2012年5月6日日曜日


復活後第4主日




  父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  ヨハネ15:9

【説教要旨】

私の婚約式のときに家内と交換した聖書に私を導いてくださった内野牧師が、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」今日のみ言葉を書いてくださいました。

結婚して、結婚生活をしていくとき、男と女の愛し合うという、人間だけの愛だけでは、結婚生活は、到底維持できないということをひしひしとこの歳になり、さらに重く感じています。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

私たち二人だけのものでなく、クリスチャンはもう一人の方と共に繋がっているということです。それはイエス・キリストと繋がっているということです。それを私たちは、人生の歩みの中で忘れがちになります。結婚式の誓約を思い出してください。初めは神さまと誓約を交わします。次に結婚する二人同士が誓約します。私たちが神の前で結婚するということは、結婚が私たち二人だけの繋がりでなく神との繋がりがあって成立するということです。

夫婦であり続けることができるのは、人の力を超えたもう一つの力に支えられていたと思っています。枝が木につながり水や栄養分をもらって生きて、成長しているように、神の愛をもらって人の愛を超えたものをいただいて、私たちは生きているのです。

ブラジル聖公会の弓場司祭のお父さんが天に召されるとき、息子を呼んでいわれたそうです。「お前は、よく勉強し、良い司祭になった。しかし、聞きなさい。繁、いいかイエスさまのどこでもいいからしっかりと握って、離さないでいなさい。そうすればきっと間違いない」といわれたそうです。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶというみ言葉、そのものではないでしょうか。長い甘いも辛いも信仰生活の中で経験しながら、イエスにつながることの力強さを心で受け止めていた者の言葉ではないでしょうか。

イエスさまに繋がることは農夫である神さまの働きがあるのです。神の働きこそ私たちを作っていくのです。私たちは神に繋がるということを自明のように受けとめてはいけません。だからイエスさまは「わたしにつながっていなさい。」とあるように命じられるのです。私たちは一瞬、一瞬、このことを心に刻みつつ、一瞬、一瞬、この命令に従っていくことが大切なのです。すなわち、

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」

父なる神がイエスさまを愛した。イエスさまが私たちを愛してくださった。愛という意味では同じです。しかし、ここで大きな違いがあることに気づきます。父なる神が愛すべきイエスを愛された。イエスは愛すべき私たちを愛したのではありません。私たちは愛される存在ではありません。むしろ、神に背く者であり、罪を犯す者であり、神に敵対する者です。しかし、イエスはこんな私たちを愛してくださっているのです。これは当然のことのように私たちは思っていますが、当然なことではないのです。だから「わたしの愛にとどまりなさい。」と命令がやってくるのです。

さらに「戒めを守るならば」とあります。戒めとはなんでしょうか。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

互いに愛するということです。その愛とは、愛する対象になりえない者を主イエスが愛されたように愛するということです。これは自分が愛されるに相応しくない存在であるということを知ること、「つながっていないさい」ということを日々、噛みしめるということ、それゆえに「互いに愛し合いなさい。」ということが起きてくるのです。

神の愛、イエスさまの愛に留まるという事です。人の愛でなく、神の、イエスさまの愛に留まることこそ、すべての基が私たちの内にあるのです。

イエス・キリストの贖いによって、私たちはすでにキリストに結びつき、キリストの愛に留まっているのです。私たちはイエス・キリストのうちにいるのです。私たちは愛される存在とされているのです。それはいつも「つながっていないさい」、「互いに愛し合いなさい。」という命令、励ましの言葉があり、これに聞くものでなければなりません。これに聞いていく者が私たちキリスト者なのです。豊かな実を、愛の実を結ぶのです。すべて、ここから私たちをはじめていくこと、私たちが主の弟子となることです。神に、キリストに、支えられ、愛され、育てられている自分に深い感謝をもって、人生を一歩踏み出しましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると


新米園長・瞑想?迷走記

入園児を私たちは多く迎え、経営は安定しているが、地方の教会は大変に苦しい状況にあることが分かった。今月、ルーテル幼稚園保育園連盟の総会があるが、痛みを自分の痛みとして、共にキリスト教保育を発展させていくことを考えたくなった。自分の園だけでなく、他者のことも考えることが出来る教会の園となりたい。


ルターの言葉から

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」            ヨハネ15: 9

キリスト者の間から愛を締め出し、そこに憎しみと嫉妬をきたらせようと、ひたすら努力するほど、悪魔が喜び、望むことはありません。愛によってキリストの国が建設され、維持されることを悪魔もよく知っているからです。

キリストは、私たちが何よりも愛を保つようにと熱心に勧め、そして父とご自分とをそのことの最高で完全な手本としてお示しになりました。(イエスの言っておられる意味はこうです。)わたしの父はわたしを限りなく愛して、わたしの内にあらゆる力と権威を置いてくださった。今、父はわたしを苦しみにいれようとしているがわたしが行い、苦しむすべてのことを、あたかも神ご自身に対してなされたかのように受けとっておられます。そして、わたしを死から命へと甦らせ、万物の主とし、わたしの内に神のみいつの誉れを帰させてくださるのである。(イエスはさらに言われる)そのように、わたしも<あなたがたを>愛するのである。わたしはあなたがたを罪と死から救い出し、わたしの純潔ときよさ、死と甦り、わたしの権威のうちにあるすべてのものを与える。それゆえ、わたしの愛の中にとどまりなさい。たとえわたしのために激しい苦悩に見舞われ、激しい試練を受けて、わたしから離れさせようとしても、耐え忍びなさい。あなたがたの苦しみや痛みよりも、わたしの愛をより強く、より大きく感じなさい。

私たちはこのキリストの模範に従い、それぞれの能力に応じて、互いにこの命令を実行することを学ぶのです。
ヨハネ福音書講解より



(大森日記)礼拝後、耐震工事への最終の説明会の信徒会、その後の建築・役員合同委員会と続く。みなさんがよくついてきてくださっていることを感謝します。翌日、ブラジル伝道報告会が開かれ、神さまのくすしき御手を感じさせられた。神さまは生きておられる。1日から全国牧師会、2日から全国総会と雨の中で開かれる。聖書を生きる大切な力は座力(コーアハ・イェシヴァ)、座る力だという。座ることから始まる。まさにそんな時間の4日間でした。総会後、名古屋の役員さんが生まれた文京区を散策。神田川、湯島聖堂が遊び場だったという。そんなとき防空壕の跡、強制疎開で家が壊された話などを聞き、平和の大切さを感じ、今を生きている幸いを感謝している。昼食をご馳走になりながら、伝道とは何かということを熱く会話する。もっと伝道しなくては。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。 

日)耐震工事の信徒会。説明をしながら理解をしていただくのが、色々な貴重な思いがあるので、一つ一つに完全に応えていくことの難しさをひしひしと感じている。いつも教会の建築がついてくる。別府時代は集会室の建築と会堂、牧師館の改修、サンパウロ時代は教会堂の建築、資金はあったのだが、これは計画倒れで終わった。刈谷は教会堂、牧師館の建築、静岡は数教会、施設の建築、名古屋は改築と続いている。もって生まれた星の下というのがあるのだろう。夕礼拝後にみんなでゆっくりと聖書のことを話す。時の穏やかさに心静か。
)ブラジル伝道報告会、50名の方々が来てくださり、熱心に耳を傾けてくださる。夜はブラジルの婦人に、くるくる寿司は行きましたかと聞くと行かれていなかったので連れて行く。日本の文化です。長男が来たがすぐに婚約役者の所へ。嬉しいようで寂しい。
)木曜日のブラジル報告会の朝食の材料を買いに鶴見に行く。つい、買いすぎてしまう。夕刻より牧師会。だれていると大きな声をあげて発言した方が、夕礼拝にはいなかったのはなぜだろうか。やはりだれているからかも。友人と新橋で飲み、電車がなく品川まで歩く。そこから次男にSOS
)今日は、教師会、全国教会総会と続く。雨が強く、足元が濡れてしまう。地方の教会の幼稚園の経営環境の厳しさをうったえるアピール。
)総会、朝のブラジル朝食会の準備。雨。足元が悪いのにもかかわらず出席くださる。感謝。昨日の幼稚園のアピールにたいして、責任教区の役員の弁明あり、自分たちは存知せず、まことに遺憾、なんと冷たい答えか。腹立たしくなる。久しぶりに怒り。
)総会最後の日、終わり議事進行のお役を終わり、ほっとしていると名古屋の役員さんがご褒美に高い21階のレストランに夫婦を招待してくれた。いつも牧師をきづかってくださる。関東大震災後に作られた震災復興公園である文京元町公園を散策。震災後鉄筋コンクリートの小学校と避難所となる公園をセットに作ったという。この英知を昔の人はもっていた。
)総会疲れの上役員会の準備などしているとうとうと。妻は友人宅でパーティー。帰ってきて原稿を推敲してくれる。感謝。明日は息子は礼拝に出てくれるだろうか。

2012年4月22日日曜日

2012年4月22日


「わたしたちも一緒に行こう」
ヨハネ21:3

【説教要旨】

花が上を向いて咲いている  私は上を向いて寝ている
あたりまえのことだけで 神さまの深い愛を感じる
これは星野富弘さんの詩です。私たちはどこを向くのかということを復活の出来事を通して私たちは知らされていくのではないでしょうか。
今日の聖書の日課にある物語に由来する教会がガリラヤ湖にあります。その床に魚とパンのモザイク画が描かれていたのが印象的でした。ヨハネ福音書は20章で終わっているはずなのですが、ペテロを中心として、ガリラヤでの出来事の一章を加えて復活の物語を展開しています。
エルサレムにおいて、二度、復活の主とお会いしていたのにもかかわらず彼らはなんとなくはっきりとしていません。ここで主は、弟子たちにどこを向くのかということを示されています。
彼らはもとの仕事である漁師にもどろうとしています。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。』
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え
なさい。という主の言葉はどうなっていったのでしょうか。
わたしは漁に行く」ということは、主のお言葉に反するではないでしょうか。私たちは「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。マタイ4:19」という主のお言葉を思い出しませんか。彼らは復活した主にお会いしたのにもかかわらずまだ主のお言葉と反している。しかし、確実に主は、人の思いを超えて、人のなす業を超えて、弟子に約束されたことが成る準備をしていてくださいます。「人間をとる漁師になる」とは言わないで、「人間をとる漁師にしよう」とあるように、人間をとる漁師に、私たちを主がしてくださるということが準備されていっていることがわかります。
 「わたしは漁に行く」とあるようにペテロらは、その日の糧を求めてでかけました。しかし、聖書は「しかし、その夜は何もとれなかった。」と記しています。彼らはその日の糧を得ることが出来なかった。食べるものがなかった。しかし、主は彼らをほってはおかなかった。「イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
復活の主は、私たちの生活の場にきてくださる。「子たちよ、何か食べる物があるか」、主は語りかけてくださる。そして指示してくださる。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と。主に導かれた私たちがいる。私たちの食べるという最も基本のところに主も生きてくださる。生きた主に気づく。「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
ペテロは気づくのです。またやった。自分の弱さ、主に促され、支えられて生きている自分に気づいていない罪のうちにいる自分に、それ以上に「すべての人の中で最もあわれむべき存在」であることに気づくのです。
しかし、主は、弟子を顧てくださいます。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」朝の静かな湖畔で、決して豊かといえないけど、しかし、日毎の糧が用意されている。体を温める暖が用意されている。この主が私たちとともにおられるのです。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
自らの弱さを自覚し、悔いている弟子の姿があります。それを赦し、主の弟子として出発すべき温かく愛に包んでくださる主の姿を読み取れはしないでしょうか。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と弟子らを整えてくださろうとする主のみ手を感じます。
わたしたちも一緒に行こう」、それは弟子らが仲間を作って出かけていくのですが、弟子の、私たちの人生を一緒にいくのは、仲間でなく主です。私たちが向くのは私の前におられる生きた主です。私たちが歩んでいくときに主から離れて、かつてに生きようとする自分、罪深い私がいる。しかし、主は一緒に歩んでくださり、指示してくださいます。支えてくださいます。私たちを主の弟子に相応しい人にしてください。主は「わたしたちも一緒に行こう」と今日も私の方を見てくださっています。だから「花が上を向いて咲いている  私は上を向いて寝ている あたりまえのことだけで 神さまの深い愛を感じる」者となるのです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

本能であり反射
私たちの世代によく知れた雑誌にポパイ(POPEYE)がある。そのポパイの創刊者・木滑良久さんの記事と言葉が目にとまった。
「大切なのは本能であり反射だと木滑は言う。『丁寧に突き詰めて、筋道を追求すると、僕たちの仕事は面白くなくなっちゃうんですよ』。」
信仰の表現にも通じるところがあるのではないだろうか。教会を表現するとき、組織としての教会(キルヘ)、交わりとしての教会(ゲマインシャフト)という具合に表現する。この交わりとしての教会が本能と反射で動くとき、交わりは面白くなるのではないだろうか。
組織としての教会(キルヘ)、交わりとしての教会(ゲマインシャフト)を使い分けたときこそ木滑さんの言葉が生きてくるのかもしれない。



新米園長・瞑想?迷走記

玄関を入ると左側にチューリップの花が咲いている。これは昨年の卒園生が、在園している時に植えたものである。右側には百合の芽が出て成長している。これも同じである。卒園した子どもたちが残してくれたものである。
彼らはもう園にいないが、それぞれの植物を見ながら、成長して、花をきっと彼らもやりとげるんだと思いつつ、「ありがとう。頑張れ」と声をかけている。
に兄弟のいるお母さんが「チューリップどうなっ た」と子どもが気にしていますと聞く。彼らも園のことをきにかかけてくれているのだろうか。                           


ルターの言葉から


音楽は神から与えられた最も美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽を嫌います。音楽は、誘惑と悪しき思いを追い払う大きな力をもっているからです。悪魔はこの女性(音楽)を受け入れません。
音楽は最もすばらしい芸術のひとつです。ことばを生かします。サウル王の例に見られるように、悲しみの霊を追いやります。
音楽は、悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。
音楽は神学と並んで、神の与えられた栄光の贈り物です。私はこの世のなにものをもってしても、この小さな贈り物と他の物を交換することを望みません。私たちは青年たちにこの芸術をもって教えるべきです。立派な賢い人々を作り出すからです。
讃美歌集の序文より

ルターは音楽に対して天才と思われる才能を発揮したひとです。しかし、音楽を単なる芸術作品として理解したのでなく、彼は音楽を「神の与えられた栄光の贈り物」として受けとめました。
この神の恵みこそ人を救うということこそ彼の信仰の中心でした。神の恵みとしての音楽は「悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。」と彼は発見しています。今日では、音楽で心の癒していくことに日野原重明氏などが注目をしていますが、ルターはすでにこのことに気づいています。
音楽の教会として、たゆまず私たちの教会が熱心なのは、ルターの神の恵みとして音楽を受けとめていったからです。



大森通信    
 

森一弘司教が「開かれた教会づくりをめざして」という本の中で「無力」ということについて書いている。
「宣教の現場は、私たち司祭がどんなに無力な存在であるかを否応なしに、教えてくれる。・・・・・・どのケースも重い。安易な解決はない。言葉は無力である。何かいわなくては・・・・・と思っても、現実を前にして喉にひっかかったまま言葉にならない。
こうした重く悲しい現実に共感し、それを背負い、共に苦しまれたのが、キリストではなかったか。
教えを説く以前の福音宣教の原点となる心が、ここにあるような気がするのである。」
全国総会が開かれる。教会の宣教について協議していくわけであるが、いつもひかっているは、私たちが何かが出来る、何かをしなくてはという人の誠実さである。ではなく、「こうした重く悲しい現実に共感し、それを背負い、共に苦しまれたのが、キリストではなかったか。」というキリストに向かうことではないだろうか。
無力を語る教会のトップの司教をいだいたカトリック教会は幸せなのかもしれない。


(大森日記)数ではないというがやはり数は気になる。しかし、毎週出席くださる一人一人方を覚えつつ迎えるのも礼拝である。今日も夕礼拝は一人の方であるがこの一人こそ大切にしなくてはいけないと思っている。礼拝後、復活祭の卵を届けに訪問に出かける。共に祈りつつ時を過ごす。今週も耐震工事のために多くの時間、心を取られる。携わりながら大切なことは工事がどうかでなく、ここにいる人、園児が大切にされていくことである。資金については課題が残るがアドナイエレ(主が備えてくださる)である。土曜日に義母の納骨式に出席。浄土真宗高田派である。「弥陀の本願」についてお話を受ける。どこかキリスト教徒と似ている。風邪で熱が出てくる。こんなときにすることが多い。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今週から本格的に教会学校が始まる。卒園した子どもたちが来てくれる。また父親の方も一緒に礼拝に出席してくださる。子どもへの説教を語りつつ、親御さんにも伝えていく努力をしている。教会、幼稚園の耐震工事のための委員会、並行して女性会とある。全ては計画通りにはいかないが、これも主の心があるのであろう。墓前礼拝には間に合わないので急遽、神奈川の信徒さんを訪問することにした。一週間遅れの復活祭を祝う。夕礼拝を静かに祈る。終わり、どっと安堵感に包まれる。
)何かをしていたのだが思い出せない。たぶん休んでいたのだろう。
)静岡のキリスト教道友会とその子、デンマーク牧場福祉会の協議で静岡に久しぶりに向かう。教会と福祉、初任地、別府から引きずっている課題である。夢を共に負っていけると思った。小田原まで各駅停車で本を読みながら時間を遊ぶ。心地よい疲れであった。
)都庁との耐震工事の実施についての協議。課題を整理していくのだが正直、綱渡りのようなところがありしんどい。子どもの安全を考えるとやらなければならない。午後から財務委員会、終わって古本を探していると悩んでいる青年から電話。いったん三鷹に明日の誕生会のケーキを取りに行き、引き返し青年と会うが、なかなか話さない。終電がなくなる。朝方になりぽつぽつと。真面目さと戦っている。力を抜け、頑張らなくても良いよと言いかけたがやめた。祈るしかない。
)朝の祈り、庭を掃きながら待つが誰も来ない。ベンチに座り一人祈る。夕刻から聖書の学び。ガラテヤ書である。その後出席した方と夕食を共にする。
)明日は、義母の納骨式、土曜日は空けなくてはいけないからやることはやっておこうと思うが熱でさっさと寝てしまう。起きたのは翌朝。
)納骨式、いらいらしていて妻と喧嘩。この頃、妻の正当論にいらつく。正しいことが正しくはない。熱がでて節々が痛いがやるしかない。長男に説教が出来ていたらくれというと拒否をくらう。そんなことで熱の中を作業している。これも楽しもうと慰めている。

主にあるみなさん
 週末風邪をひき、計画が大いに狂ってしまいました。熱とのどの痛みの中をやっと準備が出来ました。そんななかで息子に説教をくれというとやる理由はないと拒否されてしまいました。
 耐震工事の建築があり、百人いたら百人の意見があります。これを大切にしながらやっていると結構、ストレスがあります。なにを言おうと決断すればいいのですが。
 人の思いを超えて祈りつつ、計画をしています。
 先週からガラテヤ書に取り組んでいます。これがおもしろいのです。
 今週も皆さんの健康が守られますように。      竹田孝一

2012年4月1日日曜日


枝の主日                2012年4月1日


  もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 マルコ11:3

【説教要旨】
星野富弘さんの詩があります。

 いつか草が   風に揺れるのを見て     弱さを思った
 今日       草が風に揺れるのを見て  強さを知った

弱々しいとしか見えない草が、「今日」というある一瞬強いのだということを知った喜びと驚きが表現されている詩です。
「今日」という一瞬に何が起きたのでしょうか。

   門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。 詩篇24:910

私たちの内に王がお入りになるときです。その王とは誰か。今日、私たちはイエスさまのエルサレム入場から知らされるのです。
主がお入用なのです」とイエスさまは言いなさいというのです。明らかにイエスさまはエルサレム入場に対して自分が「」、すなわち「王」であるという意志をはっきりと示されています。イエスさまは今、私たちのところに王として来られるということです。
それは、また私たちの王はイエスさまであり、私たちはイエスさまに支配されているということです。実に当たり前のことですが、実に当り前のことが、星野さんの詩にあるように

 いつか草が  風に揺れるのを見て    弱さを思った
 今日      草が風に揺れるのを見て 強さを知った

という大転換が起きるのです。
主・イエス・キリストが、私たちの生活のすみずみまで支配されるのです。
この王が今、必要されたのは子ロバであるということです。戦いの軍馬でないのです。ロバは日々、日常の中で働いています。非日常的な軍馬でなく、ロバをこの王は必要とされているのです。

   娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。 ゼカリヤ9:9~10

特別に優れた軍馬ではなく、ごくごく日常のものを必要とされているのです。それは私たちの日々であり、私たち自身です。
『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。
主がお入り用なのです。」という言葉は、私たちにかけられています。
私たちは礼拝において「平和の祈り」をささげます。
主よ、私を平和の道具として用いてください。
私たちは、主の道具として用いられることを切に望み続けるものが私たち信仰者なのです。

私たちの内に入られた王なるイエスさまは、私たちを必要とされているのです。子ロバこそ私たちです。王なるキリストは、私たちの上に乗られて私たちを用いてくださるのです。
この王は戦いでなく平和を望まれているのです。ですから、罪にある私たちを敵として、戦わずに、この王は罪にある神の敵である私たちのために十字架の死に至るまで愛を示されたのです。イエスさまが、神が必要されているのは愛という力による平和です。
私たちは愛に満ちたこの真実な王を、平和を望まれている真の王を乗せるのは私たち一人一人であるのです。だから私たちはどんなに小さな弱い者であっても

 いつか草が  風に揺れるのを見て    弱さを思った
 今日      草が風に揺れるのを見て 強さを知った

とされたという現実を生きることができるのです。
私たちは、ますます厳しい時を生きています。そして私たちは時代が厳しいほど課題を与えられます。そして「主がお入り用なのです。」という言葉を聞くのです。確かに私たちが応えていくには私たちは「いつか草が  風に揺れるのを見て 弱さを思った」という弱い者かもしれません。しかし、私たちは「今日 草が風に揺れるのを見て 強さを知った」という強くされている存在でもあるのです。私たちは、救い主、イエス・キリストをお乗せ出来る存在なのです。私たちはそのことを気づき、時代が与えている課題を担っていくものとなりたいのです。
主よ、私を平和の道具として用いてください。
と強く願い、主が私たち一人一人を主の平和を実現すべき、つまり神のみ国を実現すべく私たちを今日、必要されています。
主がお入り用なのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

また国鉄それともマニュアル人間

長男が新任地に向かう電車を見送りに行くとき、京浜東北線が事故のために遅れて、ぎりぎりに間に合うかだめかというところであった。
事情を言って、急いで新幹線改札口から入れてくれるようにお願いすると人が多く並んでいる切符売り場で入場券を買えという。こういう場合もあるんだから自動販売機に入場券を用意するか、特別のを発行すればよいと思い、後で、駅員に話すと、在来線が遅れて新幹線を遅らせることは出来ないという。そんなことは馬鹿でも分かっていることで、そんなことをいっているのではない。在来線は東日本、新幹線は東海ですから関係ありませんと一言。
昔の国鉄に戻ったような、またマニュアル通りしか対応出来ないことに腹がたってしまった。


新米園長・瞑想?迷走記

耐震工事をしなくてはいけないので、ここ数年関わっている都と構造設計士さんの話し合いに同席した。話は上手くいき、次へのステップに進むことが出来た。私はこういうことが苦手で、関わりたくなくて、牧師という職業を選んだところあるが、牧師云々と言っているわけにはいかない、園児の安全を考え、幼稚園が、より良い環境を整えていくにはやらざるを得ない。次に資金集めである。これも苦手でやりたくないがやらざるをえない。
常に思考の中心に園児を置き、考え行動していくときやらざるをえないというところを羽根として動いているのが私、牧師園長かもしれない。


ルターの言葉から



この「日」を造るのは最愛の太陽、イエス・キリストである。それゆえ、マラキ書では、彼を義の太陽と呼び、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」と記されている。
なぜなら、キリストを信じる者はみな、彼からその恵みと義の輝きを受け、彼の翼のもとに救われるからである。彼ご自身が太陽であり、彼から、光と日(すなわち福音)がほとばしり出て、全世界を照らす。そして、詩篇19篇2節には、最愛の両者、太陽と日、キリストと福音が示され、「天は神の栄光を物語り」と記されている。それは、この世の天が太陽と日をもたらし、太陽は天にあるのとちょうど同じように、キリストのまことの太陽は、説教と共に使徒を送り、またご自分の中にそれをもっておられる。
これが、愛に満ちた「日」の始まりについてのすべてであり、これは福音によって語られ、それを聖書は、高らかに愛をこめてほめたたえている。なぜなら、福音は、生かし、喜ばせ、陽気にさせ、活発にさせ、また、あらゆる良いことをいっしょにもたらすからである。

ルターの信仰の中心は、受動性ということである。人が一日を創造するのではなく、「この「日」を造るのは最愛の太陽、イエス・キリスト」なのである。与えられた神の恵みのみによって、与えられた人はむしろ能動的になり自立できるのである。「神(他力)によりたのむゆえに逆に自律的でありうるこの信仰こそが、ルター的信仰なのである。」(新しい神学の形成:江口再起)
福音は、生かし、喜ばせ、陽気にさせ、活発にさせ、また、あらゆる良いことをいっしょにもたらすからである。



大森通信    
 
東京直下の地震の危険性が言われているとき、さらに幼稚園園舎の耐震工事の緊急性が増している。
着任して多くの時間を取られているのはこの課題である。耐震診断を終えて、結果を都に提出する段階で診断の最終報告で都の指導を受けつつ、やっと了承をいただいた。次は工事実施である。
都の指導を受けつつ、ひとつ気づいたことは国土交通省の基準に合わない建物が大正から昭和にかけて建てられていて、診断を難しくしているし、さらにこれが耐震工事を遅らせているということである。4000日の平成大改修の唐招提寺は一度、全部を解体して耐震性について一つ一つの部分を調べ、耐震補強し、組み立て直した。しかし、歴史的建造物なら兎も角、普通の建物に多額な費用をかけて耐震診断をし、耐震工事することはほとんど出来ないのではないだろうか。ましてや、これが個人住宅となるとさらに難しくなる。
こういう状況の中で、真摯に私たちは耐震工事へと取り組んでいます。それは、地の塩、世の光として証ししていく者としての社会へのチャレンジであることを自覚し、応えていこう。

(大森日記)今週は、ほとんどを幼稚園に時間を取られていく覚悟でスタートした。耐震工事の診断結果をめぐっての都との話し合い、結果を受けて資金の準備など、また新学期へ向かっての整備、準備などきりがない。春休みの間、聖書の学びの準備、アメリカルーテル教会のフィンランドミッションの歴史の翻訳作業をも思いつついる。これは楽しみ、期待している。息子がやっと親を離れて初任地、下関教会に着任するが別れの食事も出来ず、やっと品川駅で数秒の見送りで終わった。持っている伝道の資料をPCからUSBにコピーし餞別に渡した。そうこうしているうちに一週間があっという間に過ぎていく。時間の流れの速さを感じている。風が強く吹いている。でも冬の冷たい風でなく暖かい。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)いつも日誌をつけておこうと思うが、つい忘れてしまう。一週間過ぎてみれば何をしたのか忘れてしまう。時間がひかからなくなってきているのかもしれない。礼拝出席を巡って大喧嘩した息子が礼拝に出ている。夕礼拝も終わり名古屋から帰ってきた長男と家内が神学校に帰ると家は静まり返る。
)春休みの預かり保育がある。子どもたちが元気に声をかけてくれるのは嬉しい。なかなか桜の蕾が開いてくれない。春はいっきにくるのだろう。幼稚園の書類を整理している。これから4月は申請のラッシュ。思うだけで疲れる。一日、かかり佐藤優氏の本を読む。勉強の積み重ねを感じる。龍谷大学の公開講座「親鸞と浄土教」を申し込む。学生時代から取り組んで忘れていた課題を深めようか。体調の悪い友人を訪問して一日が終る。
)ルターの本を読んでいると眠たくなる。勉強に向いてない脳の構造かと苦笑。
)都との耐震診断に関する話し合い。業者さんにも同行していただき最終の詰めをする。手際良い指導を受けてやっと了承をいただく。終わり。工事資金のことで私学財団事務所にいき交渉。これからいくつもの事務処理があると思うと気が重い。終わり。就活している青年と遅い昼食。フランスに留学し、有名校のK大だがそれでも就職は大変だと聞く。就活中の次男のことを思う。きっと苦戦をしているのだろう。もっとやさしくしなくては思うが出来ない。人の子の悩みは聞けても自分の子となると難しい。
)朝の祈りと飛び起きてみると今日から春休みに入ったのを忘れていた。昼は花壇の準備に入る。数年ぶりにレンタルビデオ屋さんに行き、2枚借りる。
)長男が初任地に赴くというので、いままでPCにためていた伝道牧会の資料をUSBに写し、見送りのときに餞別に渡そうと思うが、電車が事故で間に合いそうもなかった。が、やっと合えて見送ることが出来た。やっと巣立っていくが、やはり寂しく心にぽっかりと穴があく。思えば私は24歳で就任した。時は早い。仕事を終えて帰任されたK牧師宅で遅くまで話し込む。
)朝から激しい風が吹き一日中、家の中、部屋を片付けるのだがちっとも片付かずにいる。徐々に一部屋一部屋を片付けよう。今週も時が指の隙間から流れ落ちた。

2012年3月25日日曜日


四旬節第5主日

  すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。  ルカ1:30


【説教要旨】

今日は聖書の日課によると「主の母マリアの日」です。私たちはマリアについては、カトリック教会のものだと思っています。もしかしたら今日の日を以外に思われたかたもおられるかもしれません。カトリック教会においてもマリアについて思いが強いのは南欧の人であり、それは中米、南米へと広がり、強いマリア信仰となってきています。日本においても悲母観音信仰の強さと相まってやはりマリア信仰が強いところかもしれません。
では、私たちが「主の母マリアの日」を守るとき、マリアをどうとらえていくかということを問われているのかもしれません。
この聖書の後にマリア讃歌―マグニフィカートーがあります。ルターはマグニフィカートについて講解しています。
「自分(マリア)一人のために歌ったのではなく、われわれすべてのために歌ったのであり、それだからわれわれも彼女にならって歌うべきなのである」と言っています。信仰の模範者としてマリアを明らかにしています。マリアは、私たちの信仰の模範者なのです。
今回、教区総会は闇に包まれたような重さを私は感じました。その闇は社会の課題に応えることの出来ない無能と現実です。今の時代の大きな変化とその闇に対して、社会は苦しんでいます。未来が見えてきません。教会もやはり何の解決も出すことが出来ず無能であることに悩み、苦しんでいるということです。どこから手をつけてよいのか分からなくなっています。では、これは現実であるかもしれませんが、真実なことなのでしょうか。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
越えられようもない社会の困難な大きな壁の前に苦しんでいる状況があるでしょう。一人たたずんでしまう孤独があるでしょう。しかし、私たちはマリアに天使が告げたように私たちもおめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられるという存在なのであるということをまず知るべきです。ここから全てが私たちの出発なのです。私たちはだから失望しないのです。
しかし、マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだという現実があります。どこが恵まれているのか。どこに神がいるかという現実があります。この現実の前に天使がかけた言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込む私が現実に圧倒されていきます。そういう弱い私がいます。マリアも然りでした。
私たちと共におられると言われた神は闇に押し潰されていく私たちがいます。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。イエスさまは十字架において、まさに私たちの罪の弱さを、闇を負われました。罪の弱さ、闇にイエスはいてくださったのです。また、いてくださるのです。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」という「神から」という言葉です。私たちはいつも「神から」熟視されている存在です。
「マリアが誇るのは、彼女の処女性でも謙遜でもなく、むしろただ神の恵みに深い注視であった。よって言葉の重点はhumilitatem(謙虚)にではなく、respexit(かえりみた、注視)にある。それは讃美されるべきことは、彼女が無であることではなく、神の注視にあるからである」とルターがマリアについて語ったように、私たちも無である力弱いものであるのでなく、私たちが神の注視を受けている。神の憐みの内を生きているということです。マリアは信仰者として、彼女の人生に起きた出来事において私たちに伝えているのです。
神にできないことは何一つない。」という真理に私たちは導かれていくのです。ここで注目していただきたいことは、マリアはヨセフと幸福な家庭生活を望んで、努力したでしょう。しかし、私たちがかくこうありたい、こうしたいということでなく、私の人生に神が働くということです。「神から」の働き、ここに私たちは立つことです。
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
マリアは、マリアの意志、なしたいわざでなく、神の意志、神のなすことを求め、望んだのです。ルターは「神の意志なしには、なすことを欲しないのだ」と言っています。
「主の母マリアの日」、私たちはマリアに語られた神の言葉、マリアの上に起きた神の出来事を通して、この世の現実を生きつつ、現実に押し潰されることなく神の真理の中をマリアに引き続き、信仰者として、召されるまで共に生きていきましょう。 


牧師室の小窓からのぞいてみると

経済気象台 朝日新聞
新聞の株式のページに「経済気象台」という記事がある。「今、我々に与えられた最大のテーゼは『学ぶ才能と創る才能は同居しうるか』ということだ。」、「日本人は一度コンセプトを与えられると、驚くべき才能を発揮する。」、「コンセプトを見失ったとき、日本は烏合の衆と化す」。経済から世界を見ていくのだが、それが文化論、人間論になっていく。経済もただ経済理論から括れるものでなく、そこには文化、人間論が深く関わっている。記者は「和魂漢才から和魂和才」と提案している。経済がグローバル化しているのにこの提案は不思議だが、グローバル化しているから私というものをしっかりと見つけ、創り出していかなくてはいけないと思う。


新米園長・瞑想?迷走記

春休みに入り、暇になったかというと逆になる。特に事務的なことがどっと待ち構えている。また震災以降、耐震工事を進めていかなくてはいけないない。事務処理が迅速に求められる。
また、書類の整理に入っている。職員会議の議事録、カリキュラムの議事録など整理しつつ、次年度の歩み方を考え具体的に作っていかなくてはならない。
園庭の遊具、掃除、草取り、花の植え替え、教室の点検と管財面もきりなくある。
そんなこんなに取り組みながら、どんな幼稚園にし、子どもに仕えていきたいのかと問われてくる。すると教会の宣教との関わりも問われる。
次々と噴き出してくることに苦しみつつ、楽しんでいる春休みである。

ルターの言葉から


   天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
   あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」 ルカ1:35~37

これらのことばを、御使いは聖なる処女に告げました。マリアがこの幼子のために喜び、あらゆる恐れと悲しみを捨て去るためです。けれども、これらの言葉は処女マリアにだけ告げられているのではなく、私たちにも語りかけられています。ですから、この聖なる処女だけが幼子の母ですが、私たちもまた、主の支配と御国のものとされているのです。
もしそうでなければ、私たちは絶望です。私たち自身のものはすべて過ぎ去り、その命も束の間のものにすぎません。四十年、五十年、あるいは百年ですら、いったいなんでしょう。しかし、永遠の国に属する者にとっては、すべては良きものであり、生涯を通じていつも喜び踊ることがふさわしいのです。
さてこのようにして、御使いの言葉は、多くの危険と罪と死に満ちた、私たちの束の間の生涯を思い起こさせ、私たちがそれに耐えられるように励まします。そして、以前には地上になかった御国、限りない永遠の御国を示しています。

マリアは神の憐みを受けた者であり、それは同時に私たちも神の憐みを受けた者として存在しているのである。


大森通信    
 
身近な宣教の協議される教区総会の議事が大変に低調に感じられたのは私だけであろうか。宣教においても、財政においても大きな議論へと広がることなく、時間よりも早く終わった。
他の教区においても同じようであったと聞く。教区長報告に対して何の質問もない教区もあったと聞く。
低調が良いか悪いか分からないが、やはりこれではいけないのではないかと感じたのは私だけであろうか。
特に東日本大震災の教区である私たち東教区においてもっと具体的なことが提案されても良いのではないかと思うのだが、震災救援活動の報告に留まって具体的な提案はなされなかった。
報告書の中に第5次宣教方策については報告書にあるだけで、これを検証し、新たな提案がなされようとしないのも気になった。
批判ばかりしていてもしかたない。では私たち教会はどうであるのか、私たちはどうであるのかを具体的に忠実に取り組んでいこうという思いをもった。それが神の愛を広げていく一歩だと思う。まずは、私からである。



(大森日記)中村節子姉の葬送の祈りをアメリカからご遺族、友人をお迎えして皆とささげるは嬉しい。耐震工事に本格的に取り組み始めた。課題は山積しているのは当り前のこと。これを皆と乗り越えていきたい。節子姉の納骨式、晴れてよかった。永代供養にしていただきほっとしている。教区総会、低調さが気になる。幼稚園は春休みに入るが、預かり保育の園児ら、耐震工事の件で設計師、都の担当者と連絡、来学期への準備と気を使う。職員の結婚式に出席出来ずにいたので良い家庭を築いて欲しいと思い聖家族の人形をプレゼントをする。天地創造物語をもって聖書の学びは終わり春休み。次はガラテヤ書。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。
日)今日は、N姉のご遺族がアメリカから来られて、葬儀を一ヶ月遅れでする。礼拝の中に組み入れる工夫をし、主日の聖書の日課で説教をした。就任式に欠席していた役員の就任も一緒にするなど、日常と非日常、生と死ということが礼拝において、溶かされていた。午後から教会、幼稚園の耐震工事についての協議。総工費一億円。資金をどうするか改築中の園児をどうするか、都からの補助金がどうなるか考えれば考えるほど気が重くなる。癌治療をなさっている姉を訪問する。毎週、訪問して御言葉を届けて治療を手伝いたい。夜、礼拝中に脱走ウサギが入ってきて礼拝が一時、止まるが良い深呼吸の一瞬だった。逃げなくて礼拝堂にきたのは神の導きか。
)N姉の納骨式、霊園の道を途中で迷う。まずは楽しく状況を抜け出そうとするが、人間が出来ていなくて難しい。帰りの車中も妻がきつく、周りに気を使いすぎて疲れる。この頃、妻の言動がきつく気になる。
)教区総会。何もないことに疲れる。これで良いのか。
)事務所にN姉の永代供養のために、本部に負担金を収めにいく。日頃お世話になっている牧師を飲み会に誘い、一杯。いろいろと学ばされた。
)礼拝に数週間、出てきてない息子と大喧嘩。出て行けと一言。怒り心頭だが、怒りに遅くでなくてはいけないが、あちらは縁を切りたいというから望むところ思いつつ、ぐっと飲み込む。信仰を共有していくことは難しい。来学期の準備のために備えていくためにまずは一年分の書類などの整理から始める。耐震診断を巡り都庁と設計士との交渉。
)息子と口もきかずにいる。N姉のご遺族がアメリカに帰られる前に手続きが終わったことを報告に出かける。夜、まだ険悪な雰囲気が息子との間にある。子育ては終わったと思っていたがまだ続くようである。
)気になっている癌で入院中のS君の退院メールがきた。糖尿病で治療し
ている0兄からも元気な声が届く。ホッとする。テレビで原発事故にかかわる番組が
あった。特にドイツの脱原発の舵をきった政治決断に感心した。その決断に至るには
地道な取り組みがあった。地道かあ。まだまだ寒さが残る日々です。上野の桜はまだ蕾です。きっといっきに咲くのでしょう。

今週は礼拝に出ていない息子と礼拝出席をめぐって、生活について、将来について広がって大喧嘩、幼稚園の耐震工事にむけての交渉、来季の準備、納骨式、教区総会とぐちゃぐちゃの混乱した日々でした。
しかし、一週間があっと過ぎていく感じを強く受けています。時が過ぎるのが、早くなっているように思えます。
今週も主の平安のうちにありますように。


2012年3月11日日曜日


四旬節第3主日

  「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」  ヨハネ2:17


【説教要旨】

震災から一年になり、私たちはどう過ごし、どう変わっていったでしょうか。私たちは義援金、ボランティアと一生懸命に関わっていったのではないでしょうか。また、被災された方々は、厳しい状況の中で頑張っています。しかし、例えば、ごみの処理をめぐり私たちの人間のエゴが丸出しだという状況をみるとき、落胆が私たちの状況を覆っているように思えます。
激しいイエスさまのお姿の「宮清め」という出来事を通して、私たちはみ言葉に聴いていきましょう。
過ぎ越しの祭りは大きな祭りです。国内外から神殿にお参りにくるのです。そのためその人たちに神殿にささげる動物が必要となり、献金は外国のお金であってはならず、献金のための両替が必要でありました。
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。
神殿礼拝にとって、必要なこれらをイエスは、否定したのです。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われた言葉で分かりますように、神の礼拝に必要なこれらの物は必要でなくなったのです。
私たちに必要なものはなにかということです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」といわれたように十字架と三日目の復活による救いの力でした。神殿という目で見える形でなく、目に見えない救いの業、神の愛こそ、必要なのです。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
この後、30年後ヘロデ大王が作った第3神殿は崩されて、今日にいたるのです。
私たちは目に見えることに奪われがちになる。そして目に見えることを整えていこうと熱心になる。それは神の名を被って行為を正当化していくことがしばしばあります。人の熱心さは尊いものです。だからこそ、熱心であるということは注意すべきことです。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉に私たちは気をつけなければなりません。
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
イエスさまは、人間が神に信頼されるような存在ではないということを知っておられたということです。私たちはこういう存在です。私たちの熱意は、神からみると信用されるようなものではないということです。「神様のため、イエスさまのために」と私たちは口にするが、結局は、「自分のために」している場合が多い。確かに犠牲の鳩を売る人も、神殿にささげるために外国のお金を両替する人も、人のために役立っている仕事でも、自分のためということがあります。第3神殿を63年もかけて再建したヘロデ大王の熱意も「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とあるように自分のためであった。
震災前まで、私たちは自分の生活を整えていくために頑張っていました。特にエネルギーは、私たちが生活にとって必要なことであり、私たちは原子力発電というエネルギーに依存してきました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」とあるように、まさに「わたしを食い尽くす。」、イエスさまが愛されていた神の民の生活を食い尽くしていた時代を私たちは形成していたのです。さらに危険なものを私たちは都会から離れた田舎に押し付けていたのです。さらに震災瓦礫に対しての処理は、エゴを丸出しの姿を私たちは、露呈しました。震災は私たちの内にある社会を良くしたいという熱意がいかにエゴなものであるということ。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」という事実を私たちに教えたのです。近代以来に入り、私たちは人間の力で何事も開いていけるのだということからくる人間の熱意からおさらばしなくてはいけないのではないでしょうか。
私たちは自分に潜む罪を深く反省し、イエスさまの十字架の贖いなしでは私たちは存在できないものであり、この神の救いの業に自分があり、神の救いの力に頼らざるをえないものであるということ、まずここから出発して人の熱意を去り、神の愛に委ねていきましょう。
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。 (出エジプト20:1~5)



牧師室の小窓からのぞいてみると

福島産の買い控え、震災瓦礫処理反対

震災、原発事故は、福島産というだけで、農産物を買い控える人たち、震災の瓦礫処理に対して、焼却灰が放射能に汚染されているのではないかというだけでこれを受け入れない人たち。ほとんどが現段階では科学的には問題がないものである。
私たちがいかに小さな者となり、エゴの塊であったかを暴露しているように思える。私たちの心の貧困を暴露しているように思えてならない。でも、これは震災前から言われていたことであるが。
そういう意味で、私たち宗教界は、心を豊かにしていくということにどれほど自分自身をむけてきたか、本当に深い反省を迫られているのではないだろうか。自分をささげてまでも、私たちがもっと他者に対する思いやり、労わりが、どんなに大切であるかという当り前のことを、当り前となっていくように、証を立て、具体的に示していくことだと思っている。


新米園長・瞑想?迷走記

一年が終ろうとしている。一年を通して園児に何を伝えてきただろうか「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、イエスが洗礼を受ける時にイエスにかけられた神の言葉であるが、この言葉は、園児一人一人にも、日々、かけられているのではないだろうか。こどもたち一人ひとりとの日々の保育で向かい合う時、いつもこの言葉をもって接してきたし、保育という具体的な場にあって実践してきた。みな神の子として恵みの内を生かされてきた。


ルターの言葉から


「キリストは人が思いも及ばなかった愛の父なる神を示されました。私たちは魂の唯一の慰め、また救いとして、これらの言葉を心から受け取り、心の中で刻み込もうではありませんか。もし主キリストにしっかりとすがりついているならば、あなたは確かに、神が世の初めからご自分のものとして選んでくださった一人です。もしそうでなかったら、あなたがキリストのところへきて、このような啓示を聞き、受け入れることはなかったでしょう。
・・・・・・・あなたは、主の啓示をいただいたことと、神の愛する子にしていただいたこと以上に、この世にすばらしいものはないことを知るべきです。
み言葉があなたを喜ばせ、恵みのうちにあなたの心がキリストへ向けられることによるのです。こうしてキリストがご自分をあらわしてくださったので、主のみこころとあなたの救いに関するすべてを知ることができるのです。」

修道士の時代、ルターは、信仰を熱意の中にいきていました。修道士の時代に彼の修道生活は完全といわれるほど熱心な業でした。しかし、彼に心の平安はありませんでした。
しかし、彼が「キリストは人が思いも及ばなかった愛の父なる神を示され」たとき、人の熱心さでなく、ただ「主キリストにしっかりとすがりついている」ことで充分であることを示されたのです。裁きの神から父なる神の愛の絶大さに気づいたとき、「信仰のみ」、「恵みのみ」ということにたどりつくのです。



大森通信    
 
今日は東北大震災から一年になる。教会の庭の桜の木が大きく揺れたことを思い出す。その一瞬はこんな大きな被害をもたらすなど考えもしなかった。
震災以降、生活は変わっただろうかというと変わったようで変わっていないように思える。むしろ、世界経済の大きな変化に翻弄される日本経済、つまり日本社会が合い重なって未来が開けない社会があるように思える。ここに人の中に大きな漠然として不安があるように思える。戦後の復興を例に出して鼓舞するが、焼け跡から復興には逆に漠然として希望があった。
なぜ、希望が持てないのだろうか。それは変わろうとするエネルギーが私たちに欠けるからだ。変わるチャンスがあったと思う。それは原発事故の後の人間にとって最も大切なエネルギー改革である。誰が見ても今は人間の手に負えない核エネルギーを一気に方向転換出来たはずであるが、世の常識がそれを越えて、また容認されつつある。ここで一気に変革したなら変わるという気持ちを起こせたのではないかと私は思っている。
多くの命を失い、生活を失った犠牲を無にしないためにも希望という復興を私たちは提供しなくてはいけないと思う。


(大森日記)役員会、新任牧師按手式から一週間が始まった。新らたに生まれて牧師は混沌とした世界への船出であるが、福音を宣べ伝える基本に立ち、新たな歩みをしてほしい。震災一年になり、進まぬ復興の道のりがあると聞くが、きっと開けると祈りを強めたい。一年を終えようとしている幼稚園の諸行事に気持ちがとられる。父兄との交流会で、神に愛される悦びについて。生憎、雨の中を80数名ルーテル学院の卒業生が旅立っていった。旅立ちの時でもある。雪が降る週末となったが、寒さの中にも春を感じる。花粉症も始まり春か。これは遠慮したい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)インフルエンザもおさまり教会学校も子どもたちが元気にやってきた。こどもの声は良いものである。役員会での協議はいかに福音を伝えていくかということである。また幼稚園の就業規則について協議していくがやっかいなものである。これも勉強か。長男の牧師按手式である。義兄らも出席くれて良いお祝いとなった。たいした感動もなく、むしろ心配が重なる。なかなか親業を終わらない。息子が赤ちゃんのときに世話をしてくれたS君も出席くださる。式後彼と最終電車までいっぱいひっかける。息子たちは若い先生と飲んでいたらしい。次男に牧師へ勧めがあったらしい。これ以上はやめてほしい。
)休むに休めず、午後から幼稚園保護者総会などが続く。この会から幼稚園の一年の締めが始まる。息子の按手のお祝いの電話が続く。それぞれの教会で育てていただいた。時は過ぎるのは早い。
)一日、幼稚園の仕事に追われて誕生日の信徒を訪問したのは夜になる。今週は体力がない。やっと一日が終る。家内が翌日の誕生日の菓子 を届けにきてくれる。
)教区に協力金を収めに、墓地の件で行く。帰りに散歩し、息子と夜、神楽坂で一杯ひっかける。青年から電話があり渋谷で食事をしながら相談に乗る。帰宅したのが最終便。
)雨。祈祷会が終わり、少し寝たのがいけない。職員会議を欠席してしまった。業者さんと打ち合わせ、午後から職員会議、聖書の学びと続く。出席者と夕食をともにする。夜の飲み会のお誘いがあったが、流石に疲れ、今日は早寝。メールが一件。先の青年から大学院の卒論がパスしたという。ほっと。
)最後の保護者との交流会。神に愛されていることの悦び、神に愛された保育を話す。神学校の卒業式。教会関係の出席者が少ない。久しぶりに恩師のM先生と会う。変わらぬ心温まる方だ。夜、巣鴨で友人とエスニック料理で夕食を。それが安い。偶然、T牧師夫妻と会う。歳を互いにとった。
)やはり体力なく、起きるのがなかなか起きえずにいた。午後から使徒信条の学び会をする。今週はやっと「死」についての本を読む。ばたばたと一週間が過ぎていった。


2012年3月4日日曜日


四旬節第2主日


  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。                 マルコ10:45


【説教要旨】

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」というイエスさまの言葉ですが、「すべての人の僕になりなさい。」という「なりなさい。」と訳すよりも「すべての人の僕でありなさい。」と訳した方が良いのではないでしょうか。本来は、私たちは「すべての人の僕である。」のですが、この本来の姿が失われているということです。神さまが定めてくださった本来の姿が失われていることを罪だということです。
弟子たちは実にイエスさまに忠実に仕えたと思います。そこにはイエスさまに喜ばれる姿になろうとする実に真面目な努力があります。しかし、ここに落とし穴がある。「なろう」とするとき、なったときの報いをいただきたくなる。欲しくなる。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。弟子らと同じでイエスによって、引き上げられ、偉くなり、何も問題なく、心休まる、平安の中にいたいと思いますね。イエスさまの近くにいれば何も問題を持たないでいいと。
しかし、イエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われます。
なぜ、「分かっていない。」とイエスは語られたのでしょうか。
「良心は神の言葉に縛られている」ルターの有名な言葉があります。私たちの言葉は、神の言葉、イエスの言葉で縛られているということです。
このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」というお言葉。飲む杯とは十字架にかかられたイエスさまの苦しみです。イエスさまの側にいるとはこの苦しみを飲むということだというのです。
ルターは、「私たちが苦しむことは、必要なことです。」と言うのです。イエスのお側にいるものとして、私たちが苦しむことは必要なことなのです。私たちは苦しみからの解放を願います。だから「分かっていない。」とお叱りを受けるのです。
教会は人気がない。病気の苦しみを、心の悩み、苦しみを、生活の苦しみを取っていただきたいと来ているのに。「分かっていない。」と言われれば立つ瀬がない。でも、やはり「分かっていない。」のかもしれない。
イエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言われる。私たちはこの言葉の括弧でくくられた存在であるということです。また、さらにこの括弧を括る言葉があります。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエスさまは十字架上で苦しみ、神の全能と栄光をかくされつつ、しかし、それゆえに逆に自ら人の罪に代わって無力と恥辱をこうむり、人の罪をゆるす恵みの神として、姿を示され、私たちの苦しみ対してイエスさまが仕えてくださる。命をささげてまで私たちを贖い、愛しておられるというのです。私たちの苦しみをもご自分のものとして受け止めておられるのです。この大括弧の中で私たちは生かされているのです。
ここに集う人は優しい人だと思います。優しいという言葉は「人が憂う」と書きますよね。私たちには、ブッダが悩まれたように生老病死という四苦、人には憂いがあることに気づきます。悩みを前にして、たじろぐ私たちがいる。また、四苦で苦しんでいる人に私たちは「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい。」という言葉を真剣に受けとめようとする。しかし、出来ない自分にたじろいがある。しかし、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と主がここに立ちたまいます。「だれもこれに直面して、たじろいだり、恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る」というルターの言葉を思い出します。
だからたじろぎつつも立てる自分がいることを忘れてはいけません。「この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。」という出来事が私たちの中に起こってきます。
「救い主を引き寄せます。」と言うのです。「皆に仕える者であり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕である。」となることがゆるされ、回復されている自分がいるのです。仕える人、愛の人へと変えられるのです。「私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」というルターの言葉にある「福音―神の愛」という大きな括弧に括られた私たちであり、「皆に仕える者であり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕である。」ということを感謝しつつ、主と共に歩みましょう。


牧師室の小窓からのぞいてみると

ときにはおせっかいを焼こう(朝日新聞社説余滴)

豊かな時代にあって、食べることが出来なくなって亡くなっていく悲しい事件にはだれしも心を痛めているだろう。「近所の子供を預かったり、おすそ分けをしたりするのが当たり前だったのはいつごろまでだったろうか。
濃い人間関係には、わずらわしさもある。ひとさまの生活に干渉しないのも優しさだろう。でも、それは元気な人同士の話だ。
ときには『おせっかい』を焼かないと、救えない命もあるかもしれない。迷った時、一人ひとりが、そう想像してみる。それしかない気がしている。」
人を救うという教会の大きな使命がある。そしていまこそこの使命の実行が求められているのではないだろうか。もっと教会を出て『おせっかい』と思われるほどの奉仕の業を私たちはしなくてはならないのではないだろうか。これは私たちに投げかけられた問いでもあり課題だとおもう。


新米園長・瞑想?迷走記

園に響く子どもらの声を聞いて、園の調子が分かるような気がする。どこまでも明るい元気な声が、いま響き渡っている。今日はきっと調子が良いのだろうと思う。声が小さい時、どこかで問題がある。まずは朝の自由遊びの時の子どもらの声を聞きながら、一日のすることが見えてくるような気がする。それにしても明かるい元気な声が響いてくるとき安堵するのは私だけであろうか。



ルターの言葉から



 「私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちの持っている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに私たちを眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を濫用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
 神がこのような悪を訂正させる方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長できない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。それゆえに十字架をまぬかれるよりも、十字架を与えられるほうが益となるのですから、だれもこれに直面して、たじろいだり恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る、すばらしく強い約束を与えられているではありませんか。私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」

ルターは、「弱さ、苦難、十字架、迫害、これが神の武具である」と言っています。彼は十字架の救いの意味を受け止めることから、宗教改革の時代の悩みと苦しみを受け止めつつ大胆に前進しえたのだと思います。苦しみの意味を見出しえたことから、ルターの信仰の深化は始まったのかもしれません。


大森通信    
 
先日、机の上に一通の手紙があり、開いてみると牧師初任地の時代、高校生だったT君からの手紙だった。中に彼が働いている福祉施設の便りがあった。見ると施設長になっている。そこには社会の変化によって、変わりゆく施設のありかたについて取り組んでいる簡潔な要を得た文章があった。
中間、期末の試験が近づくとよく友達を連れてきて、勉強を教えろと言っては、数日間、牧師館で寝泊まりしていた。勉強は数時間で、後は友達同士で遊んでいた。彼が連れてくる高校生で夕礼拝は活気に満ちていた。数名が洗礼を受けていった。彼もその一人だった。彼には華があった。経済的に大学にいく余裕のない彼に、大学に行けと勧めた。東京に出ればどうにかなるからと言って。なんと無謀な勧めだったろう。自分がアルバイトしていた会社に頼み込んで採用してもらい、保証人は田園調布教会の信徒さんTA兄に頼み込んだ。明治学院の二部に入り卒業し、今に至る。大変だったろうと思う。
予感通り華が開いてくれていることにあの無謀なアドヴァイスも神が良しとしてくれたんだと感謝している。



(大森日記)日曜日は、いろいろな事が重なり分刻みのスケジュールだった。神学校の夕べの息子の説教を聞き、引き返して夕礼拝となる。今週も幼稚園のことで時間をとられる。心の休まることが出来ない。すべきことが多すぎて整理が出来ずにいる。だから静まって祈らなくてはならない。天候は雪が降ったり、暖かくなったり、また雨が降り寒くなったり目まぐるしい。まさに自分の一週間のようである。週報を発送し、手紙を書くのだが祈りを込めている。また共に礼拝を守ろうと。東北の震災支援ボランティアは20名募集で8名だったと聞く。これからもさらに支えていく祈りを強めたい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)今日はインフルエンザの流行のせいか教会学校の生徒が半分である。流行り出すと早い。礼拝後、祈祷会、礼拝委員会、幼稚園運営委員会と分刻みのスケジュール。その後、「神学校の夕べ」。息子の説教を聞きながら、私が神学生時代、中心となって、神学生の主催で「神学校の夕べ」を復活させたことを思い出す。昔の東京教会会堂を借りに坪池牧師に頼みにいき、帰りに食事をいただいた。神学生が中心となって運営した。復活を指示した清重先生は、引退、復活後の説教壇に立った山之内先生も引退されている。時の流れを感じつついた。何よりも息子がここに立つなど想像もしていなかった。終わるとすぐに夕礼拝のために教会に帰る。いつもの静かな礼拝だった。
)午後から財務委員会である。今回は小石川教会で、昔聖歌隊で行って以来で変わりように驚いている。年月は流れるか。幼稚園教諭養成校の先生と懇談会。友人と友人宅で夜遅くまで話し込む。
)やっとこどもたち全員が揃う。まだまだ気が抜けないインフルエンザの流行である。夜から雨と雪。
)水の含んだ雪は子どもたちには遊べないのではないかと思っていたが、遊び上手な子どもたちは雪遊びをしていた。子どもたちは楽しい。夜、前任のkK牧師と一杯。
6時、携帯電話が鳴る。副園長から。いやな予感、風邪をひいたという。幼稚園に一日張り付かなくてはいけない。教育指導にセンターから先生が来られる。子どもたちが大切にされていて良い幼稚園ですと言って帰られた。嬉しい言葉。「風のように」をメールで送ったはずだが、送れていないことを電話でいただき慌てて編集し送る。もう3月か。誕生日カード、教会に来れない方、来てない方々に手紙と週報を祈りを込めて送る。
)家内は世界祈祷日に、こちらは留守番。誕生日カードを送り、夜は遅くまで日曜日の準備。
)日曜日の準備を終えて、近所の信徒さんのお宅を訪問する。暖かい日和。家内と日本橋高島屋に息子の同級生のたまり漬けの店が出品していたのでご挨拶にいく。ついでに卒園児のためのプレゼント、木製品を購入。三万円の出費はきつい。もう卒業かと思いつつ時間の速さを思う。帰り山口の物品店を偶然に見つけ寄る。母方は長州、萩藩だから先祖の地に息子は就任か。