聖霊降臨後第16主日 2012年 9月16日
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
マルコ7:34
【説教要旨】 「開ける」
田辺聖子さんの短編小説で「ムジナ鍋」というものがあります。そのなかで「姫路の人々は、夢野町のことを、『過疎の田舎町』と一言のもとにいいます。その夢野町の人は、字猿岩に住む人々を、『あんな寂しいトコによう住んどるわ』といいます。その猿岩の住民は、大字猪岩の村をさして、『人間の住むトコちゃうな』というのです。」と言う文があります。ガリラヤは、辺境地です。そのガリラヤからすればシリア・フェニキア地方のティルス、シドンというのはさらに辺境です。まさにエルサレムからするならガリラヤは辺境であり、ガリラヤからすればシリア・フェニキアは『人間の住むトコちゃうな』という辺境なのです。つまり神の恵みが届かないところなのです。イエスさまはこういう地をお歩きになられたということです。そして大廻して、『あんな寂しいトコによう住んどるわ』という辺境地、ガリラヤに来られるのです。
この辺境地に耳が聞えず舌がまわらない人がいました。人の言葉を聞こうとして聞えない、自分の意志を伝えようとして上手く伝えることができない人がいた。つまり神の恵みの光が届かない人がいたのです。
その人がイエスさまのところに連れてこられるのです。さてこの人はまた私たち自身のように思えます。力で世をねじ伏せようとすることが当たり前のように肯定されていく社会が今、目の前にあります。人へのやさしさ、おもいやりということかき消されていく世にあって、私たちがイエスさまの愛を伝えようとしてなかなか難しい状況に立たされています。イエスさまのことばを届けよとしても、舌がもつれる。耳をすまし社会の声を聞こうとして、人の言葉がはっきりと聞き取れなくなってきている。そういう現実が私たちのうちにある。そう感じてはいないでしょうか。神の恵みの光が感じられないでいる状況が私たちを取り巻いている。まさに聞くこともできず、語る言葉ももつれ、世に証しできない教会、私たちがいる。そういう私たちがいるのです。
九州・東九州の宮崎教会で牧会を二人の牧師が終わりました。まさに辺境を生きた人でした。伝える舌がもつれ、聞くすべもない壁にぶつかりながら伝道していく、それは恵まれないように思える。しかし、ひとつの事実が教えるのです。イエスさまはこの神の恵みの光があたらない地を巡りあるいたということです。教会のかかえている今の時代に手も足も出ない私たちのところにも日々、来られているということです。私たちはこのことにまず注目すべきです。まさに辺境、光のあたらない地にこそイエスが足を運ばれたように、私たちのところにも足を運ばれるということです。
そして、私たちはこの人のようにイエスさまのところに連れて行かれるということです。そこで何が行われようとしているのか。「その上に手を置いてくださいと願った」とあります。祝福を受けるということです。私たちは祝福を受けるものとして神の前に連れ出されるのです。今、最も祝福から離れたところにあるように思えることがあります。しかし、違うのです。イエスさまは歩まれてこられるのです。そして祝福を与えられるのです。私たちが神の前、イエスさまの前に立つとは祝福を受けるように立つのです。これは誰ひとり除かれることはないのです。祝福を受けるものとして、私たちは生かされている。このことを私たちは忘れてはいけないのです。イエスは「開け」と言われます。私たちを堰止めた壁はイエスによって開かれるのです。
辺境の地、神の恵みの光が届かないようなところにこそ、十分に光がとどき、「開け」と祝福を与えてくださるイエスさまの歩みを信じて疑わなかったからではないでしょうか。
神の声が聞えなくなり、神の愛を伝えていく舌がもつれるような困難さに私たちは立ちます。しかし、ここにこそイエスさまの前に立つことにほかならないのです。また祝福を与えられるということです。「開け」と語りたもうイエスさまは、私たちの前に憚れる壁を開いてください。まさに福音をつまり神の愛を伝えようとするときに困難さと、閉じられていることを感じる時代ですが、「開け」とお語りなる方が私たちの前に立たれることを信じぬいていきましょう。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」というように私たちの歩みにこのイエスさまのすばらしさが与えられるのです。私たちが私たち自身をみるとき「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」という出来事のひとつひとつであることに私たちは気づきます。大変な激動のなかで生き抜く時代にありますが、私たちのうち起こる神のすばらしいに信頼をもって歩み通していきましょう。
「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ35:4)
牧師室の小窓からのぞいてみると
尖閣列島をめぐって―日中の平和を望んで
中国の公用船が、日本の領海を犯したという記事が報じられ、さらに中国では反日デモが繰り返されているという。
歴史的にみても日本の領土である尖閣列島に対してこれを自国の領土としていくのははなはだ可笑しいことは、日本というところからは見えてくる。しかし、中国というところから見ると逆になる。今の大国・中国の姿勢は、時代錯誤として見られないが、しかし、中国の歴史に中華思想ということを忘れてはいけない。儒教の王道政治の理想を実現した漢民族を誇り、中国が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値あるものと自負する考えで、今や世界の大国となった中国はこれをもって世界の地図を変えていくようにも思える。
この中国と対峙していく時代はたとえやっかいなことでも、私たちは力をもって力を制していくのでなく理をもって冷静に中国と向かい合っていきたいと思う。
新米園長・瞑想?迷走記
耐震補強が終わり、耐震改築工事が本格的に始まる。正直いってやっかいなことばかりが起きる。やめておけばよかったということが心で起こる。しかし、「やめておけば良かった」ということに取り組むために園長はいるのだろう。
管理者は何もないこと、平穏なことを望む。それでは真面目な管理者ではないだろう、起きたことに対して、逃げることなく責任を負っていくという強い信念が求められていることを強く感じている。この任を負えるのはこどもを、どれほど園長は大切にする心をもっているかということがいつも問われている。
ルターの言葉から
すべての礼拝の順序は、そこから弊害が生じれば直ちに廃止して、別のものを作るというようにして用いられる。・・・なぜなら順序は、信仰と愛を加えるために役立つべきものであって、信仰を損なうためではないからである。(ドイツミサより)
ルターは礼拝様式については自由であるということを貫いている。しかし、次のように言っていることにも心すべきである。
神の教会はあらゆる場所により、あらゆる時代によって、教会にとって最も有益であり、最も建徳的でありえるように、儀式を変更する力をもっている。しかし、この問題においてあらゆる軽率と躓きとなることは、つつしまなければならない。(ドイツミサより)
今、ルーテル教会の総会報告をみても、「信仰と職制委員会」、「礼拝と音楽委員会」において、礼拝式文の取り扱い方について討議されていることが分かる。式文の取り扱いは充分に気をつけなければならない。
なぜなら順序は、信仰と愛を加えるために役立つべきものであって、信仰を損なうためではないからである。とあるように目的をはっきりとさせること、しかし、この問題においてあらゆる軽率と躓きとなることは、つつしまなければならないとあるように慎重さが必要である。その上で伝統的な典礼にいたずらに固着する必要はない。
ミサにおける信条に至るまでに行なわれているすべてのこと―すなわち聖餐の部以前のこと―は、私たちのものであり、自由であり、神から要求されるものではない
(ミサと聖餐の原則より)
大森通信
思い出(会堂をめぐって⑨)
今日で慣れ親しんできた会堂ともお別れである。建築のために幾つもの会堂を壊してきた。壊すたびにこれより良い会堂を造ろうと思ってやってきたが、思い通りになったかというとそうでもないように思う。
ボーリス設計事務所が設計した会堂を取り崩したときは、いまでも引きずっている。
移築してはどうかと提案したこともあった。しかし、移築した方が新築よりも経費がかかること、今後の維持、地震のことなど考慮すると計画を断念せざるをえなかった。
私が関わっていなかったが、ボーリスの設計のH教会は解体し、元の形に改築した。その後、その教会の牧師館が老朽化したとき、私は壊すのでなく現代に適応して生活しやすいように改築を提案し、改築案が実行された。新築の推進者の方には大いに恨まれてしまった。実は前の年、若い牧師にボーリス設計の優れて良かった牧師館を強引に壊された苦い経験があったから、どうしても守りたかったからであるし、後から悔やんでも遅いからである。
大森教会の会堂も出来れば補強、改築で済ませたかった。しかし、地震のことを考えるとそうもいかない。残念でならない気持ちが強いだけ会堂に感謝している。
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(大森日記)今週もが続く、耐震工事一日が暮れた。進む過程で課題が起きてくる。投げ出したいこともあるが、主に萎えた心を強められている。過食気味である。ストレスかも。病気が気になっている方が教会も幼稚園にもおられる。主の癒しを。一人の方は何もなく肩の荷を降ろす。感謝。知人の牧師が転任されると聞き、人事の季節かと、ため息。N姉の納骨式が行われた。カトリック教会の納骨堂は広く綺麗である。我が教会もこれぐらいの納骨堂を造りたい。
おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。
日)今日から、教会学校が始まる。人数は少なく気になっていた。後日、改築中は休みだと思っていた親御さんがいた。子どもは可愛い。もっと充実したプランを考えなければと思いつつ出来ないでいる。久しぶりに午後から何もなくのんびりと夕礼拝まで時を流す。T君がお休みである。気になってしかたない。
月)休みたいが、休むということは耐震工事の中では出来ない。特にこどもの安全が気になる。園児、お母さんの中で病気の方、妊娠されている方などがおられ気になってしょうがない。骨を折った園児がいて補助に次男に入ってもらう。保育を勉強したのだから保育につけばよいが一般会社に内定している。
火)広いところがなく体操を礼拝堂でしたが一階の保育室は天井から揺れていたという。これからも制限された中で保育をしなくてはいけない。教会学校の打ち合わせである。なんとすばらしい教会学校かと思っている。夜に家内が翌日の誕生日のケーキを届けてくれる。
水)誕生日会、おやつがおいしかったとこどもに言われるたびに家内に感謝している。市販でおいしいお菓子はいくつもあるが手作りでいきたい。本部に負担金を収めにいく。帰りに知人と一杯。教会行政は大局に立ってであるが、やはりひとつひとつの教会のことを描けるぐらいの思いで行政が必要ではないかと持論を彼に語る。
木)隣地の境界線で苦情。やはり日本。聞くしかない。建て替えが始まると起きることだと思いつつ気持ちを掬い上げることに集中。敬老の日の集まり。ここでも聖書の話が出来るのは幼稚園があってのこと。
金)改築工事の打ち合わせ、契約書の取り交わし、支払いと息つく暇もない。頭もパンクしそうである。やはりポンコツになっている。
土)気になっていたご婦人が病気が軽く済んだと聞き肩の荷を降ろす。納骨の時間を間違える。そろそろか。長男から江戸切子のペアーカップ。一つは遅れた私の誕生日祝い、一つは早い家内の誕生日祝い。一週間の疲れで、納骨式を終えて帰ってきて寝る。夜中に礼拝の準備。明日は引越しである。よく、頑張っているが、頑張り所が違うように思えてならない。
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