として生きていくのです。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
神の子は見えるものに身をゆだねません。霊に委ねます。それは見えるものに振り回されません。弟子の偉大さは彼らの偉さにあるのでなく、彼らが信じたもの、目に見えないこの偉大な聖霊を通して示されたイエスの愛、神の愛にあるのです。人がした業によってでなく、人が,私たちが信じたものによって私たちは作られていくのです。神の子、私たちは愛を信じるものです。そして同時に愛に生きる神の子として今、生きるのです。
政治力、経済力こそ力と信じきっている厳しい時代を生きています私たちは自分を翻弄し、倒れそうになるとき、この私たちを倒す風とは違う風が私たちのうちに吹いています。恐れおののきつつ生きる中で、「神は愛」という風を受けるのです。セラフィム、「神への愛と情熱で体が燃えている」天使から清められ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と告白出来る人が私たちです。


◆牧師室の小窓からのぞいてみると
この頃、教会が自己保存的になり、心の座りの良い人、言葉ばかりを求めている。
 「婚約者が洗礼を受けなければ、君が牧師を辞めるか、婚約を解消するか」とそして、「洗礼を受けるまで結婚式は許さない」と本音を息子にぶつけていた。決して心の座りの良い言葉ではない。
 聖書にアハブ王とフェニキアの女、イザベルの結婚の記事がある。イザベルはイスラエルの神の生き方が分からず「ナボテの事件」を起こし、イザベルの不幸の死を告げている。私は彼女がそうなってほしくなかった。二人は、とくに婚約者の彼女は大決心だったと思う。彼女に決心させてくださった神に感謝するとともに、決心した彼女に感謝したいと思った。


◆新米園長・瞑想?迷走記
橋下市長が私学は、私立とあるので自分で独立してくださいと言って、私立への補助金をカットしていると聞いた。それは私学の建学精神でもある。しかし、現実は本体の宗教法人の力は新興宗教をのぞき弱体化しているから自立は出来ない。
「橋下さん、その通りです」と言いたいが、公の部分も担っていいるのも私学だということを知っていただきたい。こんな乱暴さが教育の場にまで及ぶ時、国家は危機である。


◆「ルターの言葉から」
 主キリストは死にて葬られる。-わたしもーキリストはその後蘇り、天に向かわれた。わたしもである。



◆北米のルター派・その歴史 24チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)4
1930年代の大恐慌を通して、アメリカのルーテル教会に新たな変化が根ざしました。以前は、ルーテル教徒はヨーロッパの国々を出て合衆国に入って来ました。今は、人々が仕事を求めて移動するように、ルーテル教会は新しい移動を経験し始めました。田舎から都市への移動です。田舎の労働者によって都市が拡大するだけでなく、新たな現象が現れました。それは、「郊外」です。

2013年5月19日日曜日

聖霊降臨日

「すると、一同は聖霊に満たされ、
 “霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

              使徒言行録2:4

【説教要旨】
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」と創世記は記しています。しかし、神によって言葉がばらばらにされたというこの物語の起源譚は、世界中の言葉が違う理由について記したものでしょう。
一方、教会が成立した聖霊降臨日の出来事において、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とありますように、違いある言葉をそれぞれの言葉を話すことによりそれぞれが分かるようになったということです。
いま、パソコンが誰でも手に入れられ、インターネットが普及した時代政治、経済と大きく変化をしてきていますことは皆さんが分かっていることだと思います。TPP加入問題で分かるようにアメリカということを軸にして経済も同じ土俵に動きましょうということです。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」ということが再び現実化しようとしているのかもしれませんね。このことが私たちがどう生きるかという私たちの生き方を強く求められてきていますから、私たちは大変に厳しく、重い時代を生きているのです。
 A牧師が「教会は社会が求めてきていることにどう対処していくかということではなく、社会がどう生きたら良いかということを教会に求めてくるような教会にならなければならない」と言っていることにうなずきます。
創世記において、言葉は一つになり、「彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」とありますように文明を築いてきたと記しています。その力の向く方向に注目したいのです。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
自己自信に満ち、神を頼ることのできない者となり、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」とあるように、人が神のようになろうとしているところです。人が文明というものを手中にしたときにいつも起こることです。それを現代にあてはめたとき、私はこの物語を笑ってばかりではおられません。まさに一つの文明を手に入れた現代人が何かを感じるのではないでしょうか。この物語の結果も現代人がもっている不安を示しています。「全地の言葉を混乱(バラル)させた」ということです。どうも良い事ばかりでなく、「混乱(バラル)」が起きるのでないかという不安です。
さて、教会が成立したとき、神は聖霊という力をもって私たちとむかいました。それぞれが違いを越えて、相手の分かる言葉で話すように弟子の口を開いてくれました。秩序の回復と「希望」です。

神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

活き活きした姿を示しています。全ての世代に渡って、私たちは神からの恵みをいただくということです。
そして、私たちの外へ、外へ私たちの目を向けてくださるのです。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 バベルの物語は人が自分へ自分へ、内へ内へとむくことにより自らを滅ぼしましたが、聖霊降臨は人の目がキリストへ、キリストに向かうとき、そして今こそ私たちはこのことを伝えるべき伝道を整えいくことです。キリストにこそ喜びがあるのです。


◆牧師室の小窓からのぞいてみると
本音で

私も本音で話す方だから橋本さんの発言にはいつもひやひやして心配していた。
今回の従軍慰安婦に関する発言は、本音というよりも、無知からくる単なる暴言にすぎない。
歴史認識の甘さ、人権認識の欠如などを指摘すればきりがない問題を含んでいるのだが、彼は謝罪も、発言の撤回もしないという。また、不利だと思うと囲い込み会見もお断り、はてには自分の英語力のなさが誤解を生んだなど責任をとらない姿は、今までの政治家とどこが違うのだろうか。先週言った曽野綾子氏が「賢母はいるが、大母がいない」と言っていたが、「賢い政治家はいるが、大きな政治家がいない」ということをまた書かなければならないのは悲しい。本音で、橋本さんを叱る政治家はいないのだろうか。


◆新米園長・瞑想?迷走記
5月は一年前の補助金の実績届を都、区に提出しなくてはならないが、幼稚園は何かと新入園児を迎えて、保育者の手が足りなくなるので、事務員までかりだされ、したがって、本来なら事務員が作成するこの報告を園長が書かなくてはならなくなってくる。正直、牧師を兼務していると疲れる。
前にも書いたが、一方では定員80名ぐらいの園では園長も本来の業務でないことをしないと経営はなりたっていかない。教会立の園では、これを牧師夫人がしているところも多くあるが、課題は重いし、何らの解決にならない。ぼやいてもしかたないという、ことからやらなきゃというのが現状である。


◆「ルターの言葉から」
町や城や金や銀ではなく、天上、地上における最大の宝として、私たちと弟子たちに聖霊はご自身の平安を残していかられるというのです。これは実にすばらしい最後のお言葉です。弟子たちは恐れたり嘆いたりする必要はなく、心のうちに希望に満ちた平安をもつことができるのです。
主は言っておられます。わたしに頼っている限り、まことの平安と喜びがある。わたしの臨在とメッセージは、わたしが心からあなたがたを愛し、あなたがたの益のみを望み、また、わたしの父は最高の恵みのうちにあなたがたをご覧になっておられるという事実を教えてきたものである。これこそわたしがあなたがたに残して行くことのできる最上の贈り物である。
ヨハネによる福音書14章の講解



◆北米のルター派・その歴史 23チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)3
アメリカのルーテル教徒とヨーロッパ、とりわけドイツのルーテル教徒との関係では、第一次世界大戦がもう一つの転換点でした。1900年代初頭には、ルーテル教徒の間に、教会および個人の生活をアメリカ流に変えていこうという意識が育っていました。最も劇的に変わったのは言葉ですが、それだけではありませんでした。少なくともそれと同じくらいに重要なのは、ものの見方や忠節な行為においても、ルーテル教徒はこれから先アメリカ人であらねばならないということを悟ったことです。これまで姿が見えなかった、アメリカを表す基本要素がもっとはっきりわかるようになりました。例えば聖域に掲げられたアメリカ国旗は、アメリカの精神文明によって元気づけられることを示す標識としてだけでなく、第一次世界大戦では愛国心を示すしるしでした。


◆大森通信
やっと改修中の休館の園舎の足場が取れた。旧館の壁のタイルは清掃され、優しい趣のある橙色のタイルの姿が見えてきた。心がほっとして優しさに包まれていく。こんな雰囲気をどこかで経験したことがあると感じたとき、「そうだ、福本先生とお会いしたときに」。建物は、その人の気持ちがいつまでも生きていると思う。福本先生に見えてきた。
初めの計画では、老朽化し汚れていた壁を有機質のペンキで、塗装して塗りつぶしていく予定であったが、S兄の提案で歌舞伎座改修に使われた無機質の塗料を使い、タイルを残すということになった。余分に100万円かかるが、建築委員、役員が賛成してくださり着工した。幸い工夫をして、予定の100万円の経費もかからずに出来た。実行してよかったという感動を味わっている。金と手間がかかったが、歴史を塗りつぶさなくて、よかったと思っている。
ここに昔からあったように、調和して新館も旧館も今を建っている。見るとどこを改修し、新築したのだと思うような趣であるが、後の人がどう評価するか分からないけど、満足いけるものであると私は思っている。何よりも優しい雰囲気に癒され、教会に生きて信仰を証した人たちの息を感じる。

2013年5月12日日曜日

復活後第6主日 

わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

ヨハネによる福音書17章26節

【説教要旨】
今日の聖書の日課は、イエスさまの祈りの後半にあたります。前半は弟子たちへの祈りであり、後半は弟子たちによって主を信じる者となった者への祈りです。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」これは、主を信じる教会へのイエスさまの祈りです。
イエスさまは何を祈っておられるのでしょうか。僅か数節の中で出てくるお言葉に注目したいのです。
「一つにしてください。」、「一つであるように、」、「一つになるためです。」、「完全に一つになるためです。」
 わずか3節の間にこのようにお言葉が繰り返されるのは、イエスさまが、信じる群れである教会が一つになることを望まれているということではないでしょうか。
「使徒たちの言葉によって、信じるすべての者には、約束が与えられています。つまり、すべてのキリスト者とひとつのからだになり、ひとかたまりのパンとなるという約束が、キリストのゆえに、またイエスのこの祈りの力によって与えられているのです。ひとつの肢体に良いことと悪いことが生じると、全体に対しても生じるてくること、ひとりふたりの聖者だけでなく、預言者、殉教者、使徒たち、すべてのキリスト者、地上天上を問わず、すべての主にある者が、その人とともに苦しみ、あるいは勝利を得、その人のために戦い、その人を助け、守り,救うこと、キリストにある者すべてが、その人の苦しみ、願い、悩みを担うこと、またその人は聖徒たちのあらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有が行われるとの約束です。」とルターは言っています。
この一致の基は何かということです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、」とありますように、父なる神と子なるイエス・キリストの一致です。その一致は「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。26節にありますように、「わたしに対するあなたの愛」、愛によって、結ばれた一致であります。そして、この愛が私たちに与えられ、私たちとイエス・キリストの一致があるというのです。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。父なる神の愛において、私たちは一致があるということです。逆に私たちが一つになるということは、父なる神の愛の証しでもあるということではないでしょうか。一つになることが祈りとなっていくように教会は作られているのです。
「キリストにある者すべてが、その人の苦しみ、願い、悩みを担うこと、またその人は聖徒たちのあらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有が行われるとの約束です。」という愛において他者の痛みを負いつつ、負うことにより「あらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有」という出来事が起きてきます。ここに教会の姿が見えてくるのです。一つになるということの難しさ教えている現実も私たちの内にあることも事実です。目を離さずに、だから一つとなるための祈りを祈っておられるのです。イエス・キリストは一つとなる祈りを今日も熱く祈っておられる。イエスさまの祈りにおいて、私たちはひとつとされていくのです。
パウロはエフェソ書、4章で次のように語ります。

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

◆牧師室の小窓からのぞいてみると
姑息な手段 2
川口参議員が環境委員会委員長の解任決議を受けたということに、この日本はどこにいくのだろうかとふと思った。
確かに委員会を招集しながら、中国要人と会うために休んだことは良くない。しかし、解任されるほどのことかと思うのは私だけであろうか。そして、これを討議する委員会に与党が欠席するのも大人げない。
今の日本は、大人げないということが蔓延しているように感じる。大きな政治家がいない。
曽野綾子氏が「賢母はいるが、大母がいない」と言っていたが、「賢い政治家はいるが、大きな政治家がいない」、すべてのところに、私たちの教会においても。
正直、賢さにうんざりしているし、賢さが国を滅ぼしそうである。


◆「ルターの言葉から」
母は薪をひろい背負って家に持ち帰らなければならなかった。こうしてわたしたちを育ててくれた。今日、この世の人がとても耐えられないような厳しい苦難を両親は耐え忍んでいた。
ルターと母親の関係を論じた本は少ないと思う。父親との関係を論じたエリクソンは「もし彼の母親の声が天国の歌となって彼に響くことがなかったら、あのように後年ルターが語ったり歌ったりすることができただろうか」と、母親との関係を言っている。


◆北米のルター派・その歴史 23チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)2
移住者の出身地の変化の他に、1900年代初頭は合衆国におけるルター派のアイデンティティが成熟し、固まった時でもありました。このことを示すのは、国内伝道から海外伝道への転換です。実際、1900年以前には、インド、中国、日本、マダガスカル、アフリカにはわずかな宣教師が送られているだけでした。しかし、1900年代初頭に流れが変わりました。突然、全てのルター派のシノッドとカウンシルが宣教師を派遣し始めました。
 外国伝道を立ち上げるだけでなく、合衆国内では合併が進められました。1900年代の初めには、小さいものを除いても36以上のルター派のシノッドと会派がありました。互いの壁を外す努力によって急速に事態が変わり始めました。1918年までにいくつかの大型合併が行われました。1917年にはハウゲ シノッド、ノルウェー合同ルーテル教会、ノルウェー シノッドが合併して米国ノルウェー・ルーテル教会が作られました。1918年には、一般カウンシル、一般シノッド、南部合同シノッドが合併して米国合同ルーテル教会が作られました。

2013年4月21日日曜日

復活後第3主日

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
ヨハネによる福音書10:27

【説教要旨】
この聖書の箇所の前に良い羊飼いの譬があります。良い羊飼いは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。11節」、「わたしは羊のために命を捨てる。15節」と言っています。羊飼いはイエス・キリストです。このみ言葉はイエスさまの生涯そのものです。そして、この命を捨てるのは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言っています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という16節の羊は、私たちの命の回復のためにキリストが命をささげてくださったという愛にふれて、イエスの群れに入ったものです。
今日の「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」というイエスの言葉は、イエスの群れに入ったものは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」存在であり、「彼らは私に従う」という存在となっているということです。「私に従う」ということはどういことであるかということです。それは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」、「わたしは羊のために命を捨てる。」存在であるということです。
佐藤優氏がいうように「イエスは、自分のために人生を生きたのではない。他者のために生きたのである。そして十字架の死を遂げた。キリスト教徒は、このイエスの生き方を規範としなくてはならない。教会は他者のために存在するのだ」生きるということであり、十字架と復活を生きる私たちの生き方であり、証であるということです。
静岡大学名誉教授寺澤節夫兄が「復活を語る」という文章で、「“復活とは?”という問にこう答えてみたらどうかと考えた。今日御活躍の養老孟司先生のような大脳生理学の表現法を引き合いに出すなら、“脳の中により上位の新しい見張り所が出来た”、そのために“それまでの古い脳の働きが今や不用なものとなった”と言ってもよいのではないかと。そのような新しい脳の見張り所は、新しいヴィジョンの司令塔であり、真っ暗闇であったところに生まれた光でもある。問題は、それがどうして出来たのかは解らないことである。なぜなら、それは人間力によって出来たのではなく、高次の生命の創造作用の結果生まれたからである。そのために、閉塞状態に置かれていた弟子達はそれを破られ、新たな希望に満たされて前進出来るようになったのであり、そこに絶望から希望への転回を表現出来るのである。・・・・希望の無い人生に、どのような未来があるというのか。このような、絶望のただ中にあった人々の希望への転回。ここに復活の意味があると言えよう。・・・弟子達の絶望から希望への転回は大いなる出来事、揺ぎのない希望への確信、また未来への新たな指針を生み出すコペルニクス的転回の体験だったと考えられるのではなかろうか。」と言われています。
私たちは小さく弱く、神から離れる罪人である。しかし、私たちは新しい命を豊かに生きるとき、絶望にあっても希望を生きる存在として、今の社会がもっている課題に生きようとする力が私たちに与えられるのです。
寺澤氏は「復活の命は、神の人間に対する愛の徹底のためであり、愛の徹底のために罪を担う痛みが生きられる結果としての大いなる恵みだからである。したがって、絶望の中で与えられる希望は、また私達にそのような愛の模範に倣うことを要求するものであり、そこに私達の生きる指針もまた有ると思うのである」といっているようにイエスの愛に倣う存在としての豊かさに変えられるのです。私たちが聞き分ける羊の声とは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」という声です。
私が教区長なら、教区50周年の記念の行事を仙台か福島で行うでしょう。それは私たちが3・11の東日本大震災を経験し、「したがって、絶望の中で与えられる希望は、また私達にそのような愛の模範に倣うことを要求するものであり、そこに私達の生きる指針もまた有ると思うのである」ということの「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という者の証ではないないかと思っています。私たちの教会、私たちを取り巻く社会的状況は決して良いものではありません。しかし、「新しい脳の見張り所は、新しいヴィジョンの司令塔であり、真っ暗闇であったところに生まれた光でもある。問題は、それがどうして出来たのかは解らないことである。なぜなら、それは人間力によって出来たのではなく、高次の生命の創造作用の結果生まれたからである。そのために、閉塞状態に置かれていた弟子達はそれを破られ、新たな希望に満たされて前進出来るようになったのであり、そこに絶望から希望への転回を表現出来るのである。」という歩みを苦しみ、痛みのうちにある者とともに歩みたいのです。東教区の宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」ということを私たちは主に助けられ、主によって具体化されることを信じ、自分の手でなしとげていきたいのです。私たちは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「教区総会の無気力」
  全国総会、教区総会に出席して感じることは議論もなく、無気力が漂っているということである。
「西欧が衰退しているのは、近代が臨界点にたっしているからだ。プロテスタンティズムは、近代と手を携えて発展していった。従って、近代が終焉期を迎える状況において、プロテスタンティズムも機能不全を示すのだ」(同志社大学 神学部―佐藤優著)と言って、機能不全とは「それは伝統的キリスト教諸教会の精神的無気力の問題である。」と言う。
そこから一歩進むには、ボンフェッファーが言うように教会が自己保存的になってはいけないと指摘する。だから「イエスは、自分のために人生を生きたのではない。他者のために生きたのである。そして十字架の死を遂げた。キリスト教徒は、このイエスの生きた方を規範としなくてはならない。教会は他者のために存在するのだ」(同志社大学 神学部―佐藤優著)という指摘に耳を傾けたい。
東教区の宣教方策の基本の「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」ということは正しいと思う。これに何も具体案を示さなかったのは、本当の意味で上記のことを受肉―自分の痛みとしていないーしてないように思う。これが無気力を生む。指導者の責任は重い。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
建物が二つになり、電力料金は二倍になる。
給与も上げ、待遇改善をした。保育料を上げても、値上げ分は、ふっとんでしまう。新年度の出発は、経営のことから始まった。また障碍児を受け入れていくことは保育者を増やすこと、手厚く保育するなら教師の待遇を厚くすること、当たり前のことだが、考え出すと現実と違いに胃腸の調子が狂ってくる。


■ ルターの言葉から
「わが神、わが神、なぜ私を捨てられたのですか」と叫ばれたときも、父は主のことを知っておられました。
このみことばでも主は、「父はわたしを知っておられる」と言われます。これは、(このような恥と、苦しみと、辱めにあっても)羊たちを救い贖うために魂を注ぎ出し、犠牲となるために神から送られた愛するひとり子として父が知っておられるという意味です。また、イエスの側からいえば、恥と十字架と死を通して、父は、命と永遠の栄光の内に自分を導いてくださることをしっているという意味です。
ルターにとって十字架の苦しみは、命と永遠の命へ向かう欠かせない神の出来事であった。


■ 北米のルター派・その歴史 20チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)3
 以前シャフ教授が考え出した新、旧、中庸という仕分けを使うと具合がよいと思います。これらの新組織は、「新ルター派」が1821年に作られた一般シノッドの傘下に集合したのと時を同じくして発展しました。「旧ルター派」は、多くが1847年に作られたミズーリ・シノッドおよび1850年に作られウイスコンシン・シノッドとして知られるようになったシノッドに属しました。「中庸派」は、多くが1867年に作られた一般カウンシルに属していました。以上のルター派シノッドおよびカウンシルは、民族や教義の違いによって複雑に分かれたグループをカバーしてはいないものの、主要なグループでした。
 この移住者第二波の時期には、かつて持っていた「故郷」伝道の活力が、前面に出ていました。その活力が「同郷人」、「血につながる者」に向けられたので、故郷伝道と呼ばれます。この時期には、移住者達を集わせ、居住地の世話をして使徒団に入れ、そこに牧師を供給することに莫大なエネルギーが費やされました。同じ民族の移住者につながる大学、神学校のために大きな努力がなされました。

2013年4月14日日曜日

復活後第2主日

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ルカによる福音書24:36

【説教要旨】
幼稚園で毎朝、門のところで子どもを迎え、朝の挨拶を交わしています。「おはようございます」という挨拶は、日常的な挨拶ですが、しかし、ごく日常的な挨拶でも誰とどこでどのように挨拶するよって、大きく意味が違ってくると思います。園児と保護者と交わす朝の挨拶は、形式的に挨拶するとのは違った重みがあります。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
「あなたがたに平和があるように」という言葉は、当時の日常的な挨拶です。ですが、復活したイエスさまに出会ったときの「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、いつもと違った意味があるように思えます。
復活という出来事の中で、この挨拶はこういう意味をもってきているのではないでしょうか。
生前にイエスが十字架に死に、三日目に甦るということを聞いていたし、期待していたのですが、現実ということでその期待を押しつぶしていたということです。本当に信じきることが出来ないでいたということです。その暗い、イエス・キリストを信じられなくなっている弟子の罪を打ち破るように弟子らの前に復活して、イエスさまは現れたのです。人間の信じきることできないこの罪を、私たちが信じることのできるように神さまはイエス・キリストを遣わしてくださり私たちのあらゆる恐れは取り除かれ、罪と死の支配は終わり、私たちが神との平和、人々との平和を得た。今や、あなたがたのうちに、平和が与えられているという強い意味ではないでしょうか。
私たちのために、ひとりで平和を勝ち取った方が、このように挨拶をし、イエスさまご自身、「平和」である方が、十字架につけられて、甦られたイエス・キリストが私たちと共におられるという意味の挨拶です。復活を信じるということは、いまや私たちが一人で生きていくのではないということです。私たちと同じように生きておられるイエス・キリストとともに生きるということです。それは地上の命のなかで永遠の命を生きていくことです。ここに、私たち信仰者の土台があるのです。
なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」という復活したイエスさまのお言葉です。それは逆に復活を信じる者においてはうろたえるという闇が命の光のなかで消し去られていくということです。
イエスさまの復活を信じるということは、人が一切の自分の思考、行動がイエスさまの復活ということで規定されていくということです。それは人間を縛っている死さえ乗り越えて命という開放であり、自由です。ここに本当の救いがあるのです。この救いの自由によって、私たちの生き方が規定されていくのです。
弟子たちは、今まで自分を縛っていた、規定していたこの世の論理から、イエスさまへの復活の信仰においてのみ規定されていくのです。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
「平和があるように」という主のこの言葉によって、不安で暗い日々の後で、再び喜びが与えられるのです。
佐藤優氏が「キリスト教を十字架とは別の物語として読むことも可能だ。神が神の栄光を回復していく物語としてである。・・・・・イエス・キリストは十字架につけられて死んだが、それは復活のために必要だったのだ。復活によって死と罪に対する神の勝利が明らかになった。それだからわれわれは、神の勝利を基礎に、神の栄光のために生きるのである。」と言っています。
「神の勝利を基礎」として私たちは、生かされているとのです。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」とあるように、喜びの中を生きることができるのです。
「平和があるように」というイエスさまの挨拶は、私たちにとっては、神の勝利の言葉であり、私たちの人生の基礎であります。
大きな変化の時代を私たちは、自分の意志がどうであれ生きて往かなければなりません。不安で暗い日々もありましょう。確かに可笑しなことにイエスさまが共におられるということを心から待ち望むときに限って、いつも信仰が揺らぎ、他のことがらへの恐れがあり、イエスさまから離れようとする、しかし、「平和がある」という主の勝利の挨拶、言葉が私たちがめぐらした壁を越えて語りかけられてきます。主と共に歩んでいます、いきましょう。
「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」というイエスさまのお言葉をもう一度噛み締めながら復活の命のなかをともに生きてまいりましょう。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると

「社会性」
今、「同志社大学 神学部」(佐藤優著)という本を読んでいる。
「キリスト教という『物語』が十字架におけるイエスの死に集約されているというのは、キリスト教を読み解く際のひとつの切り口だ。十字架に神の死、苦しみの全てが集約されている。十字架から『物語』を構成するならば、ルターが説いたように、悔い改めを中心とする信仰義認論に行き着く。実をいうとここから真の社会性はでてこない。デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」と言って、これも一つのキリスト教を組み立てる神学だと言っている。
「実をいうとここから真の社会性はでてこない。」という言葉に私も常々感じるものがあった。とくに社会性をもって活動している牧師らを神学がないと切り捨てる声を聞きながら、これで良いのかと思っている。
「デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」という言葉にも私は真摯に向かい合いたいと思った。


■ 新米園長・瞑想?迷走記

入園式の言葉には、いつも悩む。キリスト教主義の園であり、ルーテル教会の園で、どう園児が三年間を過ごしていくのか伝えなければならない。一晩中、悩むのだが、出たとこ勝負にいつもなる。入園式とともに、実践が始まった。


■ ルターの言葉から

おそれの中にあるとき、神に向かって叫び求めるなら、神はいつでも助けてくださいます。キリストは、おののく弟子たちを捨てておいて、いつまでも外にいるということをしないで、入ってきて「平和があるように」と言って慰め、「わたしだ。恐れることはない。勇気を出しなさい」と言われました。それと同じように、今日も神は私たちを慰めてくださいます。私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び、私たちに喜びと揺るがない心を与えてくださるのです。
キリストがおられるところには、聖霊も来られます。・・・・私は、自分でなしたかのように、キリストのみわざのうちにあって慰めを受けるのです。(復活後第一主日の説教)ルターの信仰に復活信仰は強く、それは「神が共におられる」というとなっていく。


■ 北米のルター派・その歴史 19チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)2
 大勢のスカンジナヴィア人の到来で、新しい言葉の要素と共に、ルター派のアイデンティティにこれまでと違ったものが加わりました。それは礼拝式文に顕著に現れました。例えば、主にスウェーデンの教会出身のスウェーデン人移住者は、礼拝の中に、初期のアメリカのルーテル教徒の多くが除外していた要素を取り入れました。
 この大きな第二の移住者の波によって、民族的な背景をもとに、多くのルター派教会、シノッド、コンファレンスが組織されることになりました。1853年にノルウェイ・シノッド、1860年にオーガスタナ・シノッド(スウェーデン)、1878年にデンマーク教会、1890年にスオミ・シノッド(フィンランド)などです。これらの組織は、どこにも属していないものを、移住者の出身地に応じて、沢山あるシノッド、コンファレンスの中に取り込んだだけという形で大きくなりました。

2013年4月7日日曜日

復活後第1主日

わたしたちの心は燃えていたではないか。
ルカによる福音書24:32

【説教要旨】
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」
エマオ途上の出来事として、大変に有名な物語です。私たちも人生の途上にあり、夢破れて、意気消沈し、自分の故郷へ帰るという状況に置かれるときもあるでしょう。途上にある私たちですが、私たちが生きていく、信仰生活をするということはどういうことであるのでしょうか。神を信じるという一言につきるでしょう。
「『神を』信じるという場合の『信じる』ということの側面について話が進んでいますが、信仰以前に、人間関係における他者との信頼関係について考えてみますと、人間の成長において信頼関係が築けるかどうかということが大事だと、心理学的には大事だといわれていますよね。信頼がないと心がすさみます。信頼というものは人間の成長段階では親子関係に始まるものかもしれませんが、『信じるに足るものがある』という感覚は人間存在にとって基本的なものだと思われますし、理屈ではなく、誰でも共有できることがらです。宗教のことを考えてみたいのです。信仰は人生にとってプラスαのような付加的なものでなく、人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になるのだろうと思うのです。現代という時代は他者との信頼関係を築くことが乏しくなっているために、心が不安定になる人が多いのでは、と感じています。」(福音宣教3月号)
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、」と主イエスが言われるとき、私たちの心が主への信頼を欠く、「宗教のことを考えてみたいのです。・・・・・人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になる」というとき、同時に信頼もなくなり、信頼の対象をも失い、今、信頼の対象から逃げていくのです。それは、私たちの中にも日々、起こることでもあります。心が不安定になる。
これとは逆の言葉が、出てきます。「心は燃えて」という言葉です。
聖書に聞いていこう。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。弟子が「心がもえた」のは、自分のうちに確信と力満ち溢れていたからではありません。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とありますようにイエス・キリストの対話のなかで「心が燃える」ということがおきるのです。
イエス・キリストとの対話の中で、心をイエス・キリストに向かわしめる。そして、さらに人間存在の根底にある信頼を回復してくださる方が私たちの傍に立ち、歩んでいてくださるということを受け入れたとき、燃えさせるものが生まれてくるのです。そして、私たちを作っていくのです。
今日、教会の制度も、教育もすべてにおいて整えられたのにもかかわらず、教会の現状を憂いている牧師さんがおられました。教会に覇気がない、元気がない、つまり「心が燃える」ことが欠落しているように感じられているというのです。

二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると

今日、私たちの教会に欠けるのは、私たちの傍らで歩んでくださるイエス・キリストに目が開けていないということではないでしょうか。私たちの信仰の生活においても、私たちの傍らに立ち、歩んでおられるイエス・キリストに目を開くことが大切ではないでしょうか。また、私たちの信仰生活とは「いつもイエス・キリストに目を開く」ということの日々ではないでしょうか。
遠藤周作は、「決定的に何かがそこに加わらなければ、弟子たちは結束して、信仰に燃え、多くの異邦人の国々に旅する筈はないのだ。決定的な何かが加わらなければ、あれほどの師について理解少なかった弟子たちが本当の教えを知る筈はないのだ」といって、生きたイエスに出会ったことにある。復活にあるというのです。ルカは復活を神のイニシアチブと強調します。神が働く、ここに私たちが復活の力をいただき燃えていく。私たちが何よりも神の働きを強く信じることです。信頼していく、イエス・キリストに目を開き、向けていくことです。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった
私たちも旅の途上にあります。その途上にあって、イエス・キリストが見えるところは、今、私たちがいるここ、礼拝の場です。ここから神の働きを受け、心が燃やされ、神の愛を証しするものとして旅立てるのです。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「豊かなのに苦しいわけ」
  大阪大学の大竹文雄教授が「現状の豊かさを維持するだけでも、私たちは従来とは異なる水準、異なる質の能力を身につけていく必要がある。それが豊かなのに苦しいと感じる理由である」と言われている。確かにそうだと思う。異なる水準、異なる質の能力をつければ、さらに豊かになると違い、現状のまま、あるいは少し落ちるということははつらい苦しいことだと分かる。
しかし、ここでいう「豊か」ということは何なのだろうか。現状の生活の豊かさであると思う。
 豊かさの質を問われているのだと思う。
 「現状あるいは少し低いレベルを維持し続けるだけでも相当な努力が必要だ。豊かな社会を生きていくためには、その覚悟がいる。」といっているように、豊かさの質こそ違えども「覚悟」がいるというしんどさが必要な時代にきていると思う。そのことに教会が取り組むことが宣教方策ではないだろうか。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
都からの補助金作業がまだ続いている。昨年、計画書を出し、-その書類の多さ、細かさー、今年は、申請書、次に調査を受け、補助金申請の金額が決まり、さらに今週は実績報告書、支払金口座の依頼書と続いた。経験出来ないことをしている。大きな幼稚園ではこれを事務担当が整えるのだが、小さな園では園長になる。事務職員をおいていない園さえあり、園長がやっているところもある。三月から五月にかけて補助金を含め諸書類の作成、提出に翻弄されるのが常である。


■ ルターの言葉から      
だから、十分注意するがよい。賜物としてのキリストがあなたの信仰を養い、あなたをキリスト者とするのである。模範としてのキリストはあなたの行いの訓練をするが、その行いはあなたをキリスト者にするのではない。それは、あなたがすでに前もってキリスト者となったのちに、あなたから発するものなのである。だから、賜物と模範とを十分区別するように、信仰と行いも十分区別すべきである。信仰はないにひとつ自分のものを持たない。持つのはキリストの行いといのちだけである。行いはあなた自身のものを有しはするが、あなた自身のものではなく、隣人に属するものであるべきである。
(福音書においてなにを求め、期待すべきか)

ルターの「キリストのみ」という信仰原則が、ここにもはっきりと示されてくる。   


■ 北米のルター派・その歴史 18.チャールズ フレドリクソン第二の波(1850~1890)1
 ヨーロッパの、ルター派が多い地域からの移住者がピークに達した年は1882年でした。1882年には、それ以前やそれ以後にもないほど多くのドイツ人やスカンジナヴィア人が大西洋を渡ってアメリカにやって来ました。1890年代になるとドイツ人移住者の数は急激に減少しましたが、スカンジナヴィア人は引き続き第一次世界大戦(1914~1918)まで大勢やって来ました。
 この第二の移住者の波で、アメリカのルター派移住者は新たに複雑な経験をすることになりました。既に述べたように、1800年代半ばまでは、アメリカのルター派は新、旧、穏健に分かれていました。また、言語によってグループがさらに増えました。基本的には、英語、ドイツ語、スカンジナヴィア圏の言語です。

2013年3月31日日曜日

復活日

あの方は、ここにはおられない。
復活なさったのだ。

(ルカによる福音書24:6)

【説教要旨】
復活信仰は、キリスト教の中心です。その復活が商業ベースにのり、クリスマスと同様に商業的に扱われようと日本ではなってきているというのです。聖なるものを俗なるものとする、芥川龍之介流によると日本は沼だ。全てを飲み、腐らせる。
では、腐ってはならない大切なこととは、どんなことでしょうか。
死人の中から復活したキリスト・イエスの甦りを私たちが信じるというのですが、これは世の中の人と激しく衝突するわけです。聖書は11節で「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記しています。
「途方にくれている」とあるように、あるいは「婦人たちが恐れて」、「二人は暗い顔して」と聖書は復活の出来事のなかで、人の気持ちをあらわしています。私たちが生きていくとき、途方にくれる、恐れがある、暗い顔になる。そういう自分がある。しかし、復活はこの途方にくれること、恐れ、暗い顔から自由にされていく出来事なのです。
 しかし、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように復活が「たわ言」にしか聞こえないのでしょうか。弟子たちは善い意図をもってイエスさまと行動しました。しかし、結果は意図に反して不条理で、理解出来ない十字架の出来事で終わりました。結果は弟子の意図とはチグハグで不調和に終わりました。ここに途方にくれる、恐れがある、暗い顔になる、そういう世界がある。死の中にあるのです。
 今日の復活日に私たちは新しい会堂で礼拝をしています。1954年、旧会堂で復活日に最初の礼拝を守りました。同じ復活日に礼拝を始めたことは、偶然とも思えません。それは神さまの導きではないでしょうか。
 その年に初代牧師であったエルソン牧師が急死します。彼の死を通して、私は一つの聖句を思い出します。
「一粒の麦、地に落ちずば、一粒のままである。友のために命を捨てることほど最大の愛はない」なぜ、私たちは命を友のために捨てられるのか。いや捨てられる力などは、私たちの中にはありません。しかし、捨てることの出来る力がやってくるのです。
神からやってくるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と強く宣言するのです。
「生きておられる方」が、生きていますイエスさまが共にいるのです。生きたイエスさまと共に生きること、ここに「友のために命を捨てることほど最大の愛はない」というみ言葉が私たちの中に起きるのです。イエス・キリストの生命の中にいきてこそ、私たちはすべてから自由にされ、強く、生きていくことが実感できるのです。
エルソン牧師が遠い日本に来て、宣教し、命を投げ出した。命を投げ出すという宣教がキリスト教会の歴史で繰り返されてきました。「最大の愛」の愛に育まれてきたのが私たちの歴史です。
「あの方は、ここにはおられない。」というように地上の私たちの生きている命を生きるのでなく、それは死を超えた「生きたお方」とともに歩む。
「復活なさったのだ。」という新たなの命を私たちは生きるのです。イエスさまが死に勝利した命を私たちは生きるのです。だから地上の死に私たちは縛られない。イエスさまが十字架において私たちのために命を捨ててくださったように友のために命を捨てて、最大の愛を示すような存在として私たちは地上を生きられるのです。
復活は、私たちの弱さの清算です。罪と死に負けそうになる私が、これをたたんで友のために命さえ捨てきる強いものとされるのです。
私たちの教会の基礎を作ってくださったエルソン牧師も私たちに命を差し出す勇気を神さまから与えられ、私たちに今日を残してくれました。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
永遠の命を生きる。このような存在として、私たちも今日、ここにいるのです。ここに初代の宣教師が残してくださった命を投げ出してもという出来事が起こされるのです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
復活の、真の命を生きる者として、復活の日をともにお祝いしましょう。


牧師室の小窓からのぞいてみると
「二つのことば」
堤清二氏の「もう、自分の能力では及ばない時代になったという意識がありました」という言葉に驚いた。彼ほどの人がここまで言うのかと共感を覚えました。私もかねがね感じていたことです。しかし、時代から逃げる訳にはいかないのです。自分の能力が及ばないのだが、私たちはどう生きていけばいいのだろうか。
 能楽師の亀井氏が、「私は、40代、50代、60代でもいつでも、基礎を学んだ10代のころの気持ちでいるようにしています。」と言っている。基礎、人生で会得した基礎が「もう、自分の能力では及ばない時代」で問われているように感じる。
 

新米園長・瞑想?迷走記
桜の開花とともにやっと、完成した。園舎が、二年前の3月11日、桜の木が大きく揺さぶられましたれました。東日本大震災でした。この経験を通して、耐震工事がいっきに実現へと向かいました。もし、地震がなければもっと先になっていたのかもしれません。
一人の命を守らなければならないという強い願いが建築へと向かわしめたのかもしれません。命を守る耐震補強、耐震改築工事が無事に終わりほっとしています。 
 命を大切にすることは、どんな代価を払っても買い取れません。私たちの保育に一人一人の命を大切にしていくということが隅々まで行き届くものでありたいとこれからも努力していきます。
やっと、ホッとできる。感謝。


ルターの言葉から
「キリストは死より復活された」、もしこのように信じるなら、私たちは良く生き、よく死ぬであろう。なぜなら、キリストは、ご自身のためにだけに死を克服され、復活されたのではないからである。それは、私たちにも関わり、私たちもその「復活」に立ち、捉えられ、また、そのゆえに、それを通して私たちも復活し、彼とともに永遠に生きるのであるということを、身近にしっかりと心にとめなければならない。


北米のルター派・その歴史 17.チャールズ フレドリクソン
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」2
 新ルター派は数代にわたってアメリカにおり、清教主義とメソジストなどアメリカの神学の影響を受けており、「実践的で進歩的」であった。彼等は、大方「言葉だけでなく心情的にも英国側で反ドイツであった」。
 第二のグループは「旧ルター派」で構成され、彼等はドイツから渡ってきたばかりであり、「アメリカ精神」と融合していなかった。このグループは、「信仰深く、真面目で、自己犠牲の精神に富んでいた」。しかし、それと同時に、仲間うちでも意見が一致していなかった。
 「中庸ルター派」は、上記の両極端派の真ん中に位置していた。旧ルター派の排他精神には与しなかったが、そのかわり「アメリカで心からのルター派として生きること」に心を砕いていた。シャフは、このグループを解く鍵は言語にある、と指摘しています。シャフが出した結論は、このようなグループ化が何故起こるかは、ルター派の礼拝、懺悔、文学を見ればわかる。それらにはヨーロッパの言語が使われるので、アメリカ人ルーテル教徒が大集団では加われないのだ、というものです。これに対して、一般的なアメリカのプロテスタントや改革派の文学や讃美歌は、容易に英語を使いこなしていた。


2013年3月24日日曜日

枝の主日


死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピの信徒への手紙2:8)

【説教要旨】
アシュラム運動(聖書に聴受)に生涯をかけた榎本牧師の「ちいろば」という本がある。「いつのまにかそれを(子ロバ)自分に自身に当てはめてみるようになりました。というのはこのロバの子が向こうの村につながれていたように、私もキリスト教に全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼友達が、私が牧師になったことを知って、キリストもえらい損をしたものじゃのうといったそうですが、その評価のとおり、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じ馬科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見栄えしない『ちいろば』にひとしお共感を覚えるのです。」と言っている。

さらにこのちいさなロバがイエス様と喜びと感動も味わえたという歴史の物語に自分も参加できている幸いを喜んでいます。実に私たちも神が必要なる一人一人なのであるということに気づきたいのです。

では、私たちがイエスさまの歴史の物語に参加するということは、どういうことなのでしょうか。
先週、教区総会が開かれました。その宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」であると言われています。まさに今日的においては、大切な二つの言葉ではないだろうか。その言葉のルーツは「災害等の苦難についての信仰的・神学的理解について」という報告文にあるのです。

「苦難」について、特に災害の苦難において「災害、苦難は、人は神の領域に立ち入ることはできず、最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく」とあります。
明日からイエスさまの苦しみを思っての聖週間に入ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、」とあります。今、十字架の苦難を受けようとするイエスさまは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだってくださった。人として生きられた。人として、十字架の苦しみ、苦難を神の領域と受けとめつつ、ここに立ち入らず、また最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように受け入れていかれたのです。

先週も言いましたが、若者の死因の一位は自殺であるというのです。私たちの知らないところで若者は苦しんでいる。そして、この時代を生きている私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。私たちはこの苦しみの原因を知りたいし、苦しみから逃れたい。しかし、この苦しみについて、苦しみ自体をどうであるとかこうであるとか判断するのでなく、苦しみを生きるということが、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」というお姿でイエスさまは私たちに示されたのではないでしょうか。

「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」という良寛さんの言葉があります。受け入れていくことここに妙法があるのです。
十字架に妙法があるのです。苦難の象徴である十字架、しかし、私たちプロテスタント教会の十字架は復活十字架です。この十字架には復活という希望があるのです。苦難にあって、希望をもつ、それが妙法なのです。

「苦しみにあう時節には、苦しみにあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」となるのです。

言葉が罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
十字架の妙法において示されたことは、私たちの人生を貫くのは、イエスさまの十字架の愛です。ここに私たちは「イエス・キリストは主である」という恵みをもって生きることが出来るのです。
だから、私たちは時代が苦しんでいるとき、「信仰と希望と愛をもって、共に苦難の中を生き抜く者として、絶えざる『神の希望』を掲げながら歩む道を取ることを願う」と「災害」における信仰の理解を示した東教区信仰告白委員会の信仰理解は、災害だけでなく、苦しんで生きている人と共に生きる私たちの姿勢であり、その中で私たちが必要とすること、「イエス・キリストは主である」という信仰であり、ここから「神の希望」が生まれてくるのです。


【牧師室の小窓からのぞいてみると】
「豊かさ」
 「豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは『やむえない』」というのが、50%を超えたということが報告されていた。
 新聞はこれを「広がる格差社会」と論じつつ、教育の分野まで定着してきた。
 教育の機会均等と目標を掲げてきた社会は崩れつつあるのであろうか。
今、一方、奨学金が返せない若者が増えてきて、社会的に問題になっている。それは、奨学金を確実に返せるという雇用構造になっておらず、その不安から経済的なことで教育を受けるという道を閉ざしていくことになってきている。
いったい私たち社会は、どこを目指して歩んでいるのであろうか。
論者は「問題だと感じる人はまだ4割いる」ということに期待して、教育費、保育費の補助を厚くして一つの方向を提言している。
教会はすべての人において、教育の均等を訴えていくべきではないだろうかと私は思う。


【新米園長・瞑想?迷走記】
卒園式が、無事に終わった。担任の先生の助けをいただき卒園するこども一人一人に声をかけていく。みんなが幼稚園で一年、二年、三年間で、どんなに神さまに愛されて成長したかを伝えていくことにしている。
また保護者にこれからも神に愛され成長していくんだということを伝えるためである。どれだけ、伝わっただろうか。


【ルターの言葉から】      
キリストを遣わされた神のみ心は、キリストご自身の従順以外の何ものでもありません。パウロも、「彼は私たちのために従順であられた」と言っています。この神のみ心によって私たちすべてはきよめられています。「自分を卑しくし、死に至るまで従順で・・・・」
このように主がなされたのは、私たちのその価値やいさおがあるからではありません。ただ、父に従順であったために、主はこれらをなされました。パウロはひとことで天国の門を放ち、私たちに父なる神の愛と、口に言い表せない恵み深いみ心を示してくれました。それによって、私たちは、世の初めから、私たちのためのキリストの犠牲がどれほど神に喜ばれるものであったかということを感じるようになります。
・・・・・・・・愛される者として神の近くにおり、御子の従順のうちに豊かに示し、注がれた父のみ心を認めるならば、他のことはすべてとるに足りないことなのです。
「信従」という言葉がある。信じて従うということであるが、ルターはイエスの十字架の従順を示されることによって、従順の豊かさを生き抜いた人であった。


【北米のルター派・その歴史 16.チャールズ フレドリクソン】
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」1
 1800年代後半、ルター派の人々は幾つかの厳しい争いを闘い抜かねばなりませんでしたし、奴隷問題や南北戦争で国自身が分裂していました。
 内部の争いを一番よく言い表しているのは、ペンシルベニアの大学教授、フィリップ・シャフ牧師が、1854年にベルリンで、アメリカのルーテル教会について行った講演である、ということで学者達の意見は一致しています。シャフは講演で、当時アメリカのルター派は「新ルター派(Neo)、旧ルター派(Old)、中庸ルター派(Moderate)」に分かれていたと見ています。


2013年3月17日日曜日

四旬節第主 2013年3月17日


わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
フィリピ3:8

【説教要旨】
今、ガラテヤ信徒の手紙を勉強していますが、キリスト教会の信仰を方向づけたのは、パウロだと思います。
そのパウロの気持ちが素直に出ているのが、フィリピ信徒への手紙だと思うのです。なみなみならない決意をここで聞きます。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と。
強い、パウロの意思が伝わってきます。私たちは世の中を生きていくとき、また小さな私自身を見ても、自分を有利に導くために多くのことを知ろうとします。知識を得ることによって自分の安心を手に入れようとします。情報社会にあって、いかに知識をえるかが、私たちの将来を決めます。しかし、これほど私たちが多くの知識を得ても、心から幸せだと言えますか。今、若者の死因の一位は自殺で、先進国の中で日本だけにある現象だそうです。新聞は自殺を「若者からの三行半」と言っています。だから決して幸福な社会が私たちの前にないと言えるのではないでしょうか。最後に「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と社説を結んでいます。
では、私たちの杖とはなんでしょうか。
お金がないと生きていけない。確かに現実はそうです。具体的な生き方の中で私たちはこれだけのものがなければ、私たちは何も出来ないと言う現実にぶつかります。ですから私たちはより良いもの、より多くを得ようと思うのです。失うことでなく持つということに必死になろうとして複雑化してしまうのではないでしょうか。
しかし、パウロは次のように言うのです。
肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
彼は、この世的な多くのものを持っている。これを頼りにして生きようと思えば自分は生きていける。それは信仰においてでさえ「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」とあるように立派な誇るものを持っていた。
しかし、今まで自分を支えた、自分に自信を与え続けたこの世のもろもろの杖が、神の前を生きるわたしには全く意味をもたないというのです。
彼は「救い」ということに確信をもって語ります。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」キリストのすばらしさとは、神から離れていこうとする罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。
だから、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言いきるのです。
このすばらしさが、私たちの杖なのです。
私たちが生きていくとき、私たちにはいろいろなことがあるし、いろいろな局面に立たされます。そこで「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と言うように、真の意味での杖を私たちは神さまから与えられているのです。それは、イエスさまの十字架の愛です。イエスさまもここで神の子としての生きることに転んでしまいました。十字架により苦しみを負われ、死において希望を無くしました。しかし、ここに生きる杖、神の愛が与えられているというのです。
「キリストによって救われた」という杖は、私たちの常識を超えています。だから私たちはこの杖をもって従うことがなかなかできませんが、「神の愛によってわたしが救われた」ということに自分を開いていく。徹底的に神の愛に従うことが真の杖です。私たちの常識が教えることはあってはならないこと、十字架の愛から私たちの人生の杖が与えられるのです。 

八木重吉は詩います。

基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中に入ればいい/彼につれられてゆけばいい/何の疑いもなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張り合いがしぜんとわいてくる/むつかし路もありましょう/しかしここに確かな私たちにも出来る路がある/救ってくださると信じ/わたしをなげだします


ルターの言葉から
      
私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちのもっている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を乱用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
神がこのような悪を訂正される方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、より一層深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長出来ない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。・・・十字架を負う時にのみ、福音は私たちを通して前進します。

                      
北米のルター派・その歴史 15.チャールズ フレドリクソン
フロンティアの拡大(1800~1875)3
1840年にはルター派は大西洋沿岸からミシシッピ川まで進展していました。ルター派の人口は移住者増によって増えていたのですが、その新しい移住者が問題をかかえて、いろいろと問題を引き起こしました。新しい移住者の生活体験が、今では数世代にわたって北米で生活している「米国化した」ルター派の人達とかけ離れていたからでした。移民という共通の経験を通して多くの点では一つになっていたものの、両者は一つのキリストの体にはなりませんでした。そのかわり、この新しいグループは引き続いてやってくる新たな移住者が抱える問題に対応するように変わっていきました。西部開拓と民族の絆を強くする教会の新しい道作りが始まったのです。

2013年1月13日日曜日

主の洗礼日 2013年1月13日

主の洗礼日 2013年1月13日



聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  ルカ福音書3:22     

【説教要旨】
2013年も、十数日経ちます。そして、いつものように社会は、日常が動き始めました。私、教会は教会総会へむけて準備しています。新しい年への宣教の備えを始めようとしています。教会の在り方を問い直して、新たな宣教に向けていくときとなりました。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われる。」
福音を宣べ伝え、洗礼を授けることが教会は、目標です。今日は「主の洗礼日」です。その大切な目標である洗礼ということについて、私たちは今日は聞いていきたいのです。主が洗礼を受けられたのです。そして、その洗礼の場で「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞くのです。文語訳聖書は「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」とあります。
「心に適う」でなく「悦ぶ」という訳からすると神にとってイエスさまは、愛しむ子であり、悦びの源であるということです。
初代の教会では救い主であるイエスさまが、罪の赦しである洗礼者ヨハネの洗礼を受けるということが大変に問題になったといわれています。メシアなら罪は存在しないのであって、罪の悔い改めである洗礼を受ける必要はないのではないかと。しかし、イエスさまが罪の悔い改めである洗礼を受けるということは、イエスさまが罪人となったということです。それはイエスさまが単に高い所から私たちを慈しむということでなく、私たちの罪深い同じ場所、同じ目線に立たれたということです。ヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と表現し、さらに「恵みと真理とに満ちていた。」と語ります。
イエスさまが悔い改めの洗礼を受けるということは、罪人である私たちと神との関係をイエス・キリストによって結ばれるということです。「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」という神の言葉はイエスのうちにあるのですが、同時にこの言葉はイエスさまを救い主と受け容れ、洗礼を受けた私たちの中にも轟きわたっている言葉です。洗礼は、私たちが神によって新たに神の愛する子、悦びの源になることに他ならないのです。
ヨハネ福音書は次のように言います。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
別府教会の教籍に児童養護施設、別府平和園の子どもらの幼児洗礼者が記されています。戦争孤児、あるいは色々な状況で親に捨てられた子どもらです。その子どもらに洗礼を与える。それは創立者の信仰である。一人一人が神に愛しまれ、悦ばれるものであり、悦びの源であるということを愛しみを失った、自分が悦びの源であるということを信じられない子どもらにそうではない、あなたは愛しまれ、悦びの源であるということを園に入った瞬間に新たに生まれ変わったのだということを「洗礼を施す」ということで示したのかもしれません。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」のだということを示したのです。
洗礼を受ける・・・恵みの上に、更に恵みを受けるということです洗礼を受ける・・・罪びとであるこのどうしようもない私が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」となるということです。
私たちの人生のいたるところで「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」という声が響きわたっているということです。
その洗礼に導くために、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」ということを義務として、どうしてもそうしないとすまないということで、私たちは福音の宣教に励むのです。
ですから宣教は信者獲得ではなく、一人一人が神に愛しまれた、また悦ぶ者とされているということをどうしても伝えたいためにするのです。
教会総会を前にして、私たちの教会の目標とは多くの人々が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」と声を聞き、人生が確かに支えられていくために洗礼を授けていくことです。一人でも多くの方々を洗礼へと導くために福音を宣べて伝えていく一年でありたいものです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

「手抜き除染 横行」

  学生たちを食い物にする「ブッラク企業」の存在が、若者に被害を与えているという。ブッラク企業といえば暴力団が関係する企業だったが、今は「若者を使い捨てにする企業」で、初めから使い捨てを前提として大量に採用し、大量に解雇していくことによりコストを抑えていくのだという。ここで心まで病気に侵されていく若者が増えているという。それは「日本の未来や社会も食い潰す大きな問題になっている」と指摘されている。
その解決が「そのまま会社に残って、病気になったら元も子もない。再就職の不安も分かるが、辞めるリスクより辞めないリスクの方が大きい」と指摘されている。
今、若者が置かれている状況は、厳しいものがあるが、これが社会を衰退さえているのである。若者への伝道というとき私たちはこのことを踏まえて考えていくべきである。
良心が弱っている社会に私たちの宣教の課題は重い。


新米園長・瞑想?迷走記

今週、朝日新聞の社説に「企業の挑戦―個性に裏打ちされてこそ」というのがあった。
「個性が競い合う世界の中で埋没しないために。」と指摘している。しかし、教育世界は、ゆとり教育を批判、転換していくなかで、ますます個性を出すことを否定する雰囲気があり、子どもたちの個性を潰していく傾向があり、子どもは息をし難くなってきている。幼稚園まで子どもたちの個性を生かしつつ、保育にあたっているが、これが小学校に入ると、消されていく。むしろじゃまになっていく子ども世界があることに心が痛む思いがある。しかし、世界化して時代、個性が問われていくのだが。



ルターの言葉から
      
アーメン。そうです。私たちは、主キリスト、神の子に運命をかけました。そして、キリストは決して私たちを捨てられません。私たちの生涯も魂も、キリストに縛られています。キリストのおられるところに、わたしたちもおります。キリストから離れては、世と戦う何ひとつの武器をももちません。それゆえ、もしキリストが生きておられるならば、宣教、教え、著述によって、私たちが主のために奉仕し、あらゆることを耐え忍んでいることをご存知です。もし彼と運命を共にするならば、私たちを必ず助けてくださるということを、世も私たちも知っています。それにもかかわらず、すべてのものは一度壊されなければなりません。何事も、そのままで残ることはできないのです。            卓上語録から
                      

北米のルター派・その歴史 7.チャールズ フレドリクソン

揺籃期の北米教会(16501783

ヨーロッパと北米が遠く離れていることだけが問題ではありませんでした。ヨーロッパ中のルーテル教会が、自分の都合や利害がもとで、争いを続けていたのです。血なまぐさい30年戦争の後、多くのルーテル教会がヨーロッパにいる会員のための牧師を見つけるのに難儀していました。それに、ヨーロッパの牧師の多くは、単身で、あるいは家族と共に海を渡って来て欲しいとの願いを断りました。新しい入植地のむずかしい状況を考えてのことでした。ルター派の牧師がいなくて、いくつかの教会が閉じられました。それらは、強力なリーダーシップを持つ信徒がいなくなった教会や、近隣の改革派ないしは英国教会と合同した教会でした。しかし、移住者が増え続けるにつれて、米国のルーテル教徒達はヨーロッパからの牧師が足りないことへの対策を見出していきました。その良い例が、牧師アンドリュー・ルドマンと信徒ジャスツゥス・フォルクナーの話です。ルドマン牧師は1697年にスウェーデンからやって来ましたが、着いて間もなく重い病に倒れ、半分引退しました。しかし、スウェーデンには帰らず、健康状態が良いときには、フィラデルフィア近辺に移住して間もないルター派入植者の小さなグループを支援しました。




大森通信    

 大森周辺 2

大森駅に一枚のポスターが貼られているのに気付いているだろうか。
大森駅開業135年、新橋、横浜に続いて3番目の開業の駅だそうである。
T君の話によると鉄道技師がドイツ人で、散歩好きなドイツ人が坂のある大森に住んだことにより、技術者を乗せるために自然発生的に出来た駅であると聞いた。そういえば、私の保健の先生がドイツで医師免許を取り、奥さんがドイツ人だった。よく、林の中を散歩をされていた。単語、バンデルンという言葉を今も思い出す。
教会の前の道がジャーマン通りとあるが、明治のとき、丘と林の小路をドイツ人が散歩している光景をかってに想像している。
ドイツから生まれたルーテル教会である私たちは、このドイツというキーワードで、何か宣教のプランを立てられないだろうか。



(大森日記)

  通常の気持ちになり一週間が始まる。多くの方が出席し、一年を始めた。喜びの一歩。建築状況を見る。思ったより大きく、天井が高くとれている。完成が待ちどおしいし、責任を感じている。役員会を開き、総会の準備、すなわち来年の宣教計画を立てる。主の道を備えることが出来るよう祈る。夕礼拝が終わった後、急に熱が出てきてダウン。月曜日、寝ていれば良いのだが、新年の準備、機械の修繕、ホームページの修正、職員会議と寝られずに待機。次の日、始園式だが、出ずに待機。夕刻、本部で打ち合わせ。水)医者に行く。今日の夕刻まで熱が出なければ出ても良いというので待ち遠しい。木)子供たちを迎える。午後から訪問出来る。夜、心臓発作で亡くなった友人の父の葬儀、掛川で一泊。金)社会福祉法人の県監査で立会い。勉強になることばかり、ぜひ幼稚園でも取り入れていきたいと思った。東京に引き返し、息子の学生時代の親子会に出席。5年ぶりの子どもの成長に感謝。土)主日の用意。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)今年、最初の礼拝である。静かに過ぎていく。役員会が開かれ、2013年度の宣教にむけての総会の準備の時となった。建築があり、なかなかそれでは次ですというわけにはいかない。この辺が不器用である。夕礼拝も終わり、家内の宿舎の三鷹に行くつもりだった。長い休みの後に先日、泥棒が入ったので心配してであるが、熱が出てくる。風邪をひいたようです。「良いわよ」と一言。一
人で帰宅。気丈夫な人である。夜中から熱が出てくる。
)幼稚園の新学期の準備日だったので、昨年より印刷機の修繕の約束、ホームページの指導、職員会議を組んでいたので、寝るに寝れずに起きているが、ひいていた熱が再びでてくる。病院にいくが、すぐに治る訳がない。
)始園式だが、出ずに待機。熱は下がってくるが、体は重い。午後から新年の挨拶。コンピュータの操作で色々とお世話になった小鹿教会の信徒さんから親父さんが心臓発作で天に帰られたと電話をいただく。祈る。若い時は「祈りましょう」という言葉がすぐに出てこなかったが、躊躇なく言えるようになった。
)熱は、さがったが、早く子どもたちと接したいので、病院に行き、許可をもらうが、熱がさがって48時間を越しても何も起こらなければ良いですよと言われる。明日から門で子供を迎えることが出来る。正月、一緒に遊んだ友人がインフルエンザA型にかかったというので、医者に言うと「いまさら、どうだったか分かりませんよ」と諭される。知ったところで遅いか。
)朝から門に立ち子供を迎え、教会の総会資料、週報を作成し、小鹿教会に葬儀に出かける。みんなににこにこ迎えていただく。葬儀説教を聞きながら牧師になっていた。明日は県の監査なので掛川に一泊。不味い高い焼き鳥。まいったまいった。
)早朝から監査を受ける。監査委員として教会会計を監査していたが基本的には変わらない。しかし勉強になることばかり。牧師なのにこんなことを楽しんでは。息子が卒業して5年後ということで自由学園卒業生、父母の集まり。人生色々かな。
)朝から礼拝の準備。これもあと10年。あっと過ぎていくだろう。息子の結婚式の日が決ま
る。式後のお茶の会にお菓子を作らなければ。