2012年1月8日日曜日


ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。       マタイ2:12



【説教要旨】



 1月6日の顕現日に近い日曜日を顕現主日として、今日は、礼拝を守っています。それはもうひとつの古いクリスマスなのです。東方教会では、「大いなる新年」としてキリストの誕生日としてこれを祝ってきました。今日も東方教会の流れをくむアルメニア教会は、旧暦の1月6日をクリスマスとして、今も祝っています。

私たちは いつのまにか12月25日がクリスマスと思うようになりました。しかし、もう一つのクリスマスがあるのです。私たちの教会はローマを中心とした西方教会です。かつてビザンチウムを中心とした東方教会というもうひとつの教会の世界があるのです。今、私が見ている世界だけが世界ではないのです。多様化した世界があるのです。そして、そこでももう一つのクリスマスが祝われているのです。イエスさまの誕生がいくつかあるということは、それはいくつもの違う世界にイエスは生まれ、生きておられるということです。これはとても今日、大切になってきて


いるのではないでしょうか。イエスさまが生きて、命を与えて下さっている世界は自分だけの世界でなく多くの自分と違う世界にも生きていてくださるのです。

 今日は三人の博士の記事が読まれています。この三人の博士は、ユダヤ人でなく外国人です。この当時、外国人は救いの外にあると思われていました。この記事は、救いはユダヤ人という世界だけでなく、違う世界にまで及ぶということを私たちに教えていてくださるのです。

 主の救いのうちに世界は確かなものとされているということです。そして世界は互いに主の救いを分かち合う道があるということです。

新年にあたり思うことは多様の国々が主の救いのうちにあるという深い思いをするということではないでしょうか。今、世界は狭くなり国境を越えて人、物、お金が動くグローバルの時代にあります。「国家の品格」という本の中で、今日の潮流であるグローバル化から起きる危険性について、次のように指摘しています。「最大の問題は、グローバル化が世界をアメリカ化、画一化してしまうことです。これは経済の分野にとどまらず、必然的に文化や社会をも画一化してしまいます。」だからこそ私たちはこの多様な人、国を広く受け容れ、多元な価値を認めることがイエスさまのもう一つのクリスマスのメッセージではないでしょうか。

相手をいつもおかしいと決めつけ、認めず一つの価値観を力で制していく道は主のみ心ではありません。へロデはイスラエル最高権力者でした。彼は自分の力で王まで這いあがってきました。力こそ政治でした。彼の力がどんなに大きかったかはエルサレムの城壁をみると分かります。その石の大きさは他をよせつけない大きさです。ちょうど秀吉が大阪城を築いたような大きな石です。しかし、力がいかに醜いものであり、真実から遠ざかっているかをイエスの誕生物語は教えています。


さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」力の醜さを聖書は教えています。私たちは天使が、「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあるように私たちはヘロデのところに帰ってはいけないのです。力でなく平和の君として来られた救い主イエス・キリストに帰っていくことです。それはどんな人、国にも救い主として来られた方です。どんな人にも、国もイエス・キリストの救いのうちにあるのです。互いに認め、愛し合っていくことこそ私たちの道であることを今日のもう一つのクリスマスは教えてくれているのではないでしょうか。榎本恵牧師が「バタフライエフェクト」という言葉を紹介してくれています。アマゾンの熱帯雨林で一羽の蝶がはばたけば、地球の裏側では激しい嵐になる。自然界は複雑に均衡している。あらゆるものが相互に依存しあい、まったく関係ない小さな行為さえ、時間や空間を越えて大きな効果をもってくるというものです。

小さな者の、国の痛みは、やがて私たちの大きな痛みとなって帰ってくることを忘れずに、すべてに主の命が与えられているということを見つつ、相手を認め合うものでありたいものです。

またもう一つは、私たちの小さな力もやがては大きな力となるということです。ですから諦めずに「主よ、御国がきますように」と神の支配される愛の国が実現するように希望をもって今年も歩んでいきましょう。「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあるように世と違う別の道を選び取ってこそなんと幸いなことと言えるのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると



新年にあたり、再度、「国家の品格」(藤原正彦著)を読み直した。

グローバル化していくことは効率化、能率化していくことにはなるが、しかし、経済ということだけでなく、それは広く社会、文化、教育を腐敗させると彼はいう。「最大の問題は、グローバル化が世界をアメリカ化、画一化してしまうことです。これは経済の分野にとどまらず、必然的に文化や社会をも画一化してしまいます。」というように「画一化」、それは神のお作りになった秩序を壊すことになる。私は今の状況はあのバベルの塔の物語を想起させる。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

私たちは再びバベルの塔を作っているのではないだろうか。

 


新米園長・瞑想?迷走記



休み中、街を歩いているとつい小さな子供に目がいってしまう。うちの園の子どもではないかと。実際、数人、子どもたちと合って話をしている。山王だけでなく、こんなところでというところで会う。子どもに目がいくのは職業病かなと。



ルターの言葉から

外から見れば、ヘロデはまことに好運な、連戦連勝の強い王でした。剣を取って戦う時、全てはゆきました。また、賢い、機略に富んだ王であり、権力もあり、外国貿易によって栄えました。しかし、家にあっては、もろく弱い、不幸な人でした。このように、ヘロデは表面は好運で、内面はみじめな王でした。一方、私たちのまことの王キリストは、表面はまったく貧しく、みじめで、軽蔑され捨てられましたが、内面はまったく喜びと慰めと勇気に満ちておられました。

そこで私たちは、この世的に表面だけ好運なヘロデが、私たちから、まことの恵み深い王キリストを奪い去らないように努力しなければなりません。キリストは貧しい惨めな幼子として、飼葉桶に横たわっておられますが、私たちは、この方のところに行かねばなりません。

それゆえ、もしまことの幸福を願い、純潔で幸いな良心をもちたいと欲するならば、ヘロデ王の生活様式を捨て、もう一人の王キリストのもとに行かねばなりません。それは、私たちが、わざによって義認を求めたり、望みを働きのうちに置いたりするような高慢を捨て、なんのみせかけもなさらない、いつくしみ深い主キリストの姿のみを心の内に飾ることを意味します。三人の博士も、あらゆる人間のわざを捨て、人の助けをあてにせず、神のみ言葉に信頼して、ベツレヘムまで来たときに、すぐに星を見たのでした。                1521年の説教より

ルターは、「我、ここに立つ」と言って、主の言葉に信頼し、生き抜きました。この説教においても、私たちがどこに立つかということをはっきりと示しています。

あらゆる人間のわざを捨て、人の助けをあてにせず、神のみ言葉に信頼する


大森通信    

 宮田光雄先生が、「いま人間であること

ー大地震の災禍の中で考える」という文章の

中で、次のように言っている。

この文書は(コヘレトー「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。・・・・・・わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」)「懐疑の書」でもなければ、諦観的ニヒリズムの告白でもありません。この短い文書には、暗いトンネルをくぐり抜けるときに点在する信号灯のように、三十数回も『神』という名が出てきます。コヘレトは、地上的な人間がさまざまな形でー富や地位や力を求めー苦しむ営みを冷徹に見通し、厳しい言葉を発しています。それは《空しい》日常性から、いっそう《高次の次元》へと人間が目を開くことを促しているのです。・・・・・・・・・・日常を越える《いっそう高い次元》というのは、宗教的にいえば神への《祈り》であり、終末論的希望にたいする根源的信頼の表明です。・・・・・・・この信頼と希望に支えられるがゆえに、なおこの地上に踏みとどまり、新しい将来を形成するために働く勇気をもちうるのです。・・・・今回の大震災は、私たちに対して重大な警告を発しています。これまでのような政治、経済、社会の在り方を根本的に改革し転換しなければならない。そえは、現代文明そのもの構造改革を問うているのです。

新しい年を迎えて、私たちが、神の言葉に立つこと、「我、ここに立つ。」、ここを問われ、問い続ける日々でありたい。

(大森日記)除夜礼拝、新年礼拝と共に祈る幸いを得る。高い次元、祈りこそ。誕生日のS兄を訪問し、信仰の歩みの確かさを思う。手術前日、N姉を訪問し、祈る。「祈ってください」という言葉を強く感謝する。K牧師夫妻が訪ねて来てくださり、新年の挨拶をいただく。祈り、祈られての時間だった。そろそろ仕事も始まるころ、夫婦で湯治場に行く。そこで出会った方で、癌の手術をした奥さんを労わりつつ来られていたご主人の優しさに感動。今週も色々な方と出会った。主に感謝。  

  おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)除夜礼拝、新年礼拝と続く。新しい年を迎えて大きく世界が間違っている方向に向かっているように感じる。こういうとき私は何も出来ないもどかしさを思う。厳しい一年が待っている。私は どこに立つかである。神学校の試験を受ける兄弟と神学生の息子と飲み会。お金だけをおいて、二人で話させるために退散。出費はきついが。こんなときに金を使う。
)誕生日を迎えた高齢の方を訪問する。明日、手術、入院をなさる婦人のことばかり思って歩いているとばったりと道で合う。こういう偶然はある。気になる方がまだいるが解決の道を見出せなくている。
)息子と教会の木を剪定する。気になっている所があるが、なかなか体が動かない。明日、手術を控えている信徒さんを病院に訪問し帰ると、K牧師夫妻が来てくださり新年の楽しい時間をいただく。
)かねてよりの休み中の旅行を伊勢路にする。各駅停車で向かうが、電車の事故で予定が狂い、SLと温泉にして、大井川鉄道に変更する。その後、名古屋に入り、夕食に味噌煮込みうどんを久しぶりに堪能。
)朝から伊勢に向かう。雪もちらつく生憎の天気だが夫婦同伴で楽しむ。途中、タクシーに乗るが伊勢の歴史について運転手から聞く。こういう楽しみがある。各駅停車の旅で23時に東京に着く。明日からは幼稚園が始まる。旅の間に読んだ本が2冊。こういう旅だから読書が出来るんだろう。息子がガールフレンドを連れてくる。ひやひやである。
)今日から幼稚園。職員会議をして三学期の準備。都庁と建物改築についての連絡。午後からは信仰の兄が訪問くださり楽しい時間を過ごす。訪問。主日の準備をしていると一日をまたいでいる。明日は病院訪問、友人の展示会、総会の準備をしなくてはいけない。あっという間に時間は過ぎた。
)病院訪問、総会資料作りと続く。一週間が過ぎるが、どう宣教していこうかばかり頭の中を巡る。難しい時代だから「我、み言葉に立つ」である。

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