2012年4月1日日曜日


枝の主日                2012年4月1日


  もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 マルコ11:3

【説教要旨】
星野富弘さんの詩があります。

 いつか草が   風に揺れるのを見て     弱さを思った
 今日       草が風に揺れるのを見て  強さを知った

弱々しいとしか見えない草が、「今日」というある一瞬強いのだということを知った喜びと驚きが表現されている詩です。
「今日」という一瞬に何が起きたのでしょうか。

   門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。 詩篇24:910

私たちの内に王がお入りになるときです。その王とは誰か。今日、私たちはイエスさまのエルサレム入場から知らされるのです。
主がお入用なのです」とイエスさまは言いなさいというのです。明らかにイエスさまはエルサレム入場に対して自分が「」、すなわち「王」であるという意志をはっきりと示されています。イエスさまは今、私たちのところに王として来られるということです。
それは、また私たちの王はイエスさまであり、私たちはイエスさまに支配されているということです。実に当たり前のことですが、実に当り前のことが、星野さんの詩にあるように

 いつか草が  風に揺れるのを見て    弱さを思った
 今日      草が風に揺れるのを見て 強さを知った

という大転換が起きるのです。
主・イエス・キリストが、私たちの生活のすみずみまで支配されるのです。
この王が今、必要されたのは子ロバであるということです。戦いの軍馬でないのです。ロバは日々、日常の中で働いています。非日常的な軍馬でなく、ロバをこの王は必要とされているのです。

   娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。 ゼカリヤ9:9~10

特別に優れた軍馬ではなく、ごくごく日常のものを必要とされているのです。それは私たちの日々であり、私たち自身です。
『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。
主がお入り用なのです。」という言葉は、私たちにかけられています。
私たちは礼拝において「平和の祈り」をささげます。
主よ、私を平和の道具として用いてください。
私たちは、主の道具として用いられることを切に望み続けるものが私たち信仰者なのです。

私たちの内に入られた王なるイエスさまは、私たちを必要とされているのです。子ロバこそ私たちです。王なるキリストは、私たちの上に乗られて私たちを用いてくださるのです。
この王は戦いでなく平和を望まれているのです。ですから、罪にある私たちを敵として、戦わずに、この王は罪にある神の敵である私たちのために十字架の死に至るまで愛を示されたのです。イエスさまが、神が必要されているのは愛という力による平和です。
私たちは愛に満ちたこの真実な王を、平和を望まれている真の王を乗せるのは私たち一人一人であるのです。だから私たちはどんなに小さな弱い者であっても

 いつか草が  風に揺れるのを見て    弱さを思った
 今日      草が風に揺れるのを見て 強さを知った

とされたという現実を生きることができるのです。
私たちは、ますます厳しい時を生きています。そして私たちは時代が厳しいほど課題を与えられます。そして「主がお入り用なのです。」という言葉を聞くのです。確かに私たちが応えていくには私たちは「いつか草が  風に揺れるのを見て 弱さを思った」という弱い者かもしれません。しかし、私たちは「今日 草が風に揺れるのを見て 強さを知った」という強くされている存在でもあるのです。私たちは、救い主、イエス・キリストをお乗せ出来る存在なのです。私たちはそのことを気づき、時代が与えている課題を担っていくものとなりたいのです。
主よ、私を平和の道具として用いてください。
と強く願い、主が私たち一人一人を主の平和を実現すべき、つまり神のみ国を実現すべく私たちを今日、必要されています。
主がお入り用なのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

また国鉄それともマニュアル人間

長男が新任地に向かう電車を見送りに行くとき、京浜東北線が事故のために遅れて、ぎりぎりに間に合うかだめかというところであった。
事情を言って、急いで新幹線改札口から入れてくれるようにお願いすると人が多く並んでいる切符売り場で入場券を買えという。こういう場合もあるんだから自動販売機に入場券を用意するか、特別のを発行すればよいと思い、後で、駅員に話すと、在来線が遅れて新幹線を遅らせることは出来ないという。そんなことは馬鹿でも分かっていることで、そんなことをいっているのではない。在来線は東日本、新幹線は東海ですから関係ありませんと一言。
昔の国鉄に戻ったような、またマニュアル通りしか対応出来ないことに腹がたってしまった。


新米園長・瞑想?迷走記

耐震工事をしなくてはいけないので、ここ数年関わっている都と構造設計士さんの話し合いに同席した。話は上手くいき、次へのステップに進むことが出来た。私はこういうことが苦手で、関わりたくなくて、牧師という職業を選んだところあるが、牧師云々と言っているわけにはいかない、園児の安全を考え、幼稚園が、より良い環境を整えていくにはやらざるを得ない。次に資金集めである。これも苦手でやりたくないがやらざるをえない。
常に思考の中心に園児を置き、考え行動していくときやらざるをえないというところを羽根として動いているのが私、牧師園長かもしれない。


ルターの言葉から



この「日」を造るのは最愛の太陽、イエス・キリストである。それゆえ、マラキ書では、彼を義の太陽と呼び、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」と記されている。
なぜなら、キリストを信じる者はみな、彼からその恵みと義の輝きを受け、彼の翼のもとに救われるからである。彼ご自身が太陽であり、彼から、光と日(すなわち福音)がほとばしり出て、全世界を照らす。そして、詩篇19篇2節には、最愛の両者、太陽と日、キリストと福音が示され、「天は神の栄光を物語り」と記されている。それは、この世の天が太陽と日をもたらし、太陽は天にあるのとちょうど同じように、キリストのまことの太陽は、説教と共に使徒を送り、またご自分の中にそれをもっておられる。
これが、愛に満ちた「日」の始まりについてのすべてであり、これは福音によって語られ、それを聖書は、高らかに愛をこめてほめたたえている。なぜなら、福音は、生かし、喜ばせ、陽気にさせ、活発にさせ、また、あらゆる良いことをいっしょにもたらすからである。

ルターの信仰の中心は、受動性ということである。人が一日を創造するのではなく、「この「日」を造るのは最愛の太陽、イエス・キリスト」なのである。与えられた神の恵みのみによって、与えられた人はむしろ能動的になり自立できるのである。「神(他力)によりたのむゆえに逆に自律的でありうるこの信仰こそが、ルター的信仰なのである。」(新しい神学の形成:江口再起)
福音は、生かし、喜ばせ、陽気にさせ、活発にさせ、また、あらゆる良いことをいっしょにもたらすからである。



大森通信    
 
東京直下の地震の危険性が言われているとき、さらに幼稚園園舎の耐震工事の緊急性が増している。
着任して多くの時間を取られているのはこの課題である。耐震診断を終えて、結果を都に提出する段階で診断の最終報告で都の指導を受けつつ、やっと了承をいただいた。次は工事実施である。
都の指導を受けつつ、ひとつ気づいたことは国土交通省の基準に合わない建物が大正から昭和にかけて建てられていて、診断を難しくしているし、さらにこれが耐震工事を遅らせているということである。4000日の平成大改修の唐招提寺は一度、全部を解体して耐震性について一つ一つの部分を調べ、耐震補強し、組み立て直した。しかし、歴史的建造物なら兎も角、普通の建物に多額な費用をかけて耐震診断をし、耐震工事することはほとんど出来ないのではないだろうか。ましてや、これが個人住宅となるとさらに難しくなる。
こういう状況の中で、真摯に私たちは耐震工事へと取り組んでいます。それは、地の塩、世の光として証ししていく者としての社会へのチャレンジであることを自覚し、応えていこう。

(大森日記)今週は、ほとんどを幼稚園に時間を取られていく覚悟でスタートした。耐震工事の診断結果をめぐっての都との話し合い、結果を受けて資金の準備など、また新学期へ向かっての整備、準備などきりがない。春休みの間、聖書の学びの準備、アメリカルーテル教会のフィンランドミッションの歴史の翻訳作業をも思いつついる。これは楽しみ、期待している。息子がやっと親を離れて初任地、下関教会に着任するが別れの食事も出来ず、やっと品川駅で数秒の見送りで終わった。持っている伝道の資料をPCからUSBにコピーし餞別に渡した。そうこうしているうちに一週間があっという間に過ぎていく。時間の流れの速さを感じている。風が強く吹いている。でも冬の冷たい風でなく暖かい。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)いつも日誌をつけておこうと思うが、つい忘れてしまう。一週間過ぎてみれば何をしたのか忘れてしまう。時間がひかからなくなってきているのかもしれない。礼拝出席を巡って大喧嘩した息子が礼拝に出ている。夕礼拝も終わり名古屋から帰ってきた長男と家内が神学校に帰ると家は静まり返る。
)春休みの預かり保育がある。子どもたちが元気に声をかけてくれるのは嬉しい。なかなか桜の蕾が開いてくれない。春はいっきにくるのだろう。幼稚園の書類を整理している。これから4月は申請のラッシュ。思うだけで疲れる。一日、かかり佐藤優氏の本を読む。勉強の積み重ねを感じる。龍谷大学の公開講座「親鸞と浄土教」を申し込む。学生時代から取り組んで忘れていた課題を深めようか。体調の悪い友人を訪問して一日が終る。
)ルターの本を読んでいると眠たくなる。勉強に向いてない脳の構造かと苦笑。
)都との耐震診断に関する話し合い。業者さんにも同行していただき最終の詰めをする。手際良い指導を受けてやっと了承をいただく。終わり。工事資金のことで私学財団事務所にいき交渉。これからいくつもの事務処理があると思うと気が重い。終わり。就活している青年と遅い昼食。フランスに留学し、有名校のK大だがそれでも就職は大変だと聞く。就活中の次男のことを思う。きっと苦戦をしているのだろう。もっとやさしくしなくては思うが出来ない。人の子の悩みは聞けても自分の子となると難しい。
)朝の祈りと飛び起きてみると今日から春休みに入ったのを忘れていた。昼は花壇の準備に入る。数年ぶりにレンタルビデオ屋さんに行き、2枚借りる。
)長男が初任地に赴くというので、いままでPCにためていた伝道牧会の資料をUSBに写し、見送りのときに餞別に渡そうと思うが、電車が事故で間に合いそうもなかった。が、やっと合えて見送ることが出来た。やっと巣立っていくが、やはり寂しく心にぽっかりと穴があく。思えば私は24歳で就任した。時は早い。仕事を終えて帰任されたK牧師宅で遅くまで話し込む。
)朝から激しい風が吹き一日中、家の中、部屋を片付けるのだがちっとも片付かずにいる。徐々に一部屋一部屋を片付けよう。今週も時が指の隙間から流れ落ちた。

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