2012年3月11日日曜日


四旬節第3主日

  「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」  ヨハネ2:17


【説教要旨】

震災から一年になり、私たちはどう過ごし、どう変わっていったでしょうか。私たちは義援金、ボランティアと一生懸命に関わっていったのではないでしょうか。また、被災された方々は、厳しい状況の中で頑張っています。しかし、例えば、ごみの処理をめぐり私たちの人間のエゴが丸出しだという状況をみるとき、落胆が私たちの状況を覆っているように思えます。
激しいイエスさまのお姿の「宮清め」という出来事を通して、私たちはみ言葉に聴いていきましょう。
過ぎ越しの祭りは大きな祭りです。国内外から神殿にお参りにくるのです。そのためその人たちに神殿にささげる動物が必要となり、献金は外国のお金であってはならず、献金のための両替が必要でありました。
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。
神殿礼拝にとって、必要なこれらをイエスは、否定したのです。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われた言葉で分かりますように、神の礼拝に必要なこれらの物は必要でなくなったのです。
私たちに必要なものはなにかということです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」といわれたように十字架と三日目の復活による救いの力でした。神殿という目で見える形でなく、目に見えない救いの業、神の愛こそ、必要なのです。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
この後、30年後ヘロデ大王が作った第3神殿は崩されて、今日にいたるのです。
私たちは目に見えることに奪われがちになる。そして目に見えることを整えていこうと熱心になる。それは神の名を被って行為を正当化していくことがしばしばあります。人の熱心さは尊いものです。だからこそ、熱心であるということは注意すべきことです。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉に私たちは気をつけなければなりません。
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
イエスさまは、人間が神に信頼されるような存在ではないということを知っておられたということです。私たちはこういう存在です。私たちの熱意は、神からみると信用されるようなものではないということです。「神様のため、イエスさまのために」と私たちは口にするが、結局は、「自分のために」している場合が多い。確かに犠牲の鳩を売る人も、神殿にささげるために外国のお金を両替する人も、人のために役立っている仕事でも、自分のためということがあります。第3神殿を63年もかけて再建したヘロデ大王の熱意も「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」とあるように自分のためであった。
震災前まで、私たちは自分の生活を整えていくために頑張っていました。特にエネルギーは、私たちが生活にとって必要なことであり、私たちは原子力発電というエネルギーに依存してきました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」とあるように、まさに「わたしを食い尽くす。」、イエスさまが愛されていた神の民の生活を食い尽くしていた時代を私たちは形成していたのです。さらに危険なものを私たちは都会から離れた田舎に押し付けていたのです。さらに震災瓦礫に対しての処理は、エゴを丸出しの姿を私たちは、露呈しました。震災は私たちの内にある社会を良くしたいという熱意がいかにエゴなものであるということ。「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」という事実を私たちに教えたのです。近代以来に入り、私たちは人間の力で何事も開いていけるのだということからくる人間の熱意からおさらばしなくてはいけないのではないでしょうか。
私たちは自分に潜む罪を深く反省し、イエスさまの十字架の贖いなしでは私たちは存在できないものであり、この神の救いの業に自分があり、神の救いの力に頼らざるをえないものであるということ、まずここから出発して人の熱意を去り、神の愛に委ねていきましょう。
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。 (出エジプト20:1~5)



牧師室の小窓からのぞいてみると

福島産の買い控え、震災瓦礫処理反対

震災、原発事故は、福島産というだけで、農産物を買い控える人たち、震災の瓦礫処理に対して、焼却灰が放射能に汚染されているのではないかというだけでこれを受け入れない人たち。ほとんどが現段階では科学的には問題がないものである。
私たちがいかに小さな者となり、エゴの塊であったかを暴露しているように思える。私たちの心の貧困を暴露しているように思えてならない。でも、これは震災前から言われていたことであるが。
そういう意味で、私たち宗教界は、心を豊かにしていくということにどれほど自分自身をむけてきたか、本当に深い反省を迫られているのではないだろうか。自分をささげてまでも、私たちがもっと他者に対する思いやり、労わりが、どんなに大切であるかという当り前のことを、当り前となっていくように、証を立て、具体的に示していくことだと思っている。


新米園長・瞑想?迷走記

一年が終ろうとしている。一年を通して園児に何を伝えてきただろうか「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、イエスが洗礼を受ける時にイエスにかけられた神の言葉であるが、この言葉は、園児一人一人にも、日々、かけられているのではないだろうか。こどもたち一人ひとりとの日々の保育で向かい合う時、いつもこの言葉をもって接してきたし、保育という具体的な場にあって実践してきた。みな神の子として恵みの内を生かされてきた。


ルターの言葉から


「キリストは人が思いも及ばなかった愛の父なる神を示されました。私たちは魂の唯一の慰め、また救いとして、これらの言葉を心から受け取り、心の中で刻み込もうではありませんか。もし主キリストにしっかりとすがりついているならば、あなたは確かに、神が世の初めからご自分のものとして選んでくださった一人です。もしそうでなかったら、あなたがキリストのところへきて、このような啓示を聞き、受け入れることはなかったでしょう。
・・・・・・・あなたは、主の啓示をいただいたことと、神の愛する子にしていただいたこと以上に、この世にすばらしいものはないことを知るべきです。
み言葉があなたを喜ばせ、恵みのうちにあなたの心がキリストへ向けられることによるのです。こうしてキリストがご自分をあらわしてくださったので、主のみこころとあなたの救いに関するすべてを知ることができるのです。」

修道士の時代、ルターは、信仰を熱意の中にいきていました。修道士の時代に彼の修道生活は完全といわれるほど熱心な業でした。しかし、彼に心の平安はありませんでした。
しかし、彼が「キリストは人が思いも及ばなかった愛の父なる神を示され」たとき、人の熱心さでなく、ただ「主キリストにしっかりとすがりついている」ことで充分であることを示されたのです。裁きの神から父なる神の愛の絶大さに気づいたとき、「信仰のみ」、「恵みのみ」ということにたどりつくのです。



大森通信    
 
今日は東北大震災から一年になる。教会の庭の桜の木が大きく揺れたことを思い出す。その一瞬はこんな大きな被害をもたらすなど考えもしなかった。
震災以降、生活は変わっただろうかというと変わったようで変わっていないように思える。むしろ、世界経済の大きな変化に翻弄される日本経済、つまり日本社会が合い重なって未来が開けない社会があるように思える。ここに人の中に大きな漠然として不安があるように思える。戦後の復興を例に出して鼓舞するが、焼け跡から復興には逆に漠然として希望があった。
なぜ、希望が持てないのだろうか。それは変わろうとするエネルギーが私たちに欠けるからだ。変わるチャンスがあったと思う。それは原発事故の後の人間にとって最も大切なエネルギー改革である。誰が見ても今は人間の手に負えない核エネルギーを一気に方向転換出来たはずであるが、世の常識がそれを越えて、また容認されつつある。ここで一気に変革したなら変わるという気持ちを起こせたのではないかと私は思っている。
多くの命を失い、生活を失った犠牲を無にしないためにも希望という復興を私たちは提供しなくてはいけないと思う。


(大森日記)役員会、新任牧師按手式から一週間が始まった。新らたに生まれて牧師は混沌とした世界への船出であるが、福音を宣べ伝える基本に立ち、新たな歩みをしてほしい。震災一年になり、進まぬ復興の道のりがあると聞くが、きっと開けると祈りを強めたい。一年を終えようとしている幼稚園の諸行事に気持ちがとられる。父兄との交流会で、神に愛される悦びについて。生憎、雨の中を80数名ルーテル学院の卒業生が旅立っていった。旅立ちの時でもある。雪が降る週末となったが、寒さの中にも春を感じる。花粉症も始まり春か。これは遠慮したい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)インフルエンザもおさまり教会学校も子どもたちが元気にやってきた。こどもの声は良いものである。役員会での協議はいかに福音を伝えていくかということである。また幼稚園の就業規則について協議していくがやっかいなものである。これも勉強か。長男の牧師按手式である。義兄らも出席くれて良いお祝いとなった。たいした感動もなく、むしろ心配が重なる。なかなか親業を終わらない。息子が赤ちゃんのときに世話をしてくれたS君も出席くださる。式後彼と最終電車までいっぱいひっかける。息子たちは若い先生と飲んでいたらしい。次男に牧師へ勧めがあったらしい。これ以上はやめてほしい。
)休むに休めず、午後から幼稚園保護者総会などが続く。この会から幼稚園の一年の締めが始まる。息子の按手のお祝いの電話が続く。それぞれの教会で育てていただいた。時は過ぎるのは早い。
)一日、幼稚園の仕事に追われて誕生日の信徒を訪問したのは夜になる。今週は体力がない。やっと一日が終る。家内が翌日の誕生日の菓子 を届けにきてくれる。
)教区に協力金を収めに、墓地の件で行く。帰りに散歩し、息子と夜、神楽坂で一杯ひっかける。青年から電話があり渋谷で食事をしながら相談に乗る。帰宅したのが最終便。
)雨。祈祷会が終わり、少し寝たのがいけない。職員会議を欠席してしまった。業者さんと打ち合わせ、午後から職員会議、聖書の学びと続く。出席者と夕食をともにする。夜の飲み会のお誘いがあったが、流石に疲れ、今日は早寝。メールが一件。先の青年から大学院の卒論がパスしたという。ほっと。
)最後の保護者との交流会。神に愛されていることの悦び、神に愛された保育を話す。神学校の卒業式。教会関係の出席者が少ない。久しぶりに恩師のM先生と会う。変わらぬ心温まる方だ。夜、巣鴨で友人とエスニック料理で夕食を。それが安い。偶然、T牧師夫妻と会う。歳を互いにとった。
)やはり体力なく、起きるのがなかなか起きえずにいた。午後から使徒信条の学び会をする。今週はやっと「死」についての本を読む。ばたばたと一週間が過ぎていった。


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