2012年6月3日日曜日

三位一体主日             2012年6月 3日

 

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 ヨハネ3:5


【説教要旨】

ルーテル教会の創始者であるルターという人は、新しく生まれたという体験をした人でした。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国(神の支配)を見ることはできない。」

人が新たに生まれるということはどういうことかというと、「神の国」とありますね。「神の国」という意味は、神の支配ということです。

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

ニコデモという人が出てきます。まずファリサイ派の人であったと紹介されています。彼らは実に真面目な信仰者であり、ファリサイ派の人の信仰生活は実にすばらしいものであり、宗教的にも政治的にも指導者である最高法院の議員であったのです。しかし、当時のユダ人社会は、ファリサイ派の人からすれば、実に信仰的に堕落したもののように見えました。この腐った社会から自分たちを分けて、律法を遵守して、神に喜ばれる生活をするということに実に真面目に生きた人たちでした。ファリサイ派というのは区別する、分離するという意味です。腐った社会から区別され、分離してまじめに生きるということです。

この当時の社会が神の支配を見ることのできないような社会だと思っていました。だからニコデモは神の支配を誰よりも見たかったと思うのです。

「新たに生まれる」、そんなことはできないと思います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。」、その通りですね。歳をとってきたこの頃、とみに自分が新しいものでなく、過去の中で生きようとしているかをつくづく感じます。新たに進みだすなど至難の業です。ルターは、「私たちが新たに生まれなければならないとは、実に厳しいことばです。」と言っているように、本当に思います。こういう現実にある私たちにイエスさまは、『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」』と言われます。

水と霊」というのは洗礼です。

では洗礼を受けるとはなんだということになります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ということを信じることだということです。自分がキリストに愛されているということです。ルターは、「この新生、すなわち義認からだけで、」と言っています。私たちが一人も滅びないためにイエス・キリストが十字架にかかって、私たち罪びとを救って下さったということを信じるということです。

宗教改革の完成を目指し働いていましたルターは、ヨハネ3章の説教をする前年に死ぬような状況にありました。肉体の内も外も決して彼の思うような状況にありませんでした。そんな中で、彼は神の支配を見、信じ、体験していました。この困難の中で、自分は新しく生れ変わったと感じたというのです。それは「人が霊によって新たに生まれ、体験することがなければ、決して理解できないことなのです。」というように「霊」に生きることを言っています。彼はいつも霊を感じていた。霊に生きるとはルターが「義認のみ」と表現したように「神の愛、イエス・キリストの愛のみ」に生きるということです。神の愛、イエス・キリストの愛のみしか見えないということです。ルターという人は神の愛、イエス・キリストの愛のみしか見えない人でした。神の愛、イエス・キリストの愛に生きる、ここに新たな生き方がいつの時代、どんな場所でも起きてくるのです。

 自分がからっぽになるここに「風は思いのままに吹く。」とあるように神の愛が、イエス・キリストの愛が人の思いを越えて自分の内にあることを知ります。それは新たになる、愛の人となるとうことです。「この新生、すなわち義認からだけで、善い業は続いてやってきます。」ということです。

ルターの自由さは、日々新たにされ、すべてがイエス・キリストの愛に支配されていたということから起きたのでしょうか。聖霊が働いておられる、イエス・キリストの愛が私たちのうちに働かれておられる力が私たちを新たにし、愛の人と変えてくださいます。愛することができる。

「愛する兄弟たちよ、私たち自身が神の国なのだが、この神の国は話やことばによって立つのでなく、行なう力、すなわち、行為、働き、鍛錬によって立つのである。・・・信仰において、愛によって従う者を欲しておられる。愛のない信仰は十分ではない。」と彼は説教しています。キリストの愛に動かされ、つまり聖霊に動かされ、私の力でなく、新たにされた私が神の国に入り、愛を行なう者とされていることに感謝して歩みましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると


太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。

下手に使ってその富を失い/息子が生まれても、彼の手には何もない。コヘレト5:12-13

あれほど脱原発であった橋下大阪市長が大飯原発の再稼働を一時的であるが認めたという報道があった。夏の関西の電力不足を考えるなら首長としてはしかたないのかもしれない。しかし、何か腑に落ちない部分を残している。

3・11の震災、福島原発事故ということを通して、見えてきたのは、私たちが託した日本という富の管理をしている政治が、管理を十分にしていなかったということである。そして、持ち主の私たちが損をし、未来に何の財産も残さないかもしれないというところにいるということである。期待されている橋下さん(私は期待してはないが)さえ、いとも簡単に前言を翻すなら、誰を管理者として決めて良いのかと悩む国民は不幸のうちいる。しかし、コヘレトは「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。7:3」と言う。これも真実かもしれない。



新米園長・瞑想?迷走記

やっと園児らが幼稚園に慣れてきて、自分ということを表現できるようになってきた。良い子が少し我儘の子になってきているが、これが本来の姿であり、これを表現できるか出来ないかというのが先生方の保育能力になるのであろう。

幸い、先生方の保育指導により、子どもたちは自分を出し、個性を出し、表現出来始めた。園が一番、活気づく季節だが、同時に、大変な季節になったのかもしれない。


大森通信    
 
名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。
コヘレト7:1-2
母が危篤だと、兄からの電話があったが、やっと彼女もよく生きた人生を閉じることを許されたんだという感謝の気持ちが湧いた私は変なのだろうか。終わりということに負のイメージでしか私たちは持っていないように思う。しかし、みな終わりがあることをこころしなくてはいけないのではないだろうか。
でも、終わりは決して負ではないとコヘレトはいう。「死ぬ日は生まれる日にまさる」。これは人間の死について語っているのだが、命は神が与え、取りたもうというように、神の地上での最後の働きの時であり、これが私たちの時を閉じる時に起きるとするならなににも代えられない恵ではないだろうか。
また、この頃、同労者で共感できる先輩牧師を天に送ることが多い。寂しさはあっても、彼らに羨ましさを感じ、晴れやかな気持ちで出席することが多い。「弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。」ということを心からアーメンと言える歳になっている。

(大森日記)耐震補強、改築ということで、それも大きな地震がやってくるという時のなかで準備をしている。今週も時間も、心もこのことで奪われている。なぜ急ぐかというとやはり子どもたちの命を守るためであるということに尽きる。小さきものにしたるは我にしたりと主の語りかけを聞く。教会の組織ということに長く関わって思うことは、組織がなくては、自分は何も出来ないと思うようになることが一番、危険だということに心することだと思う。今週もしばらく教会を離れている方、病気などで来られない方に手紙を発送した。まだ会ったこともない方がいるが、一人一人を思い起こすことは感謝である。五月もあっという間に過ぎっていった。
おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)子どもたちが教会学校にやってくる。卒園生も多くやってくる。どう子どもにイエスさまの福音を伝えていくかが課題。昔ある教会は土曜日から教師が集まって準備をしていると聞いたことがあるが、そういえば、それが当り前のようにしていた。そんな情熱は教会から消えていったのかもしれない。今日も最終段階に入った耐震工事で会議。子どものために。
)全国書記に選ばれたために牧師が不在になるのでどうするかという会議だが。この原因を作った担当者から何の話もない。決まったことだから聞けということか。小さな教会はいつも無視され泣くしかないのか。最も教会らしくないことに腹が立つ。抜くなら抜く良心があっても良いが。今日は耐震工事の資金のために銀行に交渉に行く。良い園ができるために。
)全国のルーテル幼稚園・保育園の総会に九州に向かう。変化していく社会にどう幼児教育、保育をしていくかを討議されていく。柔軟に教会はそれぞれの現場に任せた方が良いとひしひし感じる。夜、93歳の母を見舞う。まだ親父が来いといわないと一言。息子の教会に泊まる。色々と目につくが見ざる、言わざるかな。
)始発の電車で東京に、元牧師だった古財牧師の葬儀に帰る。その途中、大変にお世話になったMさんが天に帰られたという電話。古財牧師のとき園児だったT君が葬儀中に泣き出した。きっと良い園生活だったんだろう。葬儀が終わり、すぐにM兄の葬儀に名古屋に向かう。よくカラオケで「どうにかここまで生きてきた、女房を道連れに、まだまだなにかありそうだ」という節を真似できない味で歌っていた。
)葬儀に出て、昇天日礼拝のために東京に引き返す。なんだか空な気持ちになる。
)溜った仕事をいっきにやるが手につかない。職員会議も耐震工事へむけての準備に入る。雷、いやな感じの地震と今日はどうもというところ。銀行と打ち合わせ。そのあと、私学財団と。こどものため。
)設計士と打ち合わせをする。欲は出てくるが子どものための欲でありたい。