2012年1月22日日曜日


イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 マルコ1:16



【説教要旨】

今日の日課は、イエスさまが弟子を召命する記事です。「ヨハネが捕らえられた後」。王の誤った行為を批判したヨハネは首を跳ねられます。力で正義が押しつぶされそうになるこの闇の世界に向かってイエスさまは来られます。ここに神さまのみ心が隠されてはいないでしょうか。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。

」ということに注目したいのです。ユダヤ人にとって、海は混沌とした闇の世界です。

次に「御覧になった。」という言葉に注目したいのです。この言葉はただ見たということでなく、じっと見られた、鋭く見たということです。心の奥まで入り込まれたということです。闇の世界で生きている漁師である弟子たちをじっとご覧になられている。このイエスさまの強い眼差しは、弟子の生涯、変わらずに注がれていったのです。


ついて来なさい」と御覧になった。という言葉を加藤常昭牧師はこう説いています。「これまでの生活から解き放たれ、新しい生活に踏み込んでいる。主イエスの目はそういう解き放つ力を持った目でした。急所を見抜いて、そこからもぎ放すようにして、新しいところへと移す目でした。その新しいところとは、父なる神の憐れみのなか、恵みのなかに生きるところであります。恵みの中へと引き出してくれる目であります」。

今の時代は、社会状況、精神状況において、闇が覆っている。闇がある。

しかし、聖書はこう記しています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

この闇の世界にあっても、神の国は確実に近づき、神の力が支配されているのです。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。詩篇139:1112

私たち信仰者は時代の困難さを見ながらも、時代の困難さを貫いて輝いている光が既に私たちのうちにあるのです。

この闇の中にイエスさまがおられ、支配されているというこのみ言葉を私たちは心から噛み締め、心に刻み、支えとすることです。今の時代だからこそ私たちは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスさまの言葉に立つことです。

すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。・・・・すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

当時、社会を支えていた経済は家です。この家を弟子たちは捨てたということです。今、生活の糧を与えている世界を捨てて、新たな世界へ足を踏み入れていったということです。「これまでの生活から解き放たれ、新しい生活に


踏み込んでいる。主イエスの目はそういう解き放つ力を持った目でした。急所を見抜いて、そこからもぎ放すようにして、新しいところへと移す目でした。」ということが起きたのです。

闇を見ながら、私たちは生きていますが、イエスさまに見られるということは、私たちを新しいところへと導き出されることに他ならないのです。

総会が近づいています。なぜ、私たちが教会総会を開いていくかということです。それは世を生きつつ、私たちが地の塩、世の光として証ししていくことです。それは、私たちが、闇から光へと導くことです。新しいところに私たちの身を移すことです。

それは神が勝利したもう世界を示していくことにほかなりません。

「その新しいところとは、父なる神の憐れみのなか、恵みのなかに生きるところであります。」

世界がより良い生活ということで利潤を求め、金というあきることなきものを追求し、金というところで私たちが生きて立とうとするとき、私たちは引き出され、信仰という世界、新しい世界へ生きることへ私たちは招かれています。

すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

恵みの中へと引き出してくれる目、イエスさまの目を感じるような、生き方へ引き出してくれます。

人類も、欲望をエンジンとした近代文明に別れを告げ、「優しい心」や「美しい心」をエンジンにした、新しい文明社会を作っていくことに努めていくことが、いま大切なのではないでしょうか。と稲盛氏が言われているように新しい文明を作るために私たち信仰者はここを、今をイエスさまに召かれているのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

 

消費税5パーセントを値上げすることが議論されている。いずれは上げていかなければならないのだろうが、決してそれで私たちの国が良い方向に向かうことではないだろう。消費税は弱者に堪えてくる税である。では弱者をどう救済するかとなってくる。実はこの点をみただけでも税の問題は税だけでの問題ではない。

国の有様である。どんな国を作っていきたいのかという政治の発信である。一つ一つの事柄でなく、国の有様の全体像、進むべき道を私たちは模索しているのではないだろうか。どんな国を私たちは作りたいのか私たちも発信しなくてはいけないと思う。それは教会とて同じことである。私たち教会もどんな国を作っていきたいか。「み心が行われるように地にも行われますように」という祈りが私たちの祈りではないでしょうか。どんな国を作りたいか。

 


新米園長・瞑想?迷走記



年長組さんは、三学期から月2回、年少組、年中組さんと離れて礼拝を守る。

幼稚園を離れる日々が近づいている。公立の小学校に入り、教会学校に来ない限り、イエスさまにふれる機会が少なくなっていくだろう。だから、ずっと唱えてきた主の祈りについて、神様のみ心を聞く特別の時間を設けた。主の祈りの意味を理解してもらって、幼稚園を離れても、祈りを続けてもらいたいからである。きっと「神よ」と呼びかけたい時が来るだろう。そのとき「天にまします父よ」と呼びかけ、自分の声を聴いてくださる神が傍らにいらっしゃることを思い出してほしいからである。

卒園の準備が、もう始まった。



ルターの言葉から



近いうちに牧師や説教者がたいへん不足するから、補充できれば、至る所から現に活動している、良い説教者をかき集めることになろう。・・・・医者や法律家たちの数は十分で、この世を管理できる。一人の法律家で足りるところに、二百人の牧師が必要だ。エアフルトには一人の法律家がいれば、それで十分であろう。牧師の場合はそうはゆかない。あらゆる村、町には専任の牧師が配置されなければならない。わたしの領主(ザクセン選帝侯)は二十人の法律家で足りる。これに対して、千八百人の牧師が必要である。一人の法律家は普遍体で、牧師や説教師は個体である。時がたつうちに法律家や医者から牧師を作らなければならない。これは後に分かるであろう。

卓上語録から

宗教改革後、教会は牧師の不足という課題に直面した。ルターは街々を巡察して、多くの牧師の無力、不勉強、また信徒の無知を見て、信仰の手引きとして小教理問答書を書きました。なによりも信徒ひとりひとりがしっかりした信仰理解と祈りとの生活を確立しなくては、教会はたちゆかないという危機感がありました。

さらにルターは信徒を導くには多くの牧師が必要であると思いました。それは信徒いう固まりでなく、信徒一人一人とかかわる魂の配慮者として牧師が必要だからです。

牧師の場合はそうはゆかない。あらゆる村、町には専任の牧師が配置されなければならない。

今の私たちの教会の現状をみるとき手痛い言葉です。牧師を支える教会が減少したのでなく、教会をつまり信徒を支える教職の魂が委縮した結果が、教会の停滞を招いているのではないでしょうか。


大森通信    

 

神学校受験の願書を出しましたというA君の一言に身

のひきしまる思いでいっぱいになった。

すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

今までの営みー「網」を捨てて、今、主の弟子となる

べく、主のもとに歩みだす。捨てる網は重くて、大きなものであっただろうが、神の恵みへの幸福へとチェンジしていくことになる。

「これまでの生活から解き放たれ、新しい生活に踏み込んでいる。主イエスの目はそういう解き放つ力を持った目でした。急所を見抜いて、そこからもぎ放すようにして、新しいところへと移す目でした。その新しいところとは、父なる神の憐れみのなか、恵みのなかに生きるところであります。恵みの中へと引き出してくれる目であります」。(加藤常昭牧師)主イエスのまなざしに応え、新しいところへの出発でした。

岸千年牧師が「神学校に入るというのは、鯉が料理される前に、桶で泥を吐くようなものです」といわれていたことを思い出す。神学校での営みがあり、卒業する時神さまに料理されるよう整えられていくことを願ってやまない。卒業時にはイエスさまに料理される俎板の鯉であってほしい。

(大森日記)今週も総会の資料の本部への送信、幼稚園の行事に追われる日々であった。職員会議は子どもたちひとりひとりのケースを考えて祈る。全国財務委員会もあり、財務を扱っていればいるほど「人はパンのみに生きるにあらず」という思いを強くする。新教出版に行く。神学生のとき荒井献先生の講義を聞いたあのときから30年ぶりに訪れる。病気の方々もおられ、祈りに念じつつ日々を歩んでいた。泣きそうな寒い空を見ながら週末は終えそうである。一人一人の健康が守られますように。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)教会学校が始まるがいつもより出席者が少ない。子どもたちの声は元気にさせる。女性会の総会であった。だんだんと会へ若い方が入らない。神学校へ願書を青年が出したと報告される。先生の教えが良いからだと言われても、教会のリーダーだと期待されていた。神さまは大いに狂わせる。神さまも困ったものだ。教会形成の計画をぶち壊してしまう。今日も次男が礼拝に出ない。教会を担ってほしいのに。家ら追い出すべきかどうか頭の痛いところ。総会資料の製本。二日、制作にかかったので礼拝後、ぐったりいて寝ていると夕礼拝ぎりぎりまで寝ていた。仕事場に帰っていく家内を送って一日が終る。よくここまで二人は生きてきた。人の力ではないだろうと神に感謝。
)今日は買い求めていた「出来事の言葉・説教」を読む。反省させられることばかりである。ここちよい刺激となった。卒園写真を撮る時間になっても呼びに来ないので行ってみると園児が泣き叫んでいる。骨の折れやすい病気をもっている子どもで、骨が折れたのではと思い救急車を呼ぶ。三年間何もなかったのにここにきてといういら立ちが走るが、いかん、いかんと自分を反省しながらこどもの立場になって痛みを共感しようと念じる。幸い骨もおれていなかった。
)財務委員会と思い行くと今日でなかった。駅でたまたま電話して知り、引き返せた。そういえば鍋も二回焦がした。そのために味噌カツの味噌が不良品となった。              )餅つきで子どもたちは元気にはしゃいでいる。静岡、名古屋のとき教会で餅つきをしたことを思い出す。来年は教会でもしよう。楽しいイベントは良いだろう。
)財務員会で急遽聖書の学びを休む。委員会後、牧師試験に合格した息子と一杯。委員のMさんも付き合ってくださり楽しい時間となる。これから同僚としてどう息子と付き合っていくかとまどっている。
)昨日からいっきに真冬になったので寒い中を帰ってくる家内のために酸辣湯を作り、風呂を沸かして待つ。何の反応もない。当然のように思っている少しいらだつが、こちらが報いを望むから間違い。
)雨が降り寒い。

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