2012年7月16日月曜日


聖霊降臨後第7主日          2012年 7月15日



夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるか、その人は知らない。            マルコ4:27

  
【説教要旨】
1954年の復活日に献堂され、私たちの信仰を育んでくれた会堂と今日、お別れの礼拝です。この会堂はフィンランド系アメリカルーテル教会の貴い献金によって建てられました。ここに見たこともない主にある兄弟姉妹の祈りと願いが込められていたことを忘れてはいけないと思っています。そののち、幼稚園の認可を得るために一部取り壊され、今日に至っています。
米国系スオミシノッドという小さな宣教団体によって育み育てられていた私たちの信仰の群れは、この会堂によって守られてきました。
聖書の一日の数え方は、「夜昼」という言葉にあるように一日は夜に始まり、昼で終わるということです。一日の大切な初めを夜の寝ることから始められたというところに何か意味があるのではないでしょうか。寝付けない夜があるということは、そこに深い悩みがあるときではないでしょうか。私たちが眠りに入るというのは、「一日の苦労、一日で足れり」ということを心から受け入れ、神に自分を任せることができることから眠りに入るのではないでしょうか。神さまに委ねる事から一日が始まる、これが「夜昼」という一日の捕らえ方ではないかと思うのです。一日を神に任せていくということが私たちの生活の基本であるということです。
私たちがその信仰生活をある意味では、この会堂に身を任せること、それはまた神さまに任せてきたことではないでしょうか。
「土はひとりでに実を結ばせる」という言葉です。この「ひとりで」という言葉は、オートマチックという言葉です、つまり全自動というものです。オートマチックというものが私たちの周りに多くあります。いわゆるスイッチひとつで何でも出来上がるというものが。全自動といいますが、機械はそのように作られているわけです。そのように動くように作った人がいるわけで、自然にそうなるということではないのです。つまり、神が実のなるように私たちを作られたということです。「おのずから」と言う言葉の中には神の働きがあるということです。私たちの歩みは神の働きによって動かされているということです。
神は、働かれていました。恵みをもって支配し、支えてくださっていました。この恵みの支配、恵みによって私たちは守られてきたのです。これは、神の筋道なのです。神としても筋道、それは愛の筋道です。わざわい、貧しさ、苦しみのただ中で、なお神の愛を信じ抜いて生きてきた歴史をこの会堂に託してきました。「おのずから」という言葉のうちには、神の筋道が働かれているという意味があります。私たちはこの神の筋道をこの会堂と共に生かされてきたことを感謝して、信仰の道を行きたいと願っています。
私たちの生きるということは、深い神の筋道のなかで歩いているのであるということに私たちは気づきたいのです。 神の懐にいだかれて私たちはいかされています。この懐こそこの会堂が私たちに実感させてきてくださったのではないでしょうか。

 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4・28)

 大森教会の宣教の歴史の中で、建物が時代時代に応えてきました。またこれからも応えていくでしょう。
 現代の建物にした福本牧師は、おさのご園から生まれた幼稚園を時代に応えるものとするために無認可幼稚園から公認幼稚園とするために今日の建物にした。そして責任ある幼稚園として今日まできています。先生は50周年誌に「立派な建物が出来ました。でも最善のものではありません。出来れば、礼拝堂も幼稚園も、牧師館もそれぞれの建物であってほしい。ぜひ、将来の目標にしてほしいと願っています」と願っていました。今回はこれに応えることが出来ませんでした。
しかし、今日まで私たちが神の道筋を生かされてきましたように次への段階へと進むべく私たちは新しい段階へと進んでいるのです。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実」。私たちがどの段階であるかは定かではありませんが、確実に私たちは豊かな実を与えられようとされているのです。
この私たちを育み育ててくれた会堂とお別れするのは寂しいものがあるでしょう。しかし、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実」と確実に未来への祝福された歩みの一歩でもあるのです。
さらにその未来は「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」というように「収穫の時」を信じて歩みつつ、これまで私たちを育ててくれた会堂に感謝しつつ、このために祈り支えてくれた米国系スオミシノッドの方々、また信仰の道をここで歩まれた方にも感謝の思いをささげつつ会堂にお別れを言いたいのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

温かい言葉が久しぶりに紙面から聞こえてきた。いじめの問題がクローズアップされるとき、「いじめられている君へ」という記事で、元ボクシングの世界王者になった内藤大助さんからのメッセージである。彼自身、いじめにあっていた経験から語りかける言葉は説得力のある言葉である。
「いじめられてよかった」なんて思ったことは、ただの一度もないぜ、いまだにつらい思い出なんだ。
俺は一人で悩んじゃった。その反省からも言うけど、少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい。先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。あきらめちゃいけないんだ。
私たちは、相談にのれる教会を作っていくために何かをしたい。



新米園長・瞑想?迷走記

区の園長会である。ここに出るのも園長の仕事である。情報を得ていく大切なことである。
今回も研修があり、「幼保一本化の総合こども園」についてであった。経済の格差化からくる地方と東京の受け留めが違うということを知る。今、何をとっても格差ということを考慮して発言しないと相手の気持ちを汲めなくなり、痛みを分かち合えなくなり、ことを前進させていくことが出来なくなってきているという。さらにいえば私は、人の感性が問われてくると思っている。
感性は小さなときから養われていく、この感性を育んでいくのは幼児教育だと思う。そのためにも子どもたちに多くの経験をさせていきたい。


ルターの言葉から」

もし自分が選ばれた者のひとりであるかどうかを心配し、選びの問題で悩む人があるならば、自分が心配していることを感謝し、喜ばなければなりません。なぜなら神は決して偽ることのできない方であり、しかも、「神の受けられるいけには砕けたる魂」、すなわち絶望せる魂であると約束されていることを確信ともって知ることができるからです。「砕かれた、悔いた心、神よ、あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51・17.
自分が砕かれていることを、彼は知っています。それゆえに、約束してくださった神の真実に、全身全霊を投げかけ、神の怒りについての知識から離れます。そして選ばれ、救われます。
         ルターの「ローマ人への手紙講解」

宗教改革者は、神の選びについて語ります。自分が神によって選ばれているかどうかは人間の業で決まるのではないというのです。
自分がどうしようもない人だとそう感じる砕けた心こそ、自分に絶望する心こそ神がお望みになることです。

わたしがわるかったのだ
わたしがわるかったのだ
こうして草にすわるとそれがよくわかる。
八木重吉

 何がよく分かるか。自分が愛された存在であり、また選ばれた、救われた存在だと気づかされるのです。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)
牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)バザーのあとは、礼拝出席が減る。これもしかたないことかと思っている。建築が近づいてくるギスギスしてくる。やはり今日の建築委員会ももめる。疲れ気味。気持ちが荒れているのが分かる。平常心でなくてはいけない。夕礼拝まで訪問し、笑点を見ながら眠りに。夕礼拝の礼拝後の語らいを静かに時を過ごしていく。妻は11時を越して大学に帰って行った。お疲れ様でした。
月)区と保育室、運動場の面積の最終打ち合わせ。園舎増改築届けを出さなくてはいけない。幼稚園はお休みで静かである。こちらは休むことなく建築への準備である。こんなときいろいろと課題が沸騰してくる。
)幼稚園が始まる。久しぶりに門に立ち子どもたちを迎える。昨日の疲れを引きずっているがふんばりどころ。引越しの準備。特に教会のものを引越しするとなると大変である。例のごとく家財、本が入るのか心配である。午後、仲人をしたM氏が訪問。しばらく手を休めて歓談。夜に幼稚園の誕生会のケーキを家内が届けてくれた。感謝である。
)手作りケーキで、誕生会。引越し、建築準備のなかであるので落ち着かないが、ケーキを食べてみると疲れもとれる。区の園長会、帰宅途中、入院中の信徒さんを訪問。アメージンググレースの歌が好きだという。次回はもっていこう。
)今日も建築ことで一日がふりまわされる?その間、入園説明会など続く。幼稚園の工事の準備もある。聖書の学びも終えて、一緒に食事に行く。くるくるずしだけど。
)朝から引越しの準備。書類の整理。なかなか分からなかった敷地内にあった区の土地の関係が分かる書類が見つかる。これは宝の発見。幼稚園の最後の礼拝、もう夏休みか。今年は建築でなさそうである。午後から工事の打ち合わせ、夜までかかる。すべてが終わると友人から相談を受けるために出かける。大雨。終わり友人が集まり、カラオケ。みんなエグザイルを歌われるとこちらはお手上げ。
)朝から礼拝堂のお別れ会の準備。仕事をし、休み、仕事をし、休む。一週間の疲れがとれない。体力、気力が衰えてくる。午後から使徒信条の学び。信仰は、学びの連続であると思う。準備だけで終わり、祈る気力さえ、失ってくる。会堂の建築はいつもの通り、消耗戦。


大森通信    
 思いで
 
自分が携わった教会堂建築は、大森で4件目である。それぞれの旧会堂は壊すには惜しいほどのものがあった。ボーリス設計の高師教会(小田原教会と同型)は形が綺麗で、どこかに移築したくなるほど。刈谷教会は、緑の芝生が会堂を際立たせて、芝の上に浮くような教会であった。やはりボーリスの設計だった。浜名教会は浜名湖の側にあり、赤屋根に浜名教会と書いてあり車窓から見えて情緒があった。
ある牧師は「僕は幸いにも一回も建築がなかったが、先生、ご苦労さま」と励ましてくれた。そして4回目の会堂建築である。他に会堂、牧師館改修、施設建築となると5件となる。そこで生きていた人々の息づかいを感じつつ、その重さに責任を感じる。 
今回も、みなさんには、それぞれの思い出があり、いろいろなことが走馬灯のようにまわってくるでしょう。ここで信仰が育まれていったのである。この会堂は単なる物でなく人生そのものであると思うのである。



(大森日記)本格的に耐震工事が始まろうとしているとき、覚悟は決めていたが、目まぐるしい日々が続く。代議員を筆頭に処理していただく。探していた書類などを発見。幼稚園もいざ始まろうとしていると先生のパワーで準備がなされていていく。課題にぶつかる度に、多くの助けがある。資金の整えをしている。九州が大雨。どこも自分の知っている土地で心配である。実家の後ろが、よく壊れる崖で心配である。「経験もしたことのもない大雨」という表現どおりである。会堂お別れ会にむけてT君が準備をしてくれる。歴史がパソコンに記録されていく。感謝である。来週から耐震補強工事が始まる。来週も忙殺されていくだろう。そして課題が残るだろう。これを共に祈りつつ、解決していくか。「試みに合わせず。」