2012年1月22日日曜日


イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 マルコ1:16



【説教要旨】

今日の日課は、イエスさまが弟子を召命する記事です。「ヨハネが捕らえられた後」。王の誤った行為を批判したヨハネは首を跳ねられます。力で正義が押しつぶされそうになるこの闇の世界に向かってイエスさまは来られます。ここに神さまのみ心が隠されてはいないでしょうか。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。

」ということに注目したいのです。ユダヤ人にとって、海は混沌とした闇の世界です。

次に「御覧になった。」という言葉に注目したいのです。この言葉はただ見たということでなく、じっと見られた、鋭く見たということです。心の奥まで入り込まれたということです。闇の世界で生きている漁師である弟子たちをじっとご覧になられている。このイエスさまの強い眼差しは、弟子の生涯、変わらずに注がれていったのです。


ついて来なさい」と御覧になった。という言葉を加藤常昭牧師はこう説いています。「これまでの生活から解き放たれ、新しい生活に踏み込んでいる。主イエスの目はそういう解き放つ力を持った目でした。急所を見抜いて、そこからもぎ放すようにして、新しいところへと移す目でした。その新しいところとは、父なる神の憐れみのなか、恵みのなかに生きるところであります。恵みの中へと引き出してくれる目であります」。

今の時代は、社会状況、精神状況において、闇が覆っている。闇がある。

しかし、聖書はこう記しています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

この闇の世界にあっても、神の国は確実に近づき、神の力が支配されているのです。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。詩篇139:1112

私たち信仰者は時代の困難さを見ながらも、時代の困難さを貫いて輝いている光が既に私たちのうちにあるのです。

この闇の中にイエスさまがおられ、支配されているというこのみ言葉を私たちは心から噛み締め、心に刻み、支えとすることです。今の時代だからこそ私たちは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスさまの言葉に立つことです。

すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。・・・・すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

当時、社会を支えていた経済は家です。この家を弟子たちは捨てたということです。今、生活の糧を与えている世界を捨てて、新たな世界へ足を踏み入れていったということです。「これまでの生活から解き放たれ、新しい生活に


踏み込んでいる。主イエスの目はそういう解き放つ力を持った目でした。急所を見抜いて、そこからもぎ放すようにして、新しいところへと移す目でした。」ということが起きたのです。

闇を見ながら、私たちは生きていますが、イエスさまに見られるということは、私たちを新しいところへと導き出されることに他ならないのです。

総会が近づいています。なぜ、私たちが教会総会を開いていくかということです。それは世を生きつつ、私たちが地の塩、世の光として証ししていくことです。それは、私たちが、闇から光へと導くことです。新しいところに私たちの身を移すことです。

それは神が勝利したもう世界を示していくことにほかなりません。

「その新しいところとは、父なる神の憐れみのなか、恵みのなかに生きるところであります。」

世界がより良い生活ということで利潤を求め、金というあきることなきものを追求し、金というところで私たちが生きて立とうとするとき、私たちは引き出され、信仰という世界、新しい世界へ生きることへ私たちは招かれています。

すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

恵みの中へと引き出してくれる目、イエスさまの目を感じるような、生き方へ引き出してくれます。

人類も、欲望をエンジンとした近代文明に別れを告げ、「優しい心」や「美しい心」をエンジンにした、新しい文明社会を作っていくことに努めていくことが、いま大切なのではないでしょうか。と稲盛氏が言われているように新しい文明を作るために私たち信仰者はここを、今をイエスさまに召かれているのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

 

消費税5パーセントを値上げすることが議論されている。いずれは上げていかなければならないのだろうが、決してそれで私たちの国が良い方向に向かうことではないだろう。消費税は弱者に堪えてくる税である。では弱者をどう救済するかとなってくる。実はこの点をみただけでも税の問題は税だけでの問題ではない。

国の有様である。どんな国を作っていきたいのかという政治の発信である。一つ一つの事柄でなく、国の有様の全体像、進むべき道を私たちは模索しているのではないだろうか。どんな国を私たちは作りたいのか私たちも発信しなくてはいけないと思う。それは教会とて同じことである。私たち教会もどんな国を作っていきたいか。「み心が行われるように地にも行われますように」という祈りが私たちの祈りではないでしょうか。どんな国を作りたいか。

 


新米園長・瞑想?迷走記



年長組さんは、三学期から月2回、年少組、年中組さんと離れて礼拝を守る。

幼稚園を離れる日々が近づいている。公立の小学校に入り、教会学校に来ない限り、イエスさまにふれる機会が少なくなっていくだろう。だから、ずっと唱えてきた主の祈りについて、神様のみ心を聞く特別の時間を設けた。主の祈りの意味を理解してもらって、幼稚園を離れても、祈りを続けてもらいたいからである。きっと「神よ」と呼びかけたい時が来るだろう。そのとき「天にまします父よ」と呼びかけ、自分の声を聴いてくださる神が傍らにいらっしゃることを思い出してほしいからである。

卒園の準備が、もう始まった。



ルターの言葉から



近いうちに牧師や説教者がたいへん不足するから、補充できれば、至る所から現に活動している、良い説教者をかき集めることになろう。・・・・医者や法律家たちの数は十分で、この世を管理できる。一人の法律家で足りるところに、二百人の牧師が必要だ。エアフルトには一人の法律家がいれば、それで十分であろう。牧師の場合はそうはゆかない。あらゆる村、町には専任の牧師が配置されなければならない。わたしの領主(ザクセン選帝侯)は二十人の法律家で足りる。これに対して、千八百人の牧師が必要である。一人の法律家は普遍体で、牧師や説教師は個体である。時がたつうちに法律家や医者から牧師を作らなければならない。これは後に分かるであろう。

卓上語録から

宗教改革後、教会は牧師の不足という課題に直面した。ルターは街々を巡察して、多くの牧師の無力、不勉強、また信徒の無知を見て、信仰の手引きとして小教理問答書を書きました。なによりも信徒ひとりひとりがしっかりした信仰理解と祈りとの生活を確立しなくては、教会はたちゆかないという危機感がありました。

さらにルターは信徒を導くには多くの牧師が必要であると思いました。それは信徒いう固まりでなく、信徒一人一人とかかわる魂の配慮者として牧師が必要だからです。

牧師の場合はそうはゆかない。あらゆる村、町には専任の牧師が配置されなければならない。

今の私たちの教会の現状をみるとき手痛い言葉です。牧師を支える教会が減少したのでなく、教会をつまり信徒を支える教職の魂が委縮した結果が、教会の停滞を招いているのではないでしょうか。


大森通信    

 

神学校受験の願書を出しましたというA君の一言に身

のひきしまる思いでいっぱいになった。

すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

今までの営みー「網」を捨てて、今、主の弟子となる

べく、主のもとに歩みだす。捨てる網は重くて、大きなものであっただろうが、神の恵みへの幸福へとチェンジしていくことになる。

「これまでの生活から解き放たれ、新しい生活に踏み込んでいる。主イエスの目はそういう解き放つ力を持った目でした。急所を見抜いて、そこからもぎ放すようにして、新しいところへと移す目でした。その新しいところとは、父なる神の憐れみのなか、恵みのなかに生きるところであります。恵みの中へと引き出してくれる目であります」。(加藤常昭牧師)主イエスのまなざしに応え、新しいところへの出発でした。

岸千年牧師が「神学校に入るというのは、鯉が料理される前に、桶で泥を吐くようなものです」といわれていたことを思い出す。神学校での営みがあり、卒業する時神さまに料理されるよう整えられていくことを願ってやまない。卒業時にはイエスさまに料理される俎板の鯉であってほしい。

(大森日記)今週も総会の資料の本部への送信、幼稚園の行事に追われる日々であった。職員会議は子どもたちひとりひとりのケースを考えて祈る。全国財務委員会もあり、財務を扱っていればいるほど「人はパンのみに生きるにあらず」という思いを強くする。新教出版に行く。神学生のとき荒井献先生の講義を聞いたあのときから30年ぶりに訪れる。病気の方々もおられ、祈りに念じつつ日々を歩んでいた。泣きそうな寒い空を見ながら週末は終えそうである。一人一人の健康が守られますように。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)教会学校が始まるがいつもより出席者が少ない。子どもたちの声は元気にさせる。女性会の総会であった。だんだんと会へ若い方が入らない。神学校へ願書を青年が出したと報告される。先生の教えが良いからだと言われても、教会のリーダーだと期待されていた。神さまは大いに狂わせる。神さまも困ったものだ。教会形成の計画をぶち壊してしまう。今日も次男が礼拝に出ない。教会を担ってほしいのに。家ら追い出すべきかどうか頭の痛いところ。総会資料の製本。二日、制作にかかったので礼拝後、ぐったりいて寝ていると夕礼拝ぎりぎりまで寝ていた。仕事場に帰っていく家内を送って一日が終る。よくここまで二人は生きてきた。人の力ではないだろうと神に感謝。
)今日は買い求めていた「出来事の言葉・説教」を読む。反省させられることばかりである。ここちよい刺激となった。卒園写真を撮る時間になっても呼びに来ないので行ってみると園児が泣き叫んでいる。骨の折れやすい病気をもっている子どもで、骨が折れたのではと思い救急車を呼ぶ。三年間何もなかったのにここにきてといういら立ちが走るが、いかん、いかんと自分を反省しながらこどもの立場になって痛みを共感しようと念じる。幸い骨もおれていなかった。
)財務委員会と思い行くと今日でなかった。駅でたまたま電話して知り、引き返せた。そういえば鍋も二回焦がした。そのために味噌カツの味噌が不良品となった。              )餅つきで子どもたちは元気にはしゃいでいる。静岡、名古屋のとき教会で餅つきをしたことを思い出す。来年は教会でもしよう。楽しいイベントは良いだろう。
)財務員会で急遽聖書の学びを休む。委員会後、牧師試験に合格した息子と一杯。委員のMさんも付き合ってくださり楽しい時間となる。これから同僚としてどう息子と付き合っていくかとまどっている。
)昨日からいっきに真冬になったので寒い中を帰ってくる家内のために酸辣湯を作り、風呂を沸かして待つ。何の反応もない。当然のように思っている少しいらだつが、こちらが報いを望むから間違い。
)雨が降り寒い。

2012年1月15日日曜日


天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

    マルコ1:9

【説教要旨】

 ルターは、洗礼について、「君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。」と言った逸話が残っています。洗礼を受けるとは、私はもう私自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなるということです。そういう意味で今日の主の洗礼という出来事は、私たちにこのことを語りかけていてくださっているのではないでしょうか。

人の子となれたークリスマスの出来事を通してーイエスさまが洗礼を受けるということは、イエスは、私たち人がどのような者となるかということを示しているのです。

イエスさまが、聞かれたように、私たちも洗礼を通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声に聞くという存在となるということです。ルターがいう洗礼をうけて、主のものとなっているのだということです。

洗礼を受けてキリスト者となっていくということは、この神の声を受け容れ、信じていくということですね。私が、


どんな人間であれ愛された者であること、神のみ心に適う者であるということです。

これは「天から」とありますように、一方的な神からの恵、贈り物なのです。自分が愛されているということはなんという平安でしょうか。それも神に愛されていることです。年の初めにあたり、私たちは今一度、「あなたはわたしの愛する子」という天からの恵に感謝しましょう。そして、私たちはこの神の愛、恵にすべてを委ねていく、主のものなのです。一人だに、神に愛されない、恵をいただかない者はいないということです。私たちの一歩を神の愛、恵みから初めるのです。自分が神さまに愛されている存在であるという信頼に徹底的に立つこと、この神の愛に支配されているのです。

自分が洗礼によってどう変わったかと問うより、自分がこの天の声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」をイエスさまとともに聴き、従うということです。むしろ、自分でも認識できないほど深いところで、自分の洗礼はわたしを支え、魂を支えているのです。起き上がりこぼしに据えられているような重心がそこにはあります。揺れても戻ります。それが今日のルターと元雇人の逸話になるのです。

自分が愛されているということを、または愛されているということに自分の重心があるのです。ルターは歴史の大きな流れに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけたとき、幾度も幾度も「わたしは洗礼を受けている」と書いたそうです。洗礼という揺れてももどる重心を持ちながら、私たちが揺れる中であなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたに違いありません。

ジャン・バニエという人が作ったラルシュ(箱舟)共同体があります。彼はカナダ総督の息子として生まれ、海軍士官になり、後にパリ大学で哲学を学び、トロントで哲学を教えます。そのころ親しかったトマ神父の影響を受け、哲学の教授をやめて、精神障害のある二人の方と生活をはじめ、この生活のなかで平安を得て、共同体を作っていきました。彼はこの共同体を通して、現代と言う時代をどう生きるかということを発信しています。彼がこう言っています。
愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを気づかせてあげることです。その人に向かって、「あなたが生きていることは素晴らしい。私はあなたが生きていて幸せです。あなたの存在をとても喜んでいます。あなたは大切な、価値ある人です」ということを伝えることです。
これが神の思いです。「私の愛する子」。
さらに次のように彼は言います。
人は愛されて初めて、愛されるにふさわしいものになります。そして何かができるようになります。積極的になります。愛されることによって、人はこの世界で何かを果たすことができるのです。
これが「わたしの心に適う者」となるということではないでしょうか。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この神の声は私たちにかけられており、私たちが一年を始めるに相応しい天からの声ではないでしょうか。
新しい年が始まりました。私たちはこの「天から聞こえた」という「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、高らかに私たちの歩みのなかで響き渡っていることを忘れないで、今年も神さまの子として、福音に生かされ、積極的になり、何かが私にはできるのだという確信と希望をもって、今年も兄弟姉妹ともに歩んでまいりましょう。
君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。
牧師室の小窓からのぞいてみると

以前から君が代斉唱起立、国旗掲揚に対する学校での対応を巡り、斉唱、起立に反対する教師に対して、処罰うんぬんが問題となっている。
その是非というよりもこのデリケートな問題を法であるから守らなければならないという搦め手のやり方が、力づくに見えてならない。弁護士出身の大阪の市長は、法律家出身らしく法によって処罰の対象とするという。法を力として、良心までも縛ろうとしているやり方に違和感を感じる。法は確かに守らなければならないが、法がもつ力の恐ろしさもあることに気づいて、法を執行してほしい。
今、私たちはどこかで強い力を待望している。確かに力は魅力がある。しかし、それは決して良い結果を生んでないことを歴史は教えている。力でなく相手を重んじる愛が歴史を切り開いている。愛を感じる感性こそ大切な時代ではないだろうか。
 

新米園長・瞑想?迷走記

今日はお店見学である。園児は近くの商店街を散歩して、実際にお金を使って買い物をするのである。みんなは寒い中を嬉々として散歩している。それぞれの店で目を輝かしてお買い物をしている。
しかし、商店街はシャッターがおりていて、子どもたちが立ち寄ることのできる店が毎年、毎年減っていっている。今年も花屋さんが閉店していた。子どもたちのお店見学は、段々と難しくなってきている。人の温もりを感じる商店を大切にしたい。私は幼稚園の購入の物を地元商店から購入することにしている。子どもたちが温もりを感じるお買い物が出来るために。

ルターの言葉から

「洗礼の賜物」



「洗礼は何をあたえ、どんな役にたちますか。」

「それは、神のみことばと約束とが宣べているように、罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し、信じるすべてのものに、永遠の祝福を与えます。」

(小教理問答書より)



ルターの逸話が多くある中で好きな話がある。

かつてウィッテンベルクのルターの家にひとりの貧しい女が召使として働いてが、この女はのちに堕落し非常に惨めな状態に陥った。ルターは彼女を訪ねて、なぜこんなになったかを尋ねた。「だんなさま」彼女は答えた、「私が惨めになったわけですか。私は神から離れて、悪魔に私をまかせたのです」と、そこでルターはいった。「それはいけないね。エルサ。いいかね。君はここにあるこのお金や書物や服をフロリンス君にくれてやることができるかい」「いいえ、それは私のものではないんですもの。」「そうだろう。できないね。君もそのとおりだよ。君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。だから、自分を自分でかってに悪魔にわたす権利はないんだよ。さあ、悪魔との契約を破棄なさい。そうすれば神さまが熱い火を悪魔の上においてくださる」と諭した。

洗礼は主のものとなっていることだという。ここに私たちの存在のすべてがあるのだろう。また洗礼の恵みがある。この恵みに気づき、常に恵みの洗礼が私たちを支えていることを忘れたくない。洗礼は、神が、あなたを救うために選ばれた救いの手段であるということを伝える逸話である。


大森通信    
 京セラの創立者の稲盛氏は、次のように言っている。人類が備えるべき思想の軸とは何か。宗教を信じる人
もいれば、信じない人もいます。だからキリスト教の思想でも仏教の思想でも、何でも構わないと思う。ただ、いずれにせよ大切なのは「思いやりの心」を持つことです。これは、仏教でいえば「慈悲」、キリスト教でいえば「愛」でしょう。このもっとも大切な心を人類はいま見失いつつある。だからもう一度、蘇らせる必要があるのです。そうすれば、われわれが抱えている問題の多くは、自ら解決へと向かうはずです。
・・・・・人類も、欲望をエンジンとした近代文明に別れを告げ、「優しい心」や「美しい心」をエンジンにした、新しい文明社会を作っていくことに努めていくことが、いま大切なのではないでしょうか。
今週、息子が牧師試験、牧師任用試験に合格して、4月から牧師になる。近代文明が大きく変化しようとしているとき、新しい生き方と宗教家は示していかなければならない厳しい時代を生きるのだが、稲盛氏がいうように「新しい文明社会を作っていく」人となる
ことであるという自覚し、宣教を担っていっ
てほしい。難しい時代の旅立ちだが、働き甲
斐のある時代への旅立ちだと大いに期待して
いる。
(大森日記)今週は、幼稚園も始まり、また総会資料も準備しなければならない日々であった。幸いにも先生方の働きに、信徒さんらの奉仕に支えられ日々を乗り越えていった。一人ではない。総会資料印刷に5時間をいただき感謝である。そんな日々に追われ、息子の牧師試験のことをまったく忘れていた。彼からの合格のメールで気づく。こちらは戸惑いしかないが、思いっきり頑張ってほしい。子育てはなかなかしんどいが、ひとつ仕事が終わったように思う。忙しい中、数冊の本を読め、感謝。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)幼稚園児が教会学校の始まる日を間違って、やってきて寂しくなり、大泣きをし始めた。泣く子をなだめながら家へ送っていく途中、いろいろな会話をして遊んだ。おかげでこちらが礼拝に遅れそうになりタクシーで。家内が初めてのオルガニスト、久しぶりで息が合わず、困ったものである。役員会で総会の準備。いつも思うのだが日本の小さな教会で必要なのだろうか。夜の礼拝後、誕生日の青年らと夕食を共にする。次の世代へのバトンタッチか。息子が礼拝に出席しておらず、これもいらいら。
)高齢者の方を訪問。いつも気になっているがなかなか全部をまわれずにいる。これもいらいら。横須賀まで足を延ばし、家内と散歩する。こういう時間もあとどのくらい続くのだろうか。三笠公園の横に横須賀学院があった。ここに召天した友人の牧師が教えに来ていた。ここでどう教え、思っていきていたのだろうか。親しい人は天に多くなった。
)幼稚園の三学期の始園式。風邪をひいて休んでいる子もいる。みんな元気で来てく ださいと願う。寒い。稚内の友人に寒中見舞いのメール。
)すべてが総会の準備に時間をとられる。うんざりかな。必要ない、それより祈ること。
)園児のお店見学の引率。可愛くてしかたない。それにしても歯が抜けるように店が閉店。来年はこられるのだろうか。今日は明日帰ってくる家内の夕食と思い名古屋の土手煮を作る。結果は、誰も手を出さず、一人で食べる。朝の祈り、聖書の学びと日常が帰ってきた。長男が牧師試験に合格というメールをもらう。すっかり試験のことを忘れていた。この4月から牧師かと思うとこちらの行く道を考えなければ。
)家内が帰宅する。息子に対してのこれまでの努力にご苦労様と言いたのだが、恥ずかしくて言わず、言葉が少なくなる。よくここまで育ててくれた。)総会資料の印刷で奉仕をいただく感謝。なかなか説教が出来ずに夜中、散歩に出る。帰ってみると次男が実習の制作をしている。きっとこれを言い訳にして礼拝に出ないだろう。考えるだけでも胃が痛くなる。朝、四時に完成。

2012年1月8日日曜日


ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。       マタイ2:12



【説教要旨】



 1月6日の顕現日に近い日曜日を顕現主日として、今日は、礼拝を守っています。それはもうひとつの古いクリスマスなのです。東方教会では、「大いなる新年」としてキリストの誕生日としてこれを祝ってきました。今日も東方教会の流れをくむアルメニア教会は、旧暦の1月6日をクリスマスとして、今も祝っています。

私たちは いつのまにか12月25日がクリスマスと思うようになりました。しかし、もう一つのクリスマスがあるのです。私たちの教会はローマを中心とした西方教会です。かつてビザンチウムを中心とした東方教会というもうひとつの教会の世界があるのです。今、私が見ている世界だけが世界ではないのです。多様化した世界があるのです。そして、そこでももう一つのクリスマスが祝われているのです。イエスさまの誕生がいくつかあるということは、それはいくつもの違う世界にイエスは生まれ、生きておられるということです。これはとても今日、大切になってきて


いるのではないでしょうか。イエスさまが生きて、命を与えて下さっている世界は自分だけの世界でなく多くの自分と違う世界にも生きていてくださるのです。

 今日は三人の博士の記事が読まれています。この三人の博士は、ユダヤ人でなく外国人です。この当時、外国人は救いの外にあると思われていました。この記事は、救いはユダヤ人という世界だけでなく、違う世界にまで及ぶということを私たちに教えていてくださるのです。

 主の救いのうちに世界は確かなものとされているということです。そして世界は互いに主の救いを分かち合う道があるということです。

新年にあたり思うことは多様の国々が主の救いのうちにあるという深い思いをするということではないでしょうか。今、世界は狭くなり国境を越えて人、物、お金が動くグローバルの時代にあります。「国家の品格」という本の中で、今日の潮流であるグローバル化から起きる危険性について、次のように指摘しています。「最大の問題は、グローバル化が世界をアメリカ化、画一化してしまうことです。これは経済の分野にとどまらず、必然的に文化や社会をも画一化してしまいます。」だからこそ私たちはこの多様な人、国を広く受け容れ、多元な価値を認めることがイエスさまのもう一つのクリスマスのメッセージではないでしょうか。

相手をいつもおかしいと決めつけ、認めず一つの価値観を力で制していく道は主のみ心ではありません。へロデはイスラエル最高権力者でした。彼は自分の力で王まで這いあがってきました。力こそ政治でした。彼の力がどんなに大きかったかはエルサレムの城壁をみると分かります。その石の大きさは他をよせつけない大きさです。ちょうど秀吉が大阪城を築いたような大きな石です。しかし、力がいかに醜いものであり、真実から遠ざかっているかをイエスの誕生物語は教えています。


さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」力の醜さを聖書は教えています。私たちは天使が、「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあるように私たちはヘロデのところに帰ってはいけないのです。力でなく平和の君として来られた救い主イエス・キリストに帰っていくことです。それはどんな人、国にも救い主として来られた方です。どんな人にも、国もイエス・キリストの救いのうちにあるのです。互いに認め、愛し合っていくことこそ私たちの道であることを今日のもう一つのクリスマスは教えてくれているのではないでしょうか。榎本恵牧師が「バタフライエフェクト」という言葉を紹介してくれています。アマゾンの熱帯雨林で一羽の蝶がはばたけば、地球の裏側では激しい嵐になる。自然界は複雑に均衡している。あらゆるものが相互に依存しあい、まったく関係ない小さな行為さえ、時間や空間を越えて大きな効果をもってくるというものです。

小さな者の、国の痛みは、やがて私たちの大きな痛みとなって帰ってくることを忘れずに、すべてに主の命が与えられているということを見つつ、相手を認め合うものでありたいものです。

またもう一つは、私たちの小さな力もやがては大きな力となるということです。ですから諦めずに「主よ、御国がきますように」と神の支配される愛の国が実現するように希望をもって今年も歩んでいきましょう。「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあるように世と違う別の道を選び取ってこそなんと幸いなことと言えるのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると



新年にあたり、再度、「国家の品格」(藤原正彦著)を読み直した。

グローバル化していくことは効率化、能率化していくことにはなるが、しかし、経済ということだけでなく、それは広く社会、文化、教育を腐敗させると彼はいう。「最大の問題は、グローバル化が世界をアメリカ化、画一化してしまうことです。これは経済の分野にとどまらず、必然的に文化や社会をも画一化してしまいます。」というように「画一化」、それは神のお作りになった秩序を壊すことになる。私は今の状況はあのバベルの塔の物語を想起させる。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

私たちは再びバベルの塔を作っているのではないだろうか。

 


新米園長・瞑想?迷走記



休み中、街を歩いているとつい小さな子供に目がいってしまう。うちの園の子どもではないかと。実際、数人、子どもたちと合って話をしている。山王だけでなく、こんなところでというところで会う。子どもに目がいくのは職業病かなと。



ルターの言葉から

外から見れば、ヘロデはまことに好運な、連戦連勝の強い王でした。剣を取って戦う時、全てはゆきました。また、賢い、機略に富んだ王であり、権力もあり、外国貿易によって栄えました。しかし、家にあっては、もろく弱い、不幸な人でした。このように、ヘロデは表面は好運で、内面はみじめな王でした。一方、私たちのまことの王キリストは、表面はまったく貧しく、みじめで、軽蔑され捨てられましたが、内面はまったく喜びと慰めと勇気に満ちておられました。

そこで私たちは、この世的に表面だけ好運なヘロデが、私たちから、まことの恵み深い王キリストを奪い去らないように努力しなければなりません。キリストは貧しい惨めな幼子として、飼葉桶に横たわっておられますが、私たちは、この方のところに行かねばなりません。

それゆえ、もしまことの幸福を願い、純潔で幸いな良心をもちたいと欲するならば、ヘロデ王の生活様式を捨て、もう一人の王キリストのもとに行かねばなりません。それは、私たちが、わざによって義認を求めたり、望みを働きのうちに置いたりするような高慢を捨て、なんのみせかけもなさらない、いつくしみ深い主キリストの姿のみを心の内に飾ることを意味します。三人の博士も、あらゆる人間のわざを捨て、人の助けをあてにせず、神のみ言葉に信頼して、ベツレヘムまで来たときに、すぐに星を見たのでした。                1521年の説教より

ルターは、「我、ここに立つ」と言って、主の言葉に信頼し、生き抜きました。この説教においても、私たちがどこに立つかということをはっきりと示しています。

あらゆる人間のわざを捨て、人の助けをあてにせず、神のみ言葉に信頼する


大森通信    

 宮田光雄先生が、「いま人間であること

ー大地震の災禍の中で考える」という文章の

中で、次のように言っている。

この文書は(コヘレトー「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。・・・・・・わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」)「懐疑の書」でもなければ、諦観的ニヒリズムの告白でもありません。この短い文書には、暗いトンネルをくぐり抜けるときに点在する信号灯のように、三十数回も『神』という名が出てきます。コヘレトは、地上的な人間がさまざまな形でー富や地位や力を求めー苦しむ営みを冷徹に見通し、厳しい言葉を発しています。それは《空しい》日常性から、いっそう《高次の次元》へと人間が目を開くことを促しているのです。・・・・・・・・・・日常を越える《いっそう高い次元》というのは、宗教的にいえば神への《祈り》であり、終末論的希望にたいする根源的信頼の表明です。・・・・・・・この信頼と希望に支えられるがゆえに、なおこの地上に踏みとどまり、新しい将来を形成するために働く勇気をもちうるのです。・・・・今回の大震災は、私たちに対して重大な警告を発しています。これまでのような政治、経済、社会の在り方を根本的に改革し転換しなければならない。そえは、現代文明そのもの構造改革を問うているのです。

新しい年を迎えて、私たちが、神の言葉に立つこと、「我、ここに立つ。」、ここを問われ、問い続ける日々でありたい。

(大森日記)除夜礼拝、新年礼拝と共に祈る幸いを得る。高い次元、祈りこそ。誕生日のS兄を訪問し、信仰の歩みの確かさを思う。手術前日、N姉を訪問し、祈る。「祈ってください」という言葉を強く感謝する。K牧師夫妻が訪ねて来てくださり、新年の挨拶をいただく。祈り、祈られての時間だった。そろそろ仕事も始まるころ、夫婦で湯治場に行く。そこで出会った方で、癌の手術をした奥さんを労わりつつ来られていたご主人の優しさに感動。今週も色々な方と出会った。主に感謝。  

  おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)除夜礼拝、新年礼拝と続く。新しい年を迎えて大きく世界が間違っている方向に向かっているように感じる。こういうとき私は何も出来ないもどかしさを思う。厳しい一年が待っている。私は どこに立つかである。神学校の試験を受ける兄弟と神学生の息子と飲み会。お金だけをおいて、二人で話させるために退散。出費はきついが。こんなときに金を使う。
)誕生日を迎えた高齢の方を訪問する。明日、手術、入院をなさる婦人のことばかり思って歩いているとばったりと道で合う。こういう偶然はある。気になる方がまだいるが解決の道を見出せなくている。
)息子と教会の木を剪定する。気になっている所があるが、なかなか体が動かない。明日、手術を控えている信徒さんを病院に訪問し帰ると、K牧師夫妻が来てくださり新年の楽しい時間をいただく。
)かねてよりの休み中の旅行を伊勢路にする。各駅停車で向かうが、電車の事故で予定が狂い、SLと温泉にして、大井川鉄道に変更する。その後、名古屋に入り、夕食に味噌煮込みうどんを久しぶりに堪能。
)朝から伊勢に向かう。雪もちらつく生憎の天気だが夫婦同伴で楽しむ。途中、タクシーに乗るが伊勢の歴史について運転手から聞く。こういう楽しみがある。各駅停車の旅で23時に東京に着く。明日からは幼稚園が始まる。旅の間に読んだ本が2冊。こういう旅だから読書が出来るんだろう。息子がガールフレンドを連れてくる。ひやひやである。
)今日から幼稚園。職員会議をして三学期の準備。都庁と建物改築についての連絡。午後からは信仰の兄が訪問くださり楽しい時間を過ごす。訪問。主日の準備をしていると一日をまたいでいる。明日は病院訪問、友人の展示会、総会の準備をしなくてはいけない。あっという間に時間は過ぎた。
)病院訪問、総会資料作りと続く。一週間が過ぎるが、どう宣教していこうかばかり頭の中を巡る。難しい時代だから「我、み言葉に立つ」である。