2012年9月9日日曜日


聖霊降臨後第15主日         2012年 9月 9日



汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。             マルコ7:25


【説教要旨】

私はこの聖書の箇所にあたると私の両親のことをどうしても重ね合わせてしまいます。こどもが病気であるということは親にとってどんなに辛いものでしょうか。どうしてもこどもの病気が癒されることを願わずにはおられません。わたしはスイカを口元にどうしてももっていけない。冗談で一生涯分、食べてしまったからと言います。高校生から腎臓をわずらい入退院をくり返していました。腎臓にスイカがよいということで夏は毎日、毎食スイカを食べさせられ、冬はスイカ糖を飲まされるのです。そのときの母の印象はどうしても息子の病気を治したいという狂気そのものでした。気持ちがこちらまで伝わってきます。
私は、フェニキアの女にこの娘を治したいという狂気を感じます。「イエスのことを聞きつけ」とありますが、これが病気によいというなら親というものはどこまでもでかけていきます。こういうことを病弱な子どもらは誰しも経験したはずです。お灸がよいということで無理やりに連れられていったこと。お灸の熱さだけを今でも思い出します。
 親の必死さが伝わってきます。しかし、この親の必死さに対してイエスの態度、言葉を私たちは理解できるでしょうか。娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。』」と、母親の願いを拒絶するのです。
 ルターはこの物語、これを試練と受け止めている。この試練を「福音はわたしから失われ、無関係になっているのではないか」という疑問として起きる、福音との関係に生じる試練と言う。「イエスのことを聞きつけ」とはイエスの良い評判であり、福音であり、恵みの言葉であったはずである。これを聞きつけやってきたのであるが、しかし、恵みの言葉としての福音が、一見それとは思えないような現れかたをした、これが試練である。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
なんと残酷な拒絶だろうか。しかし、この母親はこの試練をみごと超えていくのです。ルターは次のように言っています。「しかし、おお、この女が自分を脱ぎ捨て、感じとったことはすべて捨て去り、ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。」、ルターは母親のひたむきな主への信頼を激賞しつつ、母親の辛さを思うのです。
信仰、それは徹底的な神のみ言葉への信頼であるということをこの母親は私たちに教えてくれているのです。
ルターは、まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」の言葉に、「あなたは、どう思えるだろうか。信頼していた神の言葉は、自分に語られたのではなく、ほかの人にかかわっているのだと感じるとき、これは、心と信仰との二つを、こなごなに粉砕する電撃ではないだろうか。ここでは、すべての聖者も、すべての願いごとも、停止せざるをえない。ここでもし、感情に従って行動するなら、気持ちとしては、御言葉を放棄するほかならないことになる。しかし、この哀れな女はなお、みことばを放棄せず、御言葉にすがりつき、あのようなきびしい答えにも顔をそむけず、キリストのめぐみが、答えの下になお隠されていることを堅く信頼し続けていた。」と語っています。なぜと思える私たちの試練の場にあって、キリストのめぐみが、答えの下に隠されているという信仰が、本当の意味で私たちを支えてくれるのです。私たちはこの母親を通して教えられることではないでしょうか。
さて、もうひとつはこの娘が母親の信仰によって救われたということです。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」自分のためでなく、それぞれが他者のために行動し、祈り、また、心配ることに、イエスは聞かれるということではないでしょうか。子は自分で大きくなったと思うのが普通です。しかし、自分が子どもを持ち、人生を多く体験するときいかに多くの人に支えられ、祈られてあるかが分かってきませんか。
母が私たちの婚約式の前に洗礼を受けてくれたことを思い出します。こどもにとって最高のプレゼントはクリスチャンになることだと思ってのことだろうと思うのです。どこまでもこどものことを思う母の祈りが今も自分を支えていると思っています。私たちには私たちを思ってくれる人がいるのです。そして、この思い、祈りに答えてくださるイエス様がいるのです。
また、同時に私たちは、どうかこの母親のように主に堅く信頼しつづけ、試練のなかにあっても社会のため、隣人のため、家族のため、そしてこどものために祈り求めていきたいものです。この思いによって,祈りによって互いに生かされているのです。
讃美歌21になってから消えた讃美歌に「春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく祈るとしらずや」とあります。試練の中にあっても主に信頼し、すがって祈ってくださる人が私たちのうちにあることを思いつつ、私たちもこの世の多くの重荷をおいつつ、試練にあっても祈りに支えられて、主に信頼して、明日へむかってあゆみだせるのではないでしょうか。



牧師室の小窓からのぞいてみると

 浅見雅一/安廷苑 著 韓国とキリスト教―いかにして”国家的宗教”になりえたか」(中公新書)

宗教人口の過半数を超える韓国教会の歴史と特徴と課題について書かれている良書である。
韓国教会の成長の一つは「霊的に満たされ、物質的に恵まれ、病苦から解放される」という「現世の祝福の過度の強調」にあったという。しかし、それが今、逆に課題となってきているという。
特に強勢の拡大のみに力を注ぎすぎて、社会への貢献がないという批判があるという。
教会においては、韓国の教会は近くて遠い存在である。もっとそれぞれの教会の特徴を分かち合い交流していくことを感じた。




新米園長・瞑想?迷走記

新学期が始まった。長い夏休みに年長さんは体が大きくなっている。時にあって神さまは働かれている。そして、私たちは、今から成長した園児を預かる責任を強く感じている。
園児を託され、預かることは責任が重いが、しかし、また喜びでもある。新学期は私にとって待ちに待った至福の時でもある。こどもらと共に幸福な時を歩もう。




ルターの言葉から



しかし、おお、この女が自分を脱ぎ捨て、感じとったことはすべて捨て去り、ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。
            説教より

ルターは、信仰の人であった。
彼は人間の魂を感覚、理性、信仰と3区分する。感覚に導かれる人は肉的な人であり全く世俗的人間である。理性によって導かれる人は心霊的、哲学者と異端者である。信仰によって導かれる人は霊的な人であり、真のキリスト者であるという。
だから真のキリスト者は「ひたすら、みことばだけにすがり、逆の事実を感じとるまでに至ることは、本性と理性とにとって、どれほど辛いことであったことであろう。」と感じるのである。
感覚、理性、信仰のいずれかを選び取ることによって人間の人間が現実にその都度その存在が決定されていくとルターは考えていた。(ルターの人間学:金子勇)
ルターは、信仰の人であった。彼は現実の課題と取り組むとき感覚的、理性的に判断し、決定するのでなく、信仰的に常にその決断をしていった。
ひたすら、みことばだけにすがり」ということが全てである。しかし、これは人間の業では到底、貫徹できないことである。人は感覚的、理性的に常に立つからである。だから「苦しいとき、また、死にのぞむとき、このような勇気と信仰とを持ちうるために、神の助けがあるように。」と祈るのである。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑧)
 刈谷教会の会堂建築が大きくなっていくにつれて資金のことが課題となった。幸い現役世代が多くて、内部の募金は、満たされた。当時、自己資金、本部からの支援金、本部からの借入金という三分の一方式があった。そこでこの方式を使おうとしたが、断られた。借入だけは、許すということだった。小さな教会の借入は宣教を妨げる。だから借入を起こしたくはなかった。それでも借入金を起こさなければならなかった。実際、返却金の負担は一般会計を苦しめ、翌年、私は刈谷教会から去った。
しかし、当時、東京教会は百年記念会堂の建築の話があった。それは全国の支援で資金が充てられ建てられると聞き、私は納得のいかないものを感じた。地方の小さな歴史のない教会と百年というだけで厚遇される教会の違いはどこにあるのか。空の空、あるいは人には分け前があるというコヘレトの言葉を噛みしめながら心では地方から東京に信徒を送り出している小さな教会を大切にしない教会は、いつか、ばちを喰らうと思いつつ。
こんな百年記念行事には決して私は参加しなかった。自分がもし財務の任になったら小さな教会の痛みを感じ、小さな教会のためにも何かをなせるようにと祈った。実際、財務委員になって、私は、批判を受けながら小さな教会のために常に配慮してきたつもりだ。



(大森日記)今週も耐震工事で一日が暮れた。そのうえ始園式があり、子どもたちがやってくれる。対応におわれつつ無事に一週間を過ぎた。気を使うことが多いが、募金のパンフレットの印刷、椅子の搬出、礼拝堂の掃除などいろいろと手伝ってくれる。感謝である。残暑が残る中、みんなの健康が心配であり祈る。外の仕事もありそれぞれが主にあって守られていた。今週、次男から誕生日プレゼントもらう一番欲しかったもので、これも感謝である。忙しさのなかで祈りを忘れずにこれからも励みたい。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)前日、9時までお父さん方とバーベキューであった。無事に早く起きられて、「ほっ」としている。家内が眠っている姿をみてこの人が死んだらとぞっとする。役員会があり、その後に会計役員と作業していると眠ったらしく、起きた時に集計表が置かれていた。感謝である。
月)財務委員会が開かれるが、資料を用意したつもりだったが、「ない」というので急遽、電話して送ってもらった。携帯電話、パソコン、FAXと。昔なら取りに帰るところだった。しかし、後で分かったが送っていた。誕生日を迎えた青年をブラジル料理に招待。続けての肉料理に平気になったのはやはりブラジルが抜けないようだ。
)始園式、元気に帰ってきた園児らに会って、幸せを感じるのは私だけであろうか。仮保育室は子どもたちに喜ばれるか心配だったが、喜ばれている。保護者の役員会で避難路を説明したがやはりそれでも心配顔の母親を見て責任を感じる。やっと資金のめどもつきほっとしている。でも疲れる。
)大田区私立幼稚園園長会、会長が体調を崩していると聞き心配。紳士的で理性的な人である。なかなか成れない。
)自分が関わってきた福祉村の委員会に呼ばれて久しぶりに出席。何もなかったところから老人ホーム、こどもの施設、病院と作り上げていった。ゼロの時内野牧師が「神が必要とされるなら」という言葉を信じてやってきた。
)職員会議があり二学期の行事の打ち合わせ、これに耐震工事かと思うと気が重くなる。解体にともないご近所周りをするのだがこれもしんどい。そろそろこういうことから手をひいて牧会に励むかと思っている。あと5年、10年しかない。
)礼拝の椅子の搬出、礼拝堂の備えをする。しかしながら約束の園舎補強工事を終わったのだから去るべきかと考えだしている。本来なら来るべき家内が仕事の都合で来られないことはリズムが狂う。募金の準備をし、それを信徒さんらが整えてくださり感謝。いつも私のリズムを狂わせる。次男から誕生日プレゼントをもらう。長男も妻も何もくれなかったが。嬉しい。聖書の話通りか。


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