2013年4月21日日曜日

復活後第3主日

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
ヨハネによる福音書10:27

【説教要旨】
この聖書の箇所の前に良い羊飼いの譬があります。良い羊飼いは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。11節」、「わたしは羊のために命を捨てる。15節」と言っています。羊飼いはイエス・キリストです。このみ言葉はイエスさまの生涯そのものです。そして、この命を捨てるのは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言っています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という16節の羊は、私たちの命の回復のためにキリストが命をささげてくださったという愛にふれて、イエスの群れに入ったものです。
今日の「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」というイエスの言葉は、イエスの群れに入ったものは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」存在であり、「彼らは私に従う」という存在となっているということです。「私に従う」ということはどういことであるかということです。それは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」、「わたしは羊のために命を捨てる。」存在であるということです。
佐藤優氏がいうように「イエスは、自分のために人生を生きたのではない。他者のために生きたのである。そして十字架の死を遂げた。キリスト教徒は、このイエスの生き方を規範としなくてはならない。教会は他者のために存在するのだ」生きるということであり、十字架と復活を生きる私たちの生き方であり、証であるということです。
静岡大学名誉教授寺澤節夫兄が「復活を語る」という文章で、「“復活とは?”という問にこう答えてみたらどうかと考えた。今日御活躍の養老孟司先生のような大脳生理学の表現法を引き合いに出すなら、“脳の中により上位の新しい見張り所が出来た”、そのために“それまでの古い脳の働きが今や不用なものとなった”と言ってもよいのではないかと。そのような新しい脳の見張り所は、新しいヴィジョンの司令塔であり、真っ暗闇であったところに生まれた光でもある。問題は、それがどうして出来たのかは解らないことである。なぜなら、それは人間力によって出来たのではなく、高次の生命の創造作用の結果生まれたからである。そのために、閉塞状態に置かれていた弟子達はそれを破られ、新たな希望に満たされて前進出来るようになったのであり、そこに絶望から希望への転回を表現出来るのである。・・・・希望の無い人生に、どのような未来があるというのか。このような、絶望のただ中にあった人々の希望への転回。ここに復活の意味があると言えよう。・・・弟子達の絶望から希望への転回は大いなる出来事、揺ぎのない希望への確信、また未来への新たな指針を生み出すコペルニクス的転回の体験だったと考えられるのではなかろうか。」と言われています。
私たちは小さく弱く、神から離れる罪人である。しかし、私たちは新しい命を豊かに生きるとき、絶望にあっても希望を生きる存在として、今の社会がもっている課題に生きようとする力が私たちに与えられるのです。
寺澤氏は「復活の命は、神の人間に対する愛の徹底のためであり、愛の徹底のために罪を担う痛みが生きられる結果としての大いなる恵みだからである。したがって、絶望の中で与えられる希望は、また私達にそのような愛の模範に倣うことを要求するものであり、そこに私達の生きる指針もまた有ると思うのである」といっているようにイエスの愛に倣う存在としての豊かさに変えられるのです。私たちが聞き分ける羊の声とは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」という声です。
私が教区長なら、教区50周年の記念の行事を仙台か福島で行うでしょう。それは私たちが3・11の東日本大震災を経験し、「したがって、絶望の中で与えられる希望は、また私達にそのような愛の模範に倣うことを要求するものであり、そこに私達の生きる指針もまた有ると思うのである」ということの「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」という者の証ではないないかと思っています。私たちの教会、私たちを取り巻く社会的状況は決して良いものではありません。しかし、「新しい脳の見張り所は、新しいヴィジョンの司令塔であり、真っ暗闇であったところに生まれた光でもある。問題は、それがどうして出来たのかは解らないことである。なぜなら、それは人間力によって出来たのではなく、高次の生命の創造作用の結果生まれたからである。そのために、閉塞状態に置かれていた弟子達はそれを破られ、新たな希望に満たされて前進出来るようになったのであり、そこに絶望から希望への転回を表現出来るのである。」という歩みを苦しみ、痛みのうちにある者とともに歩みたいのです。東教区の宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」ということを私たちは主に助けられ、主によって具体化されることを信じ、自分の手でなしとげていきたいのです。私たちは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「教区総会の無気力」
  全国総会、教区総会に出席して感じることは議論もなく、無気力が漂っているということである。
「西欧が衰退しているのは、近代が臨界点にたっしているからだ。プロテスタンティズムは、近代と手を携えて発展していった。従って、近代が終焉期を迎える状況において、プロテスタンティズムも機能不全を示すのだ」(同志社大学 神学部―佐藤優著)と言って、機能不全とは「それは伝統的キリスト教諸教会の精神的無気力の問題である。」と言う。
そこから一歩進むには、ボンフェッファーが言うように教会が自己保存的になってはいけないと指摘する。だから「イエスは、自分のために人生を生きたのではない。他者のために生きたのである。そして十字架の死を遂げた。キリスト教徒は、このイエスの生きた方を規範としなくてはならない。教会は他者のために存在するのだ」(同志社大学 神学部―佐藤優著)という指摘に耳を傾けたい。
東教区の宣教方策の基本の「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」ということは正しいと思う。これに何も具体案を示さなかったのは、本当の意味で上記のことを受肉―自分の痛みとしていないーしてないように思う。これが無気力を生む。指導者の責任は重い。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
建物が二つになり、電力料金は二倍になる。
給与も上げ、待遇改善をした。保育料を上げても、値上げ分は、ふっとんでしまう。新年度の出発は、経営のことから始まった。また障碍児を受け入れていくことは保育者を増やすこと、手厚く保育するなら教師の待遇を厚くすること、当たり前のことだが、考え出すと現実と違いに胃腸の調子が狂ってくる。


■ ルターの言葉から
「わが神、わが神、なぜ私を捨てられたのですか」と叫ばれたときも、父は主のことを知っておられました。
このみことばでも主は、「父はわたしを知っておられる」と言われます。これは、(このような恥と、苦しみと、辱めにあっても)羊たちを救い贖うために魂を注ぎ出し、犠牲となるために神から送られた愛するひとり子として父が知っておられるという意味です。また、イエスの側からいえば、恥と十字架と死を通して、父は、命と永遠の栄光の内に自分を導いてくださることをしっているという意味です。
ルターにとって十字架の苦しみは、命と永遠の命へ向かう欠かせない神の出来事であった。


■ 北米のルター派・その歴史 20チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)3
 以前シャフ教授が考え出した新、旧、中庸という仕分けを使うと具合がよいと思います。これらの新組織は、「新ルター派」が1821年に作られた一般シノッドの傘下に集合したのと時を同じくして発展しました。「旧ルター派」は、多くが1847年に作られたミズーリ・シノッドおよび1850年に作られウイスコンシン・シノッドとして知られるようになったシノッドに属しました。「中庸派」は、多くが1867年に作られた一般カウンシルに属していました。以上のルター派シノッドおよびカウンシルは、民族や教義の違いによって複雑に分かれたグループをカバーしてはいないものの、主要なグループでした。
 この移住者第二波の時期には、かつて持っていた「故郷」伝道の活力が、前面に出ていました。その活力が「同郷人」、「血につながる者」に向けられたので、故郷伝道と呼ばれます。この時期には、移住者達を集わせ、居住地の世話をして使徒団に入れ、そこに牧師を供給することに莫大なエネルギーが費やされました。同じ民族の移住者につながる大学、神学校のために大きな努力がなされました。

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