2012年3月25日日曜日


四旬節第5主日

  すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。  ルカ1:30


【説教要旨】

今日は聖書の日課によると「主の母マリアの日」です。私たちはマリアについては、カトリック教会のものだと思っています。もしかしたら今日の日を以外に思われたかたもおられるかもしれません。カトリック教会においてもマリアについて思いが強いのは南欧の人であり、それは中米、南米へと広がり、強いマリア信仰となってきています。日本においても悲母観音信仰の強さと相まってやはりマリア信仰が強いところかもしれません。
では、私たちが「主の母マリアの日」を守るとき、マリアをどうとらえていくかということを問われているのかもしれません。
この聖書の後にマリア讃歌―マグニフィカートーがあります。ルターはマグニフィカートについて講解しています。
「自分(マリア)一人のために歌ったのではなく、われわれすべてのために歌ったのであり、それだからわれわれも彼女にならって歌うべきなのである」と言っています。信仰の模範者としてマリアを明らかにしています。マリアは、私たちの信仰の模範者なのです。
今回、教区総会は闇に包まれたような重さを私は感じました。その闇は社会の課題に応えることの出来ない無能と現実です。今の時代の大きな変化とその闇に対して、社会は苦しんでいます。未来が見えてきません。教会もやはり何の解決も出すことが出来ず無能であることに悩み、苦しんでいるということです。どこから手をつけてよいのか分からなくなっています。では、これは現実であるかもしれませんが、真実なことなのでしょうか。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
越えられようもない社会の困難な大きな壁の前に苦しんでいる状況があるでしょう。一人たたずんでしまう孤独があるでしょう。しかし、私たちはマリアに天使が告げたように私たちもおめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられるという存在なのであるということをまず知るべきです。ここから全てが私たちの出発なのです。私たちはだから失望しないのです。
しかし、マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだという現実があります。どこが恵まれているのか。どこに神がいるかという現実があります。この現実の前に天使がかけた言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込む私が現実に圧倒されていきます。そういう弱い私がいます。マリアも然りでした。
私たちと共におられると言われた神は闇に押し潰されていく私たちがいます。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。イエスさまは十字架において、まさに私たちの罪の弱さを、闇を負われました。罪の弱さ、闇にイエスはいてくださったのです。また、いてくださるのです。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」という「神から」という言葉です。私たちはいつも「神から」熟視されている存在です。
「マリアが誇るのは、彼女の処女性でも謙遜でもなく、むしろただ神の恵みに深い注視であった。よって言葉の重点はhumilitatem(謙虚)にではなく、respexit(かえりみた、注視)にある。それは讃美されるべきことは、彼女が無であることではなく、神の注視にあるからである」とルターがマリアについて語ったように、私たちも無である力弱いものであるのでなく、私たちが神の注視を受けている。神の憐みの内を生きているということです。マリアは信仰者として、彼女の人生に起きた出来事において私たちに伝えているのです。
神にできないことは何一つない。」という真理に私たちは導かれていくのです。ここで注目していただきたいことは、マリアはヨセフと幸福な家庭生活を望んで、努力したでしょう。しかし、私たちがかくこうありたい、こうしたいということでなく、私の人生に神が働くということです。「神から」の働き、ここに私たちは立つことです。
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
マリアは、マリアの意志、なしたいわざでなく、神の意志、神のなすことを求め、望んだのです。ルターは「神の意志なしには、なすことを欲しないのだ」と言っています。
「主の母マリアの日」、私たちはマリアに語られた神の言葉、マリアの上に起きた神の出来事を通して、この世の現実を生きつつ、現実に押し潰されることなく神の真理の中をマリアに引き続き、信仰者として、召されるまで共に生きていきましょう。 


牧師室の小窓からのぞいてみると

経済気象台 朝日新聞
新聞の株式のページに「経済気象台」という記事がある。「今、我々に与えられた最大のテーゼは『学ぶ才能と創る才能は同居しうるか』ということだ。」、「日本人は一度コンセプトを与えられると、驚くべき才能を発揮する。」、「コンセプトを見失ったとき、日本は烏合の衆と化す」。経済から世界を見ていくのだが、それが文化論、人間論になっていく。経済もただ経済理論から括れるものでなく、そこには文化、人間論が深く関わっている。記者は「和魂漢才から和魂和才」と提案している。経済がグローバル化しているのにこの提案は不思議だが、グローバル化しているから私というものをしっかりと見つけ、創り出していかなくてはいけないと思う。


新米園長・瞑想?迷走記

春休みに入り、暇になったかというと逆になる。特に事務的なことがどっと待ち構えている。また震災以降、耐震工事を進めていかなくてはいけないない。事務処理が迅速に求められる。
また、書類の整理に入っている。職員会議の議事録、カリキュラムの議事録など整理しつつ、次年度の歩み方を考え具体的に作っていかなくてはならない。
園庭の遊具、掃除、草取り、花の植え替え、教室の点検と管財面もきりなくある。
そんなこんなに取り組みながら、どんな幼稚園にし、子どもに仕えていきたいのかと問われてくる。すると教会の宣教との関わりも問われる。
次々と噴き出してくることに苦しみつつ、楽しんでいる春休みである。

ルターの言葉から


   天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
   あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」 ルカ1:35~37

これらのことばを、御使いは聖なる処女に告げました。マリアがこの幼子のために喜び、あらゆる恐れと悲しみを捨て去るためです。けれども、これらの言葉は処女マリアにだけ告げられているのではなく、私たちにも語りかけられています。ですから、この聖なる処女だけが幼子の母ですが、私たちもまた、主の支配と御国のものとされているのです。
もしそうでなければ、私たちは絶望です。私たち自身のものはすべて過ぎ去り、その命も束の間のものにすぎません。四十年、五十年、あるいは百年ですら、いったいなんでしょう。しかし、永遠の国に属する者にとっては、すべては良きものであり、生涯を通じていつも喜び踊ることがふさわしいのです。
さてこのようにして、御使いの言葉は、多くの危険と罪と死に満ちた、私たちの束の間の生涯を思い起こさせ、私たちがそれに耐えられるように励まします。そして、以前には地上になかった御国、限りない永遠の御国を示しています。

マリアは神の憐みを受けた者であり、それは同時に私たちも神の憐みを受けた者として存在しているのである。


大森通信    
 
身近な宣教の協議される教区総会の議事が大変に低調に感じられたのは私だけであろうか。宣教においても、財政においても大きな議論へと広がることなく、時間よりも早く終わった。
他の教区においても同じようであったと聞く。教区長報告に対して何の質問もない教区もあったと聞く。
低調が良いか悪いか分からないが、やはりこれではいけないのではないかと感じたのは私だけであろうか。
特に東日本大震災の教区である私たち東教区においてもっと具体的なことが提案されても良いのではないかと思うのだが、震災救援活動の報告に留まって具体的な提案はなされなかった。
報告書の中に第5次宣教方策については報告書にあるだけで、これを検証し、新たな提案がなされようとしないのも気になった。
批判ばかりしていてもしかたない。では私たち教会はどうであるのか、私たちはどうであるのかを具体的に忠実に取り組んでいこうという思いをもった。それが神の愛を広げていく一歩だと思う。まずは、私からである。



(大森日記)中村節子姉の葬送の祈りをアメリカからご遺族、友人をお迎えして皆とささげるは嬉しい。耐震工事に本格的に取り組み始めた。課題は山積しているのは当り前のこと。これを皆と乗り越えていきたい。節子姉の納骨式、晴れてよかった。永代供養にしていただきほっとしている。教区総会、低調さが気になる。幼稚園は春休みに入るが、預かり保育の園児ら、耐震工事の件で設計師、都の担当者と連絡、来学期への準備と気を使う。職員の結婚式に出席出来ずにいたので良い家庭を築いて欲しいと思い聖家族の人形をプレゼントをする。天地創造物語をもって聖書の学びは終わり春休み。次はガラテヤ書。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。
日)今日は、N姉のご遺族がアメリカから来られて、葬儀を一ヶ月遅れでする。礼拝の中に組み入れる工夫をし、主日の聖書の日課で説教をした。就任式に欠席していた役員の就任も一緒にするなど、日常と非日常、生と死ということが礼拝において、溶かされていた。午後から教会、幼稚園の耐震工事についての協議。総工費一億円。資金をどうするか改築中の園児をどうするか、都からの補助金がどうなるか考えれば考えるほど気が重くなる。癌治療をなさっている姉を訪問する。毎週、訪問して御言葉を届けて治療を手伝いたい。夜、礼拝中に脱走ウサギが入ってきて礼拝が一時、止まるが良い深呼吸の一瞬だった。逃げなくて礼拝堂にきたのは神の導きか。
)N姉の納骨式、霊園の道を途中で迷う。まずは楽しく状況を抜け出そうとするが、人間が出来ていなくて難しい。帰りの車中も妻がきつく、周りに気を使いすぎて疲れる。この頃、妻の言動がきつく気になる。
)教区総会。何もないことに疲れる。これで良いのか。
)事務所にN姉の永代供養のために、本部に負担金を収めにいく。日頃お世話になっている牧師を飲み会に誘い、一杯。いろいろと学ばされた。
)礼拝に数週間、出てきてない息子と大喧嘩。出て行けと一言。怒り心頭だが、怒りに遅くでなくてはいけないが、あちらは縁を切りたいというから望むところ思いつつ、ぐっと飲み込む。信仰を共有していくことは難しい。来学期の準備のために備えていくためにまずは一年分の書類などの整理から始める。耐震診断を巡り都庁と設計士との交渉。
)息子と口もきかずにいる。N姉のご遺族がアメリカに帰られる前に手続きが終わったことを報告に出かける。夜、まだ険悪な雰囲気が息子との間にある。子育ては終わったと思っていたがまだ続くようである。
)気になっている癌で入院中のS君の退院メールがきた。糖尿病で治療し
ている0兄からも元気な声が届く。ホッとする。テレビで原発事故にかかわる番組が
あった。特にドイツの脱原発の舵をきった政治決断に感心した。その決断に至るには
地道な取り組みがあった。地道かあ。まだまだ寒さが残る日々です。上野の桜はまだ蕾です。きっといっきに咲くのでしょう。

今週は礼拝に出ていない息子と礼拝出席をめぐって、生活について、将来について広がって大喧嘩、幼稚園の耐震工事にむけての交渉、来季の準備、納骨式、教区総会とぐちゃぐちゃの混乱した日々でした。
しかし、一週間があっと過ぎていく感じを強く受けています。時が過ぎるのが、早くなっているように思えます。
今週も主の平安のうちにありますように。


2012年3月11日日曜日


四旬節第3主日

  「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」  ヨハネ2:17


【説教要旨】

震災から一年になり、私たちはどう過ごし、どう変わっていったでしょうか。私たちは義援金、ボランティアと一生懸命に関わっていったのではないでしょうか。また、被災された方々は、厳しい状況の中で頑張っています。しかし、例えば、ごみの処理をめぐり私たちの人間のエゴが丸出しだという状況をみるとき、落胆が私たちの状況を覆っているように思えます。
激しいイエスさまのお姿の「宮清め」という出来事を通して、私たちはみ言葉に聴いていきましょう。
過ぎ越しの祭りは大きな祭りです。国内外から神殿にお参りにくるのです。そのためその人たちに神殿にささげる動物が必要となり、献金は外国のお金であってはならず、献金のための両替が必要でありました。
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。
神殿礼拝にとって、必要なこれらをイエスは、否定したのです。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われた言葉で分かりますように、神の礼拝に必要なこれらの物は必要でなくなったのです。
私たちに必要なものはなにかということです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」といわれたように十字架と三日目の復活による救いの力でした。神殿という目で見える形でなく、目に見えない救いの業、神の愛こそ、必要なのです。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
この後、30年後ヘロデ大王が作った第3神殿は崩されて、今日にいたるのです。
私たちは目に見えることに奪われがちになる。そして目に見えることを整えていこうと熱心になる。それは神の名を被って行為を正当化していくことがしばしばあります。人の熱心さは尊いものです。だからこそ、熱心であるということは注意すべきことです。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉に私たちは気をつけなければなりません。
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
イエスさまは、人間が神に信頼されるような存在ではないということを知っておられたということです。私たちはこういう存在です。私たちの熱意は、神からみると信用されるようなものではないということです。「神様のため、イエスさまのために」と私たちは口にするが、結局は、「自分のために」している場合が多い。確かに犠牲の鳩を売る人も、神殿にささげるために外国のお金を両替する人も、人のために役立っている仕事でも、自分のためということがあります。第3神殿を63年もかけて再建したヘロデ大王の熱意も「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とあるように自分のためであった。
震災前まで、私たちは自分の生活を整えていくために頑張っていました。特にエネルギーは、私たちが生活にとって必要なことであり、私たちは原子力発電というエネルギーに依存してきました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」とあるように、まさに「わたしを食い尽くす。」、イエスさまが愛されていた神の民の生活を食い尽くしていた時代を私たちは形成していたのです。さらに危険なものを私たちは都会から離れた田舎に押し付けていたのです。さらに震災瓦礫に対しての処理は、エゴを丸出しの姿を私たちは、露呈しました。震災は私たちの内にある社会を良くしたいという熱意がいかにエゴなものであるということ。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」という事実を私たちに教えたのです。近代以来に入り、私たちは人間の力で何事も開いていけるのだということからくる人間の熱意からおさらばしなくてはいけないのではないでしょうか。
私たちは自分に潜む罪を深く反省し、イエスさまの十字架の贖いなしでは私たちは存在できないものであり、この神の救いの業に自分があり、神の救いの力に頼らざるをえないものであるということ、まずここから出発して人の熱意を去り、神の愛に委ねていきましょう。
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。 (出エジプト20:1~5)



牧師室の小窓からのぞいてみると

福島産の買い控え、震災瓦礫処理反対

震災、原発事故は、福島産というだけで、農産物を買い控える人たち、震災の瓦礫処理に対して、焼却灰が放射能に汚染されているのではないかというだけでこれを受け入れない人たち。ほとんどが現段階では科学的には問題がないものである。
私たちがいかに小さな者となり、エゴの塊であったかを暴露しているように思える。私たちの心の貧困を暴露しているように思えてならない。でも、これは震災前から言われていたことであるが。
そういう意味で、私たち宗教界は、心を豊かにしていくということにどれほど自分自身をむけてきたか、本当に深い反省を迫られているのではないだろうか。自分をささげてまでも、私たちがもっと他者に対する思いやり、労わりが、どんなに大切であるかという当り前のことを、当り前となっていくように、証を立て、具体的に示していくことだと思っている。


新米園長・瞑想?迷走記

一年が終ろうとしている。一年を通して園児に何を伝えてきただろうか「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、イエスが洗礼を受ける時にイエスにかけられた神の言葉であるが、この言葉は、園児一人一人にも、日々、かけられているのではないだろうか。こどもたち一人ひとりとの日々の保育で向かい合う時、いつもこの言葉をもって接してきたし、保育という具体的な場にあって実践してきた。みな神の子として恵みの内を生かされてきた。


ルターの言葉から


「キリストは人が思いも及ばなかった愛の父なる神を示されました。私たちは魂の唯一の慰め、また救いとして、これらの言葉を心から受け取り、心の中で刻み込もうではありませんか。もし主キリストにしっかりとすがりついているならば、あなたは確かに、神が世の初めからご自分のものとして選んでくださった一人です。もしそうでなかったら、あなたがキリストのところへきて、このような啓示を聞き、受け入れることはなかったでしょう。
・・・・・・・あなたは、主の啓示をいただいたことと、神の愛する子にしていただいたこと以上に、この世にすばらしいものはないことを知るべきです。
み言葉があなたを喜ばせ、恵みのうちにあなたの心がキリストへ向けられることによるのです。こうしてキリストがご自分をあらわしてくださったので、主のみこころとあなたの救いに関するすべてを知ることができるのです。」

修道士の時代、ルターは、信仰を熱意の中にいきていました。修道士の時代に彼の修道生活は完全といわれるほど熱心な業でした。しかし、彼に心の平安はありませんでした。
しかし、彼が「キリストは人が思いも及ばなかった愛の父なる神を示され」たとき、人の熱心さでなく、ただ「主キリストにしっかりとすがりついている」ことで充分であることを示されたのです。裁きの神から父なる神の愛の絶大さに気づいたとき、「信仰のみ」、「恵みのみ」ということにたどりつくのです。



大森通信    
 
今日は東北大震災から一年になる。教会の庭の桜の木が大きく揺れたことを思い出す。その一瞬はこんな大きな被害をもたらすなど考えもしなかった。
震災以降、生活は変わっただろうかというと変わったようで変わっていないように思える。むしろ、世界経済の大きな変化に翻弄される日本経済、つまり日本社会が合い重なって未来が開けない社会があるように思える。ここに人の中に大きな漠然として不安があるように思える。戦後の復興を例に出して鼓舞するが、焼け跡から復興には逆に漠然として希望があった。
なぜ、希望が持てないのだろうか。それは変わろうとするエネルギーが私たちに欠けるからだ。変わるチャンスがあったと思う。それは原発事故の後の人間にとって最も大切なエネルギー改革である。誰が見ても今は人間の手に負えない核エネルギーを一気に方向転換出来たはずであるが、世の常識がそれを越えて、また容認されつつある。ここで一気に変革したなら変わるという気持ちを起こせたのではないかと私は思っている。
多くの命を失い、生活を失った犠牲を無にしないためにも希望という復興を私たちは提供しなくてはいけないと思う。


(大森日記)役員会、新任牧師按手式から一週間が始まった。新らたに生まれて牧師は混沌とした世界への船出であるが、福音を宣べ伝える基本に立ち、新たな歩みをしてほしい。震災一年になり、進まぬ復興の道のりがあると聞くが、きっと開けると祈りを強めたい。一年を終えようとしている幼稚園の諸行事に気持ちがとられる。父兄との交流会で、神に愛される悦びについて。生憎、雨の中を80数名ルーテル学院の卒業生が旅立っていった。旅立ちの時でもある。雪が降る週末となったが、寒さの中にも春を感じる。花粉症も始まり春か。これは遠慮したい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)インフルエンザもおさまり教会学校も子どもたちが元気にやってきた。こどもの声は良いものである。役員会での協議はいかに福音を伝えていくかということである。また幼稚園の就業規則について協議していくがやっかいなものである。これも勉強か。長男の牧師按手式である。義兄らも出席くれて良いお祝いとなった。たいした感動もなく、むしろ心配が重なる。なかなか親業を終わらない。息子が赤ちゃんのときに世話をしてくれたS君も出席くださる。式後彼と最終電車までいっぱいひっかける。息子たちは若い先生と飲んでいたらしい。次男に牧師へ勧めがあったらしい。これ以上はやめてほしい。
)休むに休めず、午後から幼稚園保護者総会などが続く。この会から幼稚園の一年の締めが始まる。息子の按手のお祝いの電話が続く。それぞれの教会で育てていただいた。時は過ぎるのは早い。
)一日、幼稚園の仕事に追われて誕生日の信徒を訪問したのは夜になる。今週は体力がない。やっと一日が終る。家内が翌日の誕生日の菓子 を届けにきてくれる。
)教区に協力金を収めに、墓地の件で行く。帰りに散歩し、息子と夜、神楽坂で一杯ひっかける。青年から電話があり渋谷で食事をしながら相談に乗る。帰宅したのが最終便。
)雨。祈祷会が終わり、少し寝たのがいけない。職員会議を欠席してしまった。業者さんと打ち合わせ、午後から職員会議、聖書の学びと続く。出席者と夕食をともにする。夜の飲み会のお誘いがあったが、流石に疲れ、今日は早寝。メールが一件。先の青年から大学院の卒論がパスしたという。ほっと。
)最後の保護者との交流会。神に愛されていることの悦び、神に愛された保育を話す。神学校の卒業式。教会関係の出席者が少ない。久しぶりに恩師のM先生と会う。変わらぬ心温まる方だ。夜、巣鴨で友人とエスニック料理で夕食を。それが安い。偶然、T牧師夫妻と会う。歳を互いにとった。
)やはり体力なく、起きるのがなかなか起きえずにいた。午後から使徒信条の学び会をする。今週はやっと「死」についての本を読む。ばたばたと一週間が過ぎていった。


2012年3月4日日曜日


四旬節第2主日


  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。                 マルコ10:45


【説教要旨】

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」というイエスさまの言葉ですが、「すべての人の僕になりなさい。」という「なりなさい。」と訳すよりも「すべての人の僕でありなさい。」と訳した方が良いのではないでしょうか。本来は、私たちは「すべての人の僕である。」のですが、この本来の姿が失われているということです。神さまが定めてくださった本来の姿が失われていることを罪だということです。
弟子たちは実にイエスさまに忠実に仕えたと思います。そこにはイエスさまに喜ばれる姿になろうとする実に真面目な努力があります。しかし、ここに落とし穴がある。「なろう」とするとき、なったときの報いをいただきたくなる。欲しくなる。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。弟子らと同じでイエスによって、引き上げられ、偉くなり、何も問題なく、心休まる、平安の中にいたいと思いますね。イエスさまの近くにいれば何も問題を持たないでいいと。
しかし、イエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われます。
なぜ、「分かっていない。」とイエスは語られたのでしょうか。
「良心は神の言葉に縛られている」ルターの有名な言葉があります。私たちの言葉は、神の言葉、イエスの言葉で縛られているということです。
このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」というお言葉。飲む杯とは十字架にかかられたイエスさまの苦しみです。イエスさまの側にいるとはこの苦しみを飲むということだというのです。
ルターは、「私たちが苦しむことは、必要なことです。」と言うのです。イエスのお側にいるものとして、私たちが苦しむことは必要なことなのです。私たちは苦しみからの解放を願います。だから「分かっていない。」とお叱りを受けるのです。
教会は人気がない。病気の苦しみを、心の悩み、苦しみを、生活の苦しみを取っていただきたいと来ているのに。「分かっていない。」と言われれば立つ瀬がない。でも、やはり「分かっていない。」のかもしれない。
イエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言われる。私たちはこの言葉の括弧でくくられた存在であるということです。また、さらにこの括弧を括る言葉があります。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエスさまは十字架上で苦しみ、神の全能と栄光をかくされつつ、しかし、それゆえに逆に自ら人の罪に代わって無力と恥辱をこうむり、人の罪をゆるす恵みの神として、姿を示され、私たちの苦しみ対してイエスさまが仕えてくださる。命をささげてまで私たちを贖い、愛しておられるというのです。私たちの苦しみをもご自分のものとして受け止めておられるのです。この大括弧の中で私たちは生かされているのです。
ここに集う人は優しい人だと思います。優しいという言葉は「人が憂う」と書きますよね。私たちには、ブッダが悩まれたように生老病死という四苦、人には憂いがあることに気づきます。悩みを前にして、たじろぐ私たちがいる。また、四苦で苦しんでいる人に私たちは「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい。」という言葉を真剣に受けとめようとする。しかし、出来ない自分にたじろいがある。しかし、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と主がここに立ちたまいます。「だれもこれに直面して、たじろいだり、恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る」というルターの言葉を思い出します。
だからたじろぎつつも立てる自分がいることを忘れてはいけません。「この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。」という出来事が私たちの中に起こってきます。
「救い主を引き寄せます。」と言うのです。「皆に仕える者であり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕である。」となることがゆるされ、回復されている自分がいるのです。仕える人、愛の人へと変えられるのです。「私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」というルターの言葉にある「福音―神の愛」という大きな括弧に括られた私たちであり、「皆に仕える者であり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕である。」ということを感謝しつつ、主と共に歩みましょう。


牧師室の小窓からのぞいてみると

ときにはおせっかいを焼こう(朝日新聞社説余滴)

豊かな時代にあって、食べることが出来なくなって亡くなっていく悲しい事件にはだれしも心を痛めているだろう。「近所の子供を預かったり、おすそ分けをしたりするのが当たり前だったのはいつごろまでだったろうか。
濃い人間関係には、わずらわしさもある。ひとさまの生活に干渉しないのも優しさだろう。でも、それは元気な人同士の話だ。
ときには『おせっかい』を焼かないと、救えない命もあるかもしれない。迷った時、一人ひとりが、そう想像してみる。それしかない気がしている。」
人を救うという教会の大きな使命がある。そしていまこそこの使命の実行が求められているのではないだろうか。もっと教会を出て『おせっかい』と思われるほどの奉仕の業を私たちはしなくてはならないのではないだろうか。これは私たちに投げかけられた問いでもあり課題だとおもう。


新米園長・瞑想?迷走記

園に響く子どもらの声を聞いて、園の調子が分かるような気がする。どこまでも明るい元気な声が、いま響き渡っている。今日はきっと調子が良いのだろうと思う。声が小さい時、どこかで問題がある。まずは朝の自由遊びの時の子どもらの声を聞きながら、一日のすることが見えてくるような気がする。それにしても明かるい元気な声が響いてくるとき安堵するのは私だけであろうか。



ルターの言葉から



 「私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちの持っている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに私たちを眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を濫用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
 神がこのような悪を訂正させる方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長できない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。それゆえに十字架をまぬかれるよりも、十字架を与えられるほうが益となるのですから、だれもこれに直面して、たじろいだり恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る、すばらしく強い約束を与えられているではありませんか。私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」

ルターは、「弱さ、苦難、十字架、迫害、これが神の武具である」と言っています。彼は十字架の救いの意味を受け止めることから、宗教改革の時代の悩みと苦しみを受け止めつつ大胆に前進しえたのだと思います。苦しみの意味を見出しえたことから、ルターの信仰の深化は始まったのかもしれません。


大森通信    
 
先日、机の上に一通の手紙があり、開いてみると牧師初任地の時代、高校生だったT君からの手紙だった。中に彼が働いている福祉施設の便りがあった。見ると施設長になっている。そこには社会の変化によって、変わりゆく施設のありかたについて取り組んでいる簡潔な要を得た文章があった。
中間、期末の試験が近づくとよく友達を連れてきて、勉強を教えろと言っては、数日間、牧師館で寝泊まりしていた。勉強は数時間で、後は友達同士で遊んでいた。彼が連れてくる高校生で夕礼拝は活気に満ちていた。数名が洗礼を受けていった。彼もその一人だった。彼には華があった。経済的に大学にいく余裕のない彼に、大学に行けと勧めた。東京に出ればどうにかなるからと言って。なんと無謀な勧めだったろう。自分がアルバイトしていた会社に頼み込んで採用してもらい、保証人は田園調布教会の信徒さんTA兄に頼み込んだ。明治学院の二部に入り卒業し、今に至る。大変だったろうと思う。
予感通り華が開いてくれていることにあの無謀なアドヴァイスも神が良しとしてくれたんだと感謝している。



(大森日記)日曜日は、いろいろな事が重なり分刻みのスケジュールだった。神学校の夕べの息子の説教を聞き、引き返して夕礼拝となる。今週も幼稚園のことで時間をとられる。心の休まることが出来ない。すべきことが多すぎて整理が出来ずにいる。だから静まって祈らなくてはならない。天候は雪が降ったり、暖かくなったり、また雨が降り寒くなったり目まぐるしい。まさに自分の一週間のようである。週報を発送し、手紙を書くのだが祈りを込めている。また共に礼拝を守ろうと。東北の震災支援ボランティアは20名募集で8名だったと聞く。これからもさらに支えていく祈りを強めたい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)今日はインフルエンザの流行のせいか教会学校の生徒が半分である。流行り出すと早い。礼拝後、祈祷会、礼拝委員会、幼稚園運営委員会と分刻みのスケジュール。その後、「神学校の夕べ」。息子の説教を聞きながら、私が神学生時代、中心となって、神学生の主催で「神学校の夕べ」を復活させたことを思い出す。昔の東京教会会堂を借りに坪池牧師に頼みにいき、帰りに食事をいただいた。神学生が中心となって運営した。復活を指示した清重先生は、引退、復活後の説教壇に立った山之内先生も引退されている。時の流れを感じつついた。何よりも息子がここに立つなど想像もしていなかった。終わるとすぐに夕礼拝のために教会に帰る。いつもの静かな礼拝だった。
)午後から財務委員会である。今回は小石川教会で、昔聖歌隊で行って以来で変わりように驚いている。年月は流れるか。幼稚園教諭養成校の先生と懇談会。友人と友人宅で夜遅くまで話し込む。
)やっとこどもたち全員が揃う。まだまだ気が抜けないインフルエンザの流行である。夜から雨と雪。
)水の含んだ雪は子どもたちには遊べないのではないかと思っていたが、遊び上手な子どもたちは雪遊びをしていた。子どもたちは楽しい。夜、前任のkK牧師と一杯。
6時、携帯電話が鳴る。副園長から。いやな予感、風邪をひいたという。幼稚園に一日張り付かなくてはいけない。教育指導にセンターから先生が来られる。子どもたちが大切にされていて良い幼稚園ですと言って帰られた。嬉しい言葉。「風のように」をメールで送ったはずだが、送れていないことを電話でいただき慌てて編集し送る。もう3月か。誕生日カード、教会に来れない方、来てない方々に手紙と週報を祈りを込めて送る。
)家内は世界祈祷日に、こちらは留守番。誕生日カードを送り、夜は遅くまで日曜日の準備。
)日曜日の準備を終えて、近所の信徒さんのお宅を訪問する。暖かい日和。家内と日本橋高島屋に息子の同級生のたまり漬けの店が出品していたのでご挨拶にいく。ついでに卒園児のためのプレゼント、木製品を購入。三万円の出費はきつい。もう卒業かと思いつつ時間の速さを思う。帰り山口の物品店を偶然に見つけ寄る。母方は長州、萩藩だから先祖の地に息子は就任か。