2011年12月11日日曜日


あなたはどなたですか。

                 ヨハネ 1:19                   


【説教要旨】


「あなたはどなたですか」と発せられた問いは、同時に洗礼者ヨハネにとって、「私とはなにか」という問いになってくる。それが信仰の道であり、生涯をかけて問い続けていくことではないだろうか。

異端宣告を受け、それを火に投じたルターの行為は神聖ローマ帝国の秩序を乱すものとして、ウォルムス国会に彼は召還されます。厳しくルターの考えを捨てるように要求されますが、彼は強く拒否し、有名な言葉を残します。

「ここに、我、立つ。かくせざるを得ず。神よ、我を助けたまえ。アーメン」

ここでルターは、「私とはなにか」という答えを出しています。ここで大切なことは、「ここに」という言葉です。それはウォルムスという具体的な場所であります。しかし、「神の前に」立つという私がルターの私です。すべてのこと、出来事が「神の前に」あることであるとルターは言うのです。


ヨハネ福音書で注目したい言葉があります。「さて、ヨハネの証しはこうである。」という言葉の「証し」という言葉です。次に「質問させた」とあり、「公言して隠さず」、「言い表わした」という言葉が続きます。これらは裁判用語です。

「あなたは誰か」と厳しく問う、そして「私とはなにか」と答えざるを得なくなってきている。

ヨハネの答えに注目したい。「私は・・・である」という言葉でなく、「私は・・・でない」ということで自分を示していく。自分を否定していくことによって自分が何であるかということを示す。

さて、最後の振り絞るような詰問、「あなたは自分をなんだと言うのですか」という問いに「私は荒野に叫ぶ声である」と始めて、「私は・・・である。」と表明します。「叫ぶ声」、それは今日の日課を括っている言葉、「証し」をするという言葉そのものです。

では、「証し」すると言う言葉を注意して読んでいきますとヨハネ福音書では、「イエス・キリストは誰だ」という場面でしか使われていません。「私は・・・である」という自己表現は、「イエス・キリストは誰である」ということを示す時に、「私は・・・である」ということがはっきりと分かってくるのです。ルターが「神の前に」立つことによって自分を確立したように、神の前、イエス・キリストの前において自分が何者であるかをはっきりと知らされるのです。

洗礼者ヨハネは、「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」言います。

ここでイエス・キリストを示し、「履物のひもを解く資格もない。」という。それはイエス・キリストが自分を生かし  

てくださらないならその働きもないと言うのである。しかし、彼は「主の道をまっすぐにせよ。」とあるようにイエスさまが来られるために準備する存在であるというのです。

「私は何か」という問いは私たちが生きる中で問い続けるものです。しかし、それは、「神の前」において私たちは問い続けることであり、神の前に立つとき、私という存在がはっきりと分かるのです。

洗礼者ヨハネが、示したように「私たちが・・である」ということは、「証し」、「キリストは誰である」ということをはっきりと声にしていくとき、自分が何であるかということをはっきりと確立することができるのです。そこには、自分が何であるかという恐れが、証しするイエス・キリストの中に飲み込まれていきます。

 ルターがウォルムスの国会で自分の主張を撤回しなければ死刑になることを覚悟しながら、なおも撤回しなかったのは「ここに」という場所、神の前において自分が何ものであるかということをはっきり知っていたからです。クリスマスは、イエス・キリストの前に立つことであり、「私」の本来の回復がなされるときです。

 クリスマス、それはヨセフ、マリアが、三賢人が、羊飼いが幼子イエスの前に立ち、証しを立てたように、自分をイエス・キリストの前に立て、イエス・キリストを証したいのです。消え行く自分の声です。しかし、「イエス・キリストこそ救い主」と証しを打ちたてていきましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると



脚本家、倉本聰氏が、「高校生のころ、本当にうちは悲惨な状態だったんです。そういう時におふくろがお年玉でくれた500円札は、どうしても使えなかった。他の500円札は使えるのです。でもおふくろの500円札は、500円を示す紙切れじゃなくて、もっと大事なものとして自分の中にはあるわけですね。愛情が注がれているから価値が上がってくるんですね。その部分をTPPも今の政治も忘れちゃいないかって気がします」書いている。

聖書の金持ちと貧しい女性のレプタの献金の物語を思い出した。物には心がある。心は物で量ることが出来ない価値が付与されている。「愛情が注がれているから価値が上がってくるんですね。」を感じる感性を失いたくない。

同時にすべてにおいて、愛情を注いでいく感性も持ち得たいものである。

 


新米園長・瞑想?迷走記



子どもたちが、降誕劇の練習に励んでいる。年長になると劇の役を自分たちで決めていくようにしている。

今回は、ヨセフ役、マリア役を最後まで、自分がしたいと言って互いに譲らない。役になりたいみんなで話し合って決めていくように私たちは最後まで見守るだけであった。実に大人顔負けのおもしろい駆け引きをしている。最終的には、くじで決めることになったのだが、誰が一番に引くかということで次に話し合いとなる。そんなこんなしていくなかで役が決まっていった。

きっと、くじにはずれた子どもたちは結果には、満足はしていないだろうが、人生の過程でひとつの貴重な体験をしたのではないだろうか。



ルターの言葉から

          

しかし、信仰は目に見えるところ、手の触れるところにかかわりなく、ひたすらにみ言葉によりすがります。博士たちは気落ちしました。腹をたてました。彼らは新しい王を見つけるという期待に燃えて、旅にのぼったのでした。それが何のかいもなかったのです。福音書記者の「彼らはその星を見て、非常に喜びにあふれた」という言葉のうちに、それ以前の彼らの落胆のほどがありありとうかがわれます。言い換えれば、「星が見えなくなったとき、彼らは大変悲しく思ったが、星が再び現れたので、『やっぱり、み言葉は正しかったのだ。騙されたのではない。』と非常に嬉しく思った」と書いてあるようなものである。私たちも同じように、み言葉に固くよりすがらねばなりません。

博士らはこうした内的な戦いを経験したのでした。・・・・・・・・・霊的な戦いを経た人には、神はいかにも身近に確かに感じられますので、苦しみも戦いもあとかたなく忘れられるだけでなく、神に親しくよりすがることが出来るようになるのです。彼は強きものとなって、もはやキリストの低さ、卑しさにも躓かなくなります。城キリストを見出そうと望むものは、あの博士たちが星を見失ったときに感じたように、ただ汚辱のみを見出す覚悟でいなければならない。こう悟るようになったからです。星が再び見えだしたときに博士たちが示した喜びはまた、彼らの驚きをも物語っています。苦しい戦いを通じて彼らは、喜びについても新たに生まれ変わった者となり、もはや二度とキリストに躓かなくなったのです。

                             クリスマス説教より

 ここにルターの信仰の捉え方が表現されている。「試練」というものが、神を己の近くで信仰者が感じ、神によってその困難さを超えていくことが出来るという事実が与えられるというのです。



大森通信    
   クリスマスの季節
初任地の別府でクリスマス・クランツ作り、    リース作りからクリスマスが始まった。
クランツ、リースと言われても何だか分か     らずにいた。当時、クリスマスといってもせいぜいクリスマスツリーだけであった。しかたないので一年前の写真、本を見ながら四苦八苦して作ったことを覚えている。あれから30年、教会だけでなく教会外でもクリスマス・クランツ、リースは誰もが知るところとなっている。店先で売られているリースは、私が作ったものより雲での差で、綺麗である。
もう、クリスマスは教会の行事を超えて、世間一般のごく当たり前の年間行事になっている。これからも分かるように時代は大きく変わったということである。でも変わらないことが一つある。日本文化の特徴、外から文化を取り入れるが、その中身を腐らせて、まったく違うものにするということである。小学校の掲示板にクリスマスはギリシャ神話の・・・と見たとき、苦笑いしまった。もうクリスマスは正確にはこの国では伝えられていないようである。


(大森日記)昨年は、この時期に東北新幹線が全線開通して、「東北への宣教は、届いていない。宣教が停滞する中で、開拓伝道の夢を持ち続けたい。」と書いた。まさかあの大地震が起きるとは予想だにしていなかった。数年ぶりにコンサートをして、震災被害地への募金を募った。これからも地道であるが宣教も、献身献財も続けていきたい。このために奉仕くださったみなさんに感謝している。幼稚園の園長会があり、来年は補助金が厳しいと聞く、法人税が区に入ってこないということであり、震災の影響によるということであった。今週も庭に落ち葉を残し、子供たちと自然を楽しんだ。今週もいろいろとあった。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)礼拝の第1週は聖餐式のため、自然と出席が多くなる。主にあるとういことが見えてくる聖餐は毎週、行いたいのだがなかなか理解されない。役員会、女性会、壮年会のクリスマス会、夕礼拝と続く。そんな中で次男がするりとぬけて礼拝をサボる。これが胃の調子を悪くする。家内がまた一言も注意しない。これもまた胃を痛くする。
月)胃の膨張感が治まらないが、お腹はすく。季節の変わり目、よく起きていたのだが、しばらくはなかった。毎年この季節、ベイントンが編集した「ルターのクリスマスブック」、ルターの「マグニフィカート」を読むが、こんなとき読むが頭に入らない。夜から調子も良くなったとき財務委員会。もう十年近くやっているがもぐらたたきのようにきりなく課題がでてくる。財務は教会の宣教があって初めて成り立つが、牧師のなかで金のことは牧師と関係ないとうそぶくのを聞くと宣教は?と切り替えしたくなるが、この頃ろは大人しくなって言わないことにしている。
)胃の調子がまだ治まらない。とうとう病院に行く。専門医へ行ってくださいというが自立交感神経が狂っているのが分かっているので、行くのがおっくになる。夜は首都圏のルーテル幼稚園、保育園のクリスマス会。名古屋でお世話になった幼稚園に送る80個のマフィーンを取りに家内のところに行こうとするが四谷でダウン。
)幼稚園が終わり、再度、家内のところに行こうとするとそこの園長の義母が百歳で亡くなられたという葉書をいただく、偶然だけだろうか。無事に届けることが出来た。腹は空くのだが。
)朝の祈り、今回は庭を掃除しながら人を待つ、誰も来ないところでも、外で祈りをささげる。祈ることが多い。土曜日に家庭訪問に遠くに出かけるので今日ぐらいまですべてを終えていなければいけないのだが、調子が悪く気が起きない。こういうときは寝るに限る。
)家内と次男のためにシチューを作りながら、今日こそ、明日の訪問へ向けての準備。クリスマスの準備で銀座に買い物に行く。途中、家内と銀座を散歩。クリスマス一色。ひばを使ってデコレートしている店があり、さすが銀座と思う。
11時から21時まで家庭訪問。早く訪問しなければならないのだが、やっと叶う。感謝である。

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