2012年10月25日木曜日


聖霊降臨後第21主日         2012年10月21日



主を求めよ、そして生きよ。

アモス5:6     


【説教要旨】      「神にできないことはない」

今日の聖書日課を読むとき、私たちにはとてもできないと感じませんか。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」という言葉を聞くたびに私は、戸惑ってしまいます。
私たちが祈る「平和の祈り」を作ったフランチェスコやマザー・テレサに代表される特別な人ができても、私たち普通の人にはできないと思いがちです。では、イエスさまは特別なことを言っているのでしょうか。
加藤常昭牧師はこの説教箇所で宗教改革者たちのことを語っています。「宗教改革、マルティン・ルターやカルヴァンが起しました宗教改革の時に、この聖書の言葉が再び光を放つようになった。ルターもカルヴァンもこの箇所について喜んで書きました。そしてふたりとも共通のことを言った。それまでのローマ教会はこの言葉をこういうふうに理解していた。すべての財産を施してイエスに従う、それは私たちにはできない。しかしそれを実行できた人もいる。できた人は修道院に入り、あるいは司祭さまになっている。私たちにはできない、できなくてもいい。フランチェスコのように、あるいは自分の教会の司祭さまのように、皆財産を捨てて神さまのために生きて、主イエスの後について行く人、それは特別な人たちだ。だがルターもカルヴァンも言います、それは間違っていると。主イエス・キリストの恵みによって生かされる者は、すべてを捨てることができる。この世にあってすべてを捨てることができる。」
宗教改革者がこの箇所を、キリストの恵みに生きるということであると捉えたのです。ここに私たちを捉えていた「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」という財産から解き放たれ自由にその振る舞いをできるのです。私たちが生きていくにあたり、どうしても財産というものが必要になる。そしてこの財産にこだわってしまう。だから、わたしたちは「これだけしかないからこれだけしかできない」というふうに縮こまってしまう。いつも私の内にある力、知識、地位、財産をどれほど持っているかということからしか判断できなくなっている。ここに縛られている。だから、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」という世界が分からなくなって、いかに不自由な世界を生きているだろうか。
私が、経験した最高の献金は8500万円です。いただいた方のご主人は僧籍のある方でした。お寺に1億のお布施をし、奥様が属している教会へ8500万円でした。寄付後もいっさい口出しをしませんでした。この寄付をされた方のお父さんもやはりそういう方だったとうかがいます。アメリカから鈴木大拙という立派な仏教学者を呼び返すために、自分の給与を出して、日本での鈴木大拙の給与を支えたと聞きました。
では、そうさせることは何なのでしょうか。「あなたに欠けているものが一つある。」、では、何が欠けているのでしょうか。信仰に生きる、つまりイエスさまの愛の中に飛
び込むということではないでしょうか。このイエスさまの愛に飛び込むことをさまたげるもの、財産であれ、知識であれ、地位であれ邪魔なことなのです。
ルターの有名な死ぬ2日前の言葉があります。「我々は乞食である。それは真だ。」ということばです。これは神の、イエスさまの恵みだけを生きていこうとする者のすべてを失っていく歓喜の言葉であるとおもうのです。この世のもろもろから自由になるのです。
イエスさまが求められるとき、自由になったものは全財産も献げることもできるし、人生、すべてをかけて主に仕えることもできるのです。
初代宣教師エルソン牧師の墓前で思うことは、この異国で30歳で散って行った勇気はどこにあるのか。やはりキリストに捉えられていたからではないかと。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という60年があったことを感謝しつつ、私たちは、次の60年があることを思います。
今、一度、私たちは、自分の人生を見ていきましょう。私たちが神の、イエスさまの愛に飛び込んでいくことが私の人生であるということです。
アモスは、「主を求めよ、そして生きよ。」と言います。私たちがこの世にあって、信仰者ということは神を求めていきることであり、ここにわたしたちは「主を求めていく」ことに何の妨げがあってはならないのです。
人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」このすばらしい自由な世界に今日も私たちは自分の人生を託される喜びが与えられています。ともに主イエスに最後まで従っていきましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると

「風度」

見なれない言葉に出合った。「風度」という言葉である。
「人間には『風度』というものがあります。中国の古い言葉で、『らしさ』のことです。この人なら協力しよう、この人のためなら思わせる。リーダーには、この風度が必要だと思います」と言ったのは、歴史小説家・竜門冬二さんである。
私たちの教会は、今年で60年の歩みをしてきました。この60年に私たちはどんな『風度』、『らしさ』をもったでしょうか。次の60年にむけて、私は『風度』というものを知りたくなりました。これが教会がリーダーとなっていくことかもしれないと思うからです。



新米園長・瞑想?迷走記

先週、牧師会があり、同級生だったk牧師が「保育料も値上げして、豪い目にあった。次年度の募集が激減した。今の時代、一円でも安い方向に人は向かう。」と言われて、ドッキッとさせられた。次年度保育料を上げるからである。この影響がどうでるか、入学願書受付までびくびくしなくてはならない。では上げないで、やっていけるかというといけない。ここは吉と出るように祈るしかない。まさに神頼みである。



主の祈り 1
「天にまします父よ」と祈るとき、私は一人でない。呼びかける方、確かな相手がいるという強い心の支えを感じている。しかし、「天にまします父よ」というより「天にまします母よ」の方が実感として感じるのはわたしだけであろうか。


ルターの言葉から
      
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイ19:29

私たちの神が恵み深い神で、私たちはその保証、すなわち神の御子を、洗礼や聖餐、福音を通して授けられるなら、たとえ神のお望みなるのがつらいことがあっても、神の恵みを疑うことが出来ず、疑うべきでもない。
しかし、もし、私たちから、からだと命、父母、兄弟、王や諸侯、名誉や権力、その他、人がこの世で名指すことのできるすべてが失われて、神の恵み、すなわち、神が私たちの父であり、み子は私たちの兄弟であり、天国と被造物を私たちは受け継ぎ、すべての天使と聖徒は私たちの兄弟姉妹であるという恵みのみが、私たちに留まっているとしたらどうであろうか。
それでも、私たちは一ヘラーも失わないのである。私たちがすべてを失い、そこに王国もなく、天地もなかったとしても、神ご自身と永遠の命を失うことはあるまい。
         
宗教改革の歌、「神はわがやぐらで」で、ルターは、「我が命も 我が妻子も 取らば取ね、神の国は、なおわれのものぞ」と詩っている。ルターをかくも詩わしめるのは、「私たちの神が恵み深い神」であるという信仰につきる。これは目に見える、手で感触を得る「人がこの世で名指すこと」でなく、ただ信じるということの中で起きる出来事である。この出来事こそ人を支え、勇気ある大胆な人生を生き抜く秘訣であることを彼自身をもって、ルターは証をした。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑭)

東京と地方、都会と田舎ではそれぞれ神経の使い方が違う。今回、東京という都会で、住宅地での建築であって、目に見えない近所の人への配慮にいつも張り詰めるように気を使っていなければならなかった。
目に見えない近所の人というのがしんどい。実際、解体の時に、埃、振動音に気を使ったが、抗議の張り紙が夜中に張られてしまった。その内容については、自分がその立場になると分かる気がするので、建築について説明したく思うのが、説明をしに行くにも、匿名で誰に説明をしにいけば良いか分からないのである。
なにげなく解体され、建築されていく街の建物に私は気にも留めなかったが、みんなこんなときにどうしているんだろうと思うことがある。
都会の特徴かもしれないが、匿名ということに気をつかってしまう。しかたないので目に見えない人にむけて事情を説明した紙を掲示し、理解を求めるしかなかった。苦情がでないように、苦情がでないようにと気を遣いつつ毎日、胃が痛くなっている。



(大森日記)今日は久しぶりに午後から集会もなく、幼稚園のホームページを直していった。園児願書配布が始まったからである。夕礼拝の後に教理、教会の歴史、経済のことなど話が続く。願書配布が始まった。気になりつつ牧師会へ。旧約から苦しみをどう捉えるかという学び。東日本大震災を踏まえてのことだった。翌日、静岡に法人三者会に出かける。帰路、東名を走るが集中工事で、帰宅が夜中になる。こんな距離、昔はたいしたことはなかったが・・。幼稚園の誕生会にルターの形をしたクッキーを配る。今月はルーテル教会の誕生日である。幼稚園の礼拝にもルターについてお話。工事は土留め、最終の解体で振動がある。近所の目で心落着けない。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今礼拝の説教を要旨にそって、説教中に内容を変更していった。ときどき会衆を見ながら変更していく。午後から久しぶりに時間があり幼稚園のホームページを新しく変更した。パソコンを使いこなせなくてはならない。夕礼拝後、教理のこと、経済のことなど話が進む。
月)午前中に幼稚園の仕事を終わり、久しぶりに車で教師会に出かける。仙谷原のススキは美しく輝いている。「苦しみ」について。ルターは「たとえ神のお望みなるのがつらいことがあっても、神の恵みを疑うことが出来ず、疑うべきでもない。」という言葉を思い出す。夜は同級生のO牧師と同室になる。彼の耳が遠くなっているに驚く。お互いに歳をとったものである。そして色々あったし、色々ある。見渡すと東海教区の旧牧師たちが多くいる。
)教師会途中で退席して、補助金申請の打ち合わせに静岡の西村設計事務所に向かう。つい静岡おでんを食べてしまう。時間があったので知り合いの信徒さん宅を訪問。さらに車を走らせ袋井のデンマーク牧場に行き、法人三者会の話し合い。夢に描いていた福祉村構想が徐々に完成に向かっている。僕は聞きます。成就しますように。東名渋滞にぶつかり帰宅は翌日の2時を越す。家内の住宅に久しぶりに泊まる。
早朝、幼稚園の誕生日会のお菓子をもって大森に帰る。ルターの顔のクッキーであった。子どもたちは喜んで食べていた。家内の心使いに感謝である。
夕べの祈りにくるT君はスクーリングで不在である。体調が整えられて良い学びが出来ますように祈る。夕刻、蝶ネクタイが欲しくなり銀座、日本橋にいく。帰り、家にいると夜中には激しい雨、風。
)耐震工事の解体の振動が激しく、園児を公園に遊ばせにいく。神経を使い、胃の調子が最悪。私は新宿の中村屋のカレーが食べたくなって家内を誘うが車で帰るといわれ、さらにお小言を言われ喧嘩。夕食を作り待っていたが口もきかず。
)朝から解体の振動で気を使う。二度と建築なんかしないぞ。牧師仲間から「先生は幼稚園が好きだから」と言われて建築を揶揄される。ここに遣わされたからやっているだけで、好きじゃなくてはやれない。何が好きだというと牧師だと言える。