2012年9月30日日曜日


聖霊降臨後第18主日         2012年 9月30日



わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。           


マルコ9:37


【説教要旨】    「受け入れる」


わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。という今日のイエスさまのお言葉は、子供を受け入れた者は、イエスさまを受け入れ、神さまを受け入れたのだというのです。しかし、ここに「このような」という言葉に注目したいのです。ユダヤ人の成人男性に朝夕唱えることが義務づけられていた「シェマの祈り」という祈りにおいて、成人男性が唱えるので女子供は祈る義務はないということでした。ですから女子供を受け入れることは当時としては否定的に振舞っていたということです。
ここでイエスさまが「このような子供」と言われるとき、価値の低い、人として受け入れられていない人を受け入れていくということです。私たちはイエスさまの言われることは分かりますが現実となりますと、子供の中でも、私たちが受け入れるに価値がないという子供もいるわけです。酷い子供を受け入れることはまっぴらだということになるのです。そういう心がどこかに私たちの中にはあるのではないでしょうか。
そして、今日は少年が犯した神戸の色々な事件に対して法律的に厳しくして、受け入れるというよりも厳しく罰していって矯正しようとする傾向が強いように思えます。そこにある心の動き、社会の動きは「ああすれば、こうなる」というように子どもらをコントロールしたがるように力によって、社会をコントロールしようとする傾向が強くあるように感じられてなりません。
それは、罪なのです。そして、私たちはイエスさまを、神を拒んでいるということなのです。しかし、まったく気づいていない。だから私たちはますます混迷しているのです。この罪をしらないゆえに、私たちは本当の意味での救いを知らないでいる。
それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
弟子たちは、救いが分からなかったといっているのです。というのは、私たちの罪が分かっていないからです。私たちがイエスさまを拒み、神を拒んでいるということが分かっていないからです。
現代という社会のなかで、「ああすれば、こうなる」と思ってはばからない私たちはいつしか、自分が神より偉くなっている。いや自分が何でも出来るのではないかとどこかで思っている。一人で何でもできると思っている。
途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。とありますように、ここに私たちのこころを支配するのは、コントロールするということです。これがいかにイエスさまの救いから、神さまから私たちを遠ざけているかということです。ですからイエスさまは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」言われるのです。コントロールしていくものでなく、仕える者であれと言われるのです。
私たちは社会の混迷の中でいらだち、力によるコントロールに傾きつつあります。この苦しみからの解放は、人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する主イエス・キリストしかないのです。私たちが主を知るということは、知った私が変わるということです。つまり主イエスが言われますように、途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」ということからいちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。という大変化がおきるということです。コントロールする者でなく、仕える者としての私たちがあるのです。
しかし、ここに生きることは、厳しい現実があります。まったく世と逆行していくかもしれません。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
と、この後も弟子たちにイエスさまは私たちに語られています。今日、私たちに仕えてくれた会堂の解体の祈りを捧げます。仕え、今、命を終わろうとする会堂は、私たちに仕えるということを証ししてくれています。



ルターの言葉から

子どもへの祝福


愛する子よ、眠って、おとなしくしなさい。お前には財は残さないが、豊かな神を残したい。よい子になりなさい。
 
ルターの宗教改革に反対する人の中傷、非難、敵意にもかかわらずルターは1525年6月13日にカタリーナ・ファン・ボラと結婚します。楽しい家庭と他人を温かく迎える家庭を築ずいていきます。
妻を愛し、子どもを深く愛したことは彼の言葉、手紙からよく分かります。この絵は1866年に描かれたルターの家族の絵である。ルターが、どんなに家族を大切にしているかよく分かる絵である。悩んでいる息子に宛てた手紙がある。

最愛の息子ヨハン・ルターへ。主の恵みと平安があるように。
愛する息子ヨハンよ。
お母さんも私も、そして家族みんな元気です。お母さんの嘆き苦しみをこれ以上増さないように、男らしく克服しなさい。・・・神さまに従いなさい。神様は私たちを通して君がそこで勉学に励むことを命じられていらっしゃいます。そうすることによって、君は君の弱点を克服することができます。・・・病気になったら、すぐに知らせなさい。そうでないのなら、嘆くことは止めて、元気に穏やかな心をもって君の勉学に励みなさい。
良い子になるように勧めるルターの姿が見えてくる。




牧師室の小窓からのぞいてみると

人生 いろどり

この頃、夫婦で映画を見にいくことをしている。私にとって激しい映画はしんどいが、ゆったりと時が流れる映画にはついていける。それだけ歳をとったということであろう。
高齢化と過疎化が進む徳島県の上勝町で、7080代の女性が中心となって葉っぱや道端の草を料理のつまものとして販売し、売上高26000万円をあげるビジネスとして成功させた実話を映画である「人生 いろどり」を鑑賞した。 歳をとって運命の神は、手をさしのべているということである。その時を私がどうとらえていくかが人生を究めるということになるのかもしれない。
すべてに時がある。これは平等にあるはずである。それが人生にいろどりをつけていくことになるのかもしれないと思わせた映画であった。




新米園長・瞑想?迷走記

そろそろ小学校受験が始まる季節になる。毎年、数名が受験をしていく。出来ればみんなが希望した学校に合格して欲しいと願っている。
入学試験をストレスに感じている子にとって、園での生活が、少しづつ変化をして、苦しんでいるのが分かる。子どもは正直である。しかし、私は何も助けることはできない。
こんなとき親も大きなストレスを感じているだろう。むしろ親に対する心細やかな配慮が必要になるのかもしれない。いつでも相談にのってくるなら聞くという心をひらいておかないといけない。
一緒に傍らにいることしかない。




大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑪)

土地の測量は、いつも物議を起こす。とくに隣地との境界線は大変である。
別府教会のとき、引退者住宅を売却することになった。売却するのになんと手続きがいるのかそのとき知った。特に隣地との境界線を決めるとき、これが大変であった。一軒、なかなか判を押してくれない家もあり、何度、訪問したことだろうか。牧師一年目、社会人一年目で、戸惑うことばかりだった。色々といやみたっぷり言われた。測量から売却までの期間、色々とクレームをつけられる度に謝りに行き、対処していった。
本部に「これが牧師の仕事ですか」と電話すると「牧師は何でもするんです」と返された。正直、糞っと思いつつ、売却の準備をしていった。幸い売却もうまくいった。判を押さなかった方が、売却するならウチにしてほしかったと言われたとき、色々な人がいるんだと思った。
最後に、お世話料として、本部から別府教会にいただいた。貧乏極まりない教会にとっては、大いに助かった思い出がある。牧師っていろいろな事を知っていて、しなくてはいけないんだと勉強した。私の牧師としての一歩は隣地との境界線の確認だった。



(大森日記)幼稚園運営委員会。どう保育内容を深めていくかという会となった。夕礼拝に休暇中の息子が出席してくれる。まだ三分の一を歩んだ牧師生活を聞く間もなく帰っていった。今週も補助金の申請のため、幼稚園の土地園舎変更手続き、融資の手続きと矢継ぎ早に胃の痛むことばかり続く。訪問も十分に出来ずにいるので、一人一人のために祈りつつ日々を歩む。課題と取り組みつつ一つ一つを解決していかなくてはいけない。それは将来のために。お前は幼稚園が好きだと揶揄されるが否定はしない。もっと幼児教育を学んでいるべきだったと思っている。何事も楽しくやりたい。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。


日)礼拝堂を建築していくときは仮会堂、牧師館の住居の確保が頭の痛いことである。今回は幼稚園の保育室の確保が必要となった。そんなこんなで胃が痛くなる。今日から仮会堂で礼拝である。幼稚園の保育室の礼拝堂をどう聖なる雰囲気を出すか、頭を使う。授業料の値上げの幼稚園の運営委員会であるが、これも不安が残る。長男もやってきて家族が揃う。久しぶりに夕食を皆でする。
月)家内が休みだったので、家内と静岡まで、仕事を兼ねドライブにいくことにした。道中、話しながら思い出すのは、付き合い始めた時もいつも仕事を兼ねてドライブだった。違うのはドライバーが家内から私に変わったことである。年月を感じる。
)遠隔地の訪問日であったが、予定を変更し、都庁まで行き、補助金の申請の相談。午後からお袋の位牌の注文に行く。その後、私学財団に融資の書類提出。終わり幼稚園に戻り夜からは園長研修会。「自由保育」が子どもの将来を開くという児童心理・教育の立場から聞けたことは感謝。それにしてもよく園長を兼ねる牧師に「牧師でなく園長だ」と批判を聞くが、私もそうなってきたと苦笑い。
)区に提出の書類を整えるために法務局、区へと一日がとられる。建物の面積にしても境内地の面積にしても登記と実測図と違うし、法人の所在地が変更しているのにもかかわらず土地では旧来のままであったり、それを楽しく直しているのも奇異に感じて苦笑。そんなとき印紙代という税金がやってくる。なんだか損をしたような。国は良い商売をしている。
)こどもの礼拝、改築工事の打ち合わせ、区との幼稚園用の土地、建物の提出書類の打ち合わせ、職員会議と続く、終了が午後9時。この頃、午後に力がなえ、エネルギー不足になる。これからの進路を祈りつつ決めていかなくてはいけない。引退後は、沖縄で祈りの家を始めたいが、引退まで最短5年、最長10年。最後の仕事場を考える。
)朝から色々な事務的なことで電話をいただき、電話をしているうちに梅ちゃん先生の最終回を見損なった。夕方、家内と映画を見にいく。二人の時間も長くはない。そういえば今年、二回、家内に誕生日プレゼントをしていたことを思い出した。ぼけてきた。


2012年9月16日日曜日


聖霊降臨後第16主日         2012年 9月16日


そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。            
マルコ34

【説教要旨】 開ける

田辺聖子さんの短編小説で「ムジナ鍋」というものがあります。そのなかで「姫路の人々は、夢野町のことを、『過疎の田舎町』と一言のもとにいいます。その夢野町の人は、字猿岩に住む人々を、『あんな寂しいトコによう住んどるわ』といいます。その猿岩の住民は、大字猪岩の村をさして、『人間の住むトコちゃうな』というのです。」と言う文があります。ガリラヤは、辺境地です。そのガリラヤからすればシリア・フェニキア地方のティルス、シドンというのはさらに辺境です。まさにエルサレムからするならガリラヤは辺境であり、ガリラヤからすればシリア・フェニキアは『人間の住むトコちゃうな』という辺境なのです。つまり神の恵みが届かないところなのです。イエスさまはこういう地をお歩きになられたということです。そして大廻して、『あんな寂しいトコによう住んどるわ』という辺境地、ガリラヤに来られるのです。
この辺境地に耳が聞えず舌がまわらない人がいました。人の言葉を聞こうとして聞えない、自分の意志を伝えようとして上手く伝えることができない人がいた。つまり神の恵みの光が届かない人がいたのです。
その人がイエスさまのところに連れてこられるのです。さてこの人はまた私たち自身のように思えます。力で世をねじ伏せようとすることが当たり前のように肯定されていく社会が今、目の前にあります。人へのやさしさ、おもいやりということかき消されていく世にあって、私たちがイエスさまの愛を伝えようとしてなかなか難しい状況に立たされています。イエスさまのことばを届けよとしても、舌がもつれる。耳をすまし社会の声を聞こうとして、人の言葉がはっきりと聞き取れなくなってきている。そういう現実が私たちのうちにある。そう感じてはいないでしょうか。神の恵みの光が感じられないでいる状況が私たちを取り巻いている。まさに聞くこともできず、語る言葉ももつれ、世に証しできない教会、私たちがいる。そういう私たちがいるのです。
九州・東九州の宮崎教会で牧会を二人の牧師が終わりました。まさに辺境を生きた人でした。伝える舌がもつれ、聞くすべもない壁にぶつかりながら伝道していく、それは恵まれないように思える。しかし、ひとつの事実が教えるのです。イエスさまはこの神の恵みの光があたらない地を巡りあるいたということです。教会のかかえている今の時代に手も足も出ない私たちのところにも日々、来られているということです。私たちはこのことにまず注目すべきです。まさに辺境、光のあたらない地にこそイエスが足を運ばれたように、私たちのところにも足を運ばれるということです。
 そして、私たちはこの人のようにイエスさまのところに連れて行かれるということです。そこで何が行われようとしているのか。「その上に手を置いてくださいと願った」とあります。祝福を受けるということです。私たちは祝福を受けるものとして神の前に連れ出されるのです。今、最も祝福から離れたところにあるように思えることがあります。しかし、違うのです。イエスさまは歩まれてこられるのです。そして祝福を与えられるのです。私たちが神の前、イエスさまの前に立つとは祝福を受けるように立つのです。これは誰ひとり除かれることはないのです。祝福を受けるものとして、私たちは生かされている。このことを私たちは忘れてはいけないのです。イエスは「開け」と言われます。私たちを堰止めた壁はイエスによって開かれるのです。
辺境の地、神の恵みの光が届かないようなところにこそ、十分に光がとどき、「開け」と祝福を与えてくださるイエスさまの歩みを信じて疑わなかったからではないでしょうか。
神の声が聞えなくなり、神の愛を伝えていく舌がもつれるような困難さに私たちは立ちます。しかし、ここにこそイエスさまの前に立つことにほかならないのです。また祝福を与えられるということです。「開け」と語りたもうイエスさまは、私たちの前に憚れる壁を開いてください。まさに福音をつまり神の愛を伝えようとするときに困難さと、閉じられていることを感じる時代ですが、「開け」とお語りなる方が私たちの前に立たれることを信じぬいていきましょう。
この方のなさったことはすべて、すばらしい。」というように私たちの歩みにこのイエスさまのすばらしさが与えられるのです。私たちが私たち自身をみるとき「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」という出来事のひとつひとつであることに私たちは気づきます。大変な激動のなかで生き抜く時代にありますが、私たちのうち起こる神のすばらしいに信頼をもって歩み通していきましょう。
「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ35:4)




牧師室の小窓からのぞいてみると

尖閣列島をめぐって―日中の平和を望んで

中国の公用船が、日本の領海を犯したという記事が報じられ、さらに中国では反日デモが繰り返されているという。
歴史的にみても日本の領土である尖閣列島に対してこれを自国の領土としていくのははなはだ可笑しいことは、日本というところからは見えてくる。しかし、中国というところから見ると逆になる。今の大国・中国の姿勢は、時代錯誤として見られないが、しかし、中国の歴史に中華思想ということを忘れてはいけない。儒教の王道政治の理想を実現した漢民族を誇り、中国が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値あるものと自負する考えで、今や世界の大国となった中国はこれをもって世界の地図を変えていくようにも思える。
この中国と対峙していく時代はたとえやっかいなことでも、私たちは力をもって力を制していくのでなく理をもって冷静に中国と向かい合っていきたいと思う。



新米園長・瞑想?迷走記

耐震補強が終わり、耐震改築工事が本格的に始まる。正直いってやっかいなことばかりが起きる。やめておけばよかったということが心で起こる。しかし、「やめておけば良かった」ということに取り組むために園長はいるのだろう。
管理者は何もないこと、平穏なことを望む。それでは真面目な管理者ではないだろう、起きたことに対して、逃げることなく責任を負っていくという強い信念が求められていることを強く感じている。この任を負えるのはこどもを、どれほど園長は大切にする心をもっているかということがいつも問われている。



ルターの言葉から
      

すべての礼拝の順序は、そこから弊害が生じれば直ちに廃止して、別のものを作るというようにして用いられる。・・・なぜなら順序は、信仰と愛を加えるために役立つべきものであって、信仰を損なうためではないからである。(ドイツミサより)
ルターは礼拝様式については自由であるということを貫いている。しかし、次のように言っていることにも心すべきである。
神の教会はあらゆる場所により、あらゆる時代によって、教会にとって最も有益であり、最も建徳的でありえるように、儀式を変更する力をもっている。しかし、この問題においてあらゆる軽率と躓きとなることは、つつしまなければならない。(ドイツミサより)
今、ルーテル教会の総会報告をみても、「信仰と職制委員会」、「礼拝と音楽委員会」において、礼拝式文の取り扱い方について討議されていることが分かる。式文の取り扱いは充分に気をつけなければならない。
なぜなら順序は、信仰と愛を加えるために役立つべきものであって、信仰を損なうためではないからである。とあるように目的をはっきりとさせること、しかし、この問題においてあらゆる軽率と躓きとなることは、つつしまなければならないとあるように慎重さが必要である。その上で伝統的な典礼にいたずらに固着する必要はない。
ミサにおける信条に至るまでに行なわれているすべてのこと―すなわち聖餐の部以前のこと―は、私たちのものであり、自由であり、神から要求されるものではない
(ミサと聖餐の原則より)


大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑨)

今日で慣れ親しんできた会堂ともお別れである。建築のために幾つもの会堂を壊してきた。壊すたびにこれより良い会堂を造ろうと思ってやってきたが、思い通りになったかというとそうでもないように思う。
ボーリス設計事務所が設計した会堂を取り崩したときは、いまでも引きずっている。
移築してはどうかと提案したこともあった。しかし、移築した方が新築よりも経費がかかること、今後の維持、地震のことなど考慮すると計画を断念せざるをえなかった。
私が関わっていなかったが、ボーリスの設計のH教会は解体し、元の形に改築した。その後、その教会の牧師館が老朽化したとき、私は壊すのでなく現代に適応して生活しやすいように改築を提案し、改築案が実行された。新築の推進者の方には大いに恨まれてしまった。実は前の年、若い牧師にボーリス設計の優れて良かった牧師館を強引に壊された苦い経験があったから、どうしても守りたかったからであるし、後から悔やんでも遅いからである。
大森教会の会堂も出来れば補強、改築で済ませたかった。しかし、地震のことを考えるとそうもいかない。残念でならない気持ちが強いだけ会堂に感謝している。


(大森日記)今週もが続く、耐震工事一日が暮れた。進む過程で課題が起きてくる。投げ出したいこともあるが、主に萎えた心を強められている。過食気味である。ストレスかも。病気が気になっている方が教会も幼稚園にもおられる。主の癒しを。一人の方は何もなく肩の荷を降ろす。感謝。知人の牧師が転任されると聞き、人事の季節かと、ため息。N姉の納骨式が行われた。カトリック教会の納骨堂は広く綺麗である。我が教会もこれぐらいの納骨堂を造りたい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今日から、教会学校が始まる。人数は少なく気になっていた。後日、改築中は休みだと思っていた親御さんがいた。子どもは可愛い。もっと充実したプランを考えなければと思いつつ出来ないでいる。久しぶりに午後から何もなくのんびりと夕礼拝まで時を流す。T君がお休みである。気になってしかたない。
月)休みたいが、休むということは耐震工事の中では出来ない。特にこどもの安全が気になる。園児、お母さんの中で病気の方、妊娠されている方などがおられ気になってしょうがない。骨を折った園児がいて補助に次男に入ってもらう。保育を勉強したのだから保育につけばよいが一般会社に内定している。
)広いところがなく体操を礼拝堂でしたが一階の保育室は天井から揺れていたという。これからも制限された中で保育をしなくてはいけない。教会学校の打ち合わせである。なんとすばらしい教会学校かと思っている。夜に家内が翌日の誕生日のケーキを届けてくれる。
)誕生日会、おやつがおいしかったとこどもに言われるたびに家内に感謝している。市販でおいしいお菓子はいくつもあるが手作りでいきたい。本部に負担金を収めにいく。帰りに知人と一杯。教会行政は大局に立ってであるが、やはりひとつひとつの教会のことを描けるぐらいの思いで行政が必要ではないかと持論を彼に語る。
)隣地の境界線で苦情。やはり日本。聞くしかない。建て替えが始まると起きることだと思いつつ気持ちを掬い上げることに集中。敬老の日の集まり。ここでも聖書の話が出来るのは幼稚園があってのこと。
)改築工事の打ち合わせ、契約書の取り交わし、支払いと息つく暇もない。頭もパンクしそうである。やはりポンコツになっている。
)気になっていたご婦人が病気が軽く済んだと聞き肩の荷を降ろす。納骨の時間を間違える。そろそろか。長男から江戸切子のペアーカップ。一つは遅れた私の誕生日祝い、一つは早い家内の誕生日祝い。一週間の疲れで、納骨式を終えて帰ってきて寝る。夜中に礼拝の準備。明日は引越しである。よく、頑張っているが、頑張り所が違うように思えてならない。


2012年9月9日日曜日


聖霊降臨後第15主日         2012年 9月 9日



汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。             マルコ7:25


【説教要旨】

私はこの聖書の箇所にあたると私の両親のことをどうしても重ね合わせてしまいます。こどもが病気であるということは親にとってどんなに辛いものでしょうか。どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。わたしはスイカを口元にどうしてももっていけない。冗談で一生涯分、食べてしまったからと言います。高校生から腎臓をわずらい入退院をくり返していました。腎臓にスイカがよいということで夏は毎日、毎食スイカを食べさせられ、冬はスイカ糖を飲まされるのです。そのときの母の印象はどうしても息子の病気を治したいという狂気そのものでした。気持ちがこちらまで伝わってきます。
私は、フェニキアの女にこの娘を治したいという狂気を感じます。「イエスのことを聞きつけ」とありますが、これが病気によいというなら親というものはどこまでもでかけていきます。こういうことを病弱な子どもらは誰しも経験したはずです。お灸がよいということで無理やりに連れられていったこと。お灸の熱さだけを今でも思い出します。
 親の必死さが伝わってきます。しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉を私たちは理解できるでしょうか。娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」と、母親の願いを拒絶するのです。
 ルターはこの物語、これを試練と受け止めている。この試練を「福音はわたしから失われ、無関係になっているのではないか」という疑問として起きる、福音との関係に生じる試練と言う。「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずである。これを聞きつけやってきたのであるが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした、これが試練である。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
なんと残酷な拒絶だろうか。しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。ルターは次のように言っています。「しかし、おお、この女が自分を脱ぎ捨て、感じとったことはすべて捨て去り、ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。」、ルターは母親のひたむきな主への信頼を激賞しつつ、母親の辛さを思うのです。
信仰、それは徹底的な神のみ言葉への信頼であるということをこの母親は私たちに教えてくれているのです。
ルターは、まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」の言葉に、「あなたは、どう思えるだろうか。信頼していた神の言葉は、自分に語られたのではなく、ほかの人にかかわっているのだと感じるとき、これは、心と信仰との二つを、こなごなに粉砕する電撃ではないだろうか。ここでは、すべての聖者も、すべての願いごとも、停止せざるをえない。ここでもし、感情に従って行動するなら、気持ちとしては、御言葉を放棄するほかならないことになる。しかし、この哀れな女はなお、みことばを放棄せず、御言葉にすがりつき、あのようなきびしい答えにも顔をそむけず、キリストのめぐみが、答えの下になお隠されていることを堅く信頼し続けていた。」と語っています。なぜと思える私たちの試練の場にあって、キリストのめぐみが、答えの下に隠されているという信仰が、本当の意味で私たちを支えてくれるのです。私たちはこの母親を通して教えられることではないでしょうか。
さて、もうひとつはこの娘が母親の信仰によって救われたということです。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」自分のためでなく、それぞれが他者のために行動し、祈り、また、心配ることに、イエスは聞かれるということではないでしょうか。子は自分で大きくなったと思うのが普通です。しかし、自分が子どもを持ち、人生を多く体験するときいかに多くの人に支えられ、祈られてあるかが分かってきませんか。
母が私たちの婚約式の前に洗礼を受けてくれたことを思い出します。こどもにとって最高のプレゼントはクリスチャンになることだと思ってのことだろうと思うのです。どこまでもこどものことを思う母の祈りが今も自分を支えていると思っています。私たちには私たちを思ってくれる人がいるのです。そして、この思い、祈りに答えてくださるイエス様がいるのです。
また、同時に私たちは、どうかこの母親のように主に堅く信頼しつづけ、試練のなかにあっても社会のため、隣人のため、家族のため、そしてこどものために祈り求めていきたいものです。この思いによって,祈りによって互いに生かされているのです。
讃美歌21になってから消えた讃美歌に「春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく祈るとしらずや」とあります。試練の中にあっても主に信頼し、すがって祈ってくださる人が私たちのうちにあることを思いつつ、私たちもこの世の多くの重荷をおいつつ、試練にあっても祈りに支えられて、主に信頼して、明日へむかってあゆみだせるのではないでしょうか。



牧師室の小窓からのぞいてみると

 浅見雅一/安廷苑 著 韓国とキリスト教―いかにして”国家的宗教”になりえたか」(中公新書)

宗教人口の過半数を超える韓国教会の歴史と特徴と課題について書かれている良書である。
韓国教会の成長の一つは「霊的に満たされ、物質的に恵まれ、病苦から解放される」という「現世の祝福の過度の強調」にあったという。しかし、それが今、逆に課題となってきているという。
特に強勢の拡大のみに力を注ぎすぎて、社会への貢献がないという批判があるという。
教会においては、韓国の教会は近くて遠い存在である。もっとそれぞれの教会の特徴を分かち合い交流していくことを感じた。




新米園長・瞑想?迷走記

新学期が始まった。長い夏休みに年長さんは体が大きくなっている。時にあって神さまは働かれている。そして、私たちは、今から成長した園児を預かる責任を強く感じている。
園児を託され、預かることは責任が重いが、しかし、また喜びでもある。新学期は私にとって待ちに待った至福の時でもある。こどもらと共に幸福な時を歩もう。




ルターの言葉から



しかし、おお、この女が自分を脱ぎ捨て、感じとったことはすべて捨て去り、ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。
            説教より

ルターは、信仰の人であった。
彼は人間の魂を感覚、理性、信仰と3区分する。感覚に導かれる人は肉的な人であり全く世俗的人間である。理性によって導かれる人は心霊的、哲学者と異端者である。信仰によって導かれる人は霊的な人であり、真のキリスト者であるという。
だから真のキリスト者は「ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。」と感じるのである。
感覚、理性、信仰のいずれかを選び取ることによって人間の人間が現実にその都度その存在が決定されていくとルターは考えていた。(ルターの人間学:金子勇)
ルターは、信仰の人であった。彼は現実の課題と取り組むとき感覚的、理性的に判断し、決定するのでなく、信仰的に常にその決断をしていった。
ひたすら、みことばだけにすがり」ということが全てである。しかし、これは人間の業では到底、貫徹できないことである。人は感覚的、理性的に常に立つからである。だから「苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。」と祈るのである。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑧)
 刈谷教会の会堂建築が大きくなっていくにつれて資金のことが課題となった。幸い現役世代が多くて、内部の募金は、満たされた。当時、自己資金、本部からの支援金、本部からの借入金という三分の一方式があった。そこでこの方式を使おうとしたが、断られた。借入だけは、許すということだった。小さな教会の借入は宣教を妨げる。だから借入を起こしたくはなかった。それでも借入金を起こさなければならなかった。実際、返却金の負担は一般会計を苦しめ、翌年、私は刈谷教会から去った。
しかし、当時、東京教会は百年記念会堂の建築の話があった。それは全国の支援で資金が充てられ建てられると聞き、私は納得のいかないものを感じた。地方の小さな歴史のない教会と百年というだけで厚遇される教会の違いはどこにあるのか。空の空、あるいは人には分け前があるというコヘレトの言葉を噛みしめながら心では地方から東京に信徒を送り出している小さな教会を大切にしない教会は、いつか、ばちを喰らうと思いつつ。
こんな百年記念行事には決して私は参加しなかった。自分がもし財務の任になったら小さな教会の痛みを感じ、小さな教会のためにも何かをなせるようにと祈った。実際、財務委員になって、私は、批判を受けながら小さな教会のために常に配慮してきたつもりだ。



(大森日記)今週も耐震工事で一日が暮れた。そのうえ始園式があり、子どもたちがやってくれる。対応におわれつつ無事に一週間を過ぎた。気を使うことが多いが、募金のパンフレットの印刷、椅子の搬出、礼拝堂の掃除などいろいろと手伝ってくれる。感謝である。残暑が残る中、みんなの健康が心配であり祈る。外の仕事もありそれぞれが主にあって守られていた。今週、次男から誕生日プレゼントもらう一番欲しかったもので、これも感謝である。忙しさのなかで祈りを忘れずにこれからも励みたい。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)前日、9時までお父さん方とバーベキューであった。無事に早く起きられて、「ほっ」としている。家内が眠っている姿をみてこの人が死んだらとぞっとする。役員会があり、その後に会計役員と作業していると眠ったらしく、起きた時に集計表が置かれていた。感謝である。
月)財務委員会が開かれるが、資料を用意したつもりだったが、「ない」というので急遽、電話して送ってもらった。携帯電話、パソコン、FAXと。昔なら取りに帰るところだった。しかし、後で分かったが送っていた。誕生日を迎えた青年をブラジル料理に招待。続けての肉料理に平気になったのはやはりブラジルが抜けないようだ。
)始園式、元気に帰ってきた園児らに会って、幸せを感じるのは私だけであろうか。仮保育室は子どもたちに喜ばれるか心配だったが、喜ばれている。保護者の役員会で避難路を説明したがやはりそれでも心配顔の母親を見て責任を感じる。やっと資金のめどもつきほっとしている。でも疲れる。
)大田区私立幼稚園園長会、会長が体調を崩していると聞き心配。紳士的で理性的な人である。なかなか成れない。
)自分が関わってきた福祉村の委員会に呼ばれて久しぶりに出席。何もなかったところから老人ホーム、こどもの施設、病院と作り上げていった。ゼロの時内野牧師が「神が必要とされるなら」という言葉を信じてやってきた。
)職員会議があり二学期の行事の打ち合わせ、これに耐震工事かと思うと気が重くなる。解体にともないご近所周りをするのだがこれもしんどい。そろそろこういうことから手をひいて牧会に励むかと思っている。あと5年、10年しかない。
)礼拝の椅子の搬出、礼拝堂の備えをする。しかしながら約束の園舎補強工事を終わったのだから去るべきかと考えだしている。本来なら来るべき家内が仕事の都合で来られないことはリズムが狂う。募金の準備をし、それを信徒さんらが整えてくださり感謝。いつも私のリズムを狂わせる。次男から誕生日プレゼントをもらう。長男も妻も何もくれなかったが。嬉しい。聖書の話通りか。


2012年9月2日日曜日


聖霊降臨後第14主日         2012年 9月 2日


「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の言い伝えを固く守っていて、・・・」マルコ7:3


【説教要旨】

ブラジルの教会学校で、「秀樹、ヘペッチだって」と子どもらが話しをしていました。「ヘペッチ」は英語の「リピート」にあたり、留年ということです。驚いたのは、小学校から留年があるということでした。落第した子もしなかった子もごく普通の会話で、落ちた子を決して、軽蔑していないのです。
なぜ、この記憶が、この物語から思い起こされたかと言いますと、律法を守るということがどういうことかということです。
ファリサイ派の人と律法学者がでてきます。この人たちは当時の社会では大変に尊敬されていました。イエスさまも実はファリサイ派に近いところで育てられたのではないかといわれています。この人たちは、実に律法を守るということに忠実な人でした。律法を守ることによって神に愛されると考えた実に真面目な人でした。ですから、律法を守らないということが、とても気になるわけです。
そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』(マルコ7:5)と尋ねたのです。これは彼らにとって当然の問いでした。しかし、ここには守る者、守らない者という差別が生まれてくるのです。守る者のみが神に愛されるのにふさわしいと考えるようになるのです。
しかし、旧約の歴史、つまり昔にもどりますと、律法の前に、神から契約を与えられているということに注目したいのです。つまり神はまず律法を守る者としてイスラエルの人を選んだ、神とイスラエルの人との関係、これが契約です。神はイスラエルの民の存在を保証されたということです。そこでイスラエルの民は契約を守るために律法を守るのです。律法を守ることによって契約が神と結ばれたということではないのです。しかし、いつのまにか、神と私の関係がなくなり、律法を守らなければならないということが先行しはじめるのです。守ることにより救われるんだと思うようになったのです。そしてさらに守りさえすれば良いんだという形式主義になる。それをついたのが今日のイエス様の言葉になってくるのです。
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』(7:67:7)
その結果が人間くさい努力主義になってくるのです。律法を守りさえすればという人間が中心に出てくるのです。この律法を守るために努力している自分こそが正しいものであって、努力しない人間はだめだということがまかりとおってくるのです。これは実に人間くさいものになる、だからイエスさまは、あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(7:8)と言われるのです。今、教育現場で新自由主義という言葉があるそうで、競争をさせてもっと子どもらの学力をあげていこうということだそうです。それ自体、聞いていると問題もないように思えますが、実は、ここにこの競争に遅れたものは、だめだという差別が起こるのです。ファリサイ派のような動きが起こるのです。
 では、最初に言いましたブラジルの子どもの例とどう違うのかということです。ブラジルの場合はどうかといいますと一人一人が生かされた存在であるということです。そして等しく生きていく中で平等であるということ、その存在が保証されているということが根底にあって、競争の原理というか、それぞれが当然すべきこととして勉強がある。だから差別は起こらないのです。私たち一人一人が生かされた存在であるというところから私たちを見ていくことです。だから喜んで、一生懸命、勉強するのは当然であり、結果として落第することもあるが、終わりではないということです。
本来、律法を守るということは、神から存在することを許され、保証されているわけで、律法を守る者として選ばれた者は、喜びの生き方として律法を守るのです。
荒井献氏は「旧約を超えて、新しい契約を携えて現われたと言えるイエスは、人間の作った掟に縛られている人々を元来のユダヤ教精神に返し、神とともにある喜びの生き方を取り戻そうとしたのだ」と言っています。
私たち一人一人は神に愛された存在であると原点から出発するのです。今をみるとき人間主義から解放され、私たちは自由に、すべてを喜びと感謝をもってなすことができるのではないでしょうか。
 喜びと感謝が薄れて行く社会にあって、私たちの生き方が根底から問われています。私たちはもういちど人間という場から後ろにとんぼ返りをして、神の愛の場所に自分をもどしたいものです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

  堀坂 浩太郎 著 「ブラジル-跳躍の奇跡」(岩波新書)

 九州から東京に帰る新幹線の中で、一気に「ブラジル-跳躍の奇跡」という本を読んだ。私がブラジルの教会に着任したのは軍事政権の末期で、経済は負債を抱えて、債務危機にあり、100パーセントを超える超インフレの時代から民政移管の混乱期までであった。
それから33年の間にこの国が大きく変化し、民政の混乱を政治家のリードのもとで安定させ、2011年にブルガリア移民2世の女性大統領ルセフ大統領が登場した。
政権のロゴは「豊かな国とは貧困のない国」で、貧困撲滅対策に取り組んでいる。先の政権は「皆のための国」、その前が「ブラジル全土のために働く」で、分かりやすい言葉で語りかけ、国の課題に共通理解を持ってもらい取り組んで世界サッカー大会、オリンピックを開催できるまでに跳躍の奇跡を起こした。混乱期を生きた私はこの30年の変化を一緒に出来なかった悔しさが残る。日本も政治の混乱期にあるが、いたずらに絶望することなく希望をもって国の課題を共に負って、取り組んでいきたいと思った。




新米園長・瞑想?迷走記

大田区にあるルーテル教会の幼稚園の園長会を定期的に開かくことを約束した。
変化していく社会にあって、ルーテル教会の幼稚園としてどうあるべきか理念と具体的な取り組みについて協議していくことになった。それぞれの園が、それぞれの特徴を生かして共に公の場で、こどもの置かれている課題を担いつつ、取り組んでいくということは当然なことだが、しかし、画期的なことだと感じている。共に教会立の幼稚園が幼児教育に責任をもつことほど大きな社会への貢献はないだろう。



ルターの言葉から


 肉のために備えをしても、欲を満たそうとしてはならない。 (ローマ13:14)

私たちの内で、理性と意志ほど危険なものはありません。私たちが自分のわざと理性と意志を捨てて、すべてのことにおいて神に委ねることを学ぶのは、神が私たちの内になしてくださる最初の働きであり最高の働きです。そして神が与えてくださる最善の訓練です。特に、霊的に見て、順調に物事が進んでいる場合に、落とし穴があります。
次に肉の訓練が続きます。下品で邪悪の情欲に対しては、断食と徹夜と労働とによって打ち勝たなければなりません。ただ私たちは、なぜ、また、どれほど断食し、眠らずにおり、働かなければならないかを学ぶ必要があります。ところが不幸にして多くの不信仰の者たちが、断食や眠らずにいることや労働といった訓練を、それ自体が善いわざであると考えて、大きな功しを獲得するためにそれらを行います。しかしこのような断食は真の断食ではなく、断食と神に対する侮辱なのです。
私は断食の日数などの決定はそれぞれに任せますが自分の肉体には注意して行うことを勧めます。肉の肉にみだらな情欲を見出すならば、断食と徹夜と労働とによって訓練をするべきですが、それはあくまでもそれだけのことです。
  「善きわざについて」の説教より

ルターはブレない人であったと思う。繊細な神経の中で思うこと、感じることのなかで内では揺れざるをえないような心があったが、「すべてのことにおいて神に委ねることを学ぶのは、神が私たちの内になしてくださる最初の働きであり最高の働きです。」というところでブレることなく神に委ねたところに彼の強さがあったのかもしれない。



大森通信    

 思い出(会堂をめぐって⑦)
 刈谷教会は資金はあっても、建築実施まで一年かかった。奇抜な設計でなく、誰が見ても教会と分かるような建物であること、大きな建物にしないこと、牧師館は改修だけ、借金はしないことなどを私は提案して、建設へがんと首を縦に振らなかった。現状、これからを考えるとき、どうしても、守りでいくしかないと思っていたからである。しかし、一年の議論の後、牧師の思っていることすべてが受け入れられずに決定した。
建物は大きく斬新的なものになり、牧師館は新築になり、結局は借金することになった。幸い良い、自慢出来る教会建築物ができた。しかし、この箱ものを使って伝道していくというのは並大抵でなかった。いかに人を集めるかということに苦心した。定期的な伝道集会、キリスト教講座、文化講座、チャリティー・コンサート、数カ月に数回の誰でも参加できるフリーマーケットなどをして、人を集める工夫をした。
建物をどう使いこなしていくか、これで建物が生きるか死ぬかが決められていくものと今でも思っている。



(大森日記)休みをいただき母の納骨を兼ねて帰郷。街を散策し、禅寺に寄る。修行僧が掃く姿を見て、神学生もこうあって欲しいと思った。土曜日に納骨を済ませた後、母教会の礼拝に出席した。100年の歴史があり、あんなに大きな教会が本当に小さくなった。幼稚園も廃園すると聞く。すべてに時がある。それでも教会を守っている信徒さんに敬服。日曜日は100年の歴史がある大地牧師の教会で礼拝を守る。東京に戻り、耐震改築工事と相撲が始まった。耐震補強工事は終わり、保育室は地震に耐えられる。翌日、震度5強、フィリピンで震度7の地震。さらに本格的な工事が始まる。建物工事に携わるのは運命か使命か。土曜日、幼稚園のお父さま方に園のために奉仕をいただく。工事で汚れたところを掃除され、改築への準備もしていただいた。夜は、先生方を含め交流のバーベキュー。この若い方に福音が届くことを強く祈って、何をすべきかを考える。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)久しぶりに休暇をとる。前日は母教会の礼拝に出席した。街が衰えていくと同じように教会も衰えていった。しかし、数名の変わらない信者が守っているところに神のみ手を感じる。今日は、何もすることなくゆっくりと礼拝に信徒として出席出来る。息子の説教を聞きながらこんな至福はない。一日中、ゆっくりと時を遊ぶ。
月)朝から息子の車で新婚旅行の地である津和野に行く。何よりも浦上信徒の殉教地である乙
女峠のマリヤ聖堂を訪ねたかった。静寂の地は信仰の命かけた地であったが、今は夏の緑の中に静かに時が去っていく。帰りに山口の雪舟の庭があるお寺に寄る。ご住職がおられ私たちのために説明をくださる。後で分かったのだが大変に有名なお坊さんであった。登竜門とは禅の言葉、悟ることなく滝から落ちていく修行僧もいるという。ご住職と話しつつ、宗教人の襟元をただされ、無にされていくことの静けさを感じた。
)一日中、息子につきあってもらって時間を過ごす。兄の家で夕食を家内が作ってくれ、久しぶりに兄と時間を過ごすがお互いに歳をとった。最終の新幹線で東京に。買い求めた「ブラジル」という本を読み終える。ブラジルと30年を一緒に苦楽をしたかった。いつも自分の手元から良きものはすり落ちていく。
)さあ仕事だ。耐震工事資金調達に朝から走り回る。そんなとき沖縄の姉が募金の口座を教えてくれと言われて感激である。無になって神のお仕事である幼稚園改修にささげたい。本部に借金にいく。
)休暇中のかないと互いに話す訳でもないが一緒にいるだけで幸せを感じつつ仕事をする。園長会。終わると友人からメール。新橋に来いと。
0時をまわったとき「誕生日おめでとう」のプレゼントをいただく。電車に乗ろうとすると悪友からメール。シャンペン用意したから来いと。朝まで誕生日を祝ってくれる。一睡もすることなく仕事。家では何もないようだが、幼稚園の先生方がケーキで祝ってくださり、信徒さんがプレゼントをくださる。薄情は長男の牧師、電話、メール、手紙もない。
)仮園舎、耐震補強工事は終わる。お父さん方が用具の移動、掃除を手伝ってくださる。工事については賛同をいただく。