2012年9月2日日曜日


聖霊降臨後第14主日         2012年 9月 2日


「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の言い伝えを固く守っていて、・・・」マルコ7:3


【説教要旨】

ブラジルの教会学校で、「秀樹、ヘペッチだって」と子どもらが話しをしていました。「ヘペッチ」は英語の「リピート」にあたり、留年ということです。驚いたのは、小学校から留年があるということでした。落第した子もしなかった子もごく普通の会話で、落ちた子を決して、軽蔑していないのです。
なぜ、この記憶が、この物語から思い起こされたかと言いますと、律法を守るということがどういうことかということです。
ファリサイ派の人と律法学者がでてきます。この人たちは当時の社会では大変に尊敬されていました。イエスさまも実はファリサイ派に近いところで育てられたのではないかといわれています。この人たちは、実に律法を守るということに忠実な人でした。律法を守ることによって神に愛されると考えた実に真面目な人でした。ですから、律法を守らないということが、とても気になるわけです。
そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』(マルコ7:5)と尋ねたのです。これは彼らにとって当然の問いでした。しかし、ここには守る者、守らない者という差別が生まれてくるのです。守る者のみが神に愛されるのにふさわしいと考えるようになるのです。
しかし、旧約の歴史、つまり昔にもどりますと、律法の前に、神から契約を与えられているということに注目したいのです。つまり神はまず律法を守る者としてイスラエルの人を選んだ、神とイスラエルの人との関係、これが契約です。神はイスラエルの民の存在を保証されたということです。そこでイスラエルの民は契約を守るために律法を守るのです。律法を守ることによって契約が神と結ばれたということではないのです。しかし、いつのまにか、神と私の関係がなくなり、律法を守らなければならないということが先行しはじめるのです。守ることにより救われるんだと思うようになったのです。そしてさらに守りさえすれば良いんだという形式主義になる。それをついたのが今日のイエス様の言葉になってくるのです。
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』(7:67:7)
その結果が人間くさい努力主義になってくるのです。律法を守りさえすればという人間が中心に出てくるのです。この律法を守るために努力している自分こそが正しいものであって、努力しない人間はだめだということがまかりとおってくるのです。これは実に人間くさいものになる、だからイエスさまは、あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(7:8)と言われるのです。今、教育現場で新自由主義という言葉があるそうで、競争をさせてもっと子どもらの学力をあげていこうということだそうです。それ自体、聞いていると問題もないように思えますが、実は、ここにこの競争に遅れたものは、だめだという差別が起こるのです。ファリサイ派のような動きが起こるのです。
 では、最初に言いましたブラジルの子どもの例とどう違うのかということです。ブラジルの場合はどうかといいますと一人一人が生かされた存在であるということです。そして等しく生きていく中で平等であるということ、その存在が保証されているということが根底にあって、競争の原理というか、それぞれが当然すべきこととして勉強がある。だから差別は起こらないのです。私たち一人一人が生かされた存在であるというところから私たちを見ていくことです。だから喜んで、一生懸命、勉強するのは当然であり、結果として落第することもあるが、終わりではないということです。
本来、律法を守るということは、神から存在することを許され、保証されているわけで、律法を守る者として選ばれた者は、喜びの生き方として律法を守るのです。
荒井献氏は「旧約を超えて、新しい契約を携えて現われたと言えるイエスは、人間の作った掟に縛られている人々を元来のユダヤ教精神に返し、神とともにある喜びの生き方を取り戻そうとしたのだ」と言っています。
私たち一人一人は神に愛された存在であると原点から出発するのです。今をみるとき人間主義から解放され、私たちは自由に、すべてを喜びと感謝をもってなすことができるのではないでしょうか。
 喜びと感謝が薄れて行く社会にあって、私たちの生き方が根底から問われています。私たちはもういちど人間という場から後ろにとんぼ返りをして、神の愛の場所に自分をもどしたいものです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

  堀坂 浩太郎 著 「ブラジル-跳躍の奇跡」(岩波新書)

 九州から東京に帰る新幹線の中で、一気に「ブラジル-跳躍の奇跡」という本を読んだ。私がブラジルの教会に着任したのは軍事政権の末期で、経済は負債を抱えて、債務危機にあり、100パーセントを超える超インフレの時代から民政移管の混乱期までであった。
それから33年の間にこの国が大きく変化し、民政の混乱を政治家のリードのもとで安定させ、2011年にブルガリア移民2世の女性大統領ルセフ大統領が登場した。
政権のロゴは「豊かな国とは貧困のない国」で、貧困撲滅対策に取り組んでいる。先の政権は「皆のための国」、その前が「ブラジル全土のために働く」で、分かりやすい言葉で語りかけ、国の課題に共通理解を持ってもらい取り組んで世界サッカー大会、オリンピックを開催できるまでに跳躍の奇跡を起こした。混乱期を生きた私はこの30年の変化を一緒に出来なかった悔しさが残る。日本も政治の混乱期にあるが、いたずらに絶望することなく希望をもって国の課題を共に負って、取り組んでいきたいと思った。




新米園長・瞑想?迷走記

大田区にあるルーテル教会の幼稚園の園長会を定期的に開かくことを約束した。
変化していく社会にあって、ルーテル教会の幼稚園としてどうあるべきか理念と具体的な取り組みについて協議していくことになった。それぞれの園が、それぞれの特徴を生かして共に公の場で、こどもの置かれている課題を担いつつ、取り組んでいくということは当然なことだが、しかし、画期的なことだと感じている。共に教会立の幼稚園が幼児教育に責任をもつことほど大きな社会への貢献はないだろう。



ルターの言葉から


 肉のために備えをしても、欲を満たそうとしてはならない。 (ローマ13:14)

私たちの内で、理性と意志ほど危険なものはありません。私たちが自分のわざと理性と意志を捨てて、すべてのことにおいて神に委ねることを学ぶのは、神が私たちの内になしてくださる最初の働きであり最高の働きです。そして神が与えてくださる最善の訓練です。特に、霊的に見て、順調に物事が進んでいる場合に、落とし穴があります。
次に肉の訓練が続きます。下品で邪悪の情欲に対しては、断食と徹夜と労働とによって打ち勝たなければなりません。ただ私たちは、なぜ、また、どれほど断食し、眠らずにおり、働かなければならないかを学ぶ必要があります。ところが不幸にして多くの不信仰の者たちが、断食や眠らずにいることや労働といった訓練を、それ自体が善いわざであると考えて、大きな功しを獲得するためにそれらを行います。しかしこのような断食は真の断食ではなく、断食と神に対する侮辱なのです。
私は断食の日数などの決定はそれぞれに任せますが自分の肉体には注意して行うことを勧めます。肉の肉にみだらな情欲を見出すならば、断食と徹夜と労働とによって訓練をするべきですが、それはあくまでもそれだけのことです。
  「善きわざについて」の説教より

ルターはブレない人であったと思う。繊細な神経の中で思うこと、感じることのなかで内では揺れざるをえないような心があったが、「すべてのことにおいて神に委ねることを学ぶのは、神が私たちの内になしてくださる最初の働きであり最高の働きです。」というところでブレることなく神に委ねたところに彼の強さがあったのかもしれない。



大森通信    

 思い出(会堂をめぐって⑦)
 刈谷教会は資金はあっても、建築実施まで一年かかった。奇抜な設計でなく、誰が見ても教会と分かるような建物であること、大きな建物にしないこと、牧師館は改修だけ、借金はしないことなどを私は提案して、建設へがんと首を縦に振らなかった。現状、これからを考えるとき、どうしても、守りでいくしかないと思っていたからである。しかし、一年の議論の後、牧師の思っていることすべてが受け入れられずに決定した。
建物は大きく斬新的なものになり、牧師館は新築になり、結局は借金することになった。幸い良い、自慢出来る教会建築物ができた。しかし、この箱ものを使って伝道していくというのは並大抵でなかった。いかに人を集めるかということに苦心した。定期的な伝道集会、キリスト教講座、文化講座、チャリティー・コンサート、数カ月に数回の誰でも参加できるフリーマーケットなどをして、人を集める工夫をした。
建物をどう使いこなしていくか、これで建物が生きるか死ぬかが決められていくものと今でも思っている。



(大森日記)休みをいただき母の納骨を兼ねて帰郷。街を散策し、禅寺に寄る。修行僧が掃く姿を見て、神学生もこうあって欲しいと思った。土曜日に納骨を済ませた後、母教会の礼拝に出席した。100年の歴史があり、あんなに大きな教会が本当に小さくなった。幼稚園も廃園すると聞く。すべてに時がある。それでも教会を守っている信徒さんに敬服。日曜日は100年の歴史がある大地牧師の教会で礼拝を守る。東京に戻り、耐震改築工事と相撲が始まった。耐震補強工事は終わり、保育室は地震に耐えられる。翌日、震度5強、フィリピンで震度7の地震。さらに本格的な工事が始まる。建物工事に携わるのは運命か使命か。土曜日、幼稚園のお父さま方に園のために奉仕をいただく。工事で汚れたところを掃除され、改築への準備もしていただいた。夜は、先生方を含め交流のバーベキュー。この若い方に福音が届くことを強く祈って、何をすべきかを考える。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)久しぶりに休暇をとる。前日は母教会の礼拝に出席した。街が衰えていくと同じように教会も衰えていった。しかし、数名の変わらない信者が守っているところに神のみ手を感じる。今日は、何もすることなくゆっくりと礼拝に信徒として出席出来る。息子の説教を聞きながらこんな至福はない。一日中、ゆっくりと時を遊ぶ。
月)朝から息子の車で新婚旅行の地である津和野に行く。何よりも浦上信徒の殉教地である乙
女峠のマリヤ聖堂を訪ねたかった。静寂の地は信仰の命かけた地であったが、今は夏の緑の中に静かに時が去っていく。帰りに山口の雪舟の庭があるお寺に寄る。ご住職がおられ私たちのために説明をくださる。後で分かったのだが大変に有名なお坊さんであった。登竜門とは禅の言葉、悟ることなく滝から落ちていく修行僧もいるという。ご住職と話しつつ、宗教人の襟元をただされ、無にされていくことの静けさを感じた。
)一日中、息子につきあってもらって時間を過ごす。兄の家で夕食を家内が作ってくれ、久しぶりに兄と時間を過ごすがお互いに歳をとった。最終の新幹線で東京に。買い求めた「ブラジル」という本を読み終える。ブラジルと30年を一緒に苦楽をしたかった。いつも自分の手元から良きものはすり落ちていく。
)さあ仕事だ。耐震工事資金調達に朝から走り回る。そんなとき沖縄の姉が募金の口座を教えてくれと言われて感激である。無になって神のお仕事である幼稚園改修にささげたい。本部に借金にいく。
)休暇中のかないと互いに話す訳でもないが一緒にいるだけで幸せを感じつつ仕事をする。園長会。終わると友人からメール。新橋に来いと。
0時をまわったとき「誕生日おめでとう」のプレゼントをいただく。電車に乗ろうとすると悪友からメール。シャンペン用意したから来いと。朝まで誕生日を祝ってくれる。一睡もすることなく仕事。家では何もないようだが、幼稚園の先生方がケーキで祝ってくださり、信徒さんがプレゼントをくださる。薄情は長男の牧師、電話、メール、手紙もない。
)仮園舎、耐震補強工事は終わる。お父さん方が用具の移動、掃除を手伝ってくださる。工事については賛同をいただく。


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