2013年3月24日日曜日

枝の主日


死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピの信徒への手紙2:8)

【説教要旨】
アシュラム運動(聖書に聴受)に生涯をかけた榎本牧師の「ちいろば」という本がある。「いつのまにかそれを(子ロバ)自分に自身に当てはめてみるようになりました。というのはこのロバの子が向こうの村につながれていたように、私もキリスト教に全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼友達が、私が牧師になったことを知って、キリストもえらい損をしたものじゃのうといったそうですが、その評価のとおり、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じ馬科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見栄えしない『ちいろば』にひとしお共感を覚えるのです。」と言っている。

さらにこのちいさなロバがイエス様と喜びと感動も味わえたという歴史の物語に自分も参加できている幸いを喜んでいます。実に私たちも神が必要なる一人一人なのであるということに気づきたいのです。

では、私たちがイエスさまの歴史の物語に参加するということは、どういうことなのでしょうか。
先週、教区総会が開かれました。その宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」であると言われています。まさに今日的においては、大切な二つの言葉ではないだろうか。その言葉のルーツは「災害等の苦難についての信仰的・神学的理解について」という報告文にあるのです。

「苦難」について、特に災害の苦難において「災害、苦難は、人は神の領域に立ち入ることはできず、最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく」とあります。
明日からイエスさまの苦しみを思っての聖週間に入ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、」とあります。今、十字架の苦難を受けようとするイエスさまは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだってくださった。人として生きられた。人として、十字架の苦しみ、苦難を神の領域と受けとめつつ、ここに立ち入らず、また最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように受け入れていかれたのです。

先週も言いましたが、若者の死因の一位は自殺であるというのです。私たちの知らないところで若者は苦しんでいる。そして、この時代を生きている私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。私たちはこの苦しみの原因を知りたいし、苦しみから逃れたい。しかし、この苦しみについて、苦しみ自体をどうであるとかこうであるとか判断するのでなく、苦しみを生きるということが、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」というお姿でイエスさまは私たちに示されたのではないでしょうか。

「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」という良寛さんの言葉があります。受け入れていくことここに妙法があるのです。
十字架に妙法があるのです。苦難の象徴である十字架、しかし、私たちプロテスタント教会の十字架は復活十字架です。この十字架には復活という希望があるのです。苦難にあって、希望をもつ、それが妙法なのです。

「苦しみにあう時節には、苦しみにあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」となるのです。

言葉が罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
十字架の妙法において示されたことは、私たちの人生を貫くのは、イエスさまの十字架の愛です。ここに私たちは「イエス・キリストは主である」という恵みをもって生きることが出来るのです。
だから、私たちは時代が苦しんでいるとき、「信仰と希望と愛をもって、共に苦難の中を生き抜く者として、絶えざる『神の希望』を掲げながら歩む道を取ることを願う」と「災害」における信仰の理解を示した東教区信仰告白委員会の信仰理解は、災害だけでなく、苦しんで生きている人と共に生きる私たちの姿勢であり、その中で私たちが必要とすること、「イエス・キリストは主である」という信仰であり、ここから「神の希望」が生まれてくるのです。


【牧師室の小窓からのぞいてみると】
「豊かさ」
 「豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは『やむえない』」というのが、50%を超えたということが報告されていた。
 新聞はこれを「広がる格差社会」と論じつつ、教育の分野まで定着してきた。
 教育の機会均等と目標を掲げてきた社会は崩れつつあるのであろうか。
今、一方、奨学金が返せない若者が増えてきて、社会的に問題になっている。それは、奨学金を確実に返せるという雇用構造になっておらず、その不安から経済的なことで教育を受けるという道を閉ざしていくことになってきている。
いったい私たち社会は、どこを目指して歩んでいるのであろうか。
論者は「問題だと感じる人はまだ4割いる」ということに期待して、教育費、保育費の補助を厚くして一つの方向を提言している。
教会はすべての人において、教育の均等を訴えていくべきではないだろうかと私は思う。


【新米園長・瞑想?迷走記】
卒園式が、無事に終わった。担任の先生の助けをいただき卒園するこども一人一人に声をかけていく。みんなが幼稚園で一年、二年、三年間で、どんなに神さまに愛されて成長したかを伝えていくことにしている。
また保護者にこれからも神に愛され成長していくんだということを伝えるためである。どれだけ、伝わっただろうか。


【ルターの言葉から】      
キリストを遣わされた神のみ心は、キリストご自身の従順以外の何ものでもありません。パウロも、「彼は私たちのために従順であられた」と言っています。この神のみ心によって私たちすべてはきよめられています。「自分を卑しくし、死に至るまで従順で・・・・」
このように主がなされたのは、私たちのその価値やいさおがあるからではありません。ただ、父に従順であったために、主はこれらをなされました。パウロはひとことで天国の門を放ち、私たちに父なる神の愛と、口に言い表せない恵み深いみ心を示してくれました。それによって、私たちは、世の初めから、私たちのためのキリストの犠牲がどれほど神に喜ばれるものであったかということを感じるようになります。
・・・・・・・・愛される者として神の近くにおり、御子の従順のうちに豊かに示し、注がれた父のみ心を認めるならば、他のことはすべてとるに足りないことなのです。
「信従」という言葉がある。信じて従うということであるが、ルターはイエスの十字架の従順を示されることによって、従順の豊かさを生き抜いた人であった。


【北米のルター派・その歴史 16.チャールズ フレドリクソン】
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」1
 1800年代後半、ルター派の人々は幾つかの厳しい争いを闘い抜かねばなりませんでしたし、奴隷問題や南北戦争で国自身が分裂していました。
 内部の争いを一番よく言い表しているのは、ペンシルベニアの大学教授、フィリップ・シャフ牧師が、1854年にベルリンで、アメリカのルーテル教会について行った講演である、ということで学者達の意見は一致しています。シャフは講演で、当時アメリカのルター派は「新ルター派(Neo)、旧ルター派(Old)、中庸ルター派(Moderate)」に分かれていたと見ています。


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