2013年5月12日日曜日

復活後第6主日 

わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

ヨハネによる福音書17章26節

【説教要旨】
今日の聖書の日課は、イエスさまの祈りの後半にあたります。前半は弟子たちへの祈りであり、後半は弟子たちによって主を信じる者となった者への祈りです。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」これは、主を信じる教会へのイエスさまの祈りです。
イエスさまは何を祈っておられるのでしょうか。僅か数節の中で出てくるお言葉に注目したいのです。
「一つにしてください。」、「一つであるように、」、「一つになるためです。」、「完全に一つになるためです。」
 わずか3節の間にこのようにお言葉が繰り返されるのは、イエスさまが、信じる群れである教会が一つになることを望まれているということではないでしょうか。
「使徒たちの言葉によって、信じるすべての者には、約束が与えられています。つまり、すべてのキリスト者とひとつのからだになり、ひとかたまりのパンとなるという約束が、キリストのゆえに、またイエスのこの祈りの力によって与えられているのです。ひとつの肢体に良いことと悪いことが生じると、全体に対しても生じるてくること、ひとりふたりの聖者だけでなく、預言者、殉教者、使徒たち、すべてのキリスト者、地上天上を問わず、すべての主にある者が、その人とともに苦しみ、あるいは勝利を得、その人のために戦い、その人を助け、守り,救うこと、キリストにある者すべてが、その人の苦しみ、願い、悩みを担うこと、またその人は聖徒たちのあらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有が行われるとの約束です。」とルターは言っています。
この一致の基は何かということです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、」とありますように、父なる神と子なるイエス・キリストの一致です。その一致は「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。26節にありますように、「わたしに対するあなたの愛」、愛によって、結ばれた一致であります。そして、この愛が私たちに与えられ、私たちとイエス・キリストの一致があるというのです。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。父なる神の愛において、私たちは一致があるということです。逆に私たちが一つになるということは、父なる神の愛の証しでもあるということではないでしょうか。一つになることが祈りとなっていくように教会は作られているのです。
「キリストにある者すべてが、その人の苦しみ、願い、悩みを担うこと、またその人は聖徒たちのあらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有が行われるとの約束です。」という愛において他者の痛みを負いつつ、負うことにより「あらゆる祝福、慰め、喜びにあずかるということ、こうした恵みにあふれた共有」という出来事が起きてきます。ここに教会の姿が見えてくるのです。一つになるということの難しさ教えている現実も私たちの内にあることも事実です。目を離さずに、だから一つとなるための祈りを祈っておられるのです。イエス・キリストは一つとなる祈りを今日も熱く祈っておられる。イエスさまの祈りにおいて、私たちはひとつとされていくのです。
パウロはエフェソ書、4章で次のように語ります。

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

◆牧師室の小窓からのぞいてみると
姑息な手段 2
川口参議員が環境委員会委員長の解任決議を受けたということに、この日本はどこにいくのだろうかとふと思った。
確かに委員会を招集しながら、中国要人と会うために休んだことは良くない。しかし、解任されるほどのことかと思うのは私だけであろうか。そして、これを討議する委員会に与党が欠席するのも大人げない。
今の日本は、大人げないということが蔓延しているように感じる。大きな政治家がいない。
曽野綾子氏が「賢母はいるが、大母がいない」と言っていたが、「賢い政治家はいるが、大きな政治家がいない」、すべてのところに、私たちの教会においても。
正直、賢さにうんざりしているし、賢さが国を滅ぼしそうである。


◆「ルターの言葉から」
母は薪をひろい背負って家に持ち帰らなければならなかった。こうしてわたしたちを育ててくれた。今日、この世の人がとても耐えられないような厳しい苦難を両親は耐え忍んでいた。
ルターと母親の関係を論じた本は少ないと思う。父親との関係を論じたエリクソンは「もし彼の母親の声が天国の歌となって彼に響くことがなかったら、あのように後年ルターが語ったり歌ったりすることができただろうか」と、母親との関係を言っている。


◆北米のルター派・その歴史 23チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)2
移住者の出身地の変化の他に、1900年代初頭は合衆国におけるルター派のアイデンティティが成熟し、固まった時でもありました。このことを示すのは、国内伝道から海外伝道への転換です。実際、1900年以前には、インド、中国、日本、マダガスカル、アフリカにはわずかな宣教師が送られているだけでした。しかし、1900年代初頭に流れが変わりました。突然、全てのルター派のシノッドとカウンシルが宣教師を派遣し始めました。
 外国伝道を立ち上げるだけでなく、合衆国内では合併が進められました。1900年代の初めには、小さいものを除いても36以上のルター派のシノッドと会派がありました。互いの壁を外す努力によって急速に事態が変わり始めました。1918年までにいくつかの大型合併が行われました。1917年にはハウゲ シノッド、ノルウェー合同ルーテル教会、ノルウェー シノッドが合併して米国ノルウェー・ルーテル教会が作られました。1918年には、一般カウンシル、一般シノッド、南部合同シノッドが合併して米国合同ルーテル教会が作られました。

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