2013年5月26日日曜日

三位一体主日

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」
ヨハネによる福音書16章12説

【説教要旨】「ウジヤの勢いはこの上もなく増大し、その名声はエジプトに近い地方にまで届いた。」歴代誌26:8

これは紀元前800年のときのユダヤ、正確には南ユダヤ王国の出来事でした。王ウジヤはユダヤ王国の中興の人でしたが、しかし、国力と経済の繁栄をもたらしましたが、人々に人としていく道を失わせていきました。王も傲慢になりました。その傲慢さ故に神は王を打ち、病気を与え、死をもって償わせました。「ウジヤ王が死んだ」、このとき天使セラフィムが、預言者イザヤの前にあらわれ、彼の口を火で清め、イザヤは神のことばを告げる決意をするのです。まだ、繁栄が残る時代に、神のことばを伝えるなど人に受け入れられていくことは困難極まりないことでした。しかし、イザヤは「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」とはっきりと神に応えるのです。これが、イザヤ召命の記事です。先週は、聖霊降臨日を迎えました。聖霊がくだった日は、このイザヤの出来事が、使徒たちにも起きたのです。使徒たちも「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」というイザヤの言葉の成就として、全世界へ神のことばを伝えるべく出ていったのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と。その前には困難さがあるでしょう。しかし、困難さが見えていてもなお、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と神に言い切る勇気を与えられるということが聖書の示すところです。
先日、U兄から刑務所を出所した方々が生活を立て直していくための活動をなさっている方の支援をされている話を聞きました。出所された方々も高齢化が進むなか就職の難しがあり、施設が自分たちの町にやってくるとなると反対運動が起こるという困難さの中で活動をされているクリスチャンがいると聞きました。誰が見ても活動は困難さが前に見えて、活動を妨げている。しかし、なぜ、彼は続けるのでしょうか。それは神の召命だからです。
「神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。」とセラフィムについて説明されています。今日の聖書でセラフィムは「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」」とあります。弟子が聖霊を受けたということは、セラフィムが神の言葉をうけたように、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」その方、聖霊は、自分から語るのでなく、ただ聞いたことを語るのです。誰から聞いたのか。それは神からです。神ご自身が語られたことを聖霊は語るのです。神ご自身が語られることは、イエス・キリストにおいて示された出来事にほかならないのです。聖霊が語るのは、イエス・キリストを通して示された神のみ心を語るのです。困難が待ち受けていても、神のみ心が語られるということを受け入た故に、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」とありますように、キリストに属しているという揺ぎ無い安心感が、安定感が彼ら弟子を、それを継いだ私たちも大胆に変えらていくのです。
聖霊を受けるということは、キリストを感じるということ、自分が神に愛されてることに他ならないのです。
パウロは大胆にもこのように告白します。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
聖霊から示される真理とはこのパウロの告白に他ならのです。
ここで「真理の霊」というとき、わざわざ「真理」という冠をつけたことに注目したいのです。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」とありますように、真理、そのものは人を賢くするような知識でなく、それはイエス・キリストという具体的な方を通してのみ知ることです。真理とはこの世を生きたもうたイエス・キリストによって愛されたという経験です。真理をことごとく知るということは自分がイエス・キリストによって真実に愛されているということを知るということです。ここを生きることが霊を生きるということです。また、神に愛された神の子として生きていくのです。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
神の子は見えるものに身をゆだねません。霊に委ねます。それは見えるものに振り回されません。弟子の偉大さは彼らの偉さにあるのでなく、彼らが信じたもの、目に見えないこの偉大な聖霊を通して示されたイエスの愛、神の愛にあるのです。人がした業によってでなく、人が,私たちが信じたものによって私たちは作られていくのです。神の子、私たちは愛を信じるものです。そして同時に愛に生きる神の子として今、生きるのです。
政治力、経済力こそ力と信じきっている厳しい時代を生きています私たちは自分を翻弄し、倒れそうになるとき、この私たちを倒す風とは違う風が私たちのうちに吹いています。恐れおののきつつ生きる中で、「神は愛」という風を受けるのです。セラフィム、「神への愛と情熱で体が燃えている」天使から清められ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と告白出来る人が私たちです。


◆牧師室の小窓からのぞいてみると
この頃、教会が自己保存的になり、心の座りの良い人、言葉ばかりを求めている。
 「婚約者が洗礼を受けなければ、君が牧師を辞めるか、婚約を解消するか」とそして、「洗礼を受けるまで結婚式は許さない」と本音を息子にぶつけていた。決して心の座りの良い言葉ではない。
 聖書にアハブ王とフェニキアの女、イザベルの結婚の記事がある。イザベルはイスラエルの神の生き方が分からず「ナボテの事件」を起こし、イザベルの不幸の死を告げている。私は彼女がそうなってほしくなかった。二人は、とくに婚約者の彼女は大決心だったと思う。彼女に決心させてくださった神に感謝するとともに、決心した彼女に感謝したいと思った。


◆新米園長・瞑想?迷走記
橋下市長が私学は、私立とあるので自分で独立してくださいと言って、私立への補助金をカットしていると聞いた。それは私学の建学精神でもある。しかし、現実は本体の宗教法人の力は新興宗教をのぞき弱体化しているから自立は出来ない。
「橋下さん、その通りです」と言いたいが、公の部分も担っていいるのも私学だということを知っていただきたい。こんな乱暴さが教育の場にまで及ぶ時、国家は危機である。


◆「ルターの言葉から」
 主キリストは死にて葬られる。-わたしもーキリストはその後蘇り、天に向かわれた。わたしもである。



◆北米のルター派・その歴史 24チャールズ フレドリクソン
第三の波(1890~1940)4
1930年代の大恐慌を通して、アメリカのルーテル教会に新たな変化が根ざしました。以前は、ルーテル教徒はヨーロッパの国々を出て合衆国に入って来ました。今は、人々が仕事を求めて移動するように、ルーテル教会は新しい移動を経験し始めました。田舎から都市への移動です。田舎の労働者によって都市が拡大するだけでなく、新たな現象が現れました。それは、「郊外」です。

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