2013年3月31日日曜日

復活日

あの方は、ここにはおられない。
復活なさったのだ。

(ルカによる福音書24:6)

【説教要旨】
復活信仰は、キリスト教の中心です。その復活が商業ベースにのり、クリスマスと同様に商業的に扱われようと日本ではなってきているというのです。聖なるものを俗なるものとする、芥川龍之介流によると日本は沼だ。全てを飲み、腐らせる。
では、腐ってはならない大切なこととは、どんなことでしょうか。
死人の中から復活したキリスト・イエスの甦りを私たちが信じるというのですが、これは世の中の人と激しく衝突するわけです。聖書は11節で「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記しています。
「途方にくれている」とあるように、あるいは「婦人たちが恐れて」、「二人は暗い顔して」と聖書は復活の出来事のなかで、人の気持ちをあらわしています。私たちが生きていくとき、途方にくれる、恐れがある、暗い顔になる。そういう自分がある。しかし、復活はこの途方にくれること、恐れ、暗い顔から自由にされていく出来事なのです。
 しかし、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように復活が「たわ言」にしか聞こえないのでしょうか。弟子たちは善い意図をもってイエスさまと行動しました。しかし、結果は意図に反して不条理で、理解出来ない十字架の出来事で終わりました。結果は弟子の意図とはチグハグで不調和に終わりました。ここに途方にくれる、恐れがある、暗い顔になる、そういう世界がある。死の中にあるのです。
 今日の復活日に私たちは新しい会堂で礼拝をしています。1954年、旧会堂で復活日に最初の礼拝を守りました。同じ復活日に礼拝を始めたことは、偶然とも思えません。それは神さまの導きではないでしょうか。
 その年に初代牧師であったエルソン牧師が急死します。彼の死を通して、私は一つの聖句を思い出します。
「一粒の麦、地に落ちずば、一粒のままである。友のために命を捨てることほど最大の愛はない」なぜ、私たちは命を友のために捨てられるのか。いや捨てられる力などは、私たちの中にはありません。しかし、捨てることの出来る力がやってくるのです。
神からやってくるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と強く宣言するのです。
「生きておられる方」が、生きていますイエスさまが共にいるのです。生きたイエスさまと共に生きること、ここに「友のために命を捨てることほど最大の愛はない」というみ言葉が私たちの中に起きるのです。イエス・キリストの生命の中にいきてこそ、私たちはすべてから自由にされ、強く、生きていくことが実感できるのです。
エルソン牧師が遠い日本に来て、宣教し、命を投げ出した。命を投げ出すという宣教がキリスト教会の歴史で繰り返されてきました。「最大の愛」の愛に育まれてきたのが私たちの歴史です。
「あの方は、ここにはおられない。」というように地上の私たちの生きている命を生きるのでなく、それは死を超えた「生きたお方」とともに歩む。
「復活なさったのだ。」という新たなの命を私たちは生きるのです。イエスさまが死に勝利した命を私たちは生きるのです。だから地上の死に私たちは縛られない。イエスさまが十字架において私たちのために命を捨ててくださったように友のために命を捨てて、最大の愛を示すような存在として私たちは地上を生きられるのです。
復活は、私たちの弱さの清算です。罪と死に負けそうになる私が、これをたたんで友のために命さえ捨てきる強いものとされるのです。
私たちの教会の基礎を作ってくださったエルソン牧師も私たちに命を差し出す勇気を神さまから与えられ、私たちに今日を残してくれました。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
永遠の命を生きる。このような存在として、私たちも今日、ここにいるのです。ここに初代の宣教師が残してくださった命を投げ出してもという出来事が起こされるのです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
復活の、真の命を生きる者として、復活の日をともにお祝いしましょう。


牧師室の小窓からのぞいてみると
「二つのことば」
堤清二氏の「もう、自分の能力では及ばない時代になったという意識がありました」という言葉に驚いた。彼ほどの人がここまで言うのかと共感を覚えました。私もかねがね感じていたことです。しかし、時代から逃げる訳にはいかないのです。自分の能力が及ばないのだが、私たちはどう生きていけばいいのだろうか。
 能楽師の亀井氏が、「私は、40代、50代、60代でもいつでも、基礎を学んだ10代のころの気持ちでいるようにしています。」と言っている。基礎、人生で会得した基礎が「もう、自分の能力では及ばない時代」で問われているように感じる。
 

新米園長・瞑想?迷走記
桜の開花とともにやっと、完成した。園舎が、二年前の3月11日、桜の木が大きく揺さぶられましたれました。東日本大震災でした。この経験を通して、耐震工事がいっきに実現へと向かいました。もし、地震がなければもっと先になっていたのかもしれません。
一人の命を守らなければならないという強い願いが建築へと向かわしめたのかもしれません。命を守る耐震補強、耐震改築工事が無事に終わりほっとしています。 
 命を大切にすることは、どんな代価を払っても買い取れません。私たちの保育に一人一人の命を大切にしていくということが隅々まで行き届くものでありたいとこれからも努力していきます。
やっと、ホッとできる。感謝。


ルターの言葉から
「キリストは死より復活された」、もしこのように信じるなら、私たちは良く生き、よく死ぬであろう。なぜなら、キリストは、ご自身のためにだけに死を克服され、復活されたのではないからである。それは、私たちにも関わり、私たちもその「復活」に立ち、捉えられ、また、そのゆえに、それを通して私たちも復活し、彼とともに永遠に生きるのであるということを、身近にしっかりと心にとめなければならない。


北米のルター派・その歴史 17.チャールズ フレドリクソン
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」2
 新ルター派は数代にわたってアメリカにおり、清教主義とメソジストなどアメリカの神学の影響を受けており、「実践的で進歩的」であった。彼等は、大方「言葉だけでなく心情的にも英国側で反ドイツであった」。
 第二のグループは「旧ルター派」で構成され、彼等はドイツから渡ってきたばかりであり、「アメリカ精神」と融合していなかった。このグループは、「信仰深く、真面目で、自己犠牲の精神に富んでいた」。しかし、それと同時に、仲間うちでも意見が一致していなかった。
 「中庸ルター派」は、上記の両極端派の真ん中に位置していた。旧ルター派の排他精神には与しなかったが、そのかわり「アメリカで心からのルター派として生きること」に心を砕いていた。シャフは、このグループを解く鍵は言語にある、と指摘しています。シャフが出した結論は、このようなグループ化が何故起こるかは、ルター派の礼拝、懺悔、文学を見ればわかる。それらにはヨーロッパの言語が使われるので、アメリカ人ルーテル教徒が大集団では加われないのだ、というものです。これに対して、一般的なアメリカのプロテスタントや改革派の文学や讃美歌は、容易に英語を使いこなしていた。


2013年3月24日日曜日

枝の主日


死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピの信徒への手紙2:8)

【説教要旨】
アシュラム運動(聖書に聴受)に生涯をかけた榎本牧師の「ちいろば」という本がある。「いつのまにかそれを(子ロバ)自分に自身に当てはめてみるようになりました。というのはこのロバの子が向こうの村につながれていたように、私もキリスト教に全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼友達が、私が牧師になったことを知って、キリストもえらい損をしたものじゃのうといったそうですが、その評価のとおり、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じ馬科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見栄えしない『ちいろば』にひとしお共感を覚えるのです。」と言っている。

さらにこのちいさなロバがイエス様と喜びと感動も味わえたという歴史の物語に自分も参加できている幸いを喜んでいます。実に私たちも神が必要なる一人一人なのであるということに気づきたいのです。

では、私たちがイエスさまの歴史の物語に参加するということは、どういうことなのでしょうか。
先週、教区総会が開かれました。その宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」であると言われています。まさに今日的においては、大切な二つの言葉ではないだろうか。その言葉のルーツは「災害等の苦難についての信仰的・神学的理解について」という報告文にあるのです。

「苦難」について、特に災害の苦難において「災害、苦難は、人は神の領域に立ち入ることはできず、最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく」とあります。
明日からイエスさまの苦しみを思っての聖週間に入ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、」とあります。今、十字架の苦難を受けようとするイエスさまは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだってくださった。人として生きられた。人として、十字架の苦しみ、苦難を神の領域と受けとめつつ、ここに立ち入らず、また最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように受け入れていかれたのです。

先週も言いましたが、若者の死因の一位は自殺であるというのです。私たちの知らないところで若者は苦しんでいる。そして、この時代を生きている私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。私たちはこの苦しみの原因を知りたいし、苦しみから逃れたい。しかし、この苦しみについて、苦しみ自体をどうであるとかこうであるとか判断するのでなく、苦しみを生きるということが、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」というお姿でイエスさまは私たちに示されたのではないでしょうか。

「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」という良寛さんの言葉があります。受け入れていくことここに妙法があるのです。
十字架に妙法があるのです。苦難の象徴である十字架、しかし、私たちプロテスタント教会の十字架は復活十字架です。この十字架には復活という希望があるのです。苦難にあって、希望をもつ、それが妙法なのです。

「苦しみにあう時節には、苦しみにあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」となるのです。

言葉が罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
十字架の妙法において示されたことは、私たちの人生を貫くのは、イエスさまの十字架の愛です。ここに私たちは「イエス・キリストは主である」という恵みをもって生きることが出来るのです。
だから、私たちは時代が苦しんでいるとき、「信仰と希望と愛をもって、共に苦難の中を生き抜く者として、絶えざる『神の希望』を掲げながら歩む道を取ることを願う」と「災害」における信仰の理解を示した東教区信仰告白委員会の信仰理解は、災害だけでなく、苦しんで生きている人と共に生きる私たちの姿勢であり、その中で私たちが必要とすること、「イエス・キリストは主である」という信仰であり、ここから「神の希望」が生まれてくるのです。


【牧師室の小窓からのぞいてみると】
「豊かさ」
 「豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは『やむえない』」というのが、50%を超えたということが報告されていた。
 新聞はこれを「広がる格差社会」と論じつつ、教育の分野まで定着してきた。
 教育の機会均等と目標を掲げてきた社会は崩れつつあるのであろうか。
今、一方、奨学金が返せない若者が増えてきて、社会的に問題になっている。それは、奨学金を確実に返せるという雇用構造になっておらず、その不安から経済的なことで教育を受けるという道を閉ざしていくことになってきている。
いったい私たち社会は、どこを目指して歩んでいるのであろうか。
論者は「問題だと感じる人はまだ4割いる」ということに期待して、教育費、保育費の補助を厚くして一つの方向を提言している。
教会はすべての人において、教育の均等を訴えていくべきではないだろうかと私は思う。


【新米園長・瞑想?迷走記】
卒園式が、無事に終わった。担任の先生の助けをいただき卒園するこども一人一人に声をかけていく。みんなが幼稚園で一年、二年、三年間で、どんなに神さまに愛されて成長したかを伝えていくことにしている。
また保護者にこれからも神に愛され成長していくんだということを伝えるためである。どれだけ、伝わっただろうか。


【ルターの言葉から】      
キリストを遣わされた神のみ心は、キリストご自身の従順以外の何ものでもありません。パウロも、「彼は私たちのために従順であられた」と言っています。この神のみ心によって私たちすべてはきよめられています。「自分を卑しくし、死に至るまで従順で・・・・」
このように主がなされたのは、私たちのその価値やいさおがあるからではありません。ただ、父に従順であったために、主はこれらをなされました。パウロはひとことで天国の門を放ち、私たちに父なる神の愛と、口に言い表せない恵み深いみ心を示してくれました。それによって、私たちは、世の初めから、私たちのためのキリストの犠牲がどれほど神に喜ばれるものであったかということを感じるようになります。
・・・・・・・・愛される者として神の近くにおり、御子の従順のうちに豊かに示し、注がれた父のみ心を認めるならば、他のことはすべてとるに足りないことなのです。
「信従」という言葉がある。信じて従うということであるが、ルターはイエスの十字架の従順を示されることによって、従順の豊かさを生き抜いた人であった。


【北米のルター派・その歴史 16.チャールズ フレドリクソン】
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」1
 1800年代後半、ルター派の人々は幾つかの厳しい争いを闘い抜かねばなりませんでしたし、奴隷問題や南北戦争で国自身が分裂していました。
 内部の争いを一番よく言い表しているのは、ペンシルベニアの大学教授、フィリップ・シャフ牧師が、1854年にベルリンで、アメリカのルーテル教会について行った講演である、ということで学者達の意見は一致しています。シャフは講演で、当時アメリカのルター派は「新ルター派(Neo)、旧ルター派(Old)、中庸ルター派(Moderate)」に分かれていたと見ています。


2013年3月17日日曜日

四旬節第主 2013年3月17日


わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
フィリピ3:8

【説教要旨】
今、ガラテヤ信徒の手紙を勉強していますが、キリスト教会の信仰を方向づけたのは、パウロだと思います。
そのパウロの気持ちが素直に出ているのが、フィリピ信徒への手紙だと思うのです。なみなみならない決意をここで聞きます。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と。
強い、パウロの意思が伝わってきます。私たちは世の中を生きていくとき、また小さな私自身を見ても、自分を有利に導くために多くのことを知ろうとします。知識を得ることによって自分の安心を手に入れようとします。情報社会にあって、いかに知識をえるかが、私たちの将来を決めます。しかし、これほど私たちが多くの知識を得ても、心から幸せだと言えますか。今、若者の死因の一位は自殺で、先進国の中で日本だけにある現象だそうです。新聞は自殺を「若者からの三行半」と言っています。だから決して幸福な社会が私たちの前にないと言えるのではないでしょうか。最後に「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と社説を結んでいます。
では、私たちの杖とはなんでしょうか。
お金がないと生きていけない。確かに現実はそうです。具体的な生き方の中で私たちはこれだけのものがなければ、私たちは何も出来ないと言う現実にぶつかります。ですから私たちはより良いもの、より多くを得ようと思うのです。失うことでなく持つということに必死になろうとして複雑化してしまうのではないでしょうか。
しかし、パウロは次のように言うのです。
肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
彼は、この世的な多くのものを持っている。これを頼りにして生きようと思えば自分は生きていける。それは信仰においてでさえ「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」とあるように立派な誇るものを持っていた。
しかし、今まで自分を支えた、自分に自信を与え続けたこの世のもろもろの杖が、神の前を生きるわたしには全く意味をもたないというのです。
彼は「救い」ということに確信をもって語ります。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」キリストのすばらしさとは、神から離れていこうとする罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。
だから、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言いきるのです。
このすばらしさが、私たちの杖なのです。
私たちが生きていくとき、私たちにはいろいろなことがあるし、いろいろな局面に立たされます。そこで「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と言うように、真の意味での杖を私たちは神さまから与えられているのです。それは、イエスさまの十字架の愛です。イエスさまもここで神の子としての生きることに転んでしまいました。十字架により苦しみを負われ、死において希望を無くしました。しかし、ここに生きる杖、神の愛が与えられているというのです。
「キリストによって救われた」という杖は、私たちの常識を超えています。だから私たちはこの杖をもって従うことがなかなかできませんが、「神の愛によってわたしが救われた」ということに自分を開いていく。徹底的に神の愛に従うことが真の杖です。私たちの常識が教えることはあってはならないこと、十字架の愛から私たちの人生の杖が与えられるのです。 

八木重吉は詩います。

基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中に入ればいい/彼につれられてゆけばいい/何の疑いもなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張り合いがしぜんとわいてくる/むつかし路もありましょう/しかしここに確かな私たちにも出来る路がある/救ってくださると信じ/わたしをなげだします


ルターの言葉から
      
私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちのもっている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を乱用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
神がこのような悪を訂正される方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、より一層深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長出来ない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。・・・十字架を負う時にのみ、福音は私たちを通して前進します。

                      
北米のルター派・その歴史 15.チャールズ フレドリクソン
フロンティアの拡大(1800~1875)3
1840年にはルター派は大西洋沿岸からミシシッピ川まで進展していました。ルター派の人口は移住者増によって増えていたのですが、その新しい移住者が問題をかかえて、いろいろと問題を引き起こしました。新しい移住者の生活体験が、今では数世代にわたって北米で生活している「米国化した」ルター派の人達とかけ離れていたからでした。移民という共通の経験を通して多くの点では一つになっていたものの、両者は一つのキリストの体にはなりませんでした。そのかわり、この新しいグループは引き続いてやってくる新たな移住者が抱える問題に対応するように変わっていきました。西部開拓と民族の絆を強くする教会の新しい道作りが始まったのです。