2013年3月17日日曜日

四旬節第主 2013年3月17日


わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
フィリピ3:8

【説教要旨】
今、ガラテヤ信徒の手紙を勉強していますが、キリスト教会の信仰を方向づけたのは、パウロだと思います。
そのパウロの気持ちが素直に出ているのが、フィリピ信徒への手紙だと思うのです。なみなみならない決意をここで聞きます。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と。
強い、パウロの意思が伝わってきます。私たちは世の中を生きていくとき、また小さな私自身を見ても、自分を有利に導くために多くのことを知ろうとします。知識を得ることによって自分の安心を手に入れようとします。情報社会にあって、いかに知識をえるかが、私たちの将来を決めます。しかし、これほど私たちが多くの知識を得ても、心から幸せだと言えますか。今、若者の死因の一位は自殺で、先進国の中で日本だけにある現象だそうです。新聞は自殺を「若者からの三行半」と言っています。だから決して幸福な社会が私たちの前にないと言えるのではないでしょうか。最後に「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と社説を結んでいます。
では、私たちの杖とはなんでしょうか。
お金がないと生きていけない。確かに現実はそうです。具体的な生き方の中で私たちはこれだけのものがなければ、私たちは何も出来ないと言う現実にぶつかります。ですから私たちはより良いもの、より多くを得ようと思うのです。失うことでなく持つということに必死になろうとして複雑化してしまうのではないでしょうか。
しかし、パウロは次のように言うのです。
肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
彼は、この世的な多くのものを持っている。これを頼りにして生きようと思えば自分は生きていける。それは信仰においてでさえ「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」とあるように立派な誇るものを持っていた。
しかし、今まで自分を支えた、自分に自信を与え続けたこの世のもろもろの杖が、神の前を生きるわたしには全く意味をもたないというのです。
彼は「救い」ということに確信をもって語ります。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」キリストのすばらしさとは、神から離れていこうとする罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。
だから、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言いきるのです。
このすばらしさが、私たちの杖なのです。
私たちが生きていくとき、私たちにはいろいろなことがあるし、いろいろな局面に立たされます。そこで「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と言うように、真の意味での杖を私たちは神さまから与えられているのです。それは、イエスさまの十字架の愛です。イエスさまもここで神の子としての生きることに転んでしまいました。十字架により苦しみを負われ、死において希望を無くしました。しかし、ここに生きる杖、神の愛が与えられているというのです。
「キリストによって救われた」という杖は、私たちの常識を超えています。だから私たちはこの杖をもって従うことがなかなかできませんが、「神の愛によってわたしが救われた」ということに自分を開いていく。徹底的に神の愛に従うことが真の杖です。私たちの常識が教えることはあってはならないこと、十字架の愛から私たちの人生の杖が与えられるのです。 

八木重吉は詩います。

基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中に入ればいい/彼につれられてゆけばいい/何の疑いもなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張り合いがしぜんとわいてくる/むつかし路もありましょう/しかしここに確かな私たちにも出来る路がある/救ってくださると信じ/わたしをなげだします


ルターの言葉から
      
私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちのもっている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を乱用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
神がこのような悪を訂正される方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、より一層深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長出来ない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。・・・十字架を負う時にのみ、福音は私たちを通して前進します。

                      
北米のルター派・その歴史 15.チャールズ フレドリクソン
フロンティアの拡大(1800~1875)3
1840年にはルター派は大西洋沿岸からミシシッピ川まで進展していました。ルター派の人口は移住者増によって増えていたのですが、その新しい移住者が問題をかかえて、いろいろと問題を引き起こしました。新しい移住者の生活体験が、今では数世代にわたって北米で生活している「米国化した」ルター派の人達とかけ離れていたからでした。移民という共通の経験を通して多くの点では一つになっていたものの、両者は一つのキリストの体にはなりませんでした。そのかわり、この新しいグループは引き続いてやってくる新たな移住者が抱える問題に対応するように変わっていきました。西部開拓と民族の絆を強くする教会の新しい道作りが始まったのです。

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