2012年4月22日日曜日

2012年4月22日


「わたしたちも一緒に行こう」
ヨハネ21:3

【説教要旨】

花が上を向いて咲いている  私は上を向いて寝ている
あたりまえのことだけで 神さまの深い愛を感じる
これは星野富弘さんの詩です。私たちはどこを向くのかということを復活の出来事を通して私たちは知らされていくのではないでしょうか。
今日の聖書の日課にある物語に由来する教会がガリラヤ湖にあります。その床に魚とパンのモザイク画が描かれていたのが印象的でした。ヨハネ福音書は20章で終わっているはずなのですが、ペテロを中心として、ガリラヤでの出来事の一章を加えて復活の物語を展開しています。
エルサレムにおいて、二度、復活の主とお会いしていたのにもかかわらず彼らはなんとなくはっきりとしていません。ここで主は、弟子たちにどこを向くのかということを示されています。
彼らはもとの仕事である漁師にもどろうとしています。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。』
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え
なさい。という主の言葉はどうなっていったのでしょうか。
わたしは漁に行く」ということは、主のお言葉に反するではないでしょうか。私たちは「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。マタイ4:19」という主のお言葉を思い出しませんか。彼らは復活した主にお会いしたのにもかかわらずまだ主のお言葉と反している。しかし、確実に主は、人の思いを超えて、人のなす業を超えて、弟子に約束されたことが成る準備をしていてくださいます。「人間をとる漁師になる」とは言わないで、「人間をとる漁師にしよう」とあるように、人間をとる漁師に、私たちを主がしてくださるということが準備されていっていることがわかります。
 「わたしは漁に行く」とあるようにペテロらは、その日の糧を求めてでかけました。しかし、聖書は「しかし、その夜は何もとれなかった。」と記しています。彼らはその日の糧を得ることが出来なかった。食べるものがなかった。しかし、主は彼らをほってはおかなかった。「イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
復活の主は、私たちの生活の場にきてくださる。「子たちよ、何か食べる物があるか」、主は語りかけてくださる。そして指示してくださる。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と。主に導かれた私たちがいる。私たちの食べるという最も基本のところに主も生きてくださる。生きた主に気づく。「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
ペテロは気づくのです。またやった。自分の弱さ、主に促され、支えられて生きている自分に気づいていない罪のうちにいる自分に、それ以上に「すべての人の中で最もあわれむべき存在」であることに気づくのです。
しかし、主は、弟子を顧てくださいます。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」朝の静かな湖畔で、決して豊かといえないけど、しかし、日毎の糧が用意されている。体を温める暖が用意されている。この主が私たちとともにおられるのです。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
自らの弱さを自覚し、悔いている弟子の姿があります。それを赦し、主の弟子として出発すべき温かく愛に包んでくださる主の姿を読み取れはしないでしょうか。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と弟子らを整えてくださろうとする主のみ手を感じます。
わたしたちも一緒に行こう」、それは弟子らが仲間を作って出かけていくのですが、弟子の、私たちの人生を一緒にいくのは、仲間でなく主です。私たちが向くのは私の前におられる生きた主です。私たちが歩んでいくときに主から離れて、かつてに生きようとする自分、罪深い私がいる。しかし、主は一緒に歩んでくださり、指示してくださいます。支えてくださいます。私たちを主の弟子に相応しい人にしてください。主は「わたしたちも一緒に行こう」と今日も私の方を見てくださっています。だから「花が上を向いて咲いている  私は上を向いて寝ている あたりまえのことだけで 神さまの深い愛を感じる」者となるのです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

本能であり反射
私たちの世代によく知れた雑誌にポパイ(POPEYE)がある。そのポパイの創刊者・木滑良久さんの記事と言葉が目にとまった。
「大切なのは本能であり反射だと木滑は言う。『丁寧に突き詰めて、筋道を追求すると、僕たちの仕事は面白くなくなっちゃうんですよ』。」
信仰の表現にも通じるところがあるのではないだろうか。教会を表現するとき、組織としての教会(キルヘ)、交わりとしての教会(ゲマインシャフト)という具合に表現する。この交わりとしての教会が本能と反射で動くとき、交わりは面白くなるのではないだろうか。
組織としての教会(キルヘ)、交わりとしての教会(ゲマインシャフト)を使い分けたときこそ木滑さんの言葉が生きてくるのかもしれない。



新米園長・瞑想?迷走記

玄関を入ると左側にチューリップの花が咲いている。これは昨年の卒園生が、在園している時に植えたものである。右側には百合の芽が出て成長している。これも同じである。卒園した子どもたちが残してくれたものである。
彼らはもう園にいないが、それぞれの植物を見ながら、成長して、花をきっと彼らもやりとげるんだと思いつつ、「ありがとう。頑張れ」と声をかけている。
に兄弟のいるお母さんが「チューリップどうなっ た」と子どもが気にしていますと聞く。彼らも園のことをきにかかけてくれているのだろうか。                           


ルターの言葉から


音楽は神から与えられた最も美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽を嫌います。音楽は、誘惑と悪しき思いを追い払う大きな力をもっているからです。悪魔はこの女性(音楽)を受け入れません。
音楽は最もすばらしい芸術のひとつです。ことばを生かします。サウル王の例に見られるように、悲しみの霊を追いやります。
音楽は、悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。
音楽は神学と並んで、神の与えられた栄光の贈り物です。私はこの世のなにものをもってしても、この小さな贈り物と他の物を交換することを望みません。私たちは青年たちにこの芸術をもって教えるべきです。立派な賢い人々を作り出すからです。
讃美歌集の序文より

ルターは音楽に対して天才と思われる才能を発揮したひとです。しかし、音楽を単なる芸術作品として理解したのでなく、彼は音楽を「神の与えられた栄光の贈り物」として受けとめました。
この神の恵みこそ人を救うということこそ彼の信仰の中心でした。神の恵みとしての音楽は「悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。」と彼は発見しています。今日では、音楽で心の癒していくことに日野原重明氏などが注目をしていますが、ルターはすでにこのことに気づいています。
音楽の教会として、たゆまず私たちの教会が熱心なのは、ルターの神の恵みとして音楽を受けとめていったからです。



大森通信    
 

森一弘司教が「開かれた教会づくりをめざして」という本の中で「無力」ということについて書いている。
「宣教の現場は、私たち司祭がどんなに無力な存在であるかを否応なしに、教えてくれる。・・・・・・どのケースも重い。安易な解決はない。言葉は無力である。何かいわなくては・・・・・と思っても、現実を前にして喉にひっかかったまま言葉にならない。
こうした重く悲しい現実に共感し、それを背負い、共に苦しまれたのが、キリストではなかったか。
教えを説く以前の福音宣教の原点となる心が、ここにあるような気がするのである。」
全国総会が開かれる。教会の宣教について協議していくわけであるが、いつもひかっているは、私たちが何かが出来る、何かをしなくてはという人の誠実さである。ではなく、「こうした重く悲しい現実に共感し、それを背負い、共に苦しまれたのが、キリストではなかったか。」というキリストに向かうことではないだろうか。
無力を語る教会のトップの司教をいだいたカトリック教会は幸せなのかもしれない。


(大森日記)数ではないというがやはり数は気になる。しかし、毎週出席くださる一人一人方を覚えつつ迎えるのも礼拝である。今日も夕礼拝は一人の方であるがこの一人こそ大切にしなくてはいけないと思っている。礼拝後、復活祭の卵を届けに訪問に出かける。共に祈りつつ時を過ごす。今週も耐震工事のために多くの時間、心を取られる。携わりながら大切なことは工事がどうかでなく、ここにいる人、園児が大切にされていくことである。資金については課題が残るがアドナイエレ(主が備えてくださる)である。土曜日に義母の納骨式に出席。浄土真宗高田派である。「弥陀の本願」についてお話を受ける。どこかキリスト教徒と似ている。風邪で熱が出てくる。こんなときにすることが多い。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今週から本格的に教会学校が始まる。卒園した子どもたちが来てくれる。また父親の方も一緒に礼拝に出席してくださる。子どもへの説教を語りつつ、親御さんにも伝えていく努力をしている。教会、幼稚園の耐震工事のための委員会、並行して女性会とある。全ては計画通りにはいかないが、これも主の心があるのであろう。墓前礼拝には間に合わないので急遽、神奈川の信徒さんを訪問することにした。一週間遅れの復活祭を祝う。夕礼拝を静かに祈る。終わり、どっと安堵感に包まれる。
)何かをしていたのだが思い出せない。たぶん休んでいたのだろう。
)静岡のキリスト教道友会とその子、デンマーク牧場福祉会の協議で静岡に久しぶりに向かう。教会と福祉、初任地、別府から引きずっている課題である。夢を共に負っていけると思った。小田原まで各駅停車で本を読みながら時間を遊ぶ。心地よい疲れであった。
)都庁との耐震工事の実施についての協議。課題を整理していくのだが正直、綱渡りのようなところがありしんどい。子どもの安全を考えるとやらなければならない。午後から財務委員会、終わって古本を探していると悩んでいる青年から電話。いったん三鷹に明日の誕生会のケーキを取りに行き、引き返し青年と会うが、なかなか話さない。終電がなくなる。朝方になりぽつぽつと。真面目さと戦っている。力を抜け、頑張らなくても良いよと言いかけたがやめた。祈るしかない。
)朝の祈り、庭を掃きながら待つが誰も来ない。ベンチに座り一人祈る。夕刻から聖書の学び。ガラテヤ書である。その後出席した方と夕食を共にする。
)明日は、義母の納骨式、土曜日は空けなくてはいけないからやることはやっておこうと思うが熱でさっさと寝てしまう。起きたのは翌朝。
)納骨式、いらいらしていて妻と喧嘩。この頃、妻の正当論にいらつく。正しいことが正しくはない。熱がでて節々が痛いがやるしかない。長男に説教が出来ていたらくれというと拒否をくらう。そんなことで熱の中を作業している。これも楽しもうと慰めている。

主にあるみなさん
 週末風邪をひき、計画が大いに狂ってしまいました。熱とのどの痛みの中をやっと準備が出来ました。そんななかで息子に説教をくれというとやる理由はないと拒否されてしまいました。
 耐震工事の建築があり、百人いたら百人の意見があります。これを大切にしながらやっていると結構、ストレスがあります。なにを言おうと決断すればいいのですが。
 人の思いを超えて祈りつつ、計画をしています。
 先週からガラテヤ書に取り組んでいます。これがおもしろいのです。
 今週も皆さんの健康が守られますように。      竹田孝一

2012年4月1日日曜日


枝の主日                2012年4月1日


  もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 マルコ11:3

【説教要旨】
星野富弘さんの詩があります。

 いつか草が   風に揺れるのを見て     弱さを思った
 今日       草が風に揺れるのを見て  強さを知った

弱々しいとしか見えない草が、「今日」というある一瞬強いのだということを知った喜びと驚きが表現されている詩です。
「今日」という一瞬に何が起きたのでしょうか。

   門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。 詩篇24:910

私たちの内に王がお入りになるときです。その王とは誰か。今日、私たちはイエスさまのエルサレム入場から知らされるのです。
主がお入用なのです」とイエスさまは言いなさいというのです。明らかにイエスさまはエルサレム入場に対して自分が「」、すなわち「王」であるという意志をはっきりと示されています。イエスさまは今、私たちのところに王として来られるということです。
それは、また私たちの王はイエスさまであり、私たちはイエスさまに支配されているということです。実に当たり前のことですが、実に当り前のことが、星野さんの詩にあるように

 いつか草が  風に揺れるのを見て    弱さを思った
 今日      草が風に揺れるのを見て 強さを知った

という大転換が起きるのです。
主・イエス・キリストが、私たちの生活のすみずみまで支配されるのです。
この王が今、必要されたのは子ロバであるということです。戦いの軍馬でないのです。ロバは日々、日常の中で働いています。非日常的な軍馬でなく、ロバをこの王は必要とされているのです。

   娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。 ゼカリヤ9:9~10

特別に優れた軍馬ではなく、ごくごく日常のものを必要とされているのです。それは私たちの日々であり、私たち自身です。
『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。
主がお入り用なのです。」という言葉は、私たちにかけられています。
私たちは礼拝において「平和の祈り」をささげます。
主よ、私を平和の道具として用いてください。
私たちは、主の道具として用いられることを切に望み続けるものが私たち信仰者なのです。

私たちの内に入られた王なるイエスさまは、私たちを必要とされているのです。子ロバこそ私たちです。王なるキリストは、私たちの上に乗られて私たちを用いてくださるのです。
この王は戦いでなく平和を望まれているのです。ですから、罪にある私たちを敵として、戦わずに、この王は罪にある神の敵である私たちのために十字架の死に至るまで愛を示されたのです。イエスさまが、神が必要されているのは愛という力による平和です。
私たちは愛に満ちたこの真実な王を、平和を望まれている真の王を乗せるのは私たち一人一人であるのです。だから私たちはどんなに小さな弱い者であっても

 いつか草が  風に揺れるのを見て    弱さを思った
 今日      草が風に揺れるのを見て 強さを知った

とされたという現実を生きることができるのです。
私たちは、ますます厳しい時を生きています。そして私たちは時代が厳しいほど課題を与えられます。そして「主がお入り用なのです。」という言葉を聞くのです。確かに私たちが応えていくには私たちは「いつか草が  風に揺れるのを見て 弱さを思った」という弱い者かもしれません。しかし、私たちは「今日 草が風に揺れるのを見て 強さを知った」という強くされている存在でもあるのです。私たちは、救い主、イエス・キリストをお乗せ出来る存在なのです。私たちはそのことを気づき、時代が与えている課題を担っていくものとなりたいのです。
主よ、私を平和の道具として用いてください。
と強く願い、主が私たち一人一人を主の平和を実現すべき、つまり神のみ国を実現すべく私たちを今日、必要されています。
主がお入り用なのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

また国鉄それともマニュアル人間

長男が新任地に向かう電車を見送りに行くとき、京浜東北線が事故のために遅れて、ぎりぎりに間に合うかだめかというところであった。
事情を言って、急いで新幹線改札口から入れてくれるようにお願いすると人が多く並んでいる切符売り場で入場券を買えという。こういう場合もあるんだから自動販売機に入場券を用意するか、特別のを発行すればよいと思い、後で、駅員に話すと、在来線が遅れて新幹線を遅らせることは出来ないという。そんなことは馬鹿でも分かっていることで、そんなことをいっているのではない。在来線は東日本、新幹線は東海ですから関係ありませんと一言。
昔の国鉄に戻ったような、またマニュアル通りしか対応出来ないことに腹がたってしまった。


新米園長・瞑想?迷走記

耐震工事をしなくてはいけないので、ここ数年関わっている都と構造設計士さんの話し合いに同席した。話は上手くいき、次へのステップに進むことが出来た。私はこういうことが苦手で、関わりたくなくて、牧師という職業を選んだところあるが、牧師云々と言っているわけにはいかない、園児の安全を考え、幼稚園が、より良い環境を整えていくにはやらざるを得ない。次に資金集めである。これも苦手でやりたくないがやらざるをえない。
常に思考の中心に園児を置き、考え行動していくときやらざるをえないというところを羽根として動いているのが私、牧師園長かもしれない。


ルターの言葉から



この「日」を造るのは最愛の太陽、イエス・キリストである。それゆえ、マラキ書では、彼を義の太陽と呼び、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」と記されている。
なぜなら、キリストを信じる者はみな、彼からその恵みと義の輝きを受け、彼の翼のもとに救われるからである。彼ご自身が太陽であり、彼から、光と日(すなわち福音)がほとばしり出て、全世界を照らす。そして、詩篇19篇2節には、最愛の両者、太陽と日、キリストと福音が示され、「天は神の栄光を物語り」と記されている。それは、この世の天が太陽と日をもたらし、太陽は天にあるのとちょうど同じように、キリストのまことの太陽は、説教と共に使徒を送り、またご自分の中にそれをもっておられる。
これが、愛に満ちた「日」の始まりについてのすべてであり、これは福音によって語られ、それを聖書は、高らかに愛をこめてほめたたえている。なぜなら、福音は、生かし、喜ばせ、陽気にさせ、活発にさせ、また、あらゆる良いことをいっしょにもたらすからである。

ルターの信仰の中心は、受動性ということである。人が一日を創造するのではなく、「この「日」を造るのは最愛の太陽、イエス・キリスト」なのである。与えられた神の恵みのみによって、与えられた人はむしろ能動的になり自立できるのである。「神(他力)によりたのむゆえに逆に自律的でありうるこの信仰こそが、ルター的信仰なのである。」(新しい神学の形成:江口再起)
福音は、生かし、喜ばせ、陽気にさせ、活発にさせ、また、あらゆる良いことをいっしょにもたらすからである。



大森通信    
 
東京直下の地震の危険性が言われているとき、さらに幼稚園園舎の耐震工事の緊急性が増している。
着任して多くの時間を取られているのはこの課題である。耐震診断を終えて、結果を都に提出する段階で診断の最終報告で都の指導を受けつつ、やっと了承をいただいた。次は工事実施である。
都の指導を受けつつ、ひとつ気づいたことは国土交通省の基準に合わない建物が大正から昭和にかけて建てられていて、診断を難しくしているし、さらにこれが耐震工事を遅らせているということである。4000日の平成大改修の唐招提寺は一度、全部を解体して耐震性について一つ一つの部分を調べ、耐震補強し、組み立て直した。しかし、歴史的建造物なら兎も角、普通の建物に多額な費用をかけて耐震診断をし、耐震工事することはほとんど出来ないのではないだろうか。ましてや、これが個人住宅となるとさらに難しくなる。
こういう状況の中で、真摯に私たちは耐震工事へと取り組んでいます。それは、地の塩、世の光として証ししていく者としての社会へのチャレンジであることを自覚し、応えていこう。

(大森日記)今週は、ほとんどを幼稚園に時間を取られていく覚悟でスタートした。耐震工事の診断結果をめぐっての都との話し合い、結果を受けて資金の準備など、また新学期へ向かっての整備、準備などきりがない。春休みの間、聖書の学びの準備、アメリカルーテル教会のフィンランドミッションの歴史の翻訳作業をも思いつついる。これは楽しみ、期待している。息子がやっと親を離れて初任地、下関教会に着任するが別れの食事も出来ず、やっと品川駅で数秒の見送りで終わった。持っている伝道の資料をPCからUSBにコピーし餞別に渡した。そうこうしているうちに一週間があっという間に過ぎていく。時間の流れの速さを感じている。風が強く吹いている。でも冬の冷たい風でなく暖かい。

おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)いつも日誌をつけておこうと思うが、つい忘れてしまう。一週間過ぎてみれば何をしたのか忘れてしまう。時間がひかからなくなってきているのかもしれない。礼拝出席を巡って大喧嘩した息子が礼拝に出ている。夕礼拝も終わり名古屋から帰ってきた長男と家内が神学校に帰ると家は静まり返る。
)春休みの預かり保育がある。子どもたちが元気に声をかけてくれるのは嬉しい。なかなか桜の蕾が開いてくれない。春はいっきにくるのだろう。幼稚園の書類を整理している。これから4月は申請のラッシュ。思うだけで疲れる。一日、かかり佐藤優氏の本を読む。勉強の積み重ねを感じる。龍谷大学の公開講座「親鸞と浄土教」を申し込む。学生時代から取り組んで忘れていた課題を深めようか。体調の悪い友人を訪問して一日が終る。
)ルターの本を読んでいると眠たくなる。勉強に向いてない脳の構造かと苦笑。
)都との耐震診断に関する話し合い。業者さんにも同行していただき最終の詰めをする。手際良い指導を受けてやっと了承をいただく。終わり。工事資金のことで私学財団事務所にいき交渉。これからいくつもの事務処理があると思うと気が重い。終わり。就活している青年と遅い昼食。フランスに留学し、有名校のK大だがそれでも就職は大変だと聞く。就活中の次男のことを思う。きっと苦戦をしているのだろう。もっとやさしくしなくては思うが出来ない。人の子の悩みは聞けても自分の子となると難しい。
)朝の祈りと飛び起きてみると今日から春休みに入ったのを忘れていた。昼は花壇の準備に入る。数年ぶりにレンタルビデオ屋さんに行き、2枚借りる。
)長男が初任地に赴くというので、いままでPCにためていた伝道牧会の資料をUSBに写し、見送りのときに餞別に渡そうと思うが、電車が事故で間に合いそうもなかった。が、やっと合えて見送ることが出来た。やっと巣立っていくが、やはり寂しく心にぽっかりと穴があく。思えば私は24歳で就任した。時は早い。仕事を終えて帰任されたK牧師宅で遅くまで話し込む。
)朝から激しい風が吹き一日中、家の中、部屋を片付けるのだがちっとも片付かずにいる。徐々に一部屋一部屋を片付けよう。今週も時が指の隙間から流れ落ちた。