2013年4月7日日曜日

復活後第1主日

わたしたちの心は燃えていたではないか。
ルカによる福音書24:32

【説教要旨】
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」
エマオ途上の出来事として、大変に有名な物語です。私たちも人生の途上にあり、夢破れて、意気消沈し、自分の故郷へ帰るという状況に置かれるときもあるでしょう。途上にある私たちですが、私たちが生きていく、信仰生活をするということはどういうことであるのでしょうか。神を信じるという一言につきるでしょう。
「『神を』信じるという場合の『信じる』ということの側面について話が進んでいますが、信仰以前に、人間関係における他者との信頼関係について考えてみますと、人間の成長において信頼関係が築けるかどうかということが大事だと、心理学的には大事だといわれていますよね。信頼がないと心がすさみます。信頼というものは人間の成長段階では親子関係に始まるものかもしれませんが、『信じるに足るものがある』という感覚は人間存在にとって基本的なものだと思われますし、理屈ではなく、誰でも共有できることがらです。宗教のことを考えてみたいのです。信仰は人生にとってプラスαのような付加的なものでなく、人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になるのだろうと思うのです。現代という時代は他者との信頼関係を築くことが乏しくなっているために、心が不安定になる人が多いのでは、と感じています。」(福音宣教3月号)
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、」と主イエスが言われるとき、私たちの心が主への信頼を欠く、「宗教のことを考えてみたいのです。・・・・・人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になる」というとき、同時に信頼もなくなり、信頼の対象をも失い、今、信頼の対象から逃げていくのです。それは、私たちの中にも日々、起こることでもあります。心が不安定になる。
これとは逆の言葉が、出てきます。「心は燃えて」という言葉です。
聖書に聞いていこう。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。弟子が「心がもえた」のは、自分のうちに確信と力満ち溢れていたからではありません。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とありますようにイエス・キリストの対話のなかで「心が燃える」ということがおきるのです。
イエス・キリストとの対話の中で、心をイエス・キリストに向かわしめる。そして、さらに人間存在の根底にある信頼を回復してくださる方が私たちの傍に立ち、歩んでいてくださるということを受け入れたとき、燃えさせるものが生まれてくるのです。そして、私たちを作っていくのです。
今日、教会の制度も、教育もすべてにおいて整えられたのにもかかわらず、教会の現状を憂いている牧師さんがおられました。教会に覇気がない、元気がない、つまり「心が燃える」ことが欠落しているように感じられているというのです。

二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると

今日、私たちの教会に欠けるのは、私たちの傍らで歩んでくださるイエス・キリストに目が開けていないということではないでしょうか。私たちの信仰の生活においても、私たちの傍らに立ち、歩んでおられるイエス・キリストに目を開くことが大切ではないでしょうか。また、私たちの信仰生活とは「いつもイエス・キリストに目を開く」ということの日々ではないでしょうか。
遠藤周作は、「決定的に何かがそこに加わらなければ、弟子たちは結束して、信仰に燃え、多くの異邦人の国々に旅する筈はないのだ。決定的な何かが加わらなければ、あれほどの師について理解少なかった弟子たちが本当の教えを知る筈はないのだ」といって、生きたイエスに出会ったことにある。復活にあるというのです。ルカは復活を神のイニシアチブと強調します。神が働く、ここに私たちが復活の力をいただき燃えていく。私たちが何よりも神の働きを強く信じることです。信頼していく、イエス・キリストに目を開き、向けていくことです。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった
私たちも旅の途上にあります。その途上にあって、イエス・キリストが見えるところは、今、私たちがいるここ、礼拝の場です。ここから神の働きを受け、心が燃やされ、神の愛を証しするものとして旅立てるのです。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「豊かなのに苦しいわけ」
  大阪大学の大竹文雄教授が「現状の豊かさを維持するだけでも、私たちは従来とは異なる水準、異なる質の能力を身につけていく必要がある。それが豊かなのに苦しいと感じる理由である」と言われている。確かにそうだと思う。異なる水準、異なる質の能力をつければ、さらに豊かになると違い、現状のまま、あるいは少し落ちるということははつらい苦しいことだと分かる。
しかし、ここでいう「豊か」ということは何なのだろうか。現状の生活の豊かさであると思う。
 豊かさの質を問われているのだと思う。
 「現状あるいは少し低いレベルを維持し続けるだけでも相当な努力が必要だ。豊かな社会を生きていくためには、その覚悟がいる。」といっているように、豊かさの質こそ違えども「覚悟」がいるというしんどさが必要な時代にきていると思う。そのことに教会が取り組むことが宣教方策ではないだろうか。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
都からの補助金作業がまだ続いている。昨年、計画書を出し、-その書類の多さ、細かさー、今年は、申請書、次に調査を受け、補助金申請の金額が決まり、さらに今週は実績報告書、支払金口座の依頼書と続いた。経験出来ないことをしている。大きな幼稚園ではこれを事務担当が整えるのだが、小さな園では園長になる。事務職員をおいていない園さえあり、園長がやっているところもある。三月から五月にかけて補助金を含め諸書類の作成、提出に翻弄されるのが常である。


■ ルターの言葉から      
だから、十分注意するがよい。賜物としてのキリストがあなたの信仰を養い、あなたをキリスト者とするのである。模範としてのキリストはあなたの行いの訓練をするが、その行いはあなたをキリスト者にするのではない。それは、あなたがすでに前もってキリスト者となったのちに、あなたから発するものなのである。だから、賜物と模範とを十分区別するように、信仰と行いも十分区別すべきである。信仰はないにひとつ自分のものを持たない。持つのはキリストの行いといのちだけである。行いはあなた自身のものを有しはするが、あなた自身のものではなく、隣人に属するものであるべきである。
(福音書においてなにを求め、期待すべきか)

ルターの「キリストのみ」という信仰原則が、ここにもはっきりと示されてくる。   


■ 北米のルター派・その歴史 18.チャールズ フレドリクソン第二の波(1850~1890)1
 ヨーロッパの、ルター派が多い地域からの移住者がピークに達した年は1882年でした。1882年には、それ以前やそれ以後にもないほど多くのドイツ人やスカンジナヴィア人が大西洋を渡ってアメリカにやって来ました。1890年代になるとドイツ人移住者の数は急激に減少しましたが、スカンジナヴィア人は引き続き第一次世界大戦(1914~1918)まで大勢やって来ました。
 この第二の移住者の波で、アメリカのルター派移住者は新たに複雑な経験をすることになりました。既に述べたように、1800年代半ばまでは、アメリカのルター派は新、旧、穏健に分かれていました。また、言語によってグループがさらに増えました。基本的には、英語、ドイツ語、スカンジナヴィア圏の言語です。

0 件のコメント:

コメントを投稿