2011年12月25日日曜日



言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。                                 ヨハネ 1:14                               

【説教要旨】
伝統的なクリスマスのメッセージです。そして今一度心を鎮めてこのメッセージをご一緒に聞いていきたいのです。

教会が教会として生き方をはっきりとさせようとした初代教会の信仰の告白にニケア信条があります。ここにイエス・キリストが「まことの神にしてまことの人」であると告白します。これは信仰の中心です。

今日の聖書の箇所はまさにこの信仰の告白の根拠となる、いわゆるキリスト教の信仰の中心を語っているのです。

ここで「肉」という表現に注目したいのです。それは神の存在に比べて死の陰にたち、罪の汚れにある弱くはかない人間存在をしめしているのです。プラトン以来の哲学、信仰は、この肉の束縛から解放されて霊の世界へ入ることを哲人として最高のものとして受け止めていました。神が、イエス・キリストが肉となられるということはまったく驚くべきことでした。神は、「言」であられるイエスにおいて、そのような人間的な弱さ、はかなさの極みに至るまで、

私たちと一つになられ、共に生きられたというのです。イエス様は、肉の罪、弱さを抱えた私たちを愛してくださったこれがクリスマスのメッセージです。

凍てつくロシアの地、クリスマスのとき一人の囚人、ドストエフスキー、彼はシベリアに送られる途中の留置所で肉となられたイエスに出会います。打ちひしがれて絶望にさいなまれた囚人、ドストエフスキーを看た看守は、こう語りかけます。「そこの若いの、辛抱しなけりゃあいけないよ。キリストもお苦しみになったんだから」、次の朝、教会の婦人がシベリアにいく流刑者を訪ね聖書を渡します。彼はこの一冊の聖書をシベリアの極寒の中で読みます。

「自分は、心打つ真実なもの。魂のそこから揺さぶってくれるもの。これと一緒に、立ったり倒れたり、生きたり死んだりしたい」と日記に記しています。

キリストは、肉のなかで罪と弱さに絶望しているもののところまで歩み寄って、きてくださる。共に歩み、支え、道を開いてくださるのです。実は人間が罪深く、弱くはかない極みに立つことは絶対なる神の憐れみに出会うことです。

肉となられたイエスに出会うことは現実を越えていきます。現実だけみるなら絶望しかない、諦めてしかないかもしれない。しかし、この現実にイエスがお立ちになられているとしるとき「自分は、心打つ真実なもの。魂のそこから揺さぶってくれるもの。これと一緒に、立ったり倒れたり、生きたり死んだりしたい」という力強さを回復していくのです。

わたしたちの間に宿られた。」という言葉ですが、「天幕を張った」という直訳です。遊牧民が天幕をはりながら旅をし、生活をしたように、イエスさまが人生の旅にあって一緒に天幕を張り、生活してくださいます。私たちは一人ではない。孤独ではない。

「そこの若いの、辛抱しなけりゃあいけないよ。キリストもお苦しみになったんだから」とドストエフスキーに語りかけ、慰めを与えてくださる言葉は、神の言葉であり、私たちにも語りかけられています。

恵みと真理とに満ちていた。」と結んでいます。イエスが肉となられること、クリスマスのメッセージの中心、その意味は、神の恵みと真理が私たちのうちに満ち満ち溢れているということです。ヨハネにおける真理とは愛です。ですから神の恵みと真理、つまり愛が満ち満ち溢れているということであり、私たちはこの内をいきているのです。

人間の罪、弱さ、はかなさの極みを生きたイエス・キリストでした。しかし、そこに隠されている真実を信じる私たちは、ここに栄光を見るのです。「わたしたちはその栄光を見た。」とあるように。

私たちはまたこの栄光の光に導かれ、希望を与えられ、前進していく強さも与えられていくのです。

今、2011年も閉じようとしています。今、社会は根底から変化しようとしている時代にいます。国も文化も人々も絶え間ない変化の渦を生きている。また東日本大震災は私たちの存在を揺さぶりました。しかし、変わらない、揺らぐことのないものがある。「まことの神にしてまことの人」であるイエスさまが恵みと真理、愛をもって今日も私たちと共にいてくださる。この方の思いがけない訪問こそクリスマスです。この恵みと真理・愛に感謝して、歩みを共にしたい。聖書の言葉を思い起こしたい。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

牧師室の小窓からのぞいてみると

貧困問題について、「食料支援 寺院の力に期待」という記事が目に留まった。貧困社会が自分たちの身近なものとなっている時代に、貧困問題がもはや、行政だけにまかせられない状況にあることを指摘しつつ、フードバンクに協力している寺院の紹介があった。お供え物をおすそわけする運動が始まったという。

「全国の寺院は約七万五千で、コンビニの数より多い。ほんのわずかでも力を貸してくれるならば、社会のセーフティーネット(安全網)に厚みが出るに違いない」と記している。

「フードバンク発祥の地・米国ではキリスト教の教会が食料支援の重要な役割を担っている」と紹介されている。教会こそさらに取り組んでいく課題ではないだろうか。「暗い夜に み子が生まれた、部屋がなくて うまやの中に 神さまは貧しさを 家とされた」と讃美歌にある。


新米園長・瞑想?迷走記

冬休みが始まったが、預かり保育の子どもたちがやってくる。補助の宿直の先生が来ないとき、私は保育室を出来るだけのぞいている。そして子どもたちからいろいろなことを教えられている。R君が弁当のふたをなかなか開けずにぐずっている。なぜぐずっているか分からない。なだめてもだめである。そこで傍らに寄り添い、ぐずるにはぐずる原因があると思い、いろいろと思いめぐらした。時間を巻き戻して弁当を出すところから考えてみた。用意を急ぐあまりこちらが手を出し、R君なりの弁当用意の儀式を壊したのではないかと思い、初めからゆっくりとやりなおしてみると顔が笑みに。泣いたカラスがすぐ笑った。



ルターの言葉から

「クリスマス・ツリー」

「わたしは生きるので、あなたがたも生きるからからである」(ヨハネ14・19)と言う神をわたしたちは希望するゆえに、悲しみより喜びに出会う機会が多い。



ルターはどこでも創始者という顔を覗かせる。今、一般化しているクリスマス・ツリーもルターの考案だと伝えられている。クリスマスの前夜、森の中を歩いているとき、樹間からもれてくる星の美しさに魅せられて、もみの木を持ち帰り、これに何本かのろうそくを立て家族とともに祝ったと伝えられる。こうしてドイツではもみの木に飾りをつけて祝う習慣が生まれた。ヴァイナッハバウム(聖夜の木)と呼ばれるものである。

ルターらしい逸話である。「信仰によって義とされる」というルターの信仰は、「神をわたしたちは希望するゆえに、悲しみより喜びに出会う機会が多い。」という表現になるのだろう。彼が「悲しみより喜びに出会う機会が多い。」というとき実は彼はまた人を喜ばせる人ではなかっただろうか。喜びに支えられながら人を喜びに導いていくという彼の天性は、森を歩いているときも、そこで感動した喜びを、人に伝えたいという強い思いが具体的にヴァイナッハバウムという形になったのではないだろうか。

100年後、清教徒革命がイギリスで起こる。彼らはこのルターの精神をまったく壊してしまう。「クリスマス反対、クリスマス反対」と叫び、「一般にクリスマスと呼ばれる日があるが、いかなる祝いごとをしてもならない。クリスマスを守ってはならない。教会はこの日に関するいかなる行事・式典も執り行ってはならない」という布告をした。

大森通信    

   

クリスマス・プレゼント 2
 

沖縄石垣島に住まいを移されているT先生     が久しぶりに清水の家に帰られているという話をうかがう。ぜひお会いしたいと電話するとお忙しい中を会ってくださった。食事をしながら二時間あまりの時だが、実に慰めに満ちた時であった。先生は不思議な人で、考えを違っている人でも友だちにして、人の壁を取り除いてくれる。先生といると不思議と力がぬけて、温かな時間を過ごせる。失礼だが、許していただけるならトルストイが、ロシア正教会が理想とする本当にばかになれる人だ。これからクリスマスの忙しいとき、まっしぐらに進んで、力む私の力を抜いてくださった。すばらしいクリスマスプレゼントを神さまが用意してくださった。

こんなに自由に生きている人の傍にいつもおられる身近な人は苦労がたえないだろうと思うが。

帰りの車中で「いねむり先生」という私小説を読んでいた。「妻の死後、ボロボロになっていたボクに先生は言った。『大丈夫。もう大丈夫だよ』」、こんな温かい言葉かけをする小説の主人公とダブらせていた。

(大森日記)礼拝後、クリスマス祝会を子どもたちも加わり楽しい時間を過ごすことが出来た。この頃、教会で持ち寄りが難しくなっているが、無理せずに大切な食事の交わりをしていきたいものである。幼稚園は休みに入ったが預かり保育があり、こちらは不測の出来事に備えておかなくていけない。案の定、水を汲み上げるポンプが故障をする。こんなものだと思いつつ、無事に対処する。クリスマス・イブの準備はほとんどみなさんがしてくださりホッとしている。イブ礼拝は冬の凍てつくときに、星に導かれるように礼拝堂いっぱいになり、共にご降誕を祝う。主がともにおられる。クリスマスおめでとうございます。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)クリスマス祝会、私も二品料理を出す。だんだんと持ち寄りも難しくなってきているが出来るだけ続けたい。食事は教会にとって大切なことであり、力だと思っている。楽しいひと時を過ごすことが出来た。クリスマスへ向けて一週間が動き出す。
)幼稚園は冬休みが始まったが、預かり保育が始まる。子どもたちがやってくる。私には休みはない。)沖縄・石垣からT先生が清水に来られているので、清水にお会いに行く。今度、いつお会い出来るか分からない。機会を逃してはいけない。青春切符で生き返り。長い道中は本を読んだり寝たり。とりとめもない話を二時間ぐらいして、帰る。会いたいと思ったとき会っとかなくては後悔してしまう。
)預かり保育があるのだが、宿直の先生がいない。そんなとき園長が手伝う。でも楽しく子どもたちから色々と学ばされる。汲み上げポンプの音の調子が悪いのが前々から気になりポンプ室を夕刻、見ると水漏れをしている。明日は保育があるがどうしようと思いつつ、まずは元栓を止めて、寝る。こういうときに限ってトイレに行きたくなる。
)朝、起きて保育をどうしようと思うが、さてどうしたものかと考えていると、             一年前、水道工事をしたことを思い出し、ポンプがなくても水は上がったとことを            思い出し、バブルをいじくり、どうにかしのげた。保育も無事にできる。牧師は何でもするものですと言われたが。今日の終わりは、真向いの酒屋さんから勧められた会津娘という酒を飲み、酒の肴に白菜豚を。一杯がいっぱい飲むことになった。
)クリスマス・イブの準備をするがほとんど終わっている。こんなときに何かがぬけている。教文館へ最後の買い物。有楽町で園児に会う。クリスマスイブのお茶会のことで、一言あると電話がくる。委員が決めてやっているだけど任せられないようである。教会のことを思って一言だと思い聞き、どちらに転んでもよいように準備する。
)クリスマス・イブ礼拝、会堂いっぱいの人である。お茶会も手作りのケーキでいっぱいとなる。ほとんどを、人知れずに家内が用意している。出来た嫁である。私には怖い重い人だが。次男が礼拝に出れないと言う。それなりの覚悟をして行けというと遅刻して恋人と来る。いつも彼と遣り合う。胃が痛い。

2011年12月18日日曜日


我らの歩みを平和の道に導く。

                 ルカ 1:79                   


【説教要旨】


私たちは、信仰を生きるということを日々、問うてきました。

しかし、社会の構造自体が大きく変わっていく時代にあって、世にあって、どう私たちは生きたらよいかということを真剣に問われている時代にあって、信仰を生きていくということについて真剣に問うて生きる時代です。信仰が試されている時代に私たちは今、いるということです。

信仰の詩人、水野源蔵さんの「聖夜」という詩があります。

夜空に輝くあの星よりも

小さな 小さな この地球の片隅に

お生まれになられた    み子イエスさま

無数の星が輝き無限に広がるこの宇宙よりも

大きな 大きな神さまの愛

今日の聖書を読んでみますと「これは我々の神の憐みの心による。/この憐みによって」とありますように、私た


ちの存在は、水野さんの聖夜の詩にあるように「大きな、大きな、神さまの愛」によるのです。ここを私たちが試されているのです。

ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。 」(ルカ1:18)というように、私たちが現実にかえるとき、イエスの大きな支配、愛の支配へ懐疑的になる。こういう心、じつに暗い心があり、現実に押し潰されていきそうな心があるのではないでしょうか。本当のところ今にまた将来に希望をつなげないそういう気持ちが私たちを覆っているのではないでしょうか。より現実的になり、何が神のみ心であるかということに立てない自分がいるのではないでしょうか。だから私たちは問うのです。ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。 」。信頼できずにいる自分、そこには沈黙が待っています。

ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。

神の前に立ちながら神に信頼できずに沈黙しかなかった。しかし、神は彼を沈黙のままにしておきませんでした。

あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。

この事とはなんだろうか。洗礼者ヨハネの誕生であり、ヨハネが指し示すイエス・キリストの誕生の出来事である。今、ザカリアは沈黙を破り語ります。

われは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

私たちの現実は実に愚かで、力が闊歩しようとしている。しかし、私たちは力ではどうしようもできないことも知っているはずである。しかし、弱く、神の言葉に立てない私たちはまた繰り返すかのように罪の中に入ろうとしている。しかし、「この出来事」・・イエス・キリストの誕生は、

われは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、」とあるようにたとえ闇のような世界でも光に照りだされているという勝利があるが、力が闊歩して弱きものを踏み倒そうとするとき、ここに「我らの歩みを平和の道に導く」、お方がおられる。力、戦いでなく平和であるのです。平和の道へと導かれている主が今、いたもうのです。

 水野源蔵さんの「聖夜」で詩うのです。

夜空に輝くあの星よりも

小さな 小さな この地球の片隅に

お生まれになられた    み子イエスさま

無数の星が輝き無限に広がるこの宇宙よりも

大きな 大きな神さまの愛

この大きな大きな神さまの愛に私たちは導かれているのです。確かに私たちは誕生のイエスさまのように小さな小さな存在であります。しかし、主はザカリアを目覚めさせて、沈黙から真理を伝えさせたこの言葉に私たち生きていきます。

われは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

今、時代の大きな波が、小さな私たちの生活を脅かし、飲み込もうとしています。しかし、私たちに与えられているのは、「我らの歩みを平和の道に導く。」という神のみ言葉、真理です。「これは我々の神の憐みの心による。/この憐みによって」生きるのが、私たちなのですから。


牧師室の小窓からのぞいてみると



陸前高田市の7万本の松は津波で倒され一本だけ残された松も根が枯れて立ち枯れていった。その松ぼっくりの種から芽が出て、18本の苗が育っているという。

命が繋がれていっていることに感動している。親の松は樹齢270年だという。親のように立派になるには3世紀がいる。

今、私たちの教会は、信仰の継承だということが言われて久しい。信仰は継承されていくだろうが、私たち日本の教会が、主の教会となるには数百年の時が必要ではないかと思う。たかが100年のルーテル教会はこれからも紆余曲折があろう。しかし、焦らず、長い目で教会が成長していく夢を見ていきたい。

使徒言行録のペテロの説教「老人は夢を見る」という言葉を思い出している。

 


新米園長・瞑想?迷走記



降誕劇を発表する日、多くの保護者をお迎えして、楽しい時間を過ごした。

天使の役を可愛らしく、そして堂々とこなしたRちゃんは、はにかみ屋さんで、運動会もかけっこが先生と一緒でないと走れなかった。その姿を見て、お母さんは涙ぐんだと言っていた。

反省会で担任は、「子どもたちは一人で成長するんだと分かりました。」と謙虚な美しい言葉を語ってくれた。

それぞれの子どもたちに成長を感じた降誕劇であった。降誕記事のザカリアの預言、「幼子は身も心も健やかに育ち」とあることが、降誕劇で成就しいのだと思う一瞬だった。



大森通信    
   
クリスマス・プレゼント

幼稚園が金曜日で二学期を終わって、冬休みに入った。その朝、T君のお母さんから嬉しい話を聞いた。
T君は、大きくなったら幼稚園の先生になりたいという。なぜなら先生たちが楽しそうに働いているからだという。
子どもの目からみて、先生方の働きが楽しく見えるということは、すごいことだと思う。学期末にあたり最高の評価を受けたと思う。良い仕事をしている。
それは、また、私たち教会が大切にしている宣教の業としている幼稚園の働きへの嬉しい評価ではないだろうか。いつも祈りの内にみなさんが、幼稚園の業を覚えてくださり、運営委員、役員の方々が具体的に関わってくださったからと思う。
幼稚園の先生になりたいと子どもたちはよく言うが、先生たちが楽しそうだからと感じてくれる幼稚園を与えられていることは最高のクリスマス・プレゼントではなかっただろうか。


(大森日記)教会学校のクリスマス会、子供が多く集まってくれて、楽しい時間を過ごす。パソコンが壊れ、慣れない幼稚園の新しいパソコン使用に疾駆八苦。さらにメールが使えず不便極まりない。回復したのは土曜日の朝であった。文明の利器に振り回されていた。今週は幼稚園のクリスマス行事が重なっていた。特にクリスマス聖劇があり子どもたちがうまくやってくれるかどうか心配だったが、子どもは成長し、それをみる喜びを与えられた。子どもの成長に関わる教会の業の大きさを思うとき、責任の重さと感謝を思う日々であった。一方、社会には不安が満ちて押しつぶされそうになる時を生きている。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)礼拝前にいやなことを聞くが、こういうことはよくあることだ。説教をしつつ、自分が悔い改めていくしかないと思う。パソコンが壊れ1週間になる。メールも使えず困っている。こんなときもあるんだと受けとめるしかない。教会学校のクリスマス会、65名の保護者を含めて出席してくださる。役員会後、パソコンを買いに行き、メールの復活をお願いする。痛い出費だった。しかし、凄い時代になったもんだ。ついていけない。さりとて消えることもできないし昔に帰ることもできない。
月)また食道の調子が悪い。声ががらがら。何を食べても不味い。今日は幼稚園のクリスマスランチ、こんなご馳走だが子どもらは残す。もったいなくて無理に残したものを食べる。夜は7年ぶりに中国から帰ってきた大分の友人と飲む。離婚して一人暮らしだと言う。7年、物語はあった。結婚はしたくはないが、心許せるパートーナが欲しいという。
)どうも鬱になりそうな状況にある。新聞をみると鬱の特集がある。教会ももっとこんな働きが出来ないかと思う。今日も相談があるということで友人と会う。みんな人生の曲がり角に立っている。祈るしかない。
)幼稚園では降誕劇のリハーサル。先生方も熱が入ってきた。力みをとらなくてはいけないと冗談を言うがすべる。先生方一人一人と面接。ただ感謝の言葉。雑誌を読む。テントメーキングパスター、労働牧師について記していた。一考ありかな。いろいろな生活形態があってもいいように思うが。
)幼稚園は降誕劇の発表会で緊張が走る。子どもたちはそれぞれの思いをもって演じてくれた。泣いている親もいた。家内が先生方、10人一人一人のためにクリスマスのケーキ、クッキーを作ってくれて届けてくれる。感謝の一言。
)今日も何もしたくないが、礼拝、終了式、給与の準備、職員会議。調子が良くない。去年と同じ。保護者から、子ども幼稚園が大好きで休みの日も来たいとか、お父さんはお医者さんで先生だがいつも疲れているが、幼稚園の先生はいつも楽しそうだから幼稚園の先生になりたいと言われ嬉しい限りである。
)パソコン回復。家内と銀座に散歩。明日のクリスマス会の一品を作る。

2011年12月11日日曜日


あなたはどなたですか。

                 ヨハネ 1:19                   


【説教要旨】


「あなたはどなたですか」と発せられた問いは、同時に洗礼者ヨハネにとって、「私とはなにか」という問いになってくる。それが信仰の道であり、生涯をかけて問い続けていくことではないだろうか。

異端宣告を受け、それを火に投じたルターの行為は神聖ローマ帝国の秩序を乱すものとして、ウォルムス国会に彼は召還されます。厳しくルターの考えを捨てるように要求されますが、彼は強く拒否し、有名な言葉を残します。

「ここに、我、立つ。かくせざるを得ず。神よ、我を助けたまえ。アーメン」

ここでルターは、「私とはなにか」という答えを出しています。ここで大切なことは、「ここに」という言葉です。それはウォルムスという具体的な場所であります。しかし、「神の前に」立つという私がルターの私です。すべてのこと、出来事が「神の前に」あることであるとルターは言うのです。


ヨハネ福音書で注目したい言葉があります。「さて、ヨハネの証しはこうである。」という言葉の「証し」という言葉です。次に「質問させた」とあり、「公言して隠さず」、「言い表わした」という言葉が続きます。これらは裁判用語です。

「あなたは誰か」と厳しく問う、そして「私とはなにか」と答えざるを得なくなってきている。

ヨハネの答えに注目したい。「私は・・・である」という言葉でなく、「私は・・・でない」ということで自分を示していく。自分を否定していくことによって自分が何であるかということを示す。

さて、最後の振り絞るような詰問、「あなたは自分をなんだと言うのですか」という問いに「私は荒野に叫ぶ声である」と始めて、「私は・・・である。」と表明します。「叫ぶ声」、それは今日の日課を括っている言葉、「証し」をするという言葉そのものです。

では、「証し」すると言う言葉を注意して読んでいきますとヨハネ福音書では、「イエス・キリストは誰だ」という場面でしか使われていません。「私は・・・である」という自己表現は、「イエス・キリストは誰である」ということを示す時に、「私は・・・である」ということがはっきりと分かってくるのです。ルターが「神の前に」立つことによって自分を確立したように、神の前、イエス・キリストの前において自分が何者であるかをはっきりと知らされるのです。

洗礼者ヨハネは、「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」言います。

ここでイエス・キリストを示し、「履物のひもを解く資格もない。」という。それはイエス・キリストが自分を生かし  

てくださらないならその働きもないと言うのである。しかし、彼は「主の道をまっすぐにせよ。」とあるようにイエスさまが来られるために準備する存在であるというのです。

「私は何か」という問いは私たちが生きる中で問い続けるものです。しかし、それは、「神の前」において私たちは問い続けることであり、神の前に立つとき、私という存在がはっきりと分かるのです。

洗礼者ヨハネが、示したように「私たちが・・である」ということは、「証し」、「キリストは誰である」ということをはっきりと声にしていくとき、自分が何であるかということをはっきりと確立することができるのです。そこには、自分が何であるかという恐れが、証しするイエス・キリストの中に飲み込まれていきます。

 ルターがウォルムスの国会で自分の主張を撤回しなければ死刑になることを覚悟しながら、なおも撤回しなかったのは「ここに」という場所、神の前において自分が何ものであるかということをはっきり知っていたからです。クリスマスは、イエス・キリストの前に立つことであり、「私」の本来の回復がなされるときです。

 クリスマス、それはヨセフ、マリアが、三賢人が、羊飼いが幼子イエスの前に立ち、証しを立てたように、自分をイエス・キリストの前に立て、イエス・キリストを証したいのです。消え行く自分の声です。しかし、「イエス・キリストこそ救い主」と証しを打ちたてていきましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると



脚本家、倉本聰氏が、「高校生のころ、本当にうちは悲惨な状態だったんです。そういう時におふくろがお年玉でくれた500円札は、どうしても使えなかった。他の500円札は使えるのです。でもおふくろの500円札は、500円を示す紙切れじゃなくて、もっと大事なものとして自分の中にはあるわけですね。愛情が注がれているから価値が上がってくるんですね。その部分をTPPも今の政治も忘れちゃいないかって気がします」書いている。

聖書の金持ちと貧しい女性のレプタの献金の物語を思い出した。物には心がある。心は物で量ることが出来ない価値が付与されている。「愛情が注がれているから価値が上がってくるんですね。」を感じる感性を失いたくない。

同時にすべてにおいて、愛情を注いでいく感性も持ち得たいものである。

 


新米園長・瞑想?迷走記



子どもたちが、降誕劇の練習に励んでいる。年長になると劇の役を自分たちで決めていくようにしている。

今回は、ヨセフ役、マリア役を最後まで、自分がしたいと言って互いに譲らない。役になりたいみんなで話し合って決めていくように私たちは最後まで見守るだけであった。実に大人顔負けのおもしろい駆け引きをしている。最終的には、くじで決めることになったのだが、誰が一番に引くかということで次に話し合いとなる。そんなこんなしていくなかで役が決まっていった。

きっと、くじにはずれた子どもたちは結果には、満足はしていないだろうが、人生の過程でひとつの貴重な体験をしたのではないだろうか。



ルターの言葉から

          

しかし、信仰は目に見えるところ、手の触れるところにかかわりなく、ひたすらにみ言葉によりすがります。博士たちは気落ちしました。腹をたてました。彼らは新しい王を見つけるという期待に燃えて、旅にのぼったのでした。それが何のかいもなかったのです。福音書記者の「彼らはその星を見て、非常に喜びにあふれた」という言葉のうちに、それ以前の彼らの落胆のほどがありありとうかがわれます。言い換えれば、「星が見えなくなったとき、彼らは大変悲しく思ったが、星が再び現れたので、『やっぱり、み言葉は正しかったのだ。騙されたのではない。』と非常に嬉しく思った」と書いてあるようなものである。私たちも同じように、み言葉に固くよりすがらねばなりません。

博士らはこうした内的な戦いを経験したのでした。・・・・・・・・・霊的な戦いを経た人には、神はいかにも身近に確かに感じられますので、苦しみも戦いもあとかたなく忘れられるだけでなく、神に親しくよりすがることが出来るようになるのです。彼は強きものとなって、もはやキリストの低さ、卑しさにも躓かなくなります。城キリストを見出そうと望むものは、あの博士たちが星を見失ったときに感じたように、ただ汚辱のみを見出す覚悟でいなければならない。こう悟るようになったからです。星が再び見えだしたときに博士たちが示した喜びはまた、彼らの驚きをも物語っています。苦しい戦いを通じて彼らは、喜びについても新たに生まれ変わった者となり、もはや二度とキリストに躓かなくなったのです。

                             クリスマス説教より

 ここにルターの信仰の捉え方が表現されている。「試練」というものが、神を己の近くで信仰者が感じ、神によってその困難さを超えていくことが出来るという事実が与えられるというのです。



大森通信    
   クリスマスの季節
初任地の別府でクリスマス・クランツ作り、    リース作りからクリスマスが始まった。
クランツ、リースと言われても何だか分か     らずにいた。当時、クリスマスといってもせいぜいクリスマスツリーだけであった。しかたないので一年前の写真、本を見ながら四苦八苦して作ったことを覚えている。あれから30年、教会だけでなく教会外でもクリスマス・クランツ、リースは誰もが知るところとなっている。店先で売られているリースは、私が作ったものより雲での差で、綺麗である。
もう、クリスマスは教会の行事を超えて、世間一般のごく当たり前の年間行事になっている。これからも分かるように時代は大きく変わったということである。でも変わらないことが一つある。日本文化の特徴、外から文化を取り入れるが、その中身を腐らせて、まったく違うものにするということである。小学校の掲示板にクリスマスはギリシャ神話の・・・と見たとき、苦笑いしまった。もうクリスマスは正確にはこの国では伝えられていないようである。


(大森日記)昨年は、この時期に東北新幹線が全線開通して、「東北への宣教は、届いていない。宣教が停滞する中で、開拓伝道の夢を持ち続けたい。」と書いた。まさかあの大地震が起きるとは予想だにしていなかった。数年ぶりにコンサートをして、震災被害地への募金を募った。これからも地道であるが宣教も、献身献財も続けていきたい。このために奉仕くださったみなさんに感謝している。幼稚園の園長会があり、来年は補助金が厳しいと聞く、法人税が区に入ってこないということであり、震災の影響によるということであった。今週も庭に落ち葉を残し、子供たちと自然を楽しんだ。今週もいろいろとあった。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)礼拝の第1週は聖餐式のため、自然と出席が多くなる。主にあるとういことが見えてくる聖餐は毎週、行いたいのだがなかなか理解されない。役員会、女性会、壮年会のクリスマス会、夕礼拝と続く。そんな中で次男がするりとぬけて礼拝をサボる。これが胃の調子を悪くする。家内がまた一言も注意しない。これもまた胃を痛くする。
月)胃の膨張感が治まらないが、お腹はすく。季節の変わり目、よく起きていたのだが、しばらくはなかった。毎年この季節、ベイントンが編集した「ルターのクリスマスブック」、ルターの「マグニフィカート」を読むが、こんなとき読むが頭に入らない。夜から調子も良くなったとき財務委員会。もう十年近くやっているがもぐらたたきのようにきりなく課題がでてくる。財務は教会の宣教があって初めて成り立つが、牧師のなかで金のことは牧師と関係ないとうそぶくのを聞くと宣教は?と切り替えしたくなるが、この頃ろは大人しくなって言わないことにしている。
)胃の調子がまだ治まらない。とうとう病院に行く。専門医へ行ってくださいというが自立交感神経が狂っているのが分かっているので、行くのがおっくになる。夜は首都圏のルーテル幼稚園、保育園のクリスマス会。名古屋でお世話になった幼稚園に送る80個のマフィーンを取りに家内のところに行こうとするが四谷でダウン。
)幼稚園が終わり、再度、家内のところに行こうとするとそこの園長の義母が百歳で亡くなられたという葉書をいただく、偶然だけだろうか。無事に届けることが出来た。腹は空くのだが。
)朝の祈り、今回は庭を掃除しながら人を待つ、誰も来ないところでも、外で祈りをささげる。祈ることが多い。土曜日に家庭訪問に遠くに出かけるので今日ぐらいまですべてを終えていなければいけないのだが、調子が悪く気が起きない。こういうときは寝るに限る。
)家内と次男のためにシチューを作りながら、今日こそ、明日の訪問へ向けての準備。クリスマスの準備で銀座に買い物に行く。途中、家内と銀座を散歩。クリスマス一色。ひばを使ってデコレートしている店があり、さすが銀座と思う。
11時から21時まで家庭訪問。早く訪問しなければならないのだが、やっと叶う。感謝である。