2012年10月25日木曜日


聖霊降臨後第21主日         2012年10月21日



主を求めよ、そして生きよ。

アモス5:6     


【説教要旨】      「神にできないことはない」

今日の聖書日課を読むとき、私たちにはとてもできないと感じませんか。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」という言葉を聞くたびに私は、戸惑ってしまいます。
私たちが祈る「平和の祈り」を作ったフランチェスコやマザー・テレサに代表される特別な人ができても、私たち普通の人にはできないと思いがちです。では、イエスさまは特別なことを言っているのでしょうか。
加藤常昭牧師はこの説教箇所で宗教改革者たちのことを語っています。「宗教改革、マルティン・ルターやカルヴァンが起しました宗教改革の時に、この聖書の言葉が再び光を放つようになった。ルターもカルヴァンもこの箇所について喜んで書きました。そしてふたりとも共通のことを言った。それまでのローマ教会はこの言葉をこういうふうに理解していた。すべての財産を施してイエスに従う、それは私たちにはできない。しかしそれを実行できた人もいる。できた人は修道院に入り、あるいは司祭さまになっている。私たちにはできない、できなくてもいい。フランチェスコのように、あるいは自分の教会の司祭さまのように、皆財産を捨てて神さまのために生きて、主イエスの後について行く人、それは特別な人たちだ。だがルターもカルヴァンも言います、それは間違っていると。主イエス・キリストの恵みによって生かされる者は、すべてを捨てることができる。この世にあってすべてを捨てることができる。」
宗教改革者がこの箇所を、キリストの恵みに生きるということであると捉えたのです。ここに私たちを捉えていた「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」という財産から解き放たれ自由にその振る舞いをできるのです。私たちが生きていくにあたり、どうしても財産というものが必要になる。そしてこの財産にこだわってしまう。だから、わたしたちは「これだけしかないからこれだけしかできない」というふうに縮こまってしまう。いつも私の内にある力、知識、地位、財産をどれほど持っているかということからしか判断できなくなっている。ここに縛られている。だから、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」という世界が分からなくなって、いかに不自由な世界を生きているだろうか。
私が、経験した最高の献金は8500万円です。いただいた方のご主人は僧籍のある方でした。お寺に1億のお布施をし、奥様が属している教会へ8500万円でした。寄付後もいっさい口出しをしませんでした。この寄付をされた方のお父さんもやはりそういう方だったとうかがいます。アメリカから鈴木大拙という立派な仏教学者を呼び返すために、自分の給与を出して、日本での鈴木大拙の給与を支えたと聞きました。
では、そうさせることは何なのでしょうか。「あなたに欠けているものが一つある。」、では、何が欠けているのでしょうか。信仰に生きる、つまりイエスさまの愛の中に飛
び込むということではないでしょうか。このイエスさまの愛に飛び込むことをさまたげるもの、財産であれ、知識であれ、地位であれ邪魔なことなのです。
ルターの有名な死ぬ2日前の言葉があります。「我々は乞食である。それは真だ。」ということばです。これは神の、イエスさまの恵みだけを生きていこうとする者のすべてを失っていく歓喜の言葉であるとおもうのです。この世のもろもろから自由になるのです。
イエスさまが求められるとき、自由になったものは全財産も献げることもできるし、人生、すべてをかけて主に仕えることもできるのです。
初代宣教師エルソン牧師の墓前で思うことは、この異国で30歳で散って行った勇気はどこにあるのか。やはりキリストに捉えられていたからではないかと。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という60年があったことを感謝しつつ、私たちは、次の60年があることを思います。
今、一度、私たちは、自分の人生を見ていきましょう。私たちが神の、イエスさまの愛に飛び込んでいくことが私の人生であるということです。
アモスは、「主を求めよ、そして生きよ。」と言います。私たちがこの世にあって、信仰者ということは神を求めていきることであり、ここにわたしたちは「主を求めていく」ことに何の妨げがあってはならないのです。
人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」このすばらしい自由な世界に今日も私たちは自分の人生を託される喜びが与えられています。ともに主イエスに最後まで従っていきましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると

「風度」

見なれない言葉に出合った。「風度」という言葉である。
「人間には『風度』というものがあります。中国の古い言葉で、『らしさ』のことです。この人なら協力しよう、この人のためなら思わせる。リーダーには、この風度が必要だと思います」と言ったのは、歴史小説家・竜門冬二さんである。
私たちの教会は、今年で60年の歩みをしてきました。この60年に私たちはどんな『風度』、『らしさ』をもったでしょうか。次の60年にむけて、私は『風度』というものを知りたくなりました。これが教会がリーダーとなっていくことかもしれないと思うからです。



新米園長・瞑想?迷走記

先週、牧師会があり、同級生だったk牧師が「保育料も値上げして、豪い目にあった。次年度の募集が激減した。今の時代、一円でも安い方向に人は向かう。」と言われて、ドッキッとさせられた。次年度保育料を上げるからである。この影響がどうでるか、入学願書受付までびくびくしなくてはならない。では上げないで、やっていけるかというといけない。ここは吉と出るように祈るしかない。まさに神頼みである。



主の祈り 1
「天にまします父よ」と祈るとき、私は一人でない。呼びかける方、確かな相手がいるという強い心の支えを感じている。しかし、「天にまします父よ」というより「天にまします母よ」の方が実感として感じるのはわたしだけであろうか。


ルターの言葉から
      
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイ19:29

私たちの神が恵み深い神で、私たちはその保証、すなわち神の御子を、洗礼や聖餐、福音を通して授けられるなら、たとえ神のお望みなるのがつらいことがあっても、神の恵みを疑うことが出来ず、疑うべきでもない。
しかし、もし、私たちから、からだと命、父母、兄弟、王や諸侯、名誉や権力、その他、人がこの世で名指すことのできるすべてが失われて、神の恵み、すなわち、神が私たちの父であり、み子は私たちの兄弟であり、天国と被造物を私たちは受け継ぎ、すべての天使と聖徒は私たちの兄弟姉妹であるという恵みのみが、私たちに留まっているとしたらどうであろうか。
それでも、私たちは一ヘラーも失わないのである。私たちがすべてを失い、そこに王国もなく、天地もなかったとしても、神ご自身と永遠の命を失うことはあるまい。
         
宗教改革の歌、「神はわがやぐらで」で、ルターは、「我が命も 我が妻子も 取らば取ね、神の国は、なおわれのものぞ」と詩っている。ルターをかくも詩わしめるのは、「私たちの神が恵み深い神」であるという信仰につきる。これは目に見える、手で感触を得る「人がこの世で名指すこと」でなく、ただ信じるということの中で起きる出来事である。この出来事こそ人を支え、勇気ある大胆な人生を生き抜く秘訣であることを彼自身をもって、ルターは証をした。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑭)

東京と地方、都会と田舎ではそれぞれ神経の使い方が違う。今回、東京という都会で、住宅地での建築であって、目に見えない近所の人への配慮にいつも張り詰めるように気を使っていなければならなかった。
目に見えない近所の人というのがしんどい。実際、解体の時に、埃、振動音に気を使ったが、抗議の張り紙が夜中に張られてしまった。その内容については、自分がその立場になると分かる気がするので、建築について説明したく思うのが、説明をしに行くにも、匿名で誰に説明をしにいけば良いか分からないのである。
なにげなく解体され、建築されていく街の建物に私は気にも留めなかったが、みんなこんなときにどうしているんだろうと思うことがある。
都会の特徴かもしれないが、匿名ということに気をつかってしまう。しかたないので目に見えない人にむけて事情を説明した紙を掲示し、理解を求めるしかなかった。苦情がでないように、苦情がでないようにと気を遣いつつ毎日、胃が痛くなっている。



(大森日記)今日は久しぶりに午後から集会もなく、幼稚園のホームページを直していった。園児願書配布が始まったからである。夕礼拝の後に教理、教会の歴史、経済のことなど話が続く。願書配布が始まった。気になりつつ牧師会へ。旧約から苦しみをどう捉えるかという学び。東日本大震災を踏まえてのことだった。翌日、静岡に法人三者会に出かける。帰路、東名を走るが集中工事で、帰宅が夜中になる。こんな距離、昔はたいしたことはなかったが・・。幼稚園の誕生会にルターの形をしたクッキーを配る。今月はルーテル教会の誕生日である。幼稚園の礼拝にもルターについてお話。工事は土留め、最終の解体で振動がある。近所の目で心落着けない。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今礼拝の説教を要旨にそって、説教中に内容を変更していった。ときどき会衆を見ながら変更していく。午後から久しぶりに時間があり幼稚園のホームページを新しく変更した。パソコンを使いこなせなくてはならない。夕礼拝後、教理のこと、経済のことなど話が進む。
月)午前中に幼稚園の仕事を終わり、久しぶりに車で教師会に出かける。仙谷原のススキは美しく輝いている。「苦しみ」について。ルターは「たとえ神のお望みなるのがつらいことがあっても、神の恵みを疑うことが出来ず、疑うべきでもない。」という言葉を思い出す。夜は同級生のO牧師と同室になる。彼の耳が遠くなっているに驚く。お互いに歳をとったものである。そして色々あったし、色々ある。見渡すと東海教区の旧牧師たちが多くいる。
)教師会途中で退席して、補助金申請の打ち合わせに静岡の西村設計事務所に向かう。つい静岡おでんを食べてしまう。時間があったので知り合いの信徒さん宅を訪問。さらに車を走らせ袋井のデンマーク牧場に行き、法人三者会の話し合い。夢に描いていた福祉村構想が徐々に完成に向かっている。僕は聞きます。成就しますように。東名渋滞にぶつかり帰宅は翌日の2時を越す。家内の住宅に久しぶりに泊まる。
早朝、幼稚園の誕生日会のお菓子をもって大森に帰る。ルターの顔のクッキーであった。子どもたちは喜んで食べていた。家内の心使いに感謝である。
夕べの祈りにくるT君はスクーリングで不在である。体調が整えられて良い学びが出来ますように祈る。夕刻、蝶ネクタイが欲しくなり銀座、日本橋にいく。帰り、家にいると夜中には激しい雨、風。
)耐震工事の解体の振動が激しく、園児を公園に遊ばせにいく。神経を使い、胃の調子が最悪。私は新宿の中村屋のカレーが食べたくなって家内を誘うが車で帰るといわれ、さらにお小言を言われ喧嘩。夕食を作り待っていたが口もきかず。
)朝から解体の振動で気を使う。二度と建築なんかしないぞ。牧師仲間から「先生は幼稚園が好きだから」と言われて建築を揶揄される。ここに遣わされたからやっているだけで、好きじゃなくてはやれない。何が好きだというと牧師だと言える。






2012年9月30日日曜日


聖霊降臨後第18主日         2012年 9月30日



わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。           


マルコ9:37


【説教要旨】    「受け入れる」


わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。という今日のイエスさまのお言葉は、子供を受け入れた者は、イエスさまを受け入れ、神さまを受け入れたのだというのです。しかし、ここに「このような」という言葉に注目したいのです。ユダヤ人の成人男性に朝夕唱えることが義務づけられていた「シェマの祈り」という祈りにおいて、成人男性が唱えるので女子供は祈る義務はないということでした。ですから女子供を受け入れることは当時としては否定的に振舞っていたということです。
ここでイエスさまが「このような子供」と言われるとき、価値の低い、人として受け入れられていない人を受け入れていくということです。私たちはイエスさまの言われることは分かりますが現実となりますと、子供の中でも、私たちが受け入れるに価値がないという子供もいるわけです。酷い子供を受け入れることはまっぴらだということになるのです。そういう心がどこかに私たちの中にはあるのではないでしょうか。
そして、今日は少年が犯した神戸の色々な事件に対して法律的に厳しくして、受け入れるというよりも厳しく罰していって矯正しようとする傾向が強いように思えます。そこにある心の動き、社会の動きは「ああすれば、こうなる」というように子どもらをコントロールしたがるように力によって、社会をコントロールしようとする傾向が強くあるように感じられてなりません。
それは、罪なのです。そして、私たちはイエスさまを、神を拒んでいるということなのです。しかし、まったく気づいていない。だから私たちはますます混迷しているのです。この罪をしらないゆえに、私たちは本当の意味での救いを知らないでいる。
それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
弟子たちは、救いが分からなかったといっているのです。というのは、私たちの罪が分かっていないからです。私たちがイエスさまを拒み、神を拒んでいるということが分かっていないからです。
現代という社会のなかで、「ああすれば、こうなる」と思ってはばからない私たちはいつしか、自分が神より偉くなっている。いや自分が何でも出来るのではないかとどこかで思っている。一人で何でもできると思っている。
途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。とありますように、ここに私たちのこころを支配するのは、コントロールするということです。これがいかにイエスさまの救いから、神さまから私たちを遠ざけているかということです。ですからイエスさまは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」言われるのです。コントロールしていくものでなく、仕える者であれと言われるのです。
私たちは社会の混迷の中でいらだち、力によるコントロールに傾きつつあります。この苦しみからの解放は、人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する主イエス・キリストしかないのです。私たちが主を知るということは、知った私が変わるということです。つまり主イエスが言われますように、途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」ということからいちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。という大変化がおきるということです。コントロールする者でなく、仕える者としての私たちがあるのです。
しかし、ここに生きることは、厳しい現実があります。まったく世と逆行していくかもしれません。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
と、この後も弟子たちにイエスさまは私たちに語られています。今日、私たちに仕えてくれた会堂の解体の祈りを捧げます。仕え、今、命を終わろうとする会堂は、私たちに仕えるということを証ししてくれています。



ルターの言葉から

子どもへの祝福


愛する子よ、眠って、おとなしくしなさい。お前には財は残さないが、豊かな神を残したい。よい子になりなさい。
 
ルターの宗教改革に反対する人の中傷、非難、敵意にもかかわらずルターは1525年6月13日にカタリーナ・ファン・ボラと結婚します。楽しい家庭と他人を温かく迎える家庭を築ずいていきます。
妻を愛し、子どもを深く愛したことは彼の言葉、手紙からよく分かります。この絵は1866年に描かれたルターの家族の絵である。ルターが、どんなに家族を大切にしているかよく分かる絵である。悩んでいる息子に宛てた手紙がある。

最愛の息子ヨハン・ルターへ。主の恵みと平安があるように。
愛する息子ヨハンよ。
お母さんも私も、そして家族みんな元気です。お母さんの嘆き苦しみをこれ以上増さないように、男らしく克服しなさい。・・・神さまに従いなさい。神様は私たちを通して君がそこで勉学に励むことを命じられていらっしゃいます。そうすることによって、君は君の弱点を克服することができます。・・・病気になったら、すぐに知らせなさい。そうでないのなら、嘆くことは止めて、元気に穏やかな心をもって君の勉学に励みなさい。
良い子になるように勧めるルターの姿が見えてくる。




牧師室の小窓からのぞいてみると

人生 いろどり

この頃、夫婦で映画を見にいくことをしている。私にとって激しい映画はしんどいが、ゆったりと時が流れる映画にはついていける。それだけ歳をとったということであろう。
高齢化と過疎化が進む徳島県の上勝町で、7080代の女性が中心となって葉っぱや道端の草を料理のつまものとして販売し、売上高26000万円をあげるビジネスとして成功させた実話を映画である「人生 いろどり」を鑑賞した。 歳をとって運命の神は、手をさしのべているということである。その時を私がどうとらえていくかが人生を究めるということになるのかもしれない。
すべてに時がある。これは平等にあるはずである。それが人生にいろどりをつけていくことになるのかもしれないと思わせた映画であった。




新米園長・瞑想?迷走記

そろそろ小学校受験が始まる季節になる。毎年、数名が受験をしていく。出来ればみんなが希望した学校に合格して欲しいと願っている。
入学試験をストレスに感じている子にとって、園での生活が、少しづつ変化をして、苦しんでいるのが分かる。子どもは正直である。しかし、私は何も助けることはできない。
こんなとき親も大きなストレスを感じているだろう。むしろ親に対する心細やかな配慮が必要になるのかもしれない。いつでも相談にのってくるなら聞くという心をひらいておかないといけない。
一緒に傍らにいることしかない。




大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑪)

土地の測量は、いつも物議を起こす。とくに隣地との境界線は大変である。
別府教会のとき、引退者住宅を売却することになった。売却するのになんと手続きがいるのかそのとき知った。特に隣地との境界線を決めるとき、これが大変であった。一軒、なかなか判を押してくれない家もあり、何度、訪問したことだろうか。牧師一年目、社会人一年目で、戸惑うことばかりだった。色々といやみたっぷり言われた。測量から売却までの期間、色々とクレームをつけられる度に謝りに行き、対処していった。
本部に「これが牧師の仕事ですか」と電話すると「牧師は何でもするんです」と返された。正直、糞っと思いつつ、売却の準備をしていった。幸い売却もうまくいった。判を押さなかった方が、売却するならウチにしてほしかったと言われたとき、色々な人がいるんだと思った。
最後に、お世話料として、本部から別府教会にいただいた。貧乏極まりない教会にとっては、大いに助かった思い出がある。牧師っていろいろな事を知っていて、しなくてはいけないんだと勉強した。私の牧師としての一歩は隣地との境界線の確認だった。



(大森日記)幼稚園運営委員会。どう保育内容を深めていくかという会となった。夕礼拝に休暇中の息子が出席してくれる。まだ三分の一を歩んだ牧師生活を聞く間もなく帰っていった。今週も補助金の申請のため、幼稚園の土地園舎変更手続き、融資の手続きと矢継ぎ早に胃の痛むことばかり続く。訪問も十分に出来ずにいるので、一人一人のために祈りつつ日々を歩む。課題と取り組みつつ一つ一つを解決していかなくてはいけない。それは将来のために。お前は幼稚園が好きだと揶揄されるが否定はしない。もっと幼児教育を学んでいるべきだったと思っている。何事も楽しくやりたい。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。


日)礼拝堂を建築していくときは仮会堂、牧師館の住居の確保が頭の痛いことである。今回は幼稚園の保育室の確保が必要となった。そんなこんなで胃が痛くなる。今日から仮会堂で礼拝である。幼稚園の保育室の礼拝堂をどう聖なる雰囲気を出すか、頭を使う。授業料の値上げの幼稚園の運営委員会であるが、これも不安が残る。長男もやってきて家族が揃う。久しぶりに夕食を皆でする。
月)家内が休みだったので、家内と静岡まで、仕事を兼ねドライブにいくことにした。道中、話しながら思い出すのは、付き合い始めた時もいつも仕事を兼ねてドライブだった。違うのはドライバーが家内から私に変わったことである。年月を感じる。
)遠隔地の訪問日であったが、予定を変更し、都庁まで行き、補助金の申請の相談。午後からお袋の位牌の注文に行く。その後、私学財団に融資の書類提出。終わり幼稚園に戻り夜からは園長研修会。「自由保育」が子どもの将来を開くという児童心理・教育の立場から聞けたことは感謝。それにしてもよく園長を兼ねる牧師に「牧師でなく園長だ」と批判を聞くが、私もそうなってきたと苦笑い。
)区に提出の書類を整えるために法務局、区へと一日がとられる。建物の面積にしても境内地の面積にしても登記と実測図と違うし、法人の所在地が変更しているのにもかかわらず土地では旧来のままであったり、それを楽しく直しているのも奇異に感じて苦笑。そんなとき印紙代という税金がやってくる。なんだか損をしたような。国は良い商売をしている。
)こどもの礼拝、改築工事の打ち合わせ、区との幼稚園用の土地、建物の提出書類の打ち合わせ、職員会議と続く、終了が午後9時。この頃、午後に力がなえ、エネルギー不足になる。これからの進路を祈りつつ決めていかなくてはいけない。引退後は、沖縄で祈りの家を始めたいが、引退まで最短5年、最長10年。最後の仕事場を考える。
)朝から色々な事務的なことで電話をいただき、電話をしているうちに梅ちゃん先生の最終回を見損なった。夕方、家内と映画を見にいく。二人の時間も長くはない。そういえば今年、二回、家内に誕生日プレゼントをしていたことを思い出した。ぼけてきた。


2012年9月16日日曜日


聖霊降臨後第16主日         2012年 9月16日


そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。            
マルコ34

【説教要旨】 開ける

田辺聖子さんの短編小説で「ムジナ鍋」というものがあります。そのなかで「姫路の人々は、夢野町のことを、『過疎の田舎町』と一言のもとにいいます。その夢野町の人は、字猿岩に住む人々を、『あんな寂しいトコによう住んどるわ』といいます。その猿岩の住民は、大字猪岩の村をさして、『人間の住むトコちゃうな』というのです。」と言う文があります。ガリラヤは、辺境地です。そのガリラヤからすればシリア・フェニキア地方のティルス、シドンというのはさらに辺境です。まさにエルサレムからするならガリラヤは辺境であり、ガリラヤからすればシリア・フェニキアは『人間の住むトコちゃうな』という辺境なのです。つまり神の恵みが届かないところなのです。イエスさまはこういう地をお歩きになられたということです。そして大廻して、『あんな寂しいトコによう住んどるわ』という辺境地、ガリラヤに来られるのです。
この辺境地に耳が聞えず舌がまわらない人がいました。人の言葉を聞こうとして聞えない、自分の意志を伝えようとして上手く伝えることができない人がいた。つまり神の恵みの光が届かない人がいたのです。
その人がイエスさまのところに連れてこられるのです。さてこの人はまた私たち自身のように思えます。力で世をねじ伏せようとすることが当たり前のように肯定されていく社会が今、目の前にあります。人へのやさしさ、おもいやりということかき消されていく世にあって、私たちがイエスさまの愛を伝えようとしてなかなか難しい状況に立たされています。イエスさまのことばを届けよとしても、舌がもつれる。耳をすまし社会の声を聞こうとして、人の言葉がはっきりと聞き取れなくなってきている。そういう現実が私たちのうちにある。そう感じてはいないでしょうか。神の恵みの光が感じられないでいる状況が私たちを取り巻いている。まさに聞くこともできず、語る言葉ももつれ、世に証しできない教会、私たちがいる。そういう私たちがいるのです。
九州・東九州の宮崎教会で牧会を二人の牧師が終わりました。まさに辺境を生きた人でした。伝える舌がもつれ、聞くすべもない壁にぶつかりながら伝道していく、それは恵まれないように思える。しかし、ひとつの事実が教えるのです。イエスさまはこの神の恵みの光があたらない地を巡りあるいたということです。教会のかかえている今の時代に手も足も出ない私たちのところにも日々、来られているということです。私たちはこのことにまず注目すべきです。まさに辺境、光のあたらない地にこそイエスが足を運ばれたように、私たちのところにも足を運ばれるということです。
 そして、私たちはこの人のようにイエスさまのところに連れて行かれるということです。そこで何が行われようとしているのか。「その上に手を置いてくださいと願った」とあります。祝福を受けるということです。私たちは祝福を受けるものとして神の前に連れ出されるのです。今、最も祝福から離れたところにあるように思えることがあります。しかし、違うのです。イエスさまは歩まれてこられるのです。そして祝福を与えられるのです。私たちが神の前、イエスさまの前に立つとは祝福を受けるように立つのです。これは誰ひとり除かれることはないのです。祝福を受けるものとして、私たちは生かされている。このことを私たちは忘れてはいけないのです。イエスは「開け」と言われます。私たちを堰止めた壁はイエスによって開かれるのです。
辺境の地、神の恵みの光が届かないようなところにこそ、十分に光がとどき、「開け」と祝福を与えてくださるイエスさまの歩みを信じて疑わなかったからではないでしょうか。
神の声が聞えなくなり、神の愛を伝えていく舌がもつれるような困難さに私たちは立ちます。しかし、ここにこそイエスさまの前に立つことにほかならないのです。また祝福を与えられるということです。「開け」と語りたもうイエスさまは、私たちの前に憚れる壁を開いてください。まさに福音をつまり神の愛を伝えようとするときに困難さと、閉じられていることを感じる時代ですが、「開け」とお語りなる方が私たちの前に立たれることを信じぬいていきましょう。
この方のなさったことはすべて、すばらしい。」というように私たちの歩みにこのイエスさまのすばらしさが与えられるのです。私たちが私たち自身をみるとき「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」という出来事のひとつひとつであることに私たちは気づきます。大変な激動のなかで生き抜く時代にありますが、私たちのうち起こる神のすばらしいに信頼をもって歩み通していきましょう。
「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ35:4)




牧師室の小窓からのぞいてみると

尖閣列島をめぐって―日中の平和を望んで

中国の公用船が、日本の領海を犯したという記事が報じられ、さらに中国では反日デモが繰り返されているという。
歴史的にみても日本の領土である尖閣列島に対してこれを自国の領土としていくのははなはだ可笑しいことは、日本というところからは見えてくる。しかし、中国というところから見ると逆になる。今の大国・中国の姿勢は、時代錯誤として見られないが、しかし、中国の歴史に中華思想ということを忘れてはいけない。儒教の王道政治の理想を実現した漢民族を誇り、中国が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値あるものと自負する考えで、今や世界の大国となった中国はこれをもって世界の地図を変えていくようにも思える。
この中国と対峙していく時代はたとえやっかいなことでも、私たちは力をもって力を制していくのでなく理をもって冷静に中国と向かい合っていきたいと思う。



新米園長・瞑想?迷走記

耐震補強が終わり、耐震改築工事が本格的に始まる。正直いってやっかいなことばかりが起きる。やめておけばよかったということが心で起こる。しかし、「やめておけば良かった」ということに取り組むために園長はいるのだろう。
管理者は何もないこと、平穏なことを望む。それでは真面目な管理者ではないだろう、起きたことに対して、逃げることなく責任を負っていくという強い信念が求められていることを強く感じている。この任を負えるのはこどもを、どれほど園長は大切にする心をもっているかということがいつも問われている。



ルターの言葉から
      

すべての礼拝の順序は、そこから弊害が生じれば直ちに廃止して、別のものを作るというようにして用いられる。・・・なぜなら順序は、信仰と愛を加えるために役立つべきものであって、信仰を損なうためではないからである。(ドイツミサより)
ルターは礼拝様式については自由であるということを貫いている。しかし、次のように言っていることにも心すべきである。
神の教会はあらゆる場所により、あらゆる時代によって、教会にとって最も有益であり、最も建徳的でありえるように、儀式を変更する力をもっている。しかし、この問題においてあらゆる軽率と躓きとなることは、つつしまなければならない。(ドイツミサより)
今、ルーテル教会の総会報告をみても、「信仰と職制委員会」、「礼拝と音楽委員会」において、礼拝式文の取り扱い方について討議されていることが分かる。式文の取り扱いは充分に気をつけなければならない。
なぜなら順序は、信仰と愛を加えるために役立つべきものであって、信仰を損なうためではないからである。とあるように目的をはっきりとさせること、しかし、この問題においてあらゆる軽率と躓きとなることは、つつしまなければならないとあるように慎重さが必要である。その上で伝統的な典礼にいたずらに固着する必要はない。
ミサにおける信条に至るまでに行なわれているすべてのこと―すなわち聖餐の部以前のこと―は、私たちのものであり、自由であり、神から要求されるものではない
(ミサと聖餐の原則より)


大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑨)

今日で慣れ親しんできた会堂ともお別れである。建築のために幾つもの会堂を壊してきた。壊すたびにこれより良い会堂を造ろうと思ってやってきたが、思い通りになったかというとそうでもないように思う。
ボーリス設計事務所が設計した会堂を取り崩したときは、いまでも引きずっている。
移築してはどうかと提案したこともあった。しかし、移築した方が新築よりも経費がかかること、今後の維持、地震のことなど考慮すると計画を断念せざるをえなかった。
私が関わっていなかったが、ボーリスの設計のH教会は解体し、元の形に改築した。その後、その教会の牧師館が老朽化したとき、私は壊すのでなく現代に適応して生活しやすいように改築を提案し、改築案が実行された。新築の推進者の方には大いに恨まれてしまった。実は前の年、若い牧師にボーリス設計の優れて良かった牧師館を強引に壊された苦い経験があったから、どうしても守りたかったからであるし、後から悔やんでも遅いからである。
大森教会の会堂も出来れば補強、改築で済ませたかった。しかし、地震のことを考えるとそうもいかない。残念でならない気持ちが強いだけ会堂に感謝している。


(大森日記)今週もが続く、耐震工事一日が暮れた。進む過程で課題が起きてくる。投げ出したいこともあるが、主に萎えた心を強められている。過食気味である。ストレスかも。病気が気になっている方が教会も幼稚園にもおられる。主の癒しを。一人の方は何もなく肩の荷を降ろす。感謝。知人の牧師が転任されると聞き、人事の季節かと、ため息。N姉の納骨式が行われた。カトリック教会の納骨堂は広く綺麗である。我が教会もこれぐらいの納骨堂を造りたい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今日から、教会学校が始まる。人数は少なく気になっていた。後日、改築中は休みだと思っていた親御さんがいた。子どもは可愛い。もっと充実したプランを考えなければと思いつつ出来ないでいる。久しぶりに午後から何もなくのんびりと夕礼拝まで時を流す。T君がお休みである。気になってしかたない。
月)休みたいが、休むということは耐震工事の中では出来ない。特にこどもの安全が気になる。園児、お母さんの中で病気の方、妊娠されている方などがおられ気になってしょうがない。骨を折った園児がいて補助に次男に入ってもらう。保育を勉強したのだから保育につけばよいが一般会社に内定している。
)広いところがなく体操を礼拝堂でしたが一階の保育室は天井から揺れていたという。これからも制限された中で保育をしなくてはいけない。教会学校の打ち合わせである。なんとすばらしい教会学校かと思っている。夜に家内が翌日の誕生日のケーキを届けてくれる。
)誕生日会、おやつがおいしかったとこどもに言われるたびに家内に感謝している。市販でおいしいお菓子はいくつもあるが手作りでいきたい。本部に負担金を収めにいく。帰りに知人と一杯。教会行政は大局に立ってであるが、やはりひとつひとつの教会のことを描けるぐらいの思いで行政が必要ではないかと持論を彼に語る。
)隣地の境界線で苦情。やはり日本。聞くしかない。建て替えが始まると起きることだと思いつつ気持ちを掬い上げることに集中。敬老の日の集まり。ここでも聖書の話が出来るのは幼稚園があってのこと。
)改築工事の打ち合わせ、契約書の取り交わし、支払いと息つく暇もない。頭もパンクしそうである。やはりポンコツになっている。
)気になっていたご婦人が病気が軽く済んだと聞き肩の荷を降ろす。納骨の時間を間違える。そろそろか。長男から江戸切子のペアーカップ。一つは遅れた私の誕生日祝い、一つは早い家内の誕生日祝い。一週間の疲れで、納骨式を終えて帰ってきて寝る。夜中に礼拝の準備。明日は引越しである。よく、頑張っているが、頑張り所が違うように思えてならない。


2012年9月9日日曜日


聖霊降臨後第15主日         2012年 9月 9日



汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。             マルコ7:25


【説教要旨】

私はこの聖書の箇所にあたると私の両親のことをどうしても重ね合わせてしまいます。こどもが病気であるということは親にとってどんなに辛いものでしょうか。どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。わたしはスイカを口元にどうしてももっていけない。冗談で一生涯分、食べてしまったからと言います。高校生から腎臓をわずらい入退院をくり返していました。腎臓にスイカがよいということで夏は毎日、毎食スイカを食べさせられ、冬はスイカ糖を飲まされるのです。そのときの母の印象はどうしても息子の病気を治したいという狂気そのものでした。気持ちがこちらまで伝わってきます。
私は、フェニキアの女にこの娘を治したいという狂気を感じます。「イエスのことを聞きつけ」とありますが、これが病気によいというなら親というものはどこまでもでかけていきます。こういうことを病弱な子どもらは誰しも経験したはずです。お灸がよいということで無理やりに連れられていったこと。お灸の熱さだけを今でも思い出します。
 親の必死さが伝わってきます。しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉を私たちは理解できるでしょうか。娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」と、母親の願いを拒絶するのです。
 ルターはこの物語、これを試練と受け止めている。この試練を「福音はわたしから失われ、無関係になっているのではないか」という疑問として起きる、福音との関係に生じる試練と言う。「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずである。これを聞きつけやってきたのであるが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした、これが試練である。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
なんと残酷な拒絶だろうか。しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。ルターは次のように言っています。「しかし、おお、この女が自分を脱ぎ捨て、感じとったことはすべて捨て去り、ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。」、ルターは母親のひたむきな主への信頼を激賞しつつ、母親の辛さを思うのです。
信仰、それは徹底的な神のみ言葉への信頼であるということをこの母親は私たちに教えてくれているのです。
ルターは、まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」の言葉に、「あなたは、どう思えるだろうか。信頼していた神の言葉は、自分に語られたのではなく、ほかの人にかかわっているのだと感じるとき、これは、心と信仰との二つを、こなごなに粉砕する電撃ではないだろうか。ここでは、すべての聖者も、すべての願いごとも、停止せざるをえない。ここでもし、感情に従って行動するなら、気持ちとしては、御言葉を放棄するほかならないことになる。しかし、この哀れな女はなお、みことばを放棄せず、御言葉にすがりつき、あのようなきびしい答えにも顔をそむけず、キリストのめぐみが、答えの下になお隠されていることを堅く信頼し続けていた。」と語っています。なぜと思える私たちの試練の場にあって、キリストのめぐみが、答えの下に隠されているという信仰が、本当の意味で私たちを支えてくれるのです。私たちはこの母親を通して教えられることではないでしょうか。
さて、もうひとつはこの娘が母親の信仰によって救われたということです。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」自分のためでなく、それぞれが他者のために行動し、祈り、また、心配ることに、イエスは聞かれるということではないでしょうか。子は自分で大きくなったと思うのが普通です。しかし、自分が子どもを持ち、人生を多く体験するときいかに多くの人に支えられ、祈られてあるかが分かってきませんか。
母が私たちの婚約式の前に洗礼を受けてくれたことを思い出します。こどもにとって最高のプレゼントはクリスチャンになることだと思ってのことだろうと思うのです。どこまでもこどものことを思う母の祈りが今も自分を支えていると思っています。私たちには私たちを思ってくれる人がいるのです。そして、この思い、祈りに答えてくださるイエス様がいるのです。
また、同時に私たちは、どうかこの母親のように主に堅く信頼しつづけ、試練のなかにあっても社会のため、隣人のため、家族のため、そしてこどものために祈り求めていきたいものです。この思いによって,祈りによって互いに生かされているのです。
讃美歌21になってから消えた讃美歌に「春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく祈るとしらずや」とあります。試練の中にあっても主に信頼し、すがって祈ってくださる人が私たちのうちにあることを思いつつ、私たちもこの世の多くの重荷をおいつつ、試練にあっても祈りに支えられて、主に信頼して、明日へむかってあゆみだせるのではないでしょうか。



牧師室の小窓からのぞいてみると

 浅見雅一/安廷苑 著 韓国とキリスト教―いかにして”国家的宗教”になりえたか」(中公新書)

宗教人口の過半数を超える韓国教会の歴史と特徴と課題について書かれている良書である。
韓国教会の成長の一つは「霊的に満たされ、物質的に恵まれ、病苦から解放される」という「現世の祝福の過度の強調」にあったという。しかし、それが今、逆に課題となってきているという。
特に強勢の拡大のみに力を注ぎすぎて、社会への貢献がないという批判があるという。
教会においては、韓国の教会は近くて遠い存在である。もっとそれぞれの教会の特徴を分かち合い交流していくことを感じた。




新米園長・瞑想?迷走記

新学期が始まった。長い夏休みに年長さんは体が大きくなっている。時にあって神さまは働かれている。そして、私たちは、今から成長した園児を預かる責任を強く感じている。
園児を託され、預かることは責任が重いが、しかし、また喜びでもある。新学期は私にとって待ちに待った至福の時でもある。こどもらと共に幸福な時を歩もう。




ルターの言葉から



しかし、おお、この女が自分を脱ぎ捨て、感じとったことはすべて捨て去り、ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。
            説教より

ルターは、信仰の人であった。
彼は人間の魂を感覚、理性、信仰と3区分する。感覚に導かれる人は肉的な人であり全く世俗的人間である。理性によって導かれる人は心霊的、哲学者と異端者である。信仰によって導かれる人は霊的な人であり、真のキリスト者であるという。
だから真のキリスト者は「ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。」と感じるのである。
感覚、理性、信仰のいずれかを選び取ることによって人間の人間が現実にその都度その存在が決定されていくとルターは考えていた。(ルターの人間学:金子勇)
ルターは、信仰の人であった。彼は現実の課題と取り組むとき感覚的、理性的に判断し、決定するのでなく、信仰的に常にその決断をしていった。
ひたすら、みことばだけにすがり」ということが全てである。しかし、これは人間の業では到底、貫徹できないことである。人は感覚的、理性的に常に立つからである。だから「苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。」と祈るのである。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑧)
 刈谷教会の会堂建築が大きくなっていくにつれて資金のことが課題となった。幸い現役世代が多くて、内部の募金は、満たされた。当時、自己資金、本部からの支援金、本部からの借入金という三分の一方式があった。そこでこの方式を使おうとしたが、断られた。借入だけは、許すということだった。小さな教会の借入は宣教を妨げる。だから借入を起こしたくはなかった。それでも借入金を起こさなければならなかった。実際、返却金の負担は一般会計を苦しめ、翌年、私は刈谷教会から去った。
しかし、当時、東京教会は百年記念会堂の建築の話があった。それは全国の支援で資金が充てられ建てられると聞き、私は納得のいかないものを感じた。地方の小さな歴史のない教会と百年というだけで厚遇される教会の違いはどこにあるのか。空の空、あるいは人には分け前があるというコヘレトの言葉を噛みしめながら心では地方から東京に信徒を送り出している小さな教会を大切にしない教会は、いつか、ばちを喰らうと思いつつ。
こんな百年記念行事には決して私は参加しなかった。自分がもし財務の任になったら小さな教会の痛みを感じ、小さな教会のためにも何かをなせるようにと祈った。実際、財務委員になって、私は、批判を受けながら小さな教会のために常に配慮してきたつもりだ。



(大森日記)今週も耐震工事で一日が暮れた。そのうえ始園式があり、子どもたちがやってくれる。対応におわれつつ無事に一週間を過ぎた。気を使うことが多いが、募金のパンフレットの印刷、椅子の搬出、礼拝堂の掃除などいろいろと手伝ってくれる。感謝である。残暑が残る中、みんなの健康が心配であり祈る。外の仕事もありそれぞれが主にあって守られていた。今週、次男から誕生日プレゼントもらう一番欲しかったもので、これも感謝である。忙しさのなかで祈りを忘れずにこれからも励みたい。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)前日、9時までお父さん方とバーベキューであった。無事に早く起きられて、「ほっ」としている。家内が眠っている姿をみてこの人が死んだらとぞっとする。役員会があり、その後に会計役員と作業していると眠ったらしく、起きた時に集計表が置かれていた。感謝である。
月)財務委員会が開かれるが、資料を用意したつもりだったが、「ない」というので急遽、電話して送ってもらった。携帯電話、パソコン、FAXと。昔なら取りに帰るところだった。しかし、後で分かったが送っていた。誕生日を迎えた青年をブラジル料理に招待。続けての肉料理に平気になったのはやはりブラジルが抜けないようだ。
)始園式、元気に帰ってきた園児らに会って、幸せを感じるのは私だけであろうか。仮保育室は子どもたちに喜ばれるか心配だったが、喜ばれている。保護者の役員会で避難路を説明したがやはりそれでも心配顔の母親を見て責任を感じる。やっと資金のめどもつきほっとしている。でも疲れる。
)大田区私立幼稚園園長会、会長が体調を崩していると聞き心配。紳士的で理性的な人である。なかなか成れない。
)自分が関わってきた福祉村の委員会に呼ばれて久しぶりに出席。何もなかったところから老人ホーム、こどもの施設、病院と作り上げていった。ゼロの時内野牧師が「神が必要とされるなら」という言葉を信じてやってきた。
)職員会議があり二学期の行事の打ち合わせ、これに耐震工事かと思うと気が重くなる。解体にともないご近所周りをするのだがこれもしんどい。そろそろこういうことから手をひいて牧会に励むかと思っている。あと5年、10年しかない。
)礼拝の椅子の搬出、礼拝堂の備えをする。しかしながら約束の園舎補強工事を終わったのだから去るべきかと考えだしている。本来なら来るべき家内が仕事の都合で来られないことはリズムが狂う。募金の準備をし、それを信徒さんらが整えてくださり感謝。いつも私のリズムを狂わせる。次男から誕生日プレゼントをもらう。長男も妻も何もくれなかったが。嬉しい。聖書の話通りか。


2012年9月2日日曜日


聖霊降臨後第14主日         2012年 9月 2日


「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の言い伝えを固く守っていて、・・・」マルコ7:3


【説教要旨】

ブラジルの教会学校で、「秀樹、ヘペッチだって」と子どもらが話しをしていました。「ヘペッチ」は英語の「リピート」にあたり、留年ということです。驚いたのは、小学校から留年があるということでした。落第した子もしなかった子もごく普通の会話で、落ちた子を決して、軽蔑していないのです。
なぜ、この記憶が、この物語から思い起こされたかと言いますと、律法を守るということがどういうことかということです。
ファリサイ派の人と律法学者がでてきます。この人たちは当時の社会では大変に尊敬されていました。イエスさまも実はファリサイ派に近いところで育てられたのではないかといわれています。この人たちは、実に律法を守るということに忠実な人でした。律法を守ることによって神に愛されると考えた実に真面目な人でした。ですから、律法を守らないということが、とても気になるわけです。
そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』(マルコ7:5)と尋ねたのです。これは彼らにとって当然の問いでした。しかし、ここには守る者、守らない者という差別が生まれてくるのです。守る者のみが神に愛されるのにふさわしいと考えるようになるのです。
しかし、旧約の歴史、つまり昔にもどりますと、律法の前に、神から契約を与えられているということに注目したいのです。つまり神はまず律法を守る者としてイスラエルの人を選んだ、神とイスラエルの人との関係、これが契約です。神はイスラエルの民の存在を保証されたということです。そこでイスラエルの民は契約を守るために律法を守るのです。律法を守ることによって契約が神と結ばれたということではないのです。しかし、いつのまにか、神と私の関係がなくなり、律法を守らなければならないということが先行しはじめるのです。守ることにより救われるんだと思うようになったのです。そしてさらに守りさえすれば良いんだという形式主義になる。それをついたのが今日のイエス様の言葉になってくるのです。
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』(7:67:7)
その結果が人間くさい努力主義になってくるのです。律法を守りさえすればという人間が中心に出てくるのです。この律法を守るために努力している自分こそが正しいものであって、努力しない人間はだめだということがまかりとおってくるのです。これは実に人間くさいものになる、だからイエスさまは、あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(7:8)と言われるのです。今、教育現場で新自由主義という言葉があるそうで、競争をさせてもっと子どもらの学力をあげていこうということだそうです。それ自体、聞いていると問題もないように思えますが、実は、ここにこの競争に遅れたものは、だめだという差別が起こるのです。ファリサイ派のような動きが起こるのです。
 では、最初に言いましたブラジルの子どもの例とどう違うのかということです。ブラジルの場合はどうかといいますと一人一人が生かされた存在であるということです。そして等しく生きていく中で平等であるということ、その存在が保証されているということが根底にあって、競争の原理というか、それぞれが当然すべきこととして勉強がある。だから差別は起こらないのです。私たち一人一人が生かされた存在であるというところから私たちを見ていくことです。だから喜んで、一生懸命、勉強するのは当然であり、結果として落第することもあるが、終わりではないということです。
本来、律法を守るということは、神から存在することを許され、保証されているわけで、律法を守る者として選ばれた者は、喜びの生き方として律法を守るのです。
荒井献氏は「旧約を超えて、新しい契約を携えて現われたと言えるイエスは、人間の作った掟に縛られている人々を元来のユダヤ教精神に返し、神とともにある喜びの生き方を取り戻そうとしたのだ」と言っています。
私たち一人一人は神に愛された存在であると原点から出発するのです。今をみるとき人間主義から解放され、私たちは自由に、すべてを喜びと感謝をもってなすことができるのではないでしょうか。
 喜びと感謝が薄れて行く社会にあって、私たちの生き方が根底から問われています。私たちはもういちど人間という場から後ろにとんぼ返りをして、神の愛の場所に自分をもどしたいものです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

  堀坂 浩太郎 著 「ブラジル-跳躍の奇跡」(岩波新書)

 九州から東京に帰る新幹線の中で、一気に「ブラジル-跳躍の奇跡」という本を読んだ。私がブラジルの教会に着任したのは軍事政権の末期で、経済は負債を抱えて、債務危機にあり、100パーセントを超える超インフレの時代から民政移管の混乱期までであった。
それから33年の間にこの国が大きく変化し、民政の混乱を政治家のリードのもとで安定させ、2011年にブルガリア移民2世の女性大統領ルセフ大統領が登場した。
政権のロゴは「豊かな国とは貧困のない国」で、貧困撲滅対策に取り組んでいる。先の政権は「皆のための国」、その前が「ブラジル全土のために働く」で、分かりやすい言葉で語りかけ、国の課題に共通理解を持ってもらい取り組んで世界サッカー大会、オリンピックを開催できるまでに跳躍の奇跡を起こした。混乱期を生きた私はこの30年の変化を一緒に出来なかった悔しさが残る。日本も政治の混乱期にあるが、いたずらに絶望することなく希望をもって国の課題を共に負って、取り組んでいきたいと思った。




新米園長・瞑想?迷走記

大田区にあるルーテル教会の幼稚園の園長会を定期的に開かくことを約束した。
変化していく社会にあって、ルーテル教会の幼稚園としてどうあるべきか理念と具体的な取り組みについて協議していくことになった。それぞれの園が、それぞれの特徴を生かして共に公の場で、こどもの置かれている課題を担いつつ、取り組んでいくということは当然なことだが、しかし、画期的なことだと感じている。共に教会立の幼稚園が幼児教育に責任をもつことほど大きな社会への貢献はないだろう。



ルターの言葉から


 肉のために備えをしても、欲を満たそうとしてはならない。 (ローマ13:14)

私たちの内で、理性と意志ほど危険なものはありません。私たちが自分のわざと理性と意志を捨てて、すべてのことにおいて神に委ねることを学ぶのは、神が私たちの内になしてくださる最初の働きであり最高の働きです。そして神が与えてくださる最善の訓練です。特に、霊的に見て、順調に物事が進んでいる場合に、落とし穴があります。
次に肉の訓練が続きます。下品で邪悪の情欲に対しては、断食と徹夜と労働とによって打ち勝たなければなりません。ただ私たちは、なぜ、また、どれほど断食し、眠らずにおり、働かなければならないかを学ぶ必要があります。ところが不幸にして多くの不信仰の者たちが、断食や眠らずにいることや労働といった訓練を、それ自体が善いわざであると考えて、大きな功しを獲得するためにそれらを行います。しかしこのような断食は真の断食ではなく、断食と神に対する侮辱なのです。
私は断食の日数などの決定はそれぞれに任せますが自分の肉体には注意して行うことを勧めます。肉の肉にみだらな情欲を見出すならば、断食と徹夜と労働とによって訓練をするべきですが、それはあくまでもそれだけのことです。
  「善きわざについて」の説教より

ルターはブレない人であったと思う。繊細な神経の中で思うこと、感じることのなかで内では揺れざるをえないような心があったが、「すべてのことにおいて神に委ねることを学ぶのは、神が私たちの内になしてくださる最初の働きであり最高の働きです。」というところでブレることなく神に委ねたところに彼の強さがあったのかもしれない。



大森通信    

 思い出(会堂をめぐって⑦)
 刈谷教会は資金はあっても、建築実施まで一年かかった。奇抜な設計でなく、誰が見ても教会と分かるような建物であること、大きな建物にしないこと、牧師館は改修だけ、借金はしないことなどを私は提案して、建設へがんと首を縦に振らなかった。現状、これからを考えるとき、どうしても、守りでいくしかないと思っていたからである。しかし、一年の議論の後、牧師の思っていることすべてが受け入れられずに決定した。
建物は大きく斬新的なものになり、牧師館は新築になり、結局は借金することになった。幸い良い、自慢出来る教会建築物ができた。しかし、この箱ものを使って伝道していくというのは並大抵でなかった。いかに人を集めるかということに苦心した。定期的な伝道集会、キリスト教講座、文化講座、チャリティー・コンサート、数カ月に数回の誰でも参加できるフリーマーケットなどをして、人を集める工夫をした。
建物をどう使いこなしていくか、これで建物が生きるか死ぬかが決められていくものと今でも思っている。



(大森日記)休みをいただき母の納骨を兼ねて帰郷。街を散策し、禅寺に寄る。修行僧が掃く姿を見て、神学生もこうあって欲しいと思った。土曜日に納骨を済ませた後、母教会の礼拝に出席した。100年の歴史があり、あんなに大きな教会が本当に小さくなった。幼稚園も廃園すると聞く。すべてに時がある。それでも教会を守っている信徒さんに敬服。日曜日は100年の歴史がある大地牧師の教会で礼拝を守る。東京に戻り、耐震改築工事と相撲が始まった。耐震補強工事は終わり、保育室は地震に耐えられる。翌日、震度5強、フィリピンで震度7の地震。さらに本格的な工事が始まる。建物工事に携わるのは運命か使命か。土曜日、幼稚園のお父さま方に園のために奉仕をいただく。工事で汚れたところを掃除され、改築への準備もしていただいた。夜は、先生方を含め交流のバーベキュー。この若い方に福音が届くことを強く祈って、何をすべきかを考える。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)久しぶりに休暇をとる。前日は母教会の礼拝に出席した。街が衰えていくと同じように教会も衰えていった。しかし、数名の変わらない信者が守っているところに神のみ手を感じる。今日は、何もすることなくゆっくりと礼拝に信徒として出席出来る。息子の説教を聞きながらこんな至福はない。一日中、ゆっくりと時を遊ぶ。
月)朝から息子の車で新婚旅行の地である津和野に行く。何よりも浦上信徒の殉教地である乙
女峠のマリヤ聖堂を訪ねたかった。静寂の地は信仰の命かけた地であったが、今は夏の緑の中に静かに時が去っていく。帰りに山口の雪舟の庭があるお寺に寄る。ご住職がおられ私たちのために説明をくださる。後で分かったのだが大変に有名なお坊さんであった。登竜門とは禅の言葉、悟ることなく滝から落ちていく修行僧もいるという。ご住職と話しつつ、宗教人の襟元をただされ、無にされていくことの静けさを感じた。
)一日中、息子につきあってもらって時間を過ごす。兄の家で夕食を家内が作ってくれ、久しぶりに兄と時間を過ごすがお互いに歳をとった。最終の新幹線で東京に。買い求めた「ブラジル」という本を読み終える。ブラジルと30年を一緒に苦楽をしたかった。いつも自分の手元から良きものはすり落ちていく。
)さあ仕事だ。耐震工事資金調達に朝から走り回る。そんなとき沖縄の姉が募金の口座を教えてくれと言われて感激である。無になって神のお仕事である幼稚園改修にささげたい。本部に借金にいく。
)休暇中のかないと互いに話す訳でもないが一緒にいるだけで幸せを感じつつ仕事をする。園長会。終わると友人からメール。新橋に来いと。
0時をまわったとき「誕生日おめでとう」のプレゼントをいただく。電車に乗ろうとすると悪友からメール。シャンペン用意したから来いと。朝まで誕生日を祝ってくれる。一睡もすることなく仕事。家では何もないようだが、幼稚園の先生方がケーキで祝ってくださり、信徒さんがプレゼントをくださる。薄情は長男の牧師、電話、メール、手紙もない。
)仮園舎、耐震補強工事は終わる。お父さん方が用具の移動、掃除を手伝ってくださる。工事については賛同をいただく。


2012年8月19日日曜日


聖霊降臨後第12主日         2012年 8月19日


すべての人が食べて満腹した。
マルコ6:42

「幸 せ」

説教要旨】
今日の5000人の給食の物語は、四福音書全部に記されています。よほど印象に残ったイエスの奇跡物語だったのでしょう。食べることの好きな人にとって、「すべての人が食べて満腹した」という言葉に至福を感じます。いま、世界では食べられないで多くの方々が亡くなっています。そのために多くの援助がなされていますが、なかなか飢餓の問題は解決しません。マザー・テレサの言葉「大海も一滴からなる」ということを心にとめて私たちはイエスさまから託された業をなしていきたいと願っています。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル上16:7)」という言葉があります。
目に見える事実は、5000人を食べさせるには「パン5つと魚2匹」では、不可能であるということです。「パン5つと魚2匹」は、13人分の食事だと記している本がありました。つまり弟子とイエスの13人分であって、人を助ける余裕などはないということです。私たちはこういう現実にいつも立たされているということです。「人は目に映ることを見る」わけですが、「が」でつながる「主は心によって見る」という視座を私たちは忘れがちです。
イエスさまは、弟子の5000人の食事をどうするかという依頼に対して、「イエスは『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』」と言われました。私たちに責任というか私たちの働きを期待されているのです。そして、私たちは、その期待に誠実に応えようとします。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」という現実にぶつかるのです。しかし、私たちは、しばしばイエスの期待に応えられない自分に気づきます。「人は目に映ることを見る」ということの誠実さです。しかし、それでは限界があるのです。この限界を超えさせるものは、「主は心によって見る」という言葉です。
イエスさまは、「パン5つと魚2匹」をとり、「天を仰いで讃美の祈りを唱え」というのです。人の限界はどこまで行っても限界です。私たちの心がどこをむいているかということです。先週、私たちは、「悔い改め」ということに聞いていきました。自分が向いている方向から180度向きを変えるということでした。私たちが自分ばかりを向くのでなく、私たちが天に向くことです。ここに限界を超えていく出来事がおきてくるのです。このことを主は今日の奇跡の出来事の中で私たちに示されたのです。
 私たちは、5000人の食事を用意するように主が弟子たちに命じられたように世に私たちが生きていくということは使命が与えられています。命に対して私たちは常に使命を与えられた共同体が主の共同体であるということです。だから教会は常に世に対して責任をもっています。決してこれから私たちは逃れてはいけないのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主のご命令がいつも私たちにあるのです。しかし、私たちはいつも今日の日ごとの糧を与えたまえというものしか用いえない存在であるということです。しかし、それが私たちの使命の遂行の妨げにならない、むしろこの小さなものを大きくされるという神の事実を神の使命の実行には起きてくるのです。なぜなら、私たちが起こすのではないです。イエスさまが、神が起こされるのです。わずかな物を天に仰ぎ、イエスさまは「讃美の祈りを唱え」られたのです。「讃美の祈り」とはなんでしょうか。人間の思いを超えて起きてくる神の出来事の素晴らしさを讃美する祈りであり、神は奇跡を起こされるのです。
「主は心を見る」ということはこの祈りが「讃美の祈り」となっている私たちの心を主は見られるのです。
今、一人の医師が戦乱のアフガニスタンを緑土に変えようと努力をしています。小さな、小さなグループです。緑土に変えるなど出来はしないと誰も思えるのですが、一人のクリスチャンがアフガニスタンの真の平和を求めて、戦乱の前の緑溢れる土に変えようとしているのです。困難と闘いつつもなお前へ進み、段々と緑を取り戻してきています。それは四福音書の記者がどうしても書き留め、伝えたいことを現代に証しているのではないかと思うのです。主の使命に応えることは自分の力が僅かもしれない。その僅かこそ大切であり、この僅かを主にささげることこと、それも天に向かって、僅かなことを感謝して「讃美の祈り」が私たちから起きてくるとき、私でなく神が私たちの使命を完成させてくださるという事実を私たちは見ることが出来るのです。私たちの周りには主の使命に生きている群れをみます。ここで起きている出来事は主が起こされているのです。
私たちの教会は、幼稚園という主の業、使命を与えられています。私たちは僅かなものしかもっていません。この僅かな物を主に返し、天に向かって讃美の祈りを唱えるところに、「すべての人が食べて満腹した。」という主による大きな奇跡が起こされてくるのです。私たちもこの出来事に出会うべく招かれている幸いが今、ここにあるのです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

 竹島、尖閣列島

815日は、また違う動きが起こってくる。竹島に韓国大統領が上陸。理由は慰安婦問題への十分な日本の対応がなかったからだという。尖閣上陸にいたっては暴挙である。石油が出てくることが分かるまでは、中国は何も主張していなかったが、それ以降急に主張する。
領土というものは、確定して不動のように思っているが実は時代の政治・経済状況によって変わるのだということを私たちは知っておくべきだろう。
ただ、土地は王といえども自由にはならないことを聖書は言っている。そこには良心が問われる。歴史的事実を前にして、良心が問われている。その良心を踏みにじるようなことは断固として「ノー」という毅然とした態度が必要だ。
世界に問われているのは良心であるように思える。この良心が軽く取り扱われていることに世界の混乱と不幸があるように思える。



新米園長・瞑想?迷走記

設計変更により、トイレの天井が低くなると言われた。現場に行き、さてどうしたもんかと思うとき、こどもの目線になってみるとどうなのかということを考えてみた。
やはり高い方が良い。天井を作らず配管も出しっぱなしにすることにした。そしてトイレが子どもたちにとって楽しい場にならなくてはいけないと思いを巡らしてみた。配管を明るい色にするが、しかし、トイレは落ち着く場所だからそれなりの雰囲気を作らなくてはいけないと思う。こんなことを考えながら改築していくのもおもしろいし、こどもの反応がどうなるのか楽しみになってくる。




ルターの言葉から



エラスムス、エコランバディウス、ツヴィングリ、カールシュタットはすべてをその知恵で推し量ろうとして、混乱している。しかしわたしは神がわたし以上により知っていることを知り、信じていることを神に感謝している。神はわたしが理解するよりも高いことをなすことができる。不可視的なものから可視的なものを創り出すことができる。なぜなら福音の光を通して起こるすべてのものは不可視的なものから出た可視的なものである。かつて10年前に誰がこの結末を予期したであろうか。肉は最も不信心である。(1532年)

ルターの生涯の論敵であったエラスムス、エコランバディウス、ツヴィングリ、カールシュタットが出てくる。特にエラスムスについては、ルターは痛烈に批判していく。エラスムスほど理性的であり、誠実な人間はいなかった。この理性的、誠実こそルターの許しがたいことだった。人文主義者において、人間を自分のあるがままに理解しようとして、自己自身の中にとどまり、人間に固有なものに価値を与えようとする。しかし、ルターは人間は罪人であり、破滅しており、この人間を神が義とする救済者であることによって規定されている。神との関係の中での自己認識であるのである。
神はわたしが理解するよりも高いことをなすことができる。不可視的なものから可視的なものを創り出すことができる。なぜなら福音の光を通して起こるすべてのものは不可視的なものから出た可視的なものである。」という視座をもって、理性と人間の誠実さでは得ることの出来ない、神の力にすべてが規定されている世界が神のダイナミックスによって創り出されているのを見ることが出来た人であった。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑤)
 
サンパウロのSE(真ん中)広場にサンパウロの大聖堂がある。数十年をかけて、やっと私の時代に完成にむかっていた。最初に入れたパイプオルガンをあまり使っておらず、いざ使おうとしていたら白蟻にやられていたという、これを辻パイプオルガン製作者が修繕したというエピソードがあった。
日本は宣教年数が浅いことや日本とヨーロッパの風土の違いがあるだろうが、日本の教会は献堂即完成となるが、教会は時間をかけて、少しづつ完成にむけて作っていくのが、良いと思っている。確かに先にあげた例のような嘘!と笑ってしまうような無駄なことがあるだろうが、この無駄も大切なことではないだろうか。「大聖堂の作り方」という絵本がある。ゆっくりと時をかけて、みんなで大聖堂を作りあげていく喜びの作業を見ることが出来る。
今、木造建築から鉄筋コンクリートの石作りに近いヨーロッパ型になってきているとき、ゆっくりと完成させても良いのではないかと思っているのだが、日本では、なかなか受け入れてもらえない。


(大森日記)今週は、耐震補強工事だけでなく、耐震改築工事が始まる。毎日、寝室が埃であり、寝る前に掃除するのが習慣になってきた。埃が少なくなってくると完成だと思って楽しみにしている。しかし、日常の業務と建築の業務があり、天手古舞である。暑い、蒸す日々が続く。クーラーがない時、朝早く起きて仕事をしていたが、日中も出来るようになったが、やはりペースは落ちる。やっと本を一冊読める。借家生活をしたことのない私は家賃が前月末に先月分を払うなんて知らなくて不動産屋から請求の電話。なんと無知なことか。土曜日に雷が鳴り、大粒の雨。暑さも一休みかな。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今日は、礼拝も早く終わり、とりとめもない時間をゆっくりと信徒と話す。昼食も一緒にレストランで。家内と整骨院に行き、訪問し、帰って夕礼拝まで、一眠り。夕礼拝も出席者と説教を巡って対話。夕食もすることなく家内も帰り。私もそのままねてしまう。久しぶりの神経を休ませた聖日だった。三階を壊し臨時の講堂を作るが、広さに驚く。夜は沖縄戦で心の障碍をおっている人たちのレポートを見る。戦争はしてはいけない。悲しく重くなった。
月)朝、早く起きて、来週の主日の準備にはいる。工事も補強、改築が同時に行われるようになり、さらに騒がしくなる。なかなか外に出られない。
)一日中、区への幼稚園変更手続きの書類を作る。また資金計画のやり直し。代議員と話し、頭をかかえつつ、するしかないが知恵と祈りが必要である。
)千鳥ヶ淵に戦没者慰霊の祈りをささげに行く。T君も参加してくれる。祈りというよりも集会で、没者の遺骨納骨堂に背を向けてはついていけなかった。礼拝観の違いか、日本人としての感性の違いか。来年からは納骨堂に祈りをささげてそっと帰ろう。今の平和の十字架を負ってくださった方々に祈りを捧げる。区役所への幼稚園変更手続きの書類を提出。今日も耐震工事で一日が終わる。合間を縫って誕生日の方の家を訪問する。
)今日は早朝に起きて工事業者が入れるように準備をし、遅くまで寝ることにした。昼に起きてきて息子の昼食を作り、仕事に入る。不動産屋から家賃の請求。前月に次の月の家賃を払うことになっているという。これが常識だそう。この常識からかけ離れていた自分に苦笑い。工事現場の指示、ストレスばかり溜まる。
)朝から工事の特に幼稚園のトイレの床の、ドアの色の打ち合わせ。先生方に委ね、責任は私が負えば良い。本部に負担金を納めにいくが外は暑い。
)工事は続く。夏休みを来週から5日間取ることを代議員と相談。母の納骨を兼ねて、新婚旅行をした山口を訪ねてみることにした。