2013年4月14日日曜日

復活後第2主日

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ルカによる福音書24:36

【説教要旨】
幼稚園で毎朝、門のところで子どもを迎え、朝の挨拶を交わしています。「おはようございます」という挨拶は、日常的な挨拶ですが、しかし、ごく日常的な挨拶でも誰とどこでどのように挨拶するよって、大きく意味が違ってくると思います。園児と保護者と交わす朝の挨拶は、形式的に挨拶するとのは違った重みがあります。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
「あなたがたに平和があるように」という言葉は、当時の日常的な挨拶です。ですが、復活したイエスさまに出会ったときの「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、いつもと違った意味があるように思えます。
復活という出来事の中で、この挨拶はこういう意味をもってきているのではないでしょうか。
生前にイエスが十字架に死に、三日目に甦るということを聞いていたし、期待していたのですが、現実ということでその期待を押しつぶしていたということです。本当に信じきることが出来ないでいたということです。その暗い、イエス・キリストを信じられなくなっている弟子の罪を打ち破るように弟子らの前に復活して、イエスさまは現れたのです。人間の信じきることできないこの罪を、私たちが信じることのできるように神さまはイエス・キリストを遣わしてくださり私たちのあらゆる恐れは取り除かれ、罪と死の支配は終わり、私たちが神との平和、人々との平和を得た。今や、あなたがたのうちに、平和が与えられているという強い意味ではないでしょうか。
私たちのために、ひとりで平和を勝ち取った方が、このように挨拶をし、イエスさまご自身、「平和」である方が、十字架につけられて、甦られたイエス・キリストが私たちと共におられるという意味の挨拶です。復活を信じるということは、いまや私たちが一人で生きていくのではないということです。私たちと同じように生きておられるイエス・キリストとともに生きるということです。それは地上の命のなかで永遠の命を生きていくことです。ここに、私たち信仰者の土台があるのです。
なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」という復活したイエスさまのお言葉です。それは逆に復活を信じる者においてはうろたえるという闇が命の光のなかで消し去られていくということです。
イエスさまの復活を信じるということは、人が一切の自分の思考、行動がイエスさまの復活ということで規定されていくということです。それは人間を縛っている死さえ乗り越えて命という開放であり、自由です。ここに本当の救いがあるのです。この救いの自由によって、私たちの生き方が規定されていくのです。
弟子たちは、今まで自分を縛っていた、規定していたこの世の論理から、イエスさまへの復活の信仰においてのみ規定されていくのです。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
「平和があるように」という主のこの言葉によって、不安で暗い日々の後で、再び喜びが与えられるのです。
佐藤優氏が「キリスト教を十字架とは別の物語として読むことも可能だ。神が神の栄光を回復していく物語としてである。・・・・・イエス・キリストは十字架につけられて死んだが、それは復活のために必要だったのだ。復活によって死と罪に対する神の勝利が明らかになった。それだからわれわれは、神の勝利を基礎に、神の栄光のために生きるのである。」と言っています。
「神の勝利を基礎」として私たちは、生かされているとのです。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」とあるように、喜びの中を生きることができるのです。
「平和があるように」というイエスさまの挨拶は、私たちにとっては、神の勝利の言葉であり、私たちの人生の基礎であります。
大きな変化の時代を私たちは、自分の意志がどうであれ生きて往かなければなりません。不安で暗い日々もありましょう。確かに可笑しなことにイエスさまが共におられるということを心から待ち望むときに限って、いつも信仰が揺らぎ、他のことがらへの恐れがあり、イエスさまから離れようとする、しかし、「平和がある」という主の勝利の挨拶、言葉が私たちがめぐらした壁を越えて語りかけられてきます。主と共に歩んでいます、いきましょう。
「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」というイエスさまのお言葉をもう一度噛み締めながら復活の命のなかをともに生きてまいりましょう。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると

「社会性」
今、「同志社大学 神学部」(佐藤優著)という本を読んでいる。
「キリスト教という『物語』が十字架におけるイエスの死に集約されているというのは、キリスト教を読み解く際のひとつの切り口だ。十字架に神の死、苦しみの全てが集約されている。十字架から『物語』を構成するならば、ルターが説いたように、悔い改めを中心とする信仰義認論に行き着く。実をいうとここから真の社会性はでてこない。デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」と言って、これも一つのキリスト教を組み立てる神学だと言っている。
「実をいうとここから真の社会性はでてこない。」という言葉に私も常々感じるものがあった。とくに社会性をもって活動している牧師らを神学がないと切り捨てる声を聞きながら、これで良いのかと思っている。
「デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」という言葉にも私は真摯に向かい合いたいと思った。


■ 新米園長・瞑想?迷走記

入園式の言葉には、いつも悩む。キリスト教主義の園であり、ルーテル教会の園で、どう園児が三年間を過ごしていくのか伝えなければならない。一晩中、悩むのだが、出たとこ勝負にいつもなる。入園式とともに、実践が始まった。


■ ルターの言葉から

おそれの中にあるとき、神に向かって叫び求めるなら、神はいつでも助けてくださいます。キリストは、おののく弟子たちを捨てておいて、いつまでも外にいるということをしないで、入ってきて「平和があるように」と言って慰め、「わたしだ。恐れることはない。勇気を出しなさい」と言われました。それと同じように、今日も神は私たちを慰めてくださいます。私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び、私たちに喜びと揺るがない心を与えてくださるのです。
キリストがおられるところには、聖霊も来られます。・・・・私は、自分でなしたかのように、キリストのみわざのうちにあって慰めを受けるのです。(復活後第一主日の説教)ルターの信仰に復活信仰は強く、それは「神が共におられる」というとなっていく。


■ 北米のルター派・その歴史 19チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)2
 大勢のスカンジナヴィア人の到来で、新しい言葉の要素と共に、ルター派のアイデンティティにこれまでと違ったものが加わりました。それは礼拝式文に顕著に現れました。例えば、主にスウェーデンの教会出身のスウェーデン人移住者は、礼拝の中に、初期のアメリカのルーテル教徒の多くが除外していた要素を取り入れました。
 この大きな第二の移住者の波によって、民族的な背景をもとに、多くのルター派教会、シノッド、コンファレンスが組織されることになりました。1853年にノルウェイ・シノッド、1860年にオーガスタナ・シノッド(スウェーデン)、1878年にデンマーク教会、1890年にスオミ・シノッド(フィンランド)などです。これらの組織は、どこにも属していないものを、移住者の出身地に応じて、沢山あるシノッド、コンファレンスの中に取り込んだだけという形で大きくなりました。

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