2014年4月27日日曜日

復活後第1主日


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

ヨハネ20:21-22                                           

【説教要旨】

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
まったく自信を失っていた弱い集団であった弟子たちの前に復活されたイエス・キリストが姿をあらわされました。
私たちも弟子のような体験をしたとしたら、私たちも同じようになっているのではないでしょうか。
しかし、この弟子の姿は、弟子となっていくのに通らなければならない出来事だったのかもしれません。弟子たちは主の弟子としてよく主についていったと思います。しかし、そこにはまだまだ一つのことが足らなかったのかもしれません。主が十字架にかかることを予言したとき、弟子ペテロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。26:33と言いました。そこには弟子としての自信に満ち溢れた姿があります。しかし、それが出来なかったとき自信と裏腹の自信を失った「恐れ」が起きてくるのです。でもそれは、主の弟子となるために必要なことであったように思えるのです。
真実の弟子、信仰者となるために。
ルターは、真実の信仰とは自分自身に対する信頼に対する嫌悪であるといっています。
今、自信を失った弟子たちは、いやというほど、主を裏切った自分自身に嫌悪を持っているし、また、いつ自分が罰せられるのではないかとユダヤ人を恐れて戸を閉ざしている弱い自分にもさらに自信を失い嫌悪を抱いているでしょう。しかし、それは真の弟子となる一歩なのです。自分自身に対する嫌悪こそ、最後の弟子として必要な過程だったのです。
パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と告白している。自分の惨めさに気づく、信仰者にとって大切なことです。
でも、私たちはこの惨めさ、自分に信頼をおけずに頭を垂れているところに留まっているかというとそうではない。自分に信頼を置けなくなっているところでこそ、私たちはイエス・キリストに出合う事ができるのです。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。
イエス・キリストが、私たちの作った全ての障害を打ち破り、「真ん中に立つ」。私たちの中心に共にいてくださるのです。
主が真ん中に立ちたもうとき、「平和がある」のです。今、私たちは直接、弟子のようにイエス・キリストを見ることが出来ません。しかし、イエスさまは私たちに約束されています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」、私たちに聖霊が働らかれています。新しい私たちの創造があるのです。
創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」記されている出来事が新たにされるのです。イエス・キリストの復活後、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」とあるように殉教を恐れず世界に出ていった復活前との弟子の変わりように、復活という出来事が起きたのです。ルターが「私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び私たちに喜びと揺るがない心を与えて下さるのです。」という復活という出来事において、私たちも新たな命を与えられ、新しく創造された存在として今日あるのです。
主イエス・キリストの復活の命によって私たちは、新たに創造される人として、私たちは生きることができるのです。ここにすべてを越えて私たちは恐れを取除かれ、「平和」が与えられるのです。
私たちは、自分に信頼を置けなくなる自分に気づくでしょう。ここに生きた聖霊が働かれ、私たちの真ん中に命として流れるのです。昨日まで駄目だった私が聖霊の力によって、まったく新たな創造がされていくのです。今日、生きていくのにしんどくなっている私がいる。私たちの内に越えていく力はありません。しかし、私たちは知っています「『あなたがたに平和があるように。・・・聖霊を受けなさい。』」と語り掛け、生かしてくださるイエス・キリストが私たちの「真ん中に立って」いてください。ここに私たちの新たな創造の日々が、おきてくるのです。聖霊に生かされて生きていく私たちを日々、感謝して歩んでいきましょう。




 牧師室の小窓からのぞいてみると

30年以内
 
30年以内にマグニチュード8級の地震は5%の確率で発生すると報道がありました。逆にいえば95%ないということになります。確率というとき、数字をどう捉えていくかによって、私たちの生きようがみえてきます。さて、みなさんはこの数字をどう捉えていきますか。
 ルターの言葉を思い出します。「たとえ明日が終わりであっても、今日、リンゴの苗を植える」(実はこの言葉はルターの言葉ではないのですが)私たちは、備えるというよりも今日成すことを成して、次を託して歩んだ方が良いのではないかと思うのですが。数字はあくまで捉える側によるのであるということを忘れないでほしい。


   
新米園長・瞑想?迷走記
 
戦後最大の幼稚園制度の変更について決断の時、5月がやってくる。これを前にして園長研修をして、変更に備えました。研修中の日常の幼稚園は新学期が始まり、園児らに疲れが出ていて、落ち着かない時だったようです。一方では、日常の保育の課題がまったなしであり、一方では大きな制度の変化もまったなしの中で、豪い時に園長になった感じがあります。こういう時に軸がどこにあり、そして軸をぶれさせないということが園長の働きかもしれません。園長は軸がぶれなということが、働きの大きな部分かもしれません。
軸とはすべての時にキリストが働かれるという確信とキリストは何を望まれているということを祈り続けること。


ルターの言葉から」
     
弟子たちは何を恐れたのでしょうか。死を恐れたのです。彼らは死の只中にいました。・・・・・・・・ 弟子たちは私たちと同じように、神について正しい知識に欠けていました。・・・神を信じない人は死を恐れるのです。
さて、このように恐れの中にあるとき、神に向かって叫び求めるなら、神はいつでも助けてくださいます。キリストは、おののく弟子たちを捨てていて、いつまでも外にいるということはしないで、入ってきて、「あなたがたに平和があるように」と慰め、「私だ。恐れることはない。勇気を出しなさい」と言って、今日も神は私たちを慰めて下さいます。私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び私たちに喜びと揺るがない心を与えて下さるのです。




     .私たちの教会 スオミ・シノッド
アメリカ・フィンランド・ルーテル教会の歴史 
アルフレッド ハッパネン

私たち大森教会と甲府教会はスオミ(フィンランド)シノッドによって宣教されました。
11.青年活動 (1)
教会の未来は若者によってあるので、青年の活動は熱心な活動、学びが求められていた。そして若者の人生とその希望へ対してなによりも愛情をもって理解していくことも求められていた。
他のルーテル教会においても、すべての教会がいち早く、青年活動の団体を創設していった。地区、教区の青年連盟が作られて、さらに全体の青年連盟が組織されていった。教会における青年活動は初期に組織された形で始まった。
教会は、最初から青年活動に重きを置き、早くから組織していたことが分かる。これは他の教派も同じである。



大森通信    

今週も出会いが多くありました。園長研修会で、36年前に実習先の幼稚園教諭だったT先生とお会いしたのです。園児と接している様子を見せてくださった。今も私は、その情景を思い出しながら園児を幼稚園の門で迎えている。腰を屈めて、園児の目線に合わせ、名前を呼び、気持ちを言葉に託し、園児の反応を待つ、毎朝の姿が今でも浮かびます。特に夢をみるように怪獣のことだけを話すイサク君に接する先生の姿を忘れません。
人生の中で、私たちは多くの人と出会います。私たちに何かを残してくれる特別の人がいます。そして、その瞬間の時間は止まったままです。
T先生が「息子さんが教会に来たとき、『竹田さん』と言ってしまい、息子さんから『それは父です』と言われました」とにこやかに話されました。いつまでも神学生時代の私の像が残り、あり得ないことですが、息子を私と勘違いしたのかもしれません。それほど、良い時だったとのかもしれません。二人で、「あの時は楽しかったですね」と言っていました。