2011年12月25日日曜日



言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。                                 ヨハネ 1:14                               

【説教要旨】
伝統的なクリスマスのメッセージです。そして今一度心を鎮めてこのメッセージをご一緒に聞いていきたいのです。

教会が教会として生き方をはっきりとさせようとした初代教会の信仰の告白にニケア信条があります。ここにイエス・キリストが「まことの神にしてまことの人」であると告白します。これは信仰の中心です。

今日の聖書の箇所はまさにこの信仰の告白の根拠となる、いわゆるキリスト教の信仰の中心を語っているのです。

ここで「肉」という表現に注目したいのです。それは神の存在に比べて死の陰にたち、罪の汚れにある弱くはかない人間存在をしめしているのです。プラトン以来の哲学、信仰は、この肉の束縛から解放されて霊の世界へ入ることを哲人として最高のものとして受け止めていました。神が、イエス・キリストが肉となられるということはまったく驚くべきことでした。神は、「言」であられるイエスにおいて、そのような人間的な弱さ、はかなさの極みに至るまで、

私たちと一つになられ、共に生きられたというのです。イエス様は、肉の罪、弱さを抱えた私たちを愛してくださったこれがクリスマスのメッセージです。

凍てつくロシアの地、クリスマスのとき一人の囚人、ドストエフスキー、彼はシベリアに送られる途中の留置所で肉となられたイエスに出会います。打ちひしがれて絶望にさいなまれた囚人、ドストエフスキーを看た看守は、こう語りかけます。「そこの若いの、辛抱しなけりゃあいけないよ。キリストもお苦しみになったんだから」、次の朝、教会の婦人がシベリアにいく流刑者を訪ね聖書を渡します。彼はこの一冊の聖書をシベリアの極寒の中で読みます。

「自分は、心打つ真実なもの。魂のそこから揺さぶってくれるもの。これと一緒に、立ったり倒れたり、生きたり死んだりしたい」と日記に記しています。

キリストは、肉のなかで罪と弱さに絶望しているもののところまで歩み寄って、きてくださる。共に歩み、支え、道を開いてくださるのです。実は人間が罪深く、弱くはかない極みに立つことは絶対なる神の憐れみに出会うことです。

肉となられたイエスに出会うことは現実を越えていきます。現実だけみるなら絶望しかない、諦めてしかないかもしれない。しかし、この現実にイエスがお立ちになられているとしるとき「自分は、心打つ真実なもの。魂のそこから揺さぶってくれるもの。これと一緒に、立ったり倒れたり、生きたり死んだりしたい」という力強さを回復していくのです。

わたしたちの間に宿られた。」という言葉ですが、「天幕を張った」という直訳です。遊牧民が天幕をはりながら旅をし、生活をしたように、イエスさまが人生の旅にあって一緒に天幕を張り、生活してくださいます。私たちは一人ではない。孤独ではない。

「そこの若いの、辛抱しなけりゃあいけないよ。キリストもお苦しみになったんだから」とドストエフスキーに語りかけ、慰めを与えてくださる言葉は、神の言葉であり、私たちにも語りかけられています。

恵みと真理とに満ちていた。」と結んでいます。イエスが肉となられること、クリスマスのメッセージの中心、その意味は、神の恵みと真理が私たちのうちに満ち満ち溢れているということです。ヨハネにおける真理とは愛です。ですから神の恵みと真理、つまり愛が満ち満ち溢れているということであり、私たちはこの内をいきているのです。

人間の罪、弱さ、はかなさの極みを生きたイエス・キリストでした。しかし、そこに隠されている真実を信じる私たちは、ここに栄光を見るのです。「わたしたちはその栄光を見た。」とあるように。

私たちはまたこの栄光の光に導かれ、希望を与えられ、前進していく強さも与えられていくのです。

今、2011年も閉じようとしています。今、社会は根底から変化しようとしている時代にいます。国も文化も人々も絶え間ない変化の渦を生きている。また東日本大震災は私たちの存在を揺さぶりました。しかし、変わらない、揺らぐことのないものがある。「まことの神にしてまことの人」であるイエスさまが恵みと真理、愛をもって今日も私たちと共にいてくださる。この方の思いがけない訪問こそクリスマスです。この恵みと真理・愛に感謝して、歩みを共にしたい。聖書の言葉を思い起こしたい。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

牧師室の小窓からのぞいてみると

貧困問題について、「食料支援 寺院の力に期待」という記事が目に留まった。貧困社会が自分たちの身近なものとなっている時代に、貧困問題がもはや、行政だけにまかせられない状況にあることを指摘しつつ、フードバンクに協力している寺院の紹介があった。お供え物をおすそわけする運動が始まったという。

「全国の寺院は約七万五千で、コンビニの数より多い。ほんのわずかでも力を貸してくれるならば、社会のセーフティーネット(安全網)に厚みが出るに違いない」と記している。

「フードバンク発祥の地・米国ではキリスト教の教会が食料支援の重要な役割を担っている」と紹介されている。教会こそさらに取り組んでいく課題ではないだろうか。「暗い夜に み子が生まれた、部屋がなくて うまやの中に 神さまは貧しさを 家とされた」と讃美歌にある。


新米園長・瞑想?迷走記

冬休みが始まったが、預かり保育の子どもたちがやってくる。補助の宿直の先生が来ないとき、私は保育室を出来るだけのぞいている。そして子どもたちからいろいろなことを教えられている。R君が弁当のふたをなかなか開けずにぐずっている。なぜぐずっているか分からない。なだめてもだめである。そこで傍らに寄り添い、ぐずるにはぐずる原因があると思い、いろいろと思いめぐらした。時間を巻き戻して弁当を出すところから考えてみた。用意を急ぐあまりこちらが手を出し、R君なりの弁当用意の儀式を壊したのではないかと思い、初めからゆっくりとやりなおしてみると顔が笑みに。泣いたカラスがすぐ笑った。



ルターの言葉から

「クリスマス・ツリー」

「わたしは生きるので、あなたがたも生きるからからである」(ヨハネ14・19)と言う神をわたしたちは希望するゆえに、悲しみより喜びに出会う機会が多い。



ルターはどこでも創始者という顔を覗かせる。今、一般化しているクリスマス・ツリーもルターの考案だと伝えられている。クリスマスの前夜、森の中を歩いているとき、樹間からもれてくる星の美しさに魅せられて、もみの木を持ち帰り、これに何本かのろうそくを立て家族とともに祝ったと伝えられる。こうしてドイツではもみの木に飾りをつけて祝う習慣が生まれた。ヴァイナッハバウム(聖夜の木)と呼ばれるものである。

ルターらしい逸話である。「信仰によって義とされる」というルターの信仰は、「神をわたしたちは希望するゆえに、悲しみより喜びに出会う機会が多い。」という表現になるのだろう。彼が「悲しみより喜びに出会う機会が多い。」というとき実は彼はまた人を喜ばせる人ではなかっただろうか。喜びに支えられながら人を喜びに導いていくという彼の天性は、森を歩いているときも、そこで感動した喜びを、人に伝えたいという強い思いが具体的にヴァイナッハバウムという形になったのではないだろうか。

100年後、清教徒革命がイギリスで起こる。彼らはこのルターの精神をまったく壊してしまう。「クリスマス反対、クリスマス反対」と叫び、「一般にクリスマスと呼ばれる日があるが、いかなる祝いごとをしてもならない。クリスマスを守ってはならない。教会はこの日に関するいかなる行事・式典も執り行ってはならない」という布告をした。

大森通信    

   

クリスマス・プレゼント 2
 

沖縄石垣島に住まいを移されているT先生     が久しぶりに清水の家に帰られているという話をうかがう。ぜひお会いしたいと電話するとお忙しい中を会ってくださった。食事をしながら二時間あまりの時だが、実に慰めに満ちた時であった。先生は不思議な人で、考えを違っている人でも友だちにして、人の壁を取り除いてくれる。先生といると不思議と力がぬけて、温かな時間を過ごせる。失礼だが、許していただけるならトルストイが、ロシア正教会が理想とする本当にばかになれる人だ。これからクリスマスの忙しいとき、まっしぐらに進んで、力む私の力を抜いてくださった。すばらしいクリスマスプレゼントを神さまが用意してくださった。

こんなに自由に生きている人の傍にいつもおられる身近な人は苦労がたえないだろうと思うが。

帰りの車中で「いねむり先生」という私小説を読んでいた。「妻の死後、ボロボロになっていたボクに先生は言った。『大丈夫。もう大丈夫だよ』」、こんな温かい言葉かけをする小説の主人公とダブらせていた。

(大森日記)礼拝後、クリスマス祝会を子どもたちも加わり楽しい時間を過ごすことが出来た。この頃、教会で持ち寄りが難しくなっているが、無理せずに大切な食事の交わりをしていきたいものである。幼稚園は休みに入ったが預かり保育があり、こちらは不測の出来事に備えておかなくていけない。案の定、水を汲み上げるポンプが故障をする。こんなものだと思いつつ、無事に対処する。クリスマス・イブの準備はほとんどみなさんがしてくださりホッとしている。イブ礼拝は冬の凍てつくときに、星に導かれるように礼拝堂いっぱいになり、共にご降誕を祝う。主がともにおられる。クリスマスおめでとうございます。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)クリスマス祝会、私も二品料理を出す。だんだんと持ち寄りも難しくなってきているが出来るだけ続けたい。食事は教会にとって大切なことであり、力だと思っている。楽しいひと時を過ごすことが出来た。クリスマスへ向けて一週間が動き出す。
)幼稚園は冬休みが始まったが、預かり保育が始まる。子どもたちがやってくる。私には休みはない。)沖縄・石垣からT先生が清水に来られているので、清水にお会いに行く。今度、いつお会い出来るか分からない。機会を逃してはいけない。青春切符で生き返り。長い道中は本を読んだり寝たり。とりとめもない話を二時間ぐらいして、帰る。会いたいと思ったとき会っとかなくては後悔してしまう。
)預かり保育があるのだが、宿直の先生がいない。そんなとき園長が手伝う。でも楽しく子どもたちから色々と学ばされる。汲み上げポンプの音の調子が悪いのが前々から気になりポンプ室を夕刻、見ると水漏れをしている。明日は保育があるがどうしようと思いつつ、まずは元栓を止めて、寝る。こういうときに限ってトイレに行きたくなる。
)朝、起きて保育をどうしようと思うが、さてどうしたものかと考えていると、             一年前、水道工事をしたことを思い出し、ポンプがなくても水は上がったとことを            思い出し、バブルをいじくり、どうにかしのげた。保育も無事にできる。牧師は何でもするものですと言われたが。今日の終わりは、真向いの酒屋さんから勧められた会津娘という酒を飲み、酒の肴に白菜豚を。一杯がいっぱい飲むことになった。
)クリスマス・イブの準備をするがほとんど終わっている。こんなときに何かがぬけている。教文館へ最後の買い物。有楽町で園児に会う。クリスマスイブのお茶会のことで、一言あると電話がくる。委員が決めてやっているだけど任せられないようである。教会のことを思って一言だと思い聞き、どちらに転んでもよいように準備する。
)クリスマス・イブ礼拝、会堂いっぱいの人である。お茶会も手作りのケーキでいっぱいとなる。ほとんどを、人知れずに家内が用意している。出来た嫁である。私には怖い重い人だが。次男が礼拝に出れないと言う。それなりの覚悟をして行けというと遅刻して恋人と来る。いつも彼と遣り合う。胃が痛い。

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