2011年12月18日日曜日


我らの歩みを平和の道に導く。

                 ルカ 1:79                   


【説教要旨】


私たちは、信仰を生きるということを日々、問うてきました。

しかし、社会の構造自体が大きく変わっていく時代にあって、世にあって、どう私たちは生きたらよいかということを真剣に問われている時代にあって、信仰を生きていくということについて真剣に問うて生きる時代です。信仰が試されている時代に私たちは今、いるということです。

信仰の詩人、水野源蔵さんの「聖夜」という詩があります。

夜空に輝くあの星よりも

小さな 小さな この地球の片隅に

お生まれになられた    み子イエスさま

無数の星が輝き無限に広がるこの宇宙よりも

大きな 大きな神さまの愛

今日の聖書を読んでみますと「これは我々の神の憐みの心による。/この憐みによって」とありますように、私た


ちの存在は、水野さんの聖夜の詩にあるように「大きな、大きな、神さまの愛」によるのです。ここを私たちが試されているのです。

ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。 」(ルカ1:18)というように、私たちが現実にかえるとき、イエスの大きな支配、愛の支配へ懐疑的になる。こういう心、じつに暗い心があり、現実に押し潰されていきそうな心があるのではないでしょうか。本当のところ今にまた将来に希望をつなげないそういう気持ちが私たちを覆っているのではないでしょうか。より現実的になり、何が神のみ心であるかということに立てない自分がいるのではないでしょうか。だから私たちは問うのです。ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。 」。信頼できずにいる自分、そこには沈黙が待っています。

ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。

神の前に立ちながら神に信頼できずに沈黙しかなかった。しかし、神は彼を沈黙のままにしておきませんでした。

あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。

この事とはなんだろうか。洗礼者ヨハネの誕生であり、ヨハネが指し示すイエス・キリストの誕生の出来事である。今、ザカリアは沈黙を破り語ります。

われは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

私たちの現実は実に愚かで、力が闊歩しようとしている。しかし、私たちは力ではどうしようもできないことも知っているはずである。しかし、弱く、神の言葉に立てない私たちはまた繰り返すかのように罪の中に入ろうとしている。しかし、「この出来事」・・イエス・キリストの誕生は、

われは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、」とあるようにたとえ闇のような世界でも光に照りだされているという勝利があるが、力が闊歩して弱きものを踏み倒そうとするとき、ここに「我らの歩みを平和の道に導く」、お方がおられる。力、戦いでなく平和であるのです。平和の道へと導かれている主が今、いたもうのです。

 水野源蔵さんの「聖夜」で詩うのです。

夜空に輝くあの星よりも

小さな 小さな この地球の片隅に

お生まれになられた    み子イエスさま

無数の星が輝き無限に広がるこの宇宙よりも

大きな 大きな神さまの愛

この大きな大きな神さまの愛に私たちは導かれているのです。確かに私たちは誕生のイエスさまのように小さな小さな存在であります。しかし、主はザカリアを目覚めさせて、沈黙から真理を伝えさせたこの言葉に私たち生きていきます。

われは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

今、時代の大きな波が、小さな私たちの生活を脅かし、飲み込もうとしています。しかし、私たちに与えられているのは、「我らの歩みを平和の道に導く。」という神のみ言葉、真理です。「これは我々の神の憐みの心による。/この憐みによって」生きるのが、私たちなのですから。


牧師室の小窓からのぞいてみると



陸前高田市の7万本の松は津波で倒され一本だけ残された松も根が枯れて立ち枯れていった。その松ぼっくりの種から芽が出て、18本の苗が育っているという。

命が繋がれていっていることに感動している。親の松は樹齢270年だという。親のように立派になるには3世紀がいる。

今、私たちの教会は、信仰の継承だということが言われて久しい。信仰は継承されていくだろうが、私たち日本の教会が、主の教会となるには数百年の時が必要ではないかと思う。たかが100年のルーテル教会はこれからも紆余曲折があろう。しかし、焦らず、長い目で教会が成長していく夢を見ていきたい。

使徒言行録のペテロの説教「老人は夢を見る」という言葉を思い出している。

 


新米園長・瞑想?迷走記



降誕劇を発表する日、多くの保護者をお迎えして、楽しい時間を過ごした。

天使の役を可愛らしく、そして堂々とこなしたRちゃんは、はにかみ屋さんで、運動会もかけっこが先生と一緒でないと走れなかった。その姿を見て、お母さんは涙ぐんだと言っていた。

反省会で担任は、「子どもたちは一人で成長するんだと分かりました。」と謙虚な美しい言葉を語ってくれた。

それぞれの子どもたちに成長を感じた降誕劇であった。降誕記事のザカリアの預言、「幼子は身も心も健やかに育ち」とあることが、降誕劇で成就しいのだと思う一瞬だった。



大森通信    
   
クリスマス・プレゼント

幼稚園が金曜日で二学期を終わって、冬休みに入った。その朝、T君のお母さんから嬉しい話を聞いた。
T君は、大きくなったら幼稚園の先生になりたいという。なぜなら先生たちが楽しそうに働いているからだという。
子どもの目からみて、先生方の働きが楽しく見えるということは、すごいことだと思う。学期末にあたり最高の評価を受けたと思う。良い仕事をしている。
それは、また、私たち教会が大切にしている宣教の業としている幼稚園の働きへの嬉しい評価ではないだろうか。いつも祈りの内にみなさんが、幼稚園の業を覚えてくださり、運営委員、役員の方々が具体的に関わってくださったからと思う。
幼稚園の先生になりたいと子どもたちはよく言うが、先生たちが楽しそうだからと感じてくれる幼稚園を与えられていることは最高のクリスマス・プレゼントではなかっただろうか。


(大森日記)教会学校のクリスマス会、子供が多く集まってくれて、楽しい時間を過ごす。パソコンが壊れ、慣れない幼稚園の新しいパソコン使用に疾駆八苦。さらにメールが使えず不便極まりない。回復したのは土曜日の朝であった。文明の利器に振り回されていた。今週は幼稚園のクリスマス行事が重なっていた。特にクリスマス聖劇があり子どもたちがうまくやってくれるかどうか心配だったが、子どもは成長し、それをみる喜びを与えられた。子どもの成長に関わる教会の業の大きさを思うとき、責任の重さと感謝を思う日々であった。一方、社会には不安が満ちて押しつぶされそうになる時を生きている。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)礼拝前にいやなことを聞くが、こういうことはよくあることだ。説教をしつつ、自分が悔い改めていくしかないと思う。パソコンが壊れ1週間になる。メールも使えず困っている。こんなときもあるんだと受けとめるしかない。教会学校のクリスマス会、65名の保護者を含めて出席してくださる。役員会後、パソコンを買いに行き、メールの復活をお願いする。痛い出費だった。しかし、凄い時代になったもんだ。ついていけない。さりとて消えることもできないし昔に帰ることもできない。
月)また食道の調子が悪い。声ががらがら。何を食べても不味い。今日は幼稚園のクリスマスランチ、こんなご馳走だが子どもらは残す。もったいなくて無理に残したものを食べる。夜は7年ぶりに中国から帰ってきた大分の友人と飲む。離婚して一人暮らしだと言う。7年、物語はあった。結婚はしたくはないが、心許せるパートーナが欲しいという。
)どうも鬱になりそうな状況にある。新聞をみると鬱の特集がある。教会ももっとこんな働きが出来ないかと思う。今日も相談があるということで友人と会う。みんな人生の曲がり角に立っている。祈るしかない。
)幼稚園では降誕劇のリハーサル。先生方も熱が入ってきた。力みをとらなくてはいけないと冗談を言うがすべる。先生方一人一人と面接。ただ感謝の言葉。雑誌を読む。テントメーキングパスター、労働牧師について記していた。一考ありかな。いろいろな生活形態があってもいいように思うが。
)幼稚園は降誕劇の発表会で緊張が走る。子どもたちはそれぞれの思いをもって演じてくれた。泣いている親もいた。家内が先生方、10人一人一人のためにクリスマスのケーキ、クッキーを作ってくれて届けてくれる。感謝の一言。
)今日も何もしたくないが、礼拝、終了式、給与の準備、職員会議。調子が良くない。去年と同じ。保護者から、子ども幼稚園が大好きで休みの日も来たいとか、お父さんはお医者さんで先生だがいつも疲れているが、幼稚園の先生はいつも楽しそうだから幼稚園の先生になりたいと言われ嬉しい限りである。
)パソコン回復。家内と銀座に散歩。明日のクリスマス会の一品を作る。

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