2012年3月4日日曜日


四旬節第2主日


  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。                 マルコ10:45


【説教要旨】

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」というイエスさまの言葉ですが、「すべての人の僕になりなさい。」という「なりなさい。」と訳すよりも「すべての人の僕でありなさい。」と訳した方が良いのではないでしょうか。本来は、私たちは「すべての人の僕である。」のですが、この本来の姿が失われているということです。神さまが定めてくださった本来の姿が失われていることを罪だということです。
弟子たちは実にイエスさまに忠実に仕えたと思います。そこにはイエスさまに喜ばれる姿になろうとする実に真面目な努力があります。しかし、ここに落とし穴がある。「なろう」とするとき、なったときの報いをいただきたくなる。欲しくなる。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。弟子らと同じでイエスによって、引き上げられ、偉くなり、何も問題なく、心休まる、平安の中にいたいと思いますね。イエスさまの近くにいれば何も問題を持たないでいいと。
しかし、イエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われます。
なぜ、「分かっていない。」とイエスは語られたのでしょうか。
「良心は神の言葉に縛られている」ルターの有名な言葉があります。私たちの言葉は、神の言葉、イエスの言葉で縛られているということです。
このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」というお言葉。飲む杯とは十字架にかかられたイエスさまの苦しみです。イエスさまの側にいるとはこの苦しみを飲むということだというのです。
ルターは、「私たちが苦しむことは、必要なことです。」と言うのです。イエスのお側にいるものとして、私たちが苦しむことは必要なことなのです。私たちは苦しみからの解放を願います。だから「分かっていない。」とお叱りを受けるのです。
教会は人気がない。病気の苦しみを、心の悩み、苦しみを、生活の苦しみを取っていただきたいと来ているのに。「分かっていない。」と言われれば立つ瀬がない。でも、やはり「分かっていない。」のかもしれない。
イエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言われる。私たちはこの言葉の括弧でくくられた存在であるということです。また、さらにこの括弧を括る言葉があります。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエスさまは十字架上で苦しみ、神の全能と栄光をかくされつつ、しかし、それゆえに逆に自ら人の罪に代わって無力と恥辱をこうむり、人の罪をゆるす恵みの神として、姿を示され、私たちの苦しみ対してイエスさまが仕えてくださる。命をささげてまで私たちを贖い、愛しておられるというのです。私たちの苦しみをもご自分のものとして受け止めておられるのです。この大括弧の中で私たちは生かされているのです。
ここに集う人は優しい人だと思います。優しいという言葉は「人が憂う」と書きますよね。私たちには、ブッダが悩まれたように生老病死という四苦、人には憂いがあることに気づきます。悩みを前にして、たじろぐ私たちがいる。また、四苦で苦しんでいる人に私たちは「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい。」という言葉を真剣に受けとめようとする。しかし、出来ない自分にたじろいがある。しかし、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と主がここに立ちたまいます。「だれもこれに直面して、たじろいだり、恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る」というルターの言葉を思い出します。
だからたじろぎつつも立てる自分がいることを忘れてはいけません。「この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。」という出来事が私たちの中に起こってきます。
「救い主を引き寄せます。」と言うのです。「皆に仕える者であり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕である。」となることがゆるされ、回復されている自分がいるのです。仕える人、愛の人へと変えられるのです。「私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」というルターの言葉にある「福音―神の愛」という大きな括弧に括られた私たちであり、「皆に仕える者であり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕である。」ということを感謝しつつ、主と共に歩みましょう。


牧師室の小窓からのぞいてみると

ときにはおせっかいを焼こう(朝日新聞社説余滴)

豊かな時代にあって、食べることが出来なくなって亡くなっていく悲しい事件にはだれしも心を痛めているだろう。「近所の子供を預かったり、おすそ分けをしたりするのが当たり前だったのはいつごろまでだったろうか。
濃い人間関係には、わずらわしさもある。ひとさまの生活に干渉しないのも優しさだろう。でも、それは元気な人同士の話だ。
ときには『おせっかい』を焼かないと、救えない命もあるかもしれない。迷った時、一人ひとりが、そう想像してみる。それしかない気がしている。」
人を救うという教会の大きな使命がある。そしていまこそこの使命の実行が求められているのではないだろうか。もっと教会を出て『おせっかい』と思われるほどの奉仕の業を私たちはしなくてはならないのではないだろうか。これは私たちに投げかけられた問いでもあり課題だとおもう。


新米園長・瞑想?迷走記

園に響く子どもらの声を聞いて、園の調子が分かるような気がする。どこまでも明るい元気な声が、いま響き渡っている。今日はきっと調子が良いのだろうと思う。声が小さい時、どこかで問題がある。まずは朝の自由遊びの時の子どもらの声を聞きながら、一日のすることが見えてくるような気がする。それにしても明かるい元気な声が響いてくるとき安堵するのは私だけであろうか。



ルターの言葉から



 「私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちの持っている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに私たちを眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を濫用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
 神がこのような悪を訂正させる方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長できない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。それゆえに十字架をまぬかれるよりも、十字架を与えられるほうが益となるのですから、だれもこれに直面して、たじろいだり恐れたりしてはなりません。その中に慰めを得る、すばらしく強い約束を与えられているではありませんか。私たちが喜んで苦しみ、十字架を負うときのみ、福音は私たちを通して前進します。」

ルターは、「弱さ、苦難、十字架、迫害、これが神の武具である」と言っています。彼は十字架の救いの意味を受け止めることから、宗教改革の時代の悩みと苦しみを受け止めつつ大胆に前進しえたのだと思います。苦しみの意味を見出しえたことから、ルターの信仰の深化は始まったのかもしれません。


大森通信    
 
先日、机の上に一通の手紙があり、開いてみると牧師初任地の時代、高校生だったT君からの手紙だった。中に彼が働いている福祉施設の便りがあった。見ると施設長になっている。そこには社会の変化によって、変わりゆく施設のありかたについて取り組んでいる簡潔な要を得た文章があった。
中間、期末の試験が近づくとよく友達を連れてきて、勉強を教えろと言っては、数日間、牧師館で寝泊まりしていた。勉強は数時間で、後は友達同士で遊んでいた。彼が連れてくる高校生で夕礼拝は活気に満ちていた。数名が洗礼を受けていった。彼もその一人だった。彼には華があった。経済的に大学にいく余裕のない彼に、大学に行けと勧めた。東京に出ればどうにかなるからと言って。なんと無謀な勧めだったろう。自分がアルバイトしていた会社に頼み込んで採用してもらい、保証人は田園調布教会の信徒さんTA兄に頼み込んだ。明治学院の二部に入り卒業し、今に至る。大変だったろうと思う。
予感通り華が開いてくれていることにあの無謀なアドヴァイスも神が良しとしてくれたんだと感謝している。



(大森日記)日曜日は、いろいろな事が重なり分刻みのスケジュールだった。神学校の夕べの息子の説教を聞き、引き返して夕礼拝となる。今週も幼稚園のことで時間をとられる。心の休まることが出来ない。すべきことが多すぎて整理が出来ずにいる。だから静まって祈らなくてはならない。天候は雪が降ったり、暖かくなったり、また雨が降り寒くなったり目まぐるしい。まさに自分の一週間のようである。週報を発送し、手紙を書くのだが祈りを込めている。また共に礼拝を守ろうと。東北の震災支援ボランティアは20名募集で8名だったと聞く。これからもさらに支えていく祈りを強めたい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)今日はインフルエンザの流行のせいか教会学校の生徒が半分である。流行り出すと早い。礼拝後、祈祷会、礼拝委員会、幼稚園運営委員会と分刻みのスケジュール。その後、「神学校の夕べ」。息子の説教を聞きながら、私が神学生時代、中心となって、神学生の主催で「神学校の夕べ」を復活させたことを思い出す。昔の東京教会会堂を借りに坪池牧師に頼みにいき、帰りに食事をいただいた。神学生が中心となって運営した。復活を指示した清重先生は、引退、復活後の説教壇に立った山之内先生も引退されている。時の流れを感じつついた。何よりも息子がここに立つなど想像もしていなかった。終わるとすぐに夕礼拝のために教会に帰る。いつもの静かな礼拝だった。
)午後から財務委員会である。今回は小石川教会で、昔聖歌隊で行って以来で変わりように驚いている。年月は流れるか。幼稚園教諭養成校の先生と懇談会。友人と友人宅で夜遅くまで話し込む。
)やっとこどもたち全員が揃う。まだまだ気が抜けないインフルエンザの流行である。夜から雨と雪。
)水の含んだ雪は子どもたちには遊べないのではないかと思っていたが、遊び上手な子どもたちは雪遊びをしていた。子どもたちは楽しい。夜、前任のkK牧師と一杯。
6時、携帯電話が鳴る。副園長から。いやな予感、風邪をひいたという。幼稚園に一日張り付かなくてはいけない。教育指導にセンターから先生が来られる。子どもたちが大切にされていて良い幼稚園ですと言って帰られた。嬉しい言葉。「風のように」をメールで送ったはずだが、送れていないことを電話でいただき慌てて編集し送る。もう3月か。誕生日カード、教会に来れない方、来てない方々に手紙と週報を祈りを込めて送る。
)家内は世界祈祷日に、こちらは留守番。誕生日カードを送り、夜は遅くまで日曜日の準備。
)日曜日の準備を終えて、近所の信徒さんのお宅を訪問する。暖かい日和。家内と日本橋高島屋に息子の同級生のたまり漬けの店が出品していたのでご挨拶にいく。ついでに卒園児のためのプレゼント、木製品を購入。三万円の出費はきつい。もう卒業かと思いつつ時間の速さを思う。帰り山口の物品店を偶然に見つけ寄る。母方は長州、萩藩だから先祖の地に息子は就任か。

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