2012年1月15日日曜日


天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

    マルコ1:9

【説教要旨】

 ルターは、洗礼について、「君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。」と言った逸話が残っています。洗礼を受けるとは、私はもう私自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなるということです。そういう意味で今日の主の洗礼という出来事は、私たちにこのことを語りかけていてくださっているのではないでしょうか。

人の子となれたークリスマスの出来事を通してーイエスさまが洗礼を受けるということは、イエスは、私たち人がどのような者となるかということを示しているのです。

イエスさまが、聞かれたように、私たちも洗礼を通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声に聞くという存在となるということです。ルターがいう洗礼をうけて、主のものとなっているのだということです。

洗礼を受けてキリスト者となっていくということは、この神の声を受け容れ、信じていくということですね。私が、


どんな人間であれ愛された者であること、神のみ心に適う者であるということです。

これは「天から」とありますように、一方的な神からの恵、贈り物なのです。自分が愛されているということはなんという平安でしょうか。それも神に愛されていることです。年の初めにあたり、私たちは今一度、「あなたはわたしの愛する子」という天からの恵に感謝しましょう。そして、私たちはこの神の愛、恵にすべてを委ねていく、主のものなのです。一人だに、神に愛されない、恵をいただかない者はいないということです。私たちの一歩を神の愛、恵みから初めるのです。自分が神さまに愛されている存在であるという信頼に徹底的に立つこと、この神の愛に支配されているのです。

自分が洗礼によってどう変わったかと問うより、自分がこの天の声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」をイエスさまとともに聴き、従うということです。むしろ、自分でも認識できないほど深いところで、自分の洗礼はわたしを支え、魂を支えているのです。起き上がりこぼしに据えられているような重心がそこにはあります。揺れても戻ります。それが今日のルターと元雇人の逸話になるのです。

自分が愛されているということを、または愛されているということに自分の重心があるのです。ルターは歴史の大きな流れに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけたとき、幾度も幾度も「わたしは洗礼を受けている」と書いたそうです。洗礼という揺れてももどる重心を持ちながら、私たちが揺れる中であなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたに違いありません。

ジャン・バニエという人が作ったラルシュ(箱舟)共同体があります。彼はカナダ総督の息子として生まれ、海軍士官になり、後にパリ大学で哲学を学び、トロントで哲学を教えます。そのころ親しかったトマ神父の影響を受け、哲学の教授をやめて、精神障害のある二人の方と生活をはじめ、この生活のなかで平安を得て、共同体を作っていきました。彼はこの共同体を通して、現代と言う時代をどう生きるかということを発信しています。彼がこう言っています。
愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを気づかせてあげることです。その人に向かって、「あなたが生きていることは素晴らしい。私はあなたが生きていて幸せです。あなたの存在をとても喜んでいます。あなたは大切な、価値ある人です」ということを伝えることです。
これが神の思いです。「私の愛する子」。
さらに次のように彼は言います。
人は愛されて初めて、愛されるにふさわしいものになります。そして何かができるようになります。積極的になります。愛されることによって、人はこの世界で何かを果たすことができるのです。
これが「わたしの心に適う者」となるということではないでしょうか。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この神の声は私たちにかけられており、私たちが一年を始めるに相応しい天からの声ではないでしょうか。
新しい年が始まりました。私たちはこの「天から聞こえた」という「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、高らかに私たちの歩みのなかで響き渡っていることを忘れないで、今年も神さまの子として、福音に生かされ、積極的になり、何かが私にはできるのだという確信と希望をもって、今年も兄弟姉妹ともに歩んでまいりましょう。
君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。
牧師室の小窓からのぞいてみると

以前から君が代斉唱起立、国旗掲揚に対する学校での対応を巡り、斉唱、起立に反対する教師に対して、処罰うんぬんが問題となっている。
その是非というよりもこのデリケートな問題を法であるから守らなければならないという搦め手のやり方が、力づくに見えてならない。弁護士出身の大阪の市長は、法律家出身らしく法によって処罰の対象とするという。法を力として、良心までも縛ろうとしているやり方に違和感を感じる。法は確かに守らなければならないが、法がもつ力の恐ろしさもあることに気づいて、法を執行してほしい。
今、私たちはどこかで強い力を待望している。確かに力は魅力がある。しかし、それは決して良い結果を生んでないことを歴史は教えている。力でなく相手を重んじる愛が歴史を切り開いている。愛を感じる感性こそ大切な時代ではないだろうか。
 

新米園長・瞑想?迷走記

今日はお店見学である。園児は近くの商店街を散歩して、実際にお金を使って買い物をするのである。みんなは寒い中を嬉々として散歩している。それぞれの店で目を輝かしてお買い物をしている。
しかし、商店街はシャッターがおりていて、子どもたちが立ち寄ることのできる店が毎年、毎年減っていっている。今年も花屋さんが閉店していた。子どもたちのお店見学は、段々と難しくなってきている。人の温もりを感じる商店を大切にしたい。私は幼稚園の購入の物を地元商店から購入することにしている。子どもたちが温もりを感じるお買い物が出来るために。

ルターの言葉から

「洗礼の賜物」



「洗礼は何をあたえ、どんな役にたちますか。」

「それは、神のみことばと約束とが宣べているように、罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し、信じるすべてのものに、永遠の祝福を与えます。」

(小教理問答書より)



ルターの逸話が多くある中で好きな話がある。

かつてウィッテンベルクのルターの家にひとりの貧しい女が召使として働いてが、この女はのちに堕落し非常に惨めな状態に陥った。ルターは彼女を訪ねて、なぜこんなになったかを尋ねた。「だんなさま」彼女は答えた、「私が惨めになったわけですか。私は神から離れて、悪魔に私をまかせたのです」と、そこでルターはいった。「それはいけないね。エルサ。いいかね。君はここにあるこのお金や書物や服をフロリンス君にくれてやることができるかい」「いいえ、それは私のものではないんですもの。」「そうだろう。できないね。君もそのとおりだよ。君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。だから、自分を自分でかってに悪魔にわたす権利はないんだよ。さあ、悪魔との契約を破棄なさい。そうすれば神さまが熱い火を悪魔の上においてくださる」と諭した。

洗礼は主のものとなっていることだという。ここに私たちの存在のすべてがあるのだろう。また洗礼の恵みがある。この恵みに気づき、常に恵みの洗礼が私たちを支えていることを忘れたくない。洗礼は、神が、あなたを救うために選ばれた救いの手段であるということを伝える逸話である。


大森通信    
 京セラの創立者の稲盛氏は、次のように言っている。人類が備えるべき思想の軸とは何か。宗教を信じる人
もいれば、信じない人もいます。だからキリスト教の思想でも仏教の思想でも、何でも構わないと思う。ただ、いずれにせよ大切なのは「思いやりの心」を持つことです。これは、仏教でいえば「慈悲」、キリスト教でいえば「愛」でしょう。このもっとも大切な心を人類はいま見失いつつある。だからもう一度、蘇らせる必要があるのです。そうすれば、われわれが抱えている問題の多くは、自ら解決へと向かうはずです。
・・・・・人類も、欲望をエンジンとした近代文明に別れを告げ、「優しい心」や「美しい心」をエンジンにした、新しい文明社会を作っていくことに努めていくことが、いま大切なのではないでしょうか。
今週、息子が牧師試験、牧師任用試験に合格して、4月から牧師になる。近代文明が大きく変化しようとしているとき、新しい生き方と宗教家は示していかなければならない厳しい時代を生きるのだが、稲盛氏がいうように「新しい文明社会を作っていく」人となる
ことであるという自覚し、宣教を担っていっ
てほしい。難しい時代の旅立ちだが、働き甲
斐のある時代への旅立ちだと大いに期待して
いる。
(大森日記)今週は、幼稚園も始まり、また総会資料も準備しなければならない日々であった。幸いにも先生方の働きに、信徒さんらの奉仕に支えられ日々を乗り越えていった。一人ではない。総会資料印刷に5時間をいただき感謝である。そんな日々に追われ、息子の牧師試験のことをまったく忘れていた。彼からの合格のメールで気づく。こちらは戸惑いしかないが、思いっきり頑張ってほしい。子育てはなかなかしんどいが、ひとつ仕事が終わったように思う。忙しい中、数冊の本を読め、感謝。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)幼稚園児が教会学校の始まる日を間違って、やってきて寂しくなり、大泣きをし始めた。泣く子をなだめながら家へ送っていく途中、いろいろな会話をして遊んだ。おかげでこちらが礼拝に遅れそうになりタクシーで。家内が初めてのオルガニスト、久しぶりで息が合わず、困ったものである。役員会で総会の準備。いつも思うのだが日本の小さな教会で必要なのだろうか。夜の礼拝後、誕生日の青年らと夕食を共にする。次の世代へのバトンタッチか。息子が礼拝に出席しておらず、これもいらいら。
)高齢者の方を訪問。いつも気になっているがなかなか全部をまわれずにいる。これもいらいら。横須賀まで足を延ばし、家内と散歩する。こういう時間もあとどのくらい続くのだろうか。三笠公園の横に横須賀学院があった。ここに召天した友人の牧師が教えに来ていた。ここでどう教え、思っていきていたのだろうか。親しい人は天に多くなった。
)幼稚園の三学期の始園式。風邪をひいて休んでいる子もいる。みんな元気で来てく ださいと願う。寒い。稚内の友人に寒中見舞いのメール。
)すべてが総会の準備に時間をとられる。うんざりかな。必要ない、それより祈ること。
)園児のお店見学の引率。可愛くてしかたない。それにしても歯が抜けるように店が閉店。来年はこられるのだろうか。今日は明日帰ってくる家内の夕食と思い名古屋の土手煮を作る。結果は、誰も手を出さず、一人で食べる。朝の祈り、聖書の学びと日常が帰ってきた。長男が牧師試験に合格というメールをもらう。すっかり試験のことを忘れていた。この4月から牧師かと思うとこちらの行く道を考えなければ。
)家内が帰宅する。息子に対してのこれまでの努力にご苦労様と言いたのだが、恥ずかしくて言わず、言葉が少なくなる。よくここまで育ててくれた。)総会資料の印刷で奉仕をいただく感謝。なかなか説教が出来ずに夜中、散歩に出る。帰ってみると次男が実習の制作をしている。きっとこれを言い訳にして礼拝に出ないだろう。考えるだけでも胃が痛くなる。朝、四時に完成。

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