2012年9月30日日曜日


聖霊降臨後第18主日         2012年 9月30日



わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。           


マルコ9:37


【説教要旨】    「受け入れる」


わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。という今日のイエスさまのお言葉は、子供を受け入れた者は、イエスさまを受け入れ、神さまを受け入れたのだというのです。しかし、ここに「このような」という言葉に注目したいのです。ユダヤ人の成人男性に朝夕唱えることが義務づけられていた「シェマの祈り」という祈りにおいて、成人男性が唱えるので女子供は祈る義務はないということでした。ですから女子供を受け入れることは当時としては否定的に振舞っていたということです。
ここでイエスさまが「このような子供」と言われるとき、価値の低い、人として受け入れられていない人を受け入れていくということです。私たちはイエスさまの言われることは分かりますが現実となりますと、子供の中でも、私たちが受け入れるに価値がないという子供もいるわけです。酷い子供を受け入れることはまっぴらだということになるのです。そういう心がどこかに私たちの中にはあるのではないでしょうか。
そして、今日は少年が犯した神戸の色々な事件に対して法律的に厳しくして、受け入れるというよりも厳しく罰していって矯正しようとする傾向が強いように思えます。そこにある心の動き、社会の動きは「ああすれば、こうなる」というように子どもらをコントロールしたがるように力によって、社会をコントロールしようとする傾向が強くあるように感じられてなりません。
それは、罪なのです。そして、私たちはイエスさまを、神を拒んでいるということなのです。しかし、まったく気づいていない。だから私たちはますます混迷しているのです。この罪をしらないゆえに、私たちは本当の意味での救いを知らないでいる。
それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
弟子たちは、救いが分からなかったといっているのです。というのは、私たちの罪が分かっていないからです。私たちがイエスさまを拒み、神を拒んでいるということが分かっていないからです。
現代という社会のなかで、「ああすれば、こうなる」と思ってはばからない私たちはいつしか、自分が神より偉くなっている。いや自分が何でも出来るのではないかとどこかで思っている。一人で何でもできると思っている。
途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。とありますように、ここに私たちのこころを支配するのは、コントロールするということです。これがいかにイエスさまの救いから、神さまから私たちを遠ざけているかということです。ですからイエスさまは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」言われるのです。コントロールしていくものでなく、仕える者であれと言われるのです。
私たちは社会の混迷の中でいらだち、力によるコントロールに傾きつつあります。この苦しみからの解放は、人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する主イエス・キリストしかないのです。私たちが主を知るということは、知った私が変わるということです。つまり主イエスが言われますように、途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」ということからいちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。という大変化がおきるということです。コントロールする者でなく、仕える者としての私たちがあるのです。
しかし、ここに生きることは、厳しい現実があります。まったく世と逆行していくかもしれません。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
と、この後も弟子たちにイエスさまは私たちに語られています。今日、私たちに仕えてくれた会堂の解体の祈りを捧げます。仕え、今、命を終わろうとする会堂は、私たちに仕えるということを証ししてくれています。



ルターの言葉から

子どもへの祝福


愛する子よ、眠って、おとなしくしなさい。お前には財は残さないが、豊かな神を残したい。よい子になりなさい。
 
ルターの宗教改革に反対する人の中傷、非難、敵意にもかかわらずルターは1525年6月13日にカタリーナ・ファン・ボラと結婚します。楽しい家庭と他人を温かく迎える家庭を築ずいていきます。
妻を愛し、子どもを深く愛したことは彼の言葉、手紙からよく分かります。この絵は1866年に描かれたルターの家族の絵である。ルターが、どんなに家族を大切にしているかよく分かる絵である。悩んでいる息子に宛てた手紙がある。

最愛の息子ヨハン・ルターへ。主の恵みと平安があるように。
愛する息子ヨハンよ。
お母さんも私も、そして家族みんな元気です。お母さんの嘆き苦しみをこれ以上増さないように、男らしく克服しなさい。・・・神さまに従いなさい。神様は私たちを通して君がそこで勉学に励むことを命じられていらっしゃいます。そうすることによって、君は君の弱点を克服することができます。・・・病気になったら、すぐに知らせなさい。そうでないのなら、嘆くことは止めて、元気に穏やかな心をもって君の勉学に励みなさい。
良い子になるように勧めるルターの姿が見えてくる。




牧師室の小窓からのぞいてみると

人生 いろどり

この頃、夫婦で映画を見にいくことをしている。私にとって激しい映画はしんどいが、ゆったりと時が流れる映画にはついていける。それだけ歳をとったということであろう。
高齢化と過疎化が進む徳島県の上勝町で、7080代の女性が中心となって葉っぱや道端の草を料理のつまものとして販売し、売上高26000万円をあげるビジネスとして成功させた実話を映画である「人生 いろどり」を鑑賞した。 歳をとって運命の神は、手をさしのべているということである。その時を私がどうとらえていくかが人生を究めるということになるのかもしれない。
すべてに時がある。これは平等にあるはずである。それが人生にいろどりをつけていくことになるのかもしれないと思わせた映画であった。




新米園長・瞑想?迷走記

そろそろ小学校受験が始まる季節になる。毎年、数名が受験をしていく。出来ればみんなが希望した学校に合格して欲しいと願っている。
入学試験をストレスに感じている子にとって、園での生活が、少しづつ変化をして、苦しんでいるのが分かる。子どもは正直である。しかし、私は何も助けることはできない。
こんなとき親も大きなストレスを感じているだろう。むしろ親に対する心細やかな配慮が必要になるのかもしれない。いつでも相談にのってくるなら聞くという心をひらいておかないといけない。
一緒に傍らにいることしかない。




大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑪)

土地の測量は、いつも物議を起こす。とくに隣地との境界線は大変である。
別府教会のとき、引退者住宅を売却することになった。売却するのになんと手続きがいるのかそのとき知った。特に隣地との境界線を決めるとき、これが大変であった。一軒、なかなか判を押してくれない家もあり、何度、訪問したことだろうか。牧師一年目、社会人一年目で、戸惑うことばかりだった。色々といやみたっぷり言われた。測量から売却までの期間、色々とクレームをつけられる度に謝りに行き、対処していった。
本部に「これが牧師の仕事ですか」と電話すると「牧師は何でもするんです」と返された。正直、糞っと思いつつ、売却の準備をしていった。幸い売却もうまくいった。判を押さなかった方が、売却するならウチにしてほしかったと言われたとき、色々な人がいるんだと思った。
最後に、お世話料として、本部から別府教会にいただいた。貧乏極まりない教会にとっては、大いに助かった思い出がある。牧師っていろいろな事を知っていて、しなくてはいけないんだと勉強した。私の牧師としての一歩は隣地との境界線の確認だった。



(大森日記)幼稚園運営委員会。どう保育内容を深めていくかという会となった。夕礼拝に休暇中の息子が出席してくれる。まだ三分の一を歩んだ牧師生活を聞く間もなく帰っていった。今週も補助金の申請のため、幼稚園の土地園舎変更手続き、融資の手続きと矢継ぎ早に胃の痛むことばかり続く。訪問も十分に出来ずにいるので、一人一人のために祈りつつ日々を歩む。課題と取り組みつつ一つ一つを解決していかなくてはいけない。それは将来のために。お前は幼稚園が好きだと揶揄されるが否定はしない。もっと幼児教育を学んでいるべきだったと思っている。何事も楽しくやりたい。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。


日)礼拝堂を建築していくときは仮会堂、牧師館の住居の確保が頭の痛いことである。今回は幼稚園の保育室の確保が必要となった。そんなこんなで胃が痛くなる。今日から仮会堂で礼拝である。幼稚園の保育室の礼拝堂をどう聖なる雰囲気を出すか、頭を使う。授業料の値上げの幼稚園の運営委員会であるが、これも不安が残る。長男もやってきて家族が揃う。久しぶりに夕食を皆でする。
月)家内が休みだったので、家内と静岡まで、仕事を兼ねドライブにいくことにした。道中、話しながら思い出すのは、付き合い始めた時もいつも仕事を兼ねてドライブだった。違うのはドライバーが家内から私に変わったことである。年月を感じる。
)遠隔地の訪問日であったが、予定を変更し、都庁まで行き、補助金の申請の相談。午後からお袋の位牌の注文に行く。その後、私学財団に融資の書類提出。終わり幼稚園に戻り夜からは園長研修会。「自由保育」が子どもの将来を開くという児童心理・教育の立場から聞けたことは感謝。それにしてもよく園長を兼ねる牧師に「牧師でなく園長だ」と批判を聞くが、私もそうなってきたと苦笑い。
)区に提出の書類を整えるために法務局、区へと一日がとられる。建物の面積にしても境内地の面積にしても登記と実測図と違うし、法人の所在地が変更しているのにもかかわらず土地では旧来のままであったり、それを楽しく直しているのも奇異に感じて苦笑。そんなとき印紙代という税金がやってくる。なんだか損をしたような。国は良い商売をしている。
)こどもの礼拝、改築工事の打ち合わせ、区との幼稚園用の土地、建物の提出書類の打ち合わせ、職員会議と続く、終了が午後9時。この頃、午後に力がなえ、エネルギー不足になる。これからの進路を祈りつつ決めていかなくてはいけない。引退後は、沖縄で祈りの家を始めたいが、引退まで最短5年、最長10年。最後の仕事場を考える。
)朝から色々な事務的なことで電話をいただき、電話をしているうちに梅ちゃん先生の最終回を見損なった。夕方、家内と映画を見にいく。二人の時間も長くはない。そういえば今年、二回、家内に誕生日プレゼントをしていたことを思い出した。ぼけてきた。


0 件のコメント:

コメントを投稿