2014年4月27日日曜日

復活後第1主日


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

ヨハネ20:21-22                                           

【説教要旨】

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
まったく自信を失っていた弱い集団であった弟子たちの前に復活されたイエス・キリストが姿をあらわされました。
私たちも弟子のような体験をしたとしたら、私たちも同じようになっているのではないでしょうか。
しかし、この弟子の姿は、弟子となっていくのに通らなければならない出来事だったのかもしれません。弟子たちは主の弟子としてよく主についていったと思います。しかし、そこにはまだまだ一つのことが足らなかったのかもしれません。主が十字架にかかることを予言したとき、弟子ペテロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。26:33と言いました。そこには弟子としての自信に満ち溢れた姿があります。しかし、それが出来なかったとき自信と裏腹の自信を失った「恐れ」が起きてくるのです。でもそれは、主の弟子となるために必要なことであったように思えるのです。
真実の弟子、信仰者となるために。
ルターは、真実の信仰とは自分自身に対する信頼に対する嫌悪であるといっています。
今、自信を失った弟子たちは、いやというほど、主を裏切った自分自身に嫌悪を持っているし、また、いつ自分が罰せられるのではないかとユダヤ人を恐れて戸を閉ざしている弱い自分にもさらに自信を失い嫌悪を抱いているでしょう。しかし、それは真の弟子となる一歩なのです。自分自身に対する嫌悪こそ、最後の弟子として必要な過程だったのです。
パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と告白している。自分の惨めさに気づく、信仰者にとって大切なことです。
でも、私たちはこの惨めさ、自分に信頼をおけずに頭を垂れているところに留まっているかというとそうではない。自分に信頼を置けなくなっているところでこそ、私たちはイエス・キリストに出合う事ができるのです。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。
イエス・キリストが、私たちの作った全ての障害を打ち破り、「真ん中に立つ」。私たちの中心に共にいてくださるのです。
主が真ん中に立ちたもうとき、「平和がある」のです。今、私たちは直接、弟子のようにイエス・キリストを見ることが出来ません。しかし、イエスさまは私たちに約束されています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」、私たちに聖霊が働らかれています。新しい私たちの創造があるのです。
創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」記されている出来事が新たにされるのです。イエス・キリストの復活後、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」とあるように殉教を恐れず世界に出ていった復活前との弟子の変わりように、復活という出来事が起きたのです。ルターが「私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び私たちに喜びと揺るがない心を与えて下さるのです。」という復活という出来事において、私たちも新たな命を与えられ、新しく創造された存在として今日あるのです。
主イエス・キリストの復活の命によって私たちは、新たに創造される人として、私たちは生きることができるのです。ここにすべてを越えて私たちは恐れを取除かれ、「平和」が与えられるのです。
私たちは、自分に信頼を置けなくなる自分に気づくでしょう。ここに生きた聖霊が働かれ、私たちの真ん中に命として流れるのです。昨日まで駄目だった私が聖霊の力によって、まったく新たな創造がされていくのです。今日、生きていくのにしんどくなっている私がいる。私たちの内に越えていく力はありません。しかし、私たちは知っています「『あなたがたに平和があるように。・・・聖霊を受けなさい。』」と語り掛け、生かしてくださるイエス・キリストが私たちの「真ん中に立って」いてください。ここに私たちの新たな創造の日々が、おきてくるのです。聖霊に生かされて生きていく私たちを日々、感謝して歩んでいきましょう。




 牧師室の小窓からのぞいてみると

30年以内
 
30年以内にマグニチュード8級の地震は5%の確率で発生すると報道がありました。逆にいえば95%ないということになります。確率というとき、数字をどう捉えていくかによって、私たちの生きようがみえてきます。さて、みなさんはこの数字をどう捉えていきますか。
 ルターの言葉を思い出します。「たとえ明日が終わりであっても、今日、リンゴの苗を植える」(実はこの言葉はルターの言葉ではないのですが)私たちは、備えるというよりも今日成すことを成して、次を託して歩んだ方が良いのではないかと思うのですが。数字はあくまで捉える側によるのであるということを忘れないでほしい。


   
新米園長・瞑想?迷走記
 
戦後最大の幼稚園制度の変更について決断の時、5月がやってくる。これを前にして園長研修をして、変更に備えました。研修中の日常の幼稚園は新学期が始まり、園児らに疲れが出ていて、落ち着かない時だったようです。一方では、日常の保育の課題がまったなしであり、一方では大きな制度の変化もまったなしの中で、豪い時に園長になった感じがあります。こういう時に軸がどこにあり、そして軸をぶれさせないということが園長の働きかもしれません。園長は軸がぶれなということが、働きの大きな部分かもしれません。
軸とはすべての時にキリストが働かれるという確信とキリストは何を望まれているということを祈り続けること。


ルターの言葉から」
     
弟子たちは何を恐れたのでしょうか。死を恐れたのです。彼らは死の只中にいました。・・・・・・・・ 弟子たちは私たちと同じように、神について正しい知識に欠けていました。・・・神を信じない人は死を恐れるのです。
さて、このように恐れの中にあるとき、神に向かって叫び求めるなら、神はいつでも助けてくださいます。キリストは、おののく弟子たちを捨てていて、いつまでも外にいるということはしないで、入ってきて、「あなたがたに平和があるように」と慰め、「私だ。恐れることはない。勇気を出しなさい」と言って、今日も神は私たちを慰めて下さいます。私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び私たちに喜びと揺るがない心を与えて下さるのです。




     .私たちの教会 スオミ・シノッド
アメリカ・フィンランド・ルーテル教会の歴史 
アルフレッド ハッパネン

私たち大森教会と甲府教会はスオミ(フィンランド)シノッドによって宣教されました。
11.青年活動 (1)
教会の未来は若者によってあるので、青年の活動は熱心な活動、学びが求められていた。そして若者の人生とその希望へ対してなによりも愛情をもって理解していくことも求められていた。
他のルーテル教会においても、すべての教会がいち早く、青年活動の団体を創設していった。地区、教区の青年連盟が作られて、さらに全体の青年連盟が組織されていった。教会における青年活動は初期に組織された形で始まった。
教会は、最初から青年活動に重きを置き、早くから組織していたことが分かる。これは他の教派も同じである。



大森通信    

今週も出会いが多くありました。園長研修会で、36年前に実習先の幼稚園教諭だったT先生とお会いしたのです。園児と接している様子を見せてくださった。今も私は、その情景を思い出しながら園児を幼稚園の門で迎えている。腰を屈めて、園児の目線に合わせ、名前を呼び、気持ちを言葉に託し、園児の反応を待つ、毎朝の姿が今でも浮かびます。特に夢をみるように怪獣のことだけを話すイサク君に接する先生の姿を忘れません。
人生の中で、私たちは多くの人と出会います。私たちに何かを残してくれる特別の人がいます。そして、その瞬間の時間は止まったままです。
T先生が「息子さんが教会に来たとき、『竹田さん』と言ってしまい、息子さんから『それは父です』と言われました」とにこやかに話されました。いつまでも神学生時代の私の像が残り、あり得ないことですが、息子を私と勘違いしたのかもしれません。それほど、良い時だったとのかもしれません。二人で、「あの時は楽しかったですね」と言っていました。



2013年5月26日日曜日

三位一体主日

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」
ヨハネによる福音書16章12説

【説教要旨】「ウジヤの勢いはこの上もなく増大し、その名声はエジプトに近い地方にまで届いた。」歴代誌26:8

これは紀元前800年のときのユダヤ、正確には南ユダヤ王国の出来事でした。王ウジヤはユダヤ王国の中興の人でしたが、しかし、国力と経済の繁栄をもたらしましたが、人々に人としていく道を失わせていきました。王も傲慢になりました。その傲慢さ故に神は王を打ち、病気を与え、死をもって償わせました。「ウジヤ王が死んだ」、このとき天使セラフィムが、預言者イザヤの前にあらわれ、彼の口を火で清め、イザヤは神のことばを告げる決意をするのです。まだ、繁栄が残る時代に、神のことばを伝えるなど人に受け入れられていくことは困難極まりないことでした。しかし、イザヤは「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」とはっきりと神に応えるのです。これが、イザヤ召命の記事です。先週は、聖霊降臨日を迎えました。聖霊がくだった日は、このイザヤの出来事が、使徒たちにも起きたのです。使徒たちも「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」というイザヤの言葉の成就として、全世界へ神のことばを伝えるべく出ていったのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と。その前には困難さがあるでしょう。しかし、困難さが見えていてもなお、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と神に言い切る勇気を与えられるということが聖書の示すところです。
先日、U兄から刑務所を出所した方々が生活を立て直していくための活動をなさっている方の支援をされている話を聞きました。出所された方々も高齢化が進むなか就職の難しがあり、施設が自分たちの町にやってくるとなると反対運動が起こるという困難さの中で活動をされているクリスチャンがいると聞きました。誰が見ても活動は困難さが前に見えて、活動を妨げている。しかし、なぜ、彼は続けるのでしょうか。それは神の召命だからです。
「神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。」とセラフィムについて説明されています。今日の聖書でセラフィムは「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」」とあります。弟子が聖霊を受けたということは、セラフィムが神の言葉をうけたように、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方、聖霊は、自分から語るのでなく、ただ聞いたことを語るのです。誰から聞いたのか。それは神からです。神ご自身が語られたことを聖霊は語るのです。神ご自身が語られることは、イエス・キリストにおいて示された出来事にほかならないのです。聖霊が語るのは、イエス・キリストを通して示された神のみ心を語るのです。困難が待ち受けていても、神のみ心が語られるということを受け入た故に、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」とありますように、キリストに属しているという揺ぎ無い安心感が、安定感が彼ら弟子を、それを継いだ私たちも大胆に変えらていくのです。
聖霊を受けるということは、キリストを感じるということ、自分が神に愛されてることに他ならないのです。
パウロは大胆にもこのように告白します。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
聖霊から示される真理とはこのパウロの告白に他ならのです。
ここで「真理の霊」というとき、わざわざ「真理」という冠をつけたことに注目したいのです。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」とありますように、真理、そのものは人を賢くするような知識でなく、それはイエス・キリストという具体的な方を通してのみ知ることです。真理とはこの世を生きたもうたイエス・キリストによって愛されたという経験です。真理をことごとく知るということは自分がイエス・キリストによって真実に愛されているということを知るということです。ここを生きることが霊を生きるということです。また、神に愛された神の子として生きていくのです。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
神の子は見えるものに身をゆだねません。霊に委ねます。それは見えるものに振り回されません。弟子の偉大さは彼らの偉さにあるのでなく、彼らが信じたもの、目に見えないこの偉大な聖霊を通して示されたイエスの愛、神の愛にあるのです。人がした業によってでなく、人が,私たちが信じたものによって私たちは作られていくのです。神の子、私たちは愛を信じるものです。そして同時に愛に生きる神の子として今、生きるのです。
政治力、経済力こそ力と信じきっている厳しい時代を生きています私たちは自分を翻弄し、倒れそうになるとき、この私たちを倒す風とは違う風が私たちのうちに吹いています。恐れおののきつつ生きる中で、「神は愛」という風を受けるのです。セラフィム、「神への愛と情熱で体が燃えている」天使から清められ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と告白出来る人が私たちです。


◆牧師室の小窓からのぞいてみると
この頃、教会が自己保存的になり、心の座りの良い人、言葉ばかりを求めている。
 「婚約者が洗礼を受けなければ、君が牧師を辞めるか、婚約を解消するか」とそして、「洗礼を受けるまで結婚式は許さない」と本音を息子にぶつけていた。決して心の座りの良い言葉ではない。
 聖書にアハブ王とフェニキアの女、イザベルの結婚の記事がある。イザベルはイスラエルの神の生き方が分からず「ナボテの事件」を起こし、イザベルの不幸の死を告げている。私は彼女がそうなってほしくなかった。二人は、とくに婚約者の彼女は大決心だったと思う。彼女に決心させてくださった神に感謝するとともに、決心した彼女に感謝したいと思った。


◆新米園長・瞑想?迷走記
橋下市長が私学は、私立とあるので自分で独立してくださいと言って、私立への補助金をカットしていると聞いた。それは私学の建学精神でもある。しかし、現実は本体の宗教法人の力は新興宗教をのぞき弱体化しているから自立は出来ない。
「橋下さん、その通りです」と言いたいが、公の部分も担っていいるのも私学だということを知っていただきたい。こんな乱暴さが教育の場にまで及ぶ時、国家は危機である。


◆「ルターの言葉から」
 主キリストは死にて葬られる。-わたしもーキリストはその後蘇り、天に向かわれた。わたしもである。



◆北米のルター派・その歴史 24チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)4
1930年代の大恐慌を通して、アメリカのルーテル教会に新たな変化が根ざしました。以前は、ルーテル教徒はヨーロッパの国々を出て合衆国に入って来ました。今は、人々が仕事を求めて移動するように、ルーテル教会は新しい移動を経験し始めました。田舎から都市への移動です。田舎の労働者によって都市が拡大するだけでなく、新たな現象が現れました。それは、「郊外」です。

2013年5月19日日曜日

聖霊降臨日

「すると、一同は聖霊に満たされ、
 “霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

              使徒言行録2:4

【説教要旨】
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」と創世記は記しています。しかし、神によって言葉がばらばらにされたというこの物語の起源譚は、世界中の言葉が違う理由について記したものでしょう。
一方、教会が成立した聖霊降臨日の出来事において、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とありますように、違いある言葉をそれぞれの言葉を話すことによりそれぞれが分かるようになったということです。
いま、パソコンが誰でも手に入れられ、インターネットが普及した時代政治、経済と大きく変化をしてきていますことは皆さんが分かっていることだと思います。TPP加入問題で分かるようにアメリカということを軸にして経済も同じ土俵に動きましょうということです。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」ということが再び現実化しようとしているのかもしれませんね。このことが私たちがどう生きるかという私たちの生き方を強く求められてきていますから、私たちは大変に厳しく、重い時代を生きているのです。
 A牧師が「教会は社会が求めてきていることにどう対処していくかということではなく、社会がどう生きたら良いかということを教会に求めてくるような教会にならなければならない」と言っていることにうなずきます。
創世記において、言葉は一つになり、「彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」とありますように文明を築いてきたと記しています。その力の向く方向に注目したいのです。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
自己自信に満ち、神を頼ることのできない者となり、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」とあるように、人が神のようになろうとしているところです。人が文明というものを手中にしたときにいつも起こることです。それを現代にあてはめたとき、私はこの物語を笑ってばかりではおられません。まさに一つの文明を手に入れた現代人が何かを感じるのではないでしょうか。この物語の結果も現代人がもっている不安を示しています。「全地の言葉を混乱(バラル)させた」ということです。どうも良い事ばかりでなく、「混乱(バラル)」が起きるのでないかという不安です。
さて、教会が成立したとき、神は聖霊という力をもって私たちとむかいました。それぞれが違いを越えて、相手の分かる言葉で話すように弟子の口を開いてくれました。秩序の回復と「希望」です。

神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

活き活きした姿を示しています。全ての世代に渡って、私たちは神からの恵みをいただくということです。
そして、私たちの外へ、外へ私たちの目を向けてくださるのです。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 バベルの物語は人が自分へ自分へ、内へ内へとむくことにより自らを滅ぼしましたが、聖霊降臨は人の目がキリストへ、キリストに向かうとき、そして今こそ私たちはこのことを伝えるべき伝道を整えいくことです。キリストにこそ喜びがあるのです。


◆牧師室の小窓からのぞいてみると
本音で

私も本音で話す方だから橋本さんの発言にはいつもひやひやして心配していた。
今回の従軍慰安婦に関する発言は、本音というよりも、無知からくる単なる暴言にすぎない。
歴史認識の甘さ、人権認識の欠如などを指摘すればきりがない問題を含んでいるのだが、彼は謝罪も、発言の撤回もしないという。また、不利だと思うと囲い込み会見もお断り、はてには自分の英語力のなさが誤解を生んだなど責任をとらない姿は、今までの政治家とどこが違うのだろうか。先週言った曽野綾子氏が「賢母はいるが、大母がいない」と言っていたが、「賢い政治家はいるが、大きな政治家がいない」ということをまた書かなければならないのは悲しい。本音で、橋本さんを叱る政治家はいないのだろうか。


◆新米園長・瞑想?迷走記
5月は一年前の補助金の実績届を都、区に提出しなくてはならないが、幼稚園は何かと新入園児を迎えて、保育者の手が足りなくなるので、事務員までかりだされ、したがって、本来なら事務員が作成するこの報告を園長が書かなくてはならなくなってくる。正直、牧師を兼務していると疲れる。
前にも書いたが、一方では定員80名ぐらいの園では園長も本来の業務でないことをしないと経営はなりたっていかない。教会立の園では、これを牧師夫人がしているところも多くあるが、課題は重いし、何らの解決にならない。ぼやいてもしかたないという、ことからやらなきゃというのが現状である。


◆「ルターの言葉から」
町や城や金や銀ではなく、天上、地上における最大の宝として、私たちと弟子たちに聖霊はご自身の平安を残していかられるというのです。これは実にすばらしい最後のお言葉です。弟子たちは恐れたり嘆いたりする必要はなく、心のうちに希望に満ちた平安をもつことができるのです。
主は言っておられます。わたしに頼っている限り、まことの平安と喜びがある。わたしの臨在とメッセージは、わたしが心からあなたがたを愛し、あなたがたの益のみを望み、また、わたしの父は最高の恵みのうちにあなたがたをご覧になっておられるという事実を教えてきたものである。これこそわたしがあなたがたに残して行くことのできる最上の贈り物である。
ヨハネによる福音書14章の講解



◆北米のルター派・その歴史 23チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)3
アメリカのルーテル教徒とヨーロッパ、とりわけドイツのルーテル教徒との関係では、第一次世界大戦がもう一つの転換点でした。1900年代初頭には、ルーテル教徒の間に、教会および個人の生活をアメリカ流に変えていこうという意識が育っていました。最も劇的に変わったのは言葉ですが、それだけではありませんでした。少なくともそれと同じくらいに重要なのは、ものの見方や忠節な行為においても、ルーテル教徒はこれから先アメリカ人であらねばならないということを悟ったことです。これまで姿が見えなかった、アメリカを表す基本要素がもっとはっきりわかるようになりました。例えば聖域に掲げられたアメリカ国旗は、アメリカの精神文明によって元気づけられることを示す標識としてだけでなく、第一次世界大戦では愛国心を示すしるしでした。


◆大森通信
やっと改修中の休館の園舎の足場が取れた。旧館の壁のタイルは清掃され、優しい趣のある橙色のタイルの姿が見えてきた。心がほっとして優しさに包まれていく。こんな雰囲気をどこかで経験したことがあると感じたとき、「そうだ、福本先生とお会いしたときに」。建物は、その人の気持ちがいつまでも生きていると思う。福本先生に見えてきた。
初めの計画では、老朽化し汚れていた壁を有機質のペンキで、塗装して塗りつぶしていく予定であったが、S兄の提案で歌舞伎座改修に使われた無機質の塗料を使い、タイルを残すということになった。余分に100万円かかるが、建築委員、役員が賛成してくださり着工した。幸い工夫をして、予定の100万円の経費もかからずに出来た。実行してよかったという感動を味わっている。金と手間がかかったが、歴史を塗りつぶさなくて、よかったと思っている。
ここに昔からあったように、調和して新館も旧館も今を建っている。見るとどこを改修し、新築したのだと思うような趣であるが、後の人がどう評価するか分からないけど、満足いけるものであると私は思っている。何よりも優しい雰囲気に癒され、教会に生きて信仰を証した人たちの息を感じる。

2013年5月12日日曜日

復活後第6主日 

わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

ヨハネによる福音書17章26節

【説教要旨】
今日の聖書の日課は、イエスさまの祈りの後半にあたります。前半は弟子たちへの祈りであり、後半は弟子たちによって主を信じる者となった者への祈りです。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」これは、主を信じる教会へのイエスさまの祈りです。
イエスさまは何を祈っておられるのでしょうか。僅か数節の中で出てくるお言葉に注目したいのです。
「一つにしてください。」、「一つであるように、」、「一つになるためです。」、「完全に一つになるためです。」
 わずか3節の間にこのようにお言葉が繰り返されるのは、イエスさまが、信じる群れである教会が一つになることを望まれているということではないでしょうか。
「使徒たちの言葉によって、信じるすべての者には、約束が与えられています。つまり、すべてのキリスト者とひとつのからだになり、ひとかたまりのパンとなるという約束が、キリストのゆえに、またイエスのこの祈りの力によって与えられているのです。ひとつの肢体に良いことと悪いことが生じると、全体に対しても生じるてくること、ひとりふたりの聖者だけでなく、預言者、殉教者、使徒たち、すべてのキリスト者、地上天上を問わず、すべての主にある者が、その人とともに苦しみ、あるいは勝利を得、その人のために戦い、その人を助け、守り,救うこと、キリストにある者すべてが、その人の苦しみ、願い、悩みを担うこと、またその人は聖徒たちのあらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有が行われるとの約束です。」とルターは言っています。
この一致の基は何かということです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、」とありますように、父なる神と子なるイエス・キリストの一致です。その一致は「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。26節にありますように、「わたしに対するあなたの愛」、愛によって、結ばれた一致であります。そして、この愛が私たちに与えられ、私たちとイエス・キリストの一致があるというのです。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。父なる神の愛において、私たちは一致があるということです。逆に私たちが一つになるということは、父なる神の愛の証しでもあるということではないでしょうか。一つになることが祈りとなっていくように教会は作られているのです。
「キリストにある者すべてが、その人の苦しみ、願い、悩みを担うこと、またその人は聖徒たちのあらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有が行われるとの約束です。」という愛において他者の痛みを負いつつ、負うことにより「あらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有」という出来事が起きてきます。ここに教会の姿が見えてくるのです。一つになるということの難しさ教えている現実も私たちの内にあることも事実です。目を離さずに、だから一つとなるための祈りを祈っておられるのです。イエス・キリストは一つとなる祈りを今日も熱く祈っておられる。イエスさまの祈りにおいて、私たちはひとつとされていくのです。
パウロはエフェソ書、4章で次のように語ります。

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

◆牧師室の小窓からのぞいてみると
姑息な手段 2
川口参議員が環境委員会委員長の解任決議を受けたということに、この日本はどこにいくのだろうかとふと思った。
確かに委員会を招集しながら、中国要人と会うために休んだことは良くない。しかし、解任されるほどのことかと思うのは私だけであろうか。そして、これを討議する委員会に与党が欠席するのも大人げない。
今の日本は、大人げないということが蔓延しているように感じる。大きな政治家がいない。
曽野綾子氏が「賢母はいるが、大母がいない」と言っていたが、「賢い政治家はいるが、大きな政治家がいない」、すべてのところに、私たちの教会においても。
正直、賢さにうんざりしているし、賢さが国を滅ぼしそうである。


◆「ルターの言葉から」
母は薪をひろい背負って家に持ち帰らなければならなかった。こうしてわたしたちを育ててくれた。今日、この世の人がとても耐えられないような厳しい苦難を両親は耐え忍んでいた。
ルターと母親の関係を論じた本は少ないと思う。父親との関係を論じたエリクソンは「もし彼の母親の声が天国の歌となって彼に響くことがなかったら、あのように後年ルターが語ったり歌ったりすることができただろうか」と、母親との関係を言っている。


◆北米のルター派・その歴史 23チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)2
移住者の出身地の変化の他に、1900年代初頭は合衆国におけるルター派のアイデンティティが成熟し、固まった時でもありました。このことを示すのは、国内伝道から海外伝道への転換です。実際、1900年以前には、インド、中国、日本、マダガスカル、アフリカにはわずかな宣教師が送られているだけでした。しかし、1900年代初頭に流れが変わりました。突然、全てのルター派のシノッドとカウンシルが宣教師を派遣し始めました。
 外国伝道を立ち上げるだけでなく、合衆国内では合併が進められました。1900年代の初めには、小さいものを除いても36以上のルター派のシノッドと会派がありました。互いの壁を外す努力によって急速に事態が変わり始めました。1918年までにいくつかの大型合併が行われました。1917年にはハウゲ シノッド、ノルウェー合同ルーテル教会、ノルウェー シノッドが合併して米国ノルウェー・ルーテル教会が作られました。1918年には、一般カウンシル、一般シノッド、南部合同シノッドが合併して米国合同ルーテル教会が作られました。

2013年4月21日日曜日

復活後第3主日

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
ヨハネによる福音書10:27

【説教要旨】
この聖書の箇所の前に良い羊飼いの譬があります。良い羊飼いは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。11節」、「わたしは羊のために命を捨てる。15節」と言っています。羊飼いはイエス・キリストです。このみ言葉はイエスさまの生涯そのものです。そして、この命を捨てるのは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言っています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という16節の羊は、私たちの命の回復のためにキリストが命をささげてくださったという愛にふれて、イエスの群れに入ったものです。
今日の「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」というイエスの言葉は、イエスの群れに入ったものは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」存在であり、「彼らは私に従う」という存在となっているということです。「私に従う」ということはどういことであるかということです。それは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」、「わたしは羊のために命を捨てる。」存在であるということです。
佐藤優氏がいうように「イエスは、自分のために人生を生きたのではない。他者のために生きたのである。そして十字架の死を遂げた。キリスト教徒は、このイエスの生き方を規範としなくてはならない。教会は他者のために存在するのだ」生きるということであり、十字架と復活を生きる私たちの生き方であり、証であるということです。
静岡大学名誉教授寺澤節夫兄が「復活を語る」という文章で、「“復活とは?”という問にこう答えてみたらどうかと考えた。今日御活躍の養老孟司先生のような大脳生理学の表現法を引き合いに出すなら、“脳の中により上位の新しい見張り所が出来た”、そのために“それまでの古い脳の働きが今や不用なものとなった”と言ってもよいのではないかと。そのような新しい脳の見張り所は、新しいヴィジョンの司令塔であり、真っ暗闇であったところに生まれた光でもある。問題は、それがどうして出来たのかは解らないことである。なぜなら、それは人間力によって出来たのではなく、高次の生命の創造作用の結果生まれたからである。そのために、閉塞状態に置かれていた弟子達はそれを破られ、新たな希望に満たされて前進出来るようになったのであり、そこに絶望から希望への転回を表現出来るのである。・・・・希望の無い人生に、どのような未来があるというのか。このような、絶望のただ中にあった人々の希望への転回。ここに復活の意味があると言えよう。・・・弟子達の絶望から希望への転回は大いなる出来事、揺ぎのない希望への確信、また未来への新たな指針を生み出すコペルニクス的転回の体験だったと考えられるのではなかろうか。」と言われています。
私たちは小さく弱く、神から離れる罪人である。しかし、私たちは新しい命を豊かに生きるとき、絶望にあっても希望を生きる存在として、今の社会がもっている課題に生きようとする力が私たちに与えられるのです。
寺澤氏は「復活の命は、神の人間に対する愛の徹底のためであり、愛の徹底のために罪を担う痛みが生きられる結果としての大いなる恵みだからである。したがって、絶望の中で与えられる希望は、また私達にそのような愛の模範に倣うことを要求するものであり、そこに私達の生きる指針もまた有ると思うのである」といっているようにイエスの愛に倣う存在としての豊かさに変えられるのです。私たちが聞き分ける羊の声とは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」という声です。
私が教区長なら、教区50周年の記念の行事を仙台か福島で行うでしょう。それは私たちが3・11の東日本大震災を経験し、「したがって、絶望の中で与えられる希望は、また私達にそのような愛の模範に倣うことを要求するものであり、そこに私達の生きる指針もまた有ると思うのである」ということの「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という者の証ではないないかと思っています。私たちの教会、私たちを取り巻く社会的状況は決して良いものではありません。しかし、「新しい脳の見張り所は、新しいヴィジョンの司令塔であり、真っ暗闇であったところに生まれた光でもある。問題は、それがどうして出来たのかは解らないことである。なぜなら、それは人間力によって出来たのではなく、高次の生命の創造作用の結果生まれたからである。そのために、閉塞状態に置かれていた弟子達はそれを破られ、新たな希望に満たされて前進出来るようになったのであり、そこに絶望から希望への転回を表現出来るのである。」という歩みを苦しみ、痛みのうちにある者とともに歩みたいのです。東教区の宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」ということを私たちは主に助けられ、主によって具体化されることを信じ、自分の手でなしとげていきたいのです。私たちは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「教区総会の無気力」
  全国総会、教区総会に出席して感じることは議論もなく、無気力が漂っているということである。
「西欧が衰退しているのは、近代が臨界点にたっしているからだ。プロテスタンティズムは、近代と手を携えて発展していった。従って、近代が終焉期を迎える状況において、プロテスタンティズムも機能不全を示すのだ」(同志社大学 神学部―佐藤優著)と言って、機能不全とは「それは伝統的キリスト教諸教会の精神的無気力の問題である。」と言う。
そこから一歩進むには、ボンフェッファーが言うように教会が自己保存的になってはいけないと指摘する。だから「イエスは、自分のために人生を生きたのではない。他者のために生きたのである。そして十字架の死を遂げた。キリスト教徒は、このイエスの生きた方を規範としなくてはならない。教会は他者のために存在するのだ」(同志社大学 神学部―佐藤優著)という指摘に耳を傾けたい。
東教区の宣教方策の基本の「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」ということは正しいと思う。これに何も具体案を示さなかったのは、本当の意味で上記のことを受肉―自分の痛みとしていないーしてないように思う。これが無気力を生む。指導者の責任は重い。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
建物が二つになり、電力料金は二倍になる。
給与も上げ、待遇改善をした。保育料を上げても、値上げ分は、ふっとんでしまう。新年度の出発は、経営のことから始まった。また障碍児を受け入れていくことは保育者を増やすこと、手厚く保育するなら教師の待遇を厚くすること、当たり前のことだが、考え出すと現実と違いに胃腸の調子が狂ってくる。


■ ルターの言葉から
「わが神、わが神、なぜ私を捨てられたのですか」と叫ばれたときも、父は主のことを知っておられました。
このみことばでも主は、「父はわたしを知っておられる」と言われます。これは、(このような恥と、苦しみと、辱めにあっても)羊たちを救い贖うために魂を注ぎ出し、犠牲となるために神から送られた愛するひとり子として父が知っておられるという意味です。また、イエスの側からいえば、恥と十字架と死を通して、父は、命と永遠の栄光の内に自分を導いてくださることをしっているという意味です。
ルターにとって十字架の苦しみは、命と永遠の命へ向かう欠かせない神の出来事であった。


■ 北米のルター派・その歴史 20チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)3
 以前シャフ教授が考え出した新、旧、中庸という仕分けを使うと具合がよいと思います。これらの新組織は、「新ルター派」が1821年に作られた一般シノッドの傘下に集合したのと時を同じくして発展しました。「旧ルター派」は、多くが1847年に作られたミズーリ・シノッドおよび1850年に作られウイスコンシン・シノッドとして知られるようになったシノッドに属しました。「中庸派」は、多くが1867年に作られた一般カウンシルに属していました。以上のルター派シノッドおよびカウンシルは、民族や教義の違いによって複雑に分かれたグループをカバーしてはいないものの、主要なグループでした。
 この移住者第二波の時期には、かつて持っていた「故郷」伝道の活力が、前面に出ていました。その活力が「同郷人」、「血につながる者」に向けられたので、故郷伝道と呼ばれます。この時期には、移住者達を集わせ、居住地の世話をして使徒団に入れ、そこに牧師を供給することに莫大なエネルギーが費やされました。同じ民族の移住者につながる大学、神学校のために大きな努力がなされました。

2013年4月14日日曜日

復活後第2主日

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ルカによる福音書24:36

【説教要旨】
幼稚園で毎朝、門のところで子どもを迎え、朝の挨拶を交わしています。「おはようございます」という挨拶は、日常的な挨拶ですが、しかし、ごく日常的な挨拶でも誰とどこでどのように挨拶するよって、大きく意味が違ってくると思います。園児と保護者と交わす朝の挨拶は、形式的に挨拶するとのは違った重みがあります。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
「あなたがたに平和があるように」という言葉は、当時の日常的な挨拶です。ですが、復活したイエスさまに出会ったときの「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、いつもと違った意味があるように思えます。
復活という出来事の中で、この挨拶はこういう意味をもってきているのではないでしょうか。
生前にイエスが十字架に死に、三日目に甦るということを聞いていたし、期待していたのですが、現実ということでその期待を押しつぶしていたということです。本当に信じきることが出来ないでいたということです。その暗い、イエス・キリストを信じられなくなっている弟子の罪を打ち破るように弟子らの前に復活して、イエスさまは現れたのです。人間の信じきることできないこの罪を、私たちが信じることのできるように神さまはイエス・キリストを遣わしてくださり私たちのあらゆる恐れは取り除かれ、罪と死の支配は終わり、私たちが神との平和、人々との平和を得た。今や、あなたがたのうちに、平和が与えられているという強い意味ではないでしょうか。
私たちのために、ひとりで平和を勝ち取った方が、このように挨拶をし、イエスさまご自身、「平和」である方が、十字架につけられて、甦られたイエス・キリストが私たちと共におられるという意味の挨拶です。復活を信じるということは、いまや私たちが一人で生きていくのではないということです。私たちと同じように生きておられるイエス・キリストとともに生きるということです。それは地上の命のなかで永遠の命を生きていくことです。ここに、私たち信仰者の土台があるのです。
なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」という復活したイエスさまのお言葉です。それは逆に復活を信じる者においてはうろたえるという闇が命の光のなかで消し去られていくということです。
イエスさまの復活を信じるということは、人が一切の自分の思考、行動がイエスさまの復活ということで規定されていくということです。それは人間を縛っている死さえ乗り越えて命という開放であり、自由です。ここに本当の救いがあるのです。この救いの自由によって、私たちの生き方が規定されていくのです。
弟子たちは、今まで自分を縛っていた、規定していたこの世の論理から、イエスさまへの復活の信仰においてのみ規定されていくのです。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
「平和があるように」という主のこの言葉によって、不安で暗い日々の後で、再び喜びが与えられるのです。
佐藤優氏が「キリスト教を十字架とは別の物語として読むことも可能だ。神が神の栄光を回復していく物語としてである。・・・・・イエス・キリストは十字架につけられて死んだが、それは復活のために必要だったのだ。復活によって死と罪に対する神の勝利が明らかになった。それだからわれわれは、神の勝利を基礎に、神の栄光のために生きるのである。」と言っています。
「神の勝利を基礎」として私たちは、生かされているとのです。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」とあるように、喜びの中を生きることができるのです。
「平和があるように」というイエスさまの挨拶は、私たちにとっては、神の勝利の言葉であり、私たちの人生の基礎であります。
大きな変化の時代を私たちは、自分の意志がどうであれ生きて往かなければなりません。不安で暗い日々もありましょう。確かに可笑しなことにイエスさまが共におられるということを心から待ち望むときに限って、いつも信仰が揺らぎ、他のことがらへの恐れがあり、イエスさまから離れようとする、しかし、「平和がある」という主の勝利の挨拶、言葉が私たちがめぐらした壁を越えて語りかけられてきます。主と共に歩んでいます、いきましょう。
「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」というイエスさまのお言葉をもう一度噛み締めながら復活の命のなかをともに生きてまいりましょう。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると

「社会性」
今、「同志社大学 神学部」(佐藤優著)という本を読んでいる。
「キリスト教という『物語』が十字架におけるイエスの死に集約されているというのは、キリスト教を読み解く際のひとつの切り口だ。十字架に神の死、苦しみの全てが集約されている。十字架から『物語』を構成するならば、ルターが説いたように、悔い改めを中心とする信仰義認論に行き着く。実をいうとここから真の社会性はでてこない。デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」と言って、これも一つのキリスト教を組み立てる神学だと言っている。
「実をいうとここから真の社会性はでてこない。」という言葉に私も常々感じるものがあった。とくに社会性をもって活動している牧師らを神学がないと切り捨てる声を聞きながら、これで良いのかと思っている。
「デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」という言葉にも私は真摯に向かい合いたいと思った。


■ 新米園長・瞑想?迷走記

入園式の言葉には、いつも悩む。キリスト教主義の園であり、ルーテル教会の園で、どう園児が三年間を過ごしていくのか伝えなければならない。一晩中、悩むのだが、出たとこ勝負にいつもなる。入園式とともに、実践が始まった。


■ ルターの言葉から

おそれの中にあるとき、神に向かって叫び求めるなら、神はいつでも助けてくださいます。キリストは、おののく弟子たちを捨てておいて、いつまでも外にいるということをしないで、入ってきて「平和があるように」と言って慰め、「わたしだ。恐れることはない。勇気を出しなさい」と言われました。それと同じように、今日も神は私たちを慰めてくださいます。私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び、私たちに喜びと揺るがない心を与えてくださるのです。
キリストがおられるところには、聖霊も来られます。・・・・私は、自分でなしたかのように、キリストのみわざのうちにあって慰めを受けるのです。(復活後第一主日の説教)ルターの信仰に復活信仰は強く、それは「神が共におられる」というとなっていく。


■ 北米のルター派・その歴史 19チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)2
 大勢のスカンジナヴィア人の到来で、新しい言葉の要素と共に、ルター派のアイデンティティにこれまでと違ったものが加わりました。それは礼拝式文に顕著に現れました。例えば、主にスウェーデンの教会出身のスウェーデン人移住者は、礼拝の中に、初期のアメリカのルーテル教徒の多くが除外していた要素を取り入れました。
 この大きな第二の移住者の波によって、民族的な背景をもとに、多くのルター派教会、シノッド、コンファレンスが組織されることになりました。1853年にノルウェイ・シノッド、1860年にオーガスタナ・シノッド(スウェーデン)、1878年にデンマーク教会、1890年にスオミ・シノッド(フィンランド)などです。これらの組織は、どこにも属していないものを、移住者の出身地に応じて、沢山あるシノッド、コンファレンスの中に取り込んだだけという形で大きくなりました。

2013年4月7日日曜日

復活後第1主日

わたしたちの心は燃えていたではないか。
ルカによる福音書24:32

【説教要旨】
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」
エマオ途上の出来事として、大変に有名な物語です。私たちも人生の途上にあり、夢破れて、意気消沈し、自分の故郷へ帰るという状況に置かれるときもあるでしょう。途上にある私たちですが、私たちが生きていく、信仰生活をするということはどういうことであるのでしょうか。神を信じるという一言につきるでしょう。
「『神を』信じるという場合の『信じる』ということの側面について話が進んでいますが、信仰以前に、人間関係における他者との信頼関係について考えてみますと、人間の成長において信頼関係が築けるかどうかということが大事だと、心理学的には大事だといわれていますよね。信頼がないと心がすさみます。信頼というものは人間の成長段階では親子関係に始まるものかもしれませんが、『信じるに足るものがある』という感覚は人間存在にとって基本的なものだと思われますし、理屈ではなく、誰でも共有できることがらです。宗教のことを考えてみたいのです。信仰は人生にとってプラスαのような付加的なものでなく、人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になるのだろうと思うのです。現代という時代は他者との信頼関係を築くことが乏しくなっているために、心が不安定になる人が多いのでは、と感じています。」(福音宣教3月号)
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、」と主イエスが言われるとき、私たちの心が主への信頼を欠く、「宗教のことを考えてみたいのです。・・・・・人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になる」というとき、同時に信頼もなくなり、信頼の対象をも失い、今、信頼の対象から逃げていくのです。それは、私たちの中にも日々、起こることでもあります。心が不安定になる。
これとは逆の言葉が、出てきます。「心は燃えて」という言葉です。
聖書に聞いていこう。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。弟子が「心がもえた」のは、自分のうちに確信と力満ち溢れていたからではありません。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とありますようにイエス・キリストの対話のなかで「心が燃える」ということがおきるのです。
イエス・キリストとの対話の中で、心をイエス・キリストに向かわしめる。そして、さらに人間存在の根底にある信頼を回復してくださる方が私たちの傍に立ち、歩んでいてくださるということを受け入れたとき、燃えさせるものが生まれてくるのです。そして、私たちを作っていくのです。
今日、教会の制度も、教育もすべてにおいて整えられたのにもかかわらず、教会の現状を憂いている牧師さんがおられました。教会に覇気がない、元気がない、つまり「心が燃える」ことが欠落しているように感じられているというのです。

二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると

今日、私たちの教会に欠けるのは、私たちの傍らで歩んでくださるイエス・キリストに目が開けていないということではないでしょうか。私たちの信仰の生活においても、私たちの傍らに立ち、歩んでおられるイエス・キリストに目を開くことが大切ではないでしょうか。また、私たちの信仰生活とは「いつもイエス・キリストに目を開く」ということの日々ではないでしょうか。
遠藤周作は、「決定的に何かがそこに加わらなければ、弟子たちは結束して、信仰に燃え、多くの異邦人の国々に旅する筈はないのだ。決定的な何かが加わらなければ、あれほどの師について理解少なかった弟子たちが本当の教えを知る筈はないのだ」といって、生きたイエスに出会ったことにある。復活にあるというのです。ルカは復活を神のイニシアチブと強調します。神が働く、ここに私たちが復活の力をいただき燃えていく。私たちが何よりも神の働きを強く信じることです。信頼していく、イエス・キリストに目を開き、向けていくことです。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった
私たちも旅の途上にあります。その途上にあって、イエス・キリストが見えるところは、今、私たちがいるここ、礼拝の場です。ここから神の働きを受け、心が燃やされ、神の愛を証しするものとして旅立てるのです。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「豊かなのに苦しいわけ」
  大阪大学の大竹文雄教授が「現状の豊かさを維持するだけでも、私たちは従来とは異なる水準、異なる質の能力を身につけていく必要がある。それが豊かなのに苦しいと感じる理由である」と言われている。確かにそうだと思う。異なる水準、異なる質の能力をつければ、さらに豊かになると違い、現状のまま、あるいは少し落ちるということははつらい苦しいことだと分かる。
しかし、ここでいう「豊か」ということは何なのだろうか。現状の生活の豊かさであると思う。
 豊かさの質を問われているのだと思う。
 「現状あるいは少し低いレベルを維持し続けるだけでも相当な努力が必要だ。豊かな社会を生きていくためには、その覚悟がいる。」といっているように、豊かさの質こそ違えども「覚悟」がいるというしんどさが必要な時代にきていると思う。そのことに教会が取り組むことが宣教方策ではないだろうか。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
都からの補助金作業がまだ続いている。昨年、計画書を出し、-その書類の多さ、細かさー、今年は、申請書、次に調査を受け、補助金申請の金額が決まり、さらに今週は実績報告書、支払金口座の依頼書と続いた。経験出来ないことをしている。大きな幼稚園ではこれを事務担当が整えるのだが、小さな園では園長になる。事務職員をおいていない園さえあり、園長がやっているところもある。三月から五月にかけて補助金を含め諸書類の作成、提出に翻弄されるのが常である。


■ ルターの言葉から      
だから、十分注意するがよい。賜物としてのキリストがあなたの信仰を養い、あなたをキリスト者とするのである。模範としてのキリストはあなたの行いの訓練をするが、その行いはあなたをキリスト者にするのではない。それは、あなたがすでに前もってキリスト者となったのちに、あなたから発するものなのである。だから、賜物と模範とを十分区別するように、信仰と行いも十分区別すべきである。信仰はないにひとつ自分のものを持たない。持つのはキリストの行いといのちだけである。行いはあなた自身のものを有しはするが、あなた自身のものではなく、隣人に属するものであるべきである。
(福音書においてなにを求め、期待すべきか)

ルターの「キリストのみ」という信仰原則が、ここにもはっきりと示されてくる。   


■ 北米のルター派・その歴史 18.チャールズ フレドリクソン第二の波(1850~1890)1
 ヨーロッパの、ルター派が多い地域からの移住者がピークに達した年は1882年でした。1882年には、それ以前やそれ以後にもないほど多くのドイツ人やスカンジナヴィア人が大西洋を渡ってアメリカにやって来ました。1890年代になるとドイツ人移住者の数は急激に減少しましたが、スカンジナヴィア人は引き続き第一次世界大戦(1914~1918)まで大勢やって来ました。
 この第二の移住者の波で、アメリカのルター派移住者は新たに複雑な経験をすることになりました。既に述べたように、1800年代半ばまでは、アメリカのルター派は新、旧、穏健に分かれていました。また、言語によってグループがさらに増えました。基本的には、英語、ドイツ語、スカンジナヴィア圏の言語です。