2012年3月25日日曜日


四旬節第5主日

  すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。  ルカ1:30


【説教要旨】

今日は聖書の日課によると「主の母マリアの日」です。私たちはマリアについては、カトリック教会のものだと思っています。もしかしたら今日の日を以外に思われたかたもおられるかもしれません。カトリック教会においてもマリアについて思いが強いのは南欧の人であり、それは中米、南米へと広がり、強いマリア信仰となってきています。日本においても悲母観音信仰の強さと相まってやはりマリア信仰が強いところかもしれません。
では、私たちが「主の母マリアの日」を守るとき、マリアをどうとらえていくかということを問われているのかもしれません。
この聖書の後にマリア讃歌―マグニフィカートーがあります。ルターはマグニフィカートについて講解しています。
「自分(マリア)一人のために歌ったのではなく、われわれすべてのために歌ったのであり、それだからわれわれも彼女にならって歌うべきなのである」と言っています。信仰の模範者としてマリアを明らかにしています。マリアは、私たちの信仰の模範者なのです。
今回、教区総会は闇に包まれたような重さを私は感じました。その闇は社会の課題に応えることの出来ない無能と現実です。今の時代の大きな変化とその闇に対して、社会は苦しんでいます。未来が見えてきません。教会もやはり何の解決も出すことが出来ず無能であることに悩み、苦しんでいるということです。どこから手をつけてよいのか分からなくなっています。では、これは現実であるかもしれませんが、真実なことなのでしょうか。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
越えられようもない社会の困難な大きな壁の前に苦しんでいる状況があるでしょう。一人たたずんでしまう孤独があるでしょう。しかし、私たちはマリアに天使が告げたように私たちもおめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられるという存在なのであるということをまず知るべきです。ここから全てが私たちの出発なのです。私たちはだから失望しないのです。
しかし、マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだという現実があります。どこが恵まれているのか。どこに神がいるかという現実があります。この現実の前に天使がかけた言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込む私が現実に圧倒されていきます。そういう弱い私がいます。マリアも然りでした。
私たちと共におられると言われた神は闇に押し潰されていく私たちがいます。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。イエスさまは十字架において、まさに私たちの罪の弱さを、闇を負われました。罪の弱さ、闇にイエスはいてくださったのです。また、いてくださるのです。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」という「神から」という言葉です。私たちはいつも「神から」熟視されている存在です。
「マリアが誇るのは、彼女の処女性でも謙遜でもなく、むしろただ神の恵みに深い注視であった。よって言葉の重点はhumilitatem(謙虚)にではなく、respexit(かえりみた、注視)にある。それは讃美されるべきことは、彼女が無であることではなく、神の注視にあるからである」とルターがマリアについて語ったように、私たちも無である力弱いものであるのでなく、私たちが神の注視を受けている。神の憐みの内を生きているということです。マリアは信仰者として、彼女の人生に起きた出来事において私たちに伝えているのです。
神にできないことは何一つない。」という真理に私たちは導かれていくのです。ここで注目していただきたいことは、マリアはヨセフと幸福な家庭生活を望んで、努力したでしょう。しかし、私たちがかくこうありたい、こうしたいということでなく、私の人生に神が働くということです。「神から」の働き、ここに私たちは立つことです。
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
マリアは、マリアの意志、なしたいわざでなく、神の意志、神のなすことを求め、望んだのです。ルターは「神の意志なしには、なすことを欲しないのだ」と言っています。
「主の母マリアの日」、私たちはマリアに語られた神の言葉、マリアの上に起きた神の出来事を通して、この世の現実を生きつつ、現実に押し潰されることなく神の真理の中をマリアに引き続き、信仰者として、召されるまで共に生きていきましょう。 


牧師室の小窓からのぞいてみると

経済気象台 朝日新聞
新聞の株式のページに「経済気象台」という記事がある。「今、我々に与えられた最大のテーゼは『学ぶ才能と創る才能は同居しうるか』ということだ。」、「日本人は一度コンセプトを与えられると、驚くべき才能を発揮する。」、「コンセプトを見失ったとき、日本は烏合の衆と化す」。経済から世界を見ていくのだが、それが文化論、人間論になっていく。経済もただ経済理論から括れるものでなく、そこには文化、人間論が深く関わっている。記者は「和魂漢才から和魂和才」と提案している。経済がグローバル化しているのにこの提案は不思議だが、グローバル化しているから私というものをしっかりと見つけ、創り出していかなくてはいけないと思う。


新米園長・瞑想?迷走記

春休みに入り、暇になったかというと逆になる。特に事務的なことがどっと待ち構えている。また震災以降、耐震工事を進めていかなくてはいけないない。事務処理が迅速に求められる。
また、書類の整理に入っている。職員会議の議事録、カリキュラムの議事録など整理しつつ、次年度の歩み方を考え具体的に作っていかなくてはならない。
園庭の遊具、掃除、草取り、花の植え替え、教室の点検と管財面もきりなくある。
そんなこんなに取り組みながら、どんな幼稚園にし、子どもに仕えていきたいのかと問われてくる。すると教会の宣教との関わりも問われる。
次々と噴き出してくることに苦しみつつ、楽しんでいる春休みである。

ルターの言葉から


   天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
   あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」 ルカ1:35~37

これらのことばを、御使いは聖なる処女に告げました。マリアがこの幼子のために喜び、あらゆる恐れと悲しみを捨て去るためです。けれども、これらの言葉は処女マリアにだけ告げられているのではなく、私たちにも語りかけられています。ですから、この聖なる処女だけが幼子の母ですが、私たちもまた、主の支配と御国のものとされているのです。
もしそうでなければ、私たちは絶望です。私たち自身のものはすべて過ぎ去り、その命も束の間のものにすぎません。四十年、五十年、あるいは百年ですら、いったいなんでしょう。しかし、永遠の国に属する者にとっては、すべては良きものであり、生涯を通じていつも喜び踊ることがふさわしいのです。
さてこのようにして、御使いの言葉は、多くの危険と罪と死に満ちた、私たちの束の間の生涯を思い起こさせ、私たちがそれに耐えられるように励まします。そして、以前には地上になかった御国、限りない永遠の御国を示しています。

マリアは神の憐みを受けた者であり、それは同時に私たちも神の憐みを受けた者として存在しているのである。


大森通信    
 
身近な宣教の協議される教区総会の議事が大変に低調に感じられたのは私だけであろうか。宣教においても、財政においても大きな議論へと広がることなく、時間よりも早く終わった。
他の教区においても同じようであったと聞く。教区長報告に対して何の質問もない教区もあったと聞く。
低調が良いか悪いか分からないが、やはりこれではいけないのではないかと感じたのは私だけであろうか。
特に東日本大震災の教区である私たち東教区においてもっと具体的なことが提案されても良いのではないかと思うのだが、震災救援活動の報告に留まって具体的な提案はなされなかった。
報告書の中に第5次宣教方策については報告書にあるだけで、これを検証し、新たな提案がなされようとしないのも気になった。
批判ばかりしていてもしかたない。では私たち教会はどうであるのか、私たちはどうであるのかを具体的に忠実に取り組んでいこうという思いをもった。それが神の愛を広げていく一歩だと思う。まずは、私からである。



(大森日記)中村節子姉の葬送の祈りをアメリカからご遺族、友人をお迎えして皆とささげるは嬉しい。耐震工事に本格的に取り組み始めた。課題は山積しているのは当り前のこと。これを皆と乗り越えていきたい。節子姉の納骨式、晴れてよかった。永代供養にしていただきほっとしている。教区総会、低調さが気になる。幼稚園は春休みに入るが、預かり保育の園児ら、耐震工事の件で設計師、都の担当者と連絡、来学期への準備と気を使う。職員の結婚式に出席出来ずにいたので良い家庭を築いて欲しいと思い聖家族の人形をプレゼントをする。天地創造物語をもって聖書の学びは終わり春休み。次はガラテヤ書。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。
日)今日は、N姉のご遺族がアメリカから来られて、葬儀を一ヶ月遅れでする。礼拝の中に組み入れる工夫をし、主日の聖書の日課で説教をした。就任式に欠席していた役員の就任も一緒にするなど、日常と非日常、生と死ということが礼拝において、溶かされていた。午後から教会、幼稚園の耐震工事についての協議。総工費一億円。資金をどうするか改築中の園児をどうするか、都からの補助金がどうなるか考えれば考えるほど気が重くなる。癌治療をなさっている姉を訪問する。毎週、訪問して御言葉を届けて治療を手伝いたい。夜、礼拝中に脱走ウサギが入ってきて礼拝が一時、止まるが良い深呼吸の一瞬だった。逃げなくて礼拝堂にきたのは神の導きか。
)N姉の納骨式、霊園の道を途中で迷う。まずは楽しく状況を抜け出そうとするが、人間が出来ていなくて難しい。帰りの車中も妻がきつく、周りに気を使いすぎて疲れる。この頃、妻の言動がきつく気になる。
)教区総会。何もないことに疲れる。これで良いのか。
)事務所にN姉の永代供養のために、本部に負担金を収めにいく。日頃お世話になっている牧師を飲み会に誘い、一杯。いろいろと学ばされた。
)礼拝に数週間、出てきてない息子と大喧嘩。出て行けと一言。怒り心頭だが、怒りに遅くでなくてはいけないが、あちらは縁を切りたいというから望むところ思いつつ、ぐっと飲み込む。信仰を共有していくことは難しい。来学期の準備のために備えていくためにまずは一年分の書類などの整理から始める。耐震診断を巡り都庁と設計士との交渉。
)息子と口もきかずにいる。N姉のご遺族がアメリカに帰られる前に手続きが終わったことを報告に出かける。夜、まだ険悪な雰囲気が息子との間にある。子育ては終わったと思っていたがまだ続くようである。
)気になっている癌で入院中のS君の退院メールがきた。糖尿病で治療し
ている0兄からも元気な声が届く。ホッとする。テレビで原発事故にかかわる番組が
あった。特にドイツの脱原発の舵をきった政治決断に感心した。その決断に至るには
地道な取り組みがあった。地道かあ。まだまだ寒さが残る日々です。上野の桜はまだ蕾です。きっといっきに咲くのでしょう。

今週は礼拝に出ていない息子と礼拝出席をめぐって、生活について、将来について広がって大喧嘩、幼稚園の耐震工事にむけての交渉、来季の準備、納骨式、教区総会とぐちゃぐちゃの混乱した日々でした。
しかし、一週間があっと過ぎていく感じを強く受けています。時が過ぎるのが、早くなっているように思えます。
今週も主の平安のうちにありますように。


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