2012年1月1日日曜日


初めに、神は天地を創造された。      創世記1:1

                               

【説教要旨】


新しい年を私たちは神によって、開かれました。この初めの時の時は、数億年前に起きたということではありません。創造があって、時が動き出したのです。ここには、私たちはいません。ここにおられるのは神のみです。

「初めに、神は天と地を創造された。」とあるように、主語は私でなく神なのです。

ルターは小教理問答書で、「わたしは、神がわたしをすべてのものとともに造りたもうたことを信じます」と言っています。遠い過去の、神話的な、あるいは科学的な創造の話でなく、私の生存にかかわる神のみわざとして、信仰的に受けとめていくことです。神の主権を賛美し、神のみ手によって造られた私、世界を見、感じ、考えていくことを私たちは神に求められています。

今年もそうですが、多くの人が明治神宮、川崎大師、お伊勢さんにお参りをしています。それは、人間を越えたところで、何かが起きているという素朴な感情、信仰が出てくるのが元旦の神社への参詣ではないでしょうか。

コヘレトの有名な言葉があります。


彼は、一切は空であると断言しつつ、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」と記しています。空に見える世も、つまり時は神の創造者の中で作られていると。

創世記の天地創造の物語が語り始められたのはバビロン捕囚の時代である。奴隷として国家を失った時代、讃美歌459「バビロンのながれの ほとりにすわり 都を思って涙にくれた」にある時代を生きた。「空の空、一切は空」という毎日の生活の中でこの時の中にも神の強い意志と偉大なる知性が、歴史の中のすべてを造られている、時の只中に、中心に神がおられるというということを創造ということで信仰の告白をしたのです。

初めに、神は天地を創造された。

確かに神がおられるなら、なぜこんなことがおきるのかという悲惨な、不条理なことを私たちは、昨年の東日本大災害で経験しました。未だに人々の痛みが、悲しみが、苦しみが続いています。

社会もまた然りで、大きな時代の変革期にあって、いっきに社会は混乱してきています。不条理に満ちた社会があります。しかし、私たちはここにこの時にキリスト・イエスが来られる、そして私たち一人一人が新たに造られていく。

コヘレトは、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」と。「初めに、神は天地を創造された。」という神の創造にこそ私たちの希望があるのです。イスラエルは、国も亡び、人格も打ちのめされる奴隷の民となったとき、「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」神の言葉によってすべてが造られていくことに真理を見、希望をみました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、」無の世界でありました。


無の混沌とした世界から、神の言葉によってすべてが創造されていったように、つまり無から有なるものが起きた、私たちには何もない、無である。しかし、無は無のままでなく、ここに神の言葉が響き渡っている、そして、「光あれ」と神が言われたとき光が生まれたように、創造が起きるのです。

新しい年を一歩、踏み出した私たちが進んでいくこの「時」の船に、主が共にいてくださり、言葉をかけてくださいます。ここに新たな救いの創造をされていることに希望をもって、今年も歩みだしましょう。

初めに、神は天地を創造された。」という「初め」は、神の創造から起きているのです。この一年の初めのこのとき神の言葉がこの礼拝に語られ、同時に御手が私たちのすべてを超えて働かれているのです。

確かに東日本大震災は、私たちに神がいるならなぜという問いを今もなお問うことを迫ってきています。しかし、私たちはたとえ厳しいこの問いかけが突きつけられていても、私たちは見るのです。神の創造のわざが働かれているということを。それゆえに私たちは、希望に包まれ、前に向かうことができること、これが信仰です。

大きな課題が、今年も、一人一人、また教会に課せられる一年かもしれない、それを誠実に受け取り、み言葉が豊かにこの出来事の内に響きわたっていることを聞き、み言葉に立って、前向きに課題を担っていくものでありたいと心からいのりを合わせていきましょう。

初めに、神は天地を創造された。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。


牧師室の小窓からのぞいてみると

消費税値上げについて議論がある。朝日新聞は消費税値上げについえ、値上げそのものの有無より、しなければ国家破綻へと向かうと論説している。それは同時にこの日本がどのような国を作るかということが問われているのではないだろうか。

私たちが今、知りたく、求めているのはどのような国家を作るかという国家像ではないだろうか。

たとえ小さな教会であっても、私たちがどのような国家を作っていくのが、主の望まれる国家となるかということを発言し、訴えていかなくてはいけない。そういう意味でも教会は、世から問われている厳しい時にあると思う。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。                 マタイ5:13

 


新米園長・瞑想?迷走記


ポンプ室が壊れて、部屋にあった荷物を整理しなくてはいけなくなった。先生方に冬休み中にもかかわらず出勤してもらった。私が着任して、一度も見たこともなく、使ったこともない物はあるし、一番古い先生すら知らない物が出てきた。全部を部屋に出し、要るもの要らないものに分別すると、部屋いっぱいの物で足場のなかった部屋が整理されていた。

物を管理していくということがどんなに無駄をはぶくかという常識を再確認し、整理整頓が大切だというごく当たり前のことを確認した一日であった。

今年は、教会は60周年、物を整理し、新たな歩みの整えをしていかなくてはいけないと思っている。



ルターの言葉から

「信頼」



私は、天地の造り主、父なる神を信じます。私は、この世のだれにも頼りません。自分自身にも頼りません。力、技巧、財産、信心深さ、その他いっさい私のものには頼りません。・・・・また私は神にしるしや証拠を求めません。主を試みることを願わないからです。まことの信仰、信頼のうちにあって、神のみこころのうちに、すべてをゆだねるのです。

主が全能者でいますならば、主が私に何をも与えることもなすことも出来ないゆえに私が窮乏する、ということがありうるでしょうか。主は天地の造り主、万有の主でいましたもうならば、だれが私から奪ったり、私を傷つけたりすることができるでしょうか。あらゆるものを従わせ支配したもう方が、私に善いものを与えたもうならば、どうして万物が私に仕え、善とならないことがあるでしょうか。

使徒信条の要解より

ルターの時代も中世から近世へと大きな動乱期にあり、ドイツは宗教改革以降、国内に大きな対立ができ、戦いが繰り広げられていく。

時代の大きな変革期、動乱期にあって、ここを生き抜いた人物としてルターを見るとき、私たちは宗教臭いことから解放され、変革期、動乱期を生きた人として大いなる私たちに示唆をくれるのではないだろうか。

ルターの言葉ではないが、ルターの言葉として伝えられている「たとえ明日が終わりであっても、今日私はりんごの苗を植える」という言葉は、神への絶対信頼と未来への大いなる希望を生きることの強さを感じさせはしないだろうか。


大森通信    

   

神の望まれること



お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、

新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

  わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。エゼキエル書18:3132

教会は60周年を迎える。私たちは、この歩みに心から感謝をしましょう。

それとともに毎週、罪の懺悔とともに始まる礼拝にあるように、神のみ心をなすことができなかった罪を心から悔い改めていきましょう。

60年のこれからの歩みは、決して楽観できないものがあります。しかし、私たちは目に見えることばかりに一喜一憂するのでなく、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。」と言われる神のみ心が貫かれていることをいつも思いたいのです。私たちが教会を作り上げてくのでなく、神のみ心のうちに作り上げられていくという思いを強く持ちたいのです。

「新しい心と新しい霊を造り出せ。」と言われる主の言葉を味わう日々の営みでありたいものです。

(大森日記)礼拝後、クリスマスのお茶の会、中高生のクリスマス会と華やいだ一日だった。今週もしばらく来られていない方々に週報などを発送し、祈った。発送しながら教会の歴史を感じる。誕生日の方々を訪問したり、恩師の未亡人を訪問していると時間が足りなくなる。入院されている方もおられるが訪問出来ず、時間配分の悪さを思う。そうこうしているうちに一年が終わろうとしているし、苦しい年だった。新しい年を迎えようとしている。すべてに時があり、時宜に叶ってみな美しい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)昨日はクリスマス・イブだから今日は礼拝は少ないだろうと思っていたら、皆が揃ってくれる。嬉しい誤算である。クリスマスお茶会、中高生のクリスマス祝会と続く。その間、週報の発送などいつもと変わらないことも並行して行われる。息子が我儘から中高生の担当をおりる。困ったものだと思い、腹立たしくなる。命がけの信仰継承だ。一人は神学校に行くので男の担当者がいなくなる。

)幼稚園は冬休みだが、ポンプ室の後片付けに先生方に出勤をしてもらう。すべてを出して分別してもらうが誰も知らない物まで出てくる。ついでに資料室も片付けてすっきりする。片付かないのは我が家ばかりである。休み中には整理いていく予定(笑い)
)信徒さんの誕生日なので訪問にいくが不在であった。祈りのカードとケーキをおいて失礼する。夜は寒い。
)久しぶりに静岡の友人と会う予定だったが、財務委員会があるのに気づき慌てて、約束をキャンセルして、委員会に向かう。財政の厳しさは、教会の現状の厳しさを意味するが、すべてに時がある。時が良くても悪くても忠実にすることをしなくてはいけない。
)預かり保育も終わりホッとして、寝坊。今日は恩師の未亡人を訪問。最後は越谷のU夫人を訪問し、夕食を共にする。懐かしい時間を過ごす。私の若い時の写真をいただくが苦笑。
)今日も日頃、来ることが出来ない方を訪問している。そんなことで一日が終る。そんなおかげで移動中、本を読み2冊完了。それにしても今日は冷える。
2011年最後の日、今日も誕生日の方を訪問し、川崎からサッカーの応援で浦和まで行くが、間に合ったが入れず。その上、負けてしまう。要領の悪さをぶつぶつ家内が言うが、この頃、このぶつぶつが心臓に堪える。キツイ。一言も交わさず家に帰る。後、一時間で除夜礼拝。ここまでよく来ました。東日本大震災は、根底から考えさせられた出来事であった。もっと祈りを強め、学ばなければならな。昨日の延長であってはいけないと思い年を終わる。

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