2012年8月19日日曜日


聖霊降臨後第12主日         2012年 8月19日


すべての人が食べて満腹した。
マルコ6:42

「幸 せ」

説教要旨】
今日の5000人の給食の物語は、四福音書全部に記されています。よほど印象に残ったイエスの奇跡物語だったのでしょう。食べることの好きな人にとって、「すべての人が食べて満腹した」という言葉に至福を感じます。いま、世界では食べられないで多くの方々が亡くなっています。そのために多くの援助がなされていますが、なかなか飢餓の問題は解決しません。マザー・テレサの言葉「大海も一滴からなる」ということを心にとめて私たちはイエスさまから託された業をなしていきたいと願っています。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル上16:7)」という言葉があります。
目に見える事実は、5000人を食べさせるには「パン5つと魚2匹」では、不可能であるということです。「パン5つと魚2匹」は、13人分の食事だと記している本がありました。つまり弟子とイエスの13人分であって、人を助ける余裕などはないということです。私たちはこういう現実にいつも立たされているということです。「人は目に映ることを見る」わけですが、「が」でつながる「主は心によって見る」という視座を私たちは忘れがちです。
イエスさまは、弟子の5000人の食事をどうするかという依頼に対して、「イエスは『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』」と言われました。私たちに責任というか私たちの働きを期待されているのです。そして、私たちは、その期待に誠実に応えようとします。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」という現実にぶつかるのです。しかし、私たちは、しばしばイエスの期待に応えられない自分に気づきます。「人は目に映ることを見る」ということの誠実さです。しかし、それでは限界があるのです。この限界を超えさせるものは、「主は心によって見る」という言葉です。
イエスさまは、「パン5つと魚2匹」をとり、「天を仰いで讃美の祈りを唱え」というのです。人の限界はどこまで行っても限界です。私たちの心がどこをむいているかということです。先週、私たちは、「悔い改め」ということに聞いていきました。自分が向いている方向から180度向きを変えるということでした。私たちが自分ばかりを向くのでなく、私たちが天に向くことです。ここに限界を超えていく出来事がおきてくるのです。このことを主は今日の奇跡の出来事の中で私たちに示されたのです。
 私たちは、5000人の食事を用意するように主が弟子たちに命じられたように世に私たちが生きていくということは使命が与えられています。命に対して私たちは常に使命を与えられた共同体が主の共同体であるということです。だから教会は常に世に対して責任をもっています。決してこれから私たちは逃れてはいけないのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主のご命令がいつも私たちにあるのです。しかし、私たちはいつも今日の日ごとの糧を与えたまえというものしか用いえない存在であるということです。しかし、それが私たちの使命の遂行の妨げにならない、むしろこの小さなものを大きくされるという神の事実を神の使命の実行には起きてくるのです。なぜなら、私たちが起こすのではないです。イエスさまが、神が起こされるのです。わずかな物を天に仰ぎ、イエスさまは「讃美の祈りを唱え」られたのです。「讃美の祈り」とはなんでしょうか。人間の思いを超えて起きてくる神の出来事の素晴らしさを讃美する祈りであり、神は奇跡を起こされるのです。
「主は心を見る」ということはこの祈りが「讃美の祈り」となっている私たちの心を主は見られるのです。
今、一人の医師が戦乱のアフガニスタンを緑土に変えようと努力をしています。小さな、小さなグループです。緑土に変えるなど出来はしないと誰も思えるのですが、一人のクリスチャンがアフガニスタンの真の平和を求めて、戦乱の前の緑溢れる土に変えようとしているのです。困難と闘いつつもなお前へ進み、段々と緑を取り戻してきています。それは四福音書の記者がどうしても書き留め、伝えたいことを現代に証しているのではないかと思うのです。主の使命に応えることは自分の力が僅かもしれない。その僅かこそ大切であり、この僅かを主にささげることこと、それも天に向かって、僅かなことを感謝して「讃美の祈り」が私たちから起きてくるとき、私でなく神が私たちの使命を完成させてくださるという事実を私たちは見ることが出来るのです。私たちの周りには主の使命に生きている群れをみます。ここで起きている出来事は主が起こされているのです。
私たちの教会は、幼稚園という主の業、使命を与えられています。私たちは僅かなものしかもっていません。この僅かな物を主に返し、天に向かって讃美の祈りを唱えるところに、「すべての人が食べて満腹した。」という主による大きな奇跡が起こされてくるのです。私たちもこの出来事に出会うべく招かれている幸いが今、ここにあるのです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

 竹島、尖閣列島

815日は、また違う動きが起こってくる。竹島に韓国大統領が上陸。理由は慰安婦問題への十分な日本の対応がなかったからだという。尖閣上陸にいたっては暴挙である。石油が出てくることが分かるまでは、中国は何も主張していなかったが、それ以降急に主張する。
領土というものは、確定して不動のように思っているが実は時代の政治・経済状況によって変わるのだということを私たちは知っておくべきだろう。
ただ、土地は王といえども自由にはならないことを聖書は言っている。そこには良心が問われる。歴史的事実を前にして、良心が問われている。その良心を踏みにじるようなことは断固として「ノー」という毅然とした態度が必要だ。
世界に問われているのは良心であるように思える。この良心が軽く取り扱われていることに世界の混乱と不幸があるように思える。



新米園長・瞑想?迷走記

設計変更により、トイレの天井が低くなると言われた。現場に行き、さてどうしたもんかと思うとき、こどもの目線になってみるとどうなのかということを考えてみた。
やはり高い方が良い。天井を作らず配管も出しっぱなしにすることにした。そしてトイレが子どもたちにとって楽しい場にならなくてはいけないと思いを巡らしてみた。配管を明るい色にするが、しかし、トイレは落ち着く場所だからそれなりの雰囲気を作らなくてはいけないと思う。こんなことを考えながら改築していくのもおもしろいし、こどもの反応がどうなるのか楽しみになってくる。




ルターの言葉から



エラスムス、エコランバディウス、ツヴィングリ、カールシュタットはすべてをその知恵で推し量ろうとして、混乱している。しかしわたしは神がわたし以上により知っていることを知り、信じていることを神に感謝している。神はわたしが理解するよりも高いことをなすことができる。不可視的なものから可視的なものを創り出すことができる。なぜなら福音の光を通して起こるすべてのものは不可視的なものから出た可視的なものである。かつて10年前に誰がこの結末を予期したであろうか。肉は最も不信心である。(1532年)

ルターの生涯の論敵であったエラスムス、エコランバディウス、ツヴィングリ、カールシュタットが出てくる。特にエラスムスについては、ルターは痛烈に批判していく。エラスムスほど理性的であり、誠実な人間はいなかった。この理性的、誠実こそルターの許しがたいことだった。人文主義者において、人間を自分のあるがままに理解しようとして、自己自身の中にとどまり、人間に固有なものに価値を与えようとする。しかし、ルターは人間は罪人であり、破滅しており、この人間を神が義とする救済者であることによって規定されている。神との関係の中での自己認識であるのである。
神はわたしが理解するよりも高いことをなすことができる。不可視的なものから可視的なものを創り出すことができる。なぜなら福音の光を通して起こるすべてのものは不可視的なものから出た可視的なものである。」という視座をもって、理性と人間の誠実さでは得ることの出来ない、神の力にすべてが規定されている世界が神のダイナミックスによって創り出されているのを見ることが出来た人であった。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑤)
 
サンパウロのSE(真ん中)広場にサンパウロの大聖堂がある。数十年をかけて、やっと私の時代に完成にむかっていた。最初に入れたパイプオルガンをあまり使っておらず、いざ使おうとしていたら白蟻にやられていたという、これを辻パイプオルガン製作者が修繕したというエピソードがあった。
日本は宣教年数が浅いことや日本とヨーロッパの風土の違いがあるだろうが、日本の教会は献堂即完成となるが、教会は時間をかけて、少しづつ完成にむけて作っていくのが、良いと思っている。確かに先にあげた例のような嘘!と笑ってしまうような無駄なことがあるだろうが、この無駄も大切なことではないだろうか。「大聖堂の作り方」という絵本がある。ゆっくりと時をかけて、みんなで大聖堂を作りあげていく喜びの作業を見ることが出来る。
今、木造建築から鉄筋コンクリートの石作りに近いヨーロッパ型になってきているとき、ゆっくりと完成させても良いのではないかと思っているのだが、日本では、なかなか受け入れてもらえない。


(大森日記)今週は、耐震補強工事だけでなく、耐震改築工事が始まる。毎日、寝室が埃であり、寝る前に掃除するのが習慣になってきた。埃が少なくなってくると完成だと思って楽しみにしている。しかし、日常の業務と建築の業務があり、天手古舞である。暑い、蒸す日々が続く。クーラーがない時、朝早く起きて仕事をしていたが、日中も出来るようになったが、やはりペースは落ちる。やっと本を一冊読める。借家生活をしたことのない私は家賃が前月末に先月分を払うなんて知らなくて不動産屋から請求の電話。なんと無知なことか。土曜日に雷が鳴り、大粒の雨。暑さも一休みかな。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今日は、礼拝も早く終わり、とりとめもない時間をゆっくりと信徒と話す。昼食も一緒にレストランで。家内と整骨院に行き、訪問し、帰って夕礼拝まで、一眠り。夕礼拝も出席者と説教を巡って対話。夕食もすることなく家内も帰り。私もそのままねてしまう。久しぶりの神経を休ませた聖日だった。三階を壊し臨時の講堂を作るが、広さに驚く。夜は沖縄戦で心の障碍をおっている人たちのレポートを見る。戦争はしてはいけない。悲しく重くなった。
月)朝、早く起きて、来週の主日の準備にはいる。工事も補強、改築が同時に行われるようになり、さらに騒がしくなる。なかなか外に出られない。
)一日中、区への幼稚園変更手続きの書類を作る。また資金計画のやり直し。代議員と話し、頭をかかえつつ、するしかないが知恵と祈りが必要である。
)千鳥ヶ淵に戦没者慰霊の祈りをささげに行く。T君も参加してくれる。祈りというよりも集会で、没者の遺骨納骨堂に背を向けてはついていけなかった。礼拝観の違いか、日本人としての感性の違いか。来年からは納骨堂に祈りをささげてそっと帰ろう。今の平和の十字架を負ってくださった方々に祈りを捧げる。区役所への幼稚園変更手続きの書類を提出。今日も耐震工事で一日が終わる。合間を縫って誕生日の方の家を訪問する。
)今日は早朝に起きて工事業者が入れるように準備をし、遅くまで寝ることにした。昼に起きてきて息子の昼食を作り、仕事に入る。不動産屋から家賃の請求。前月に次の月の家賃を払うことになっているという。これが常識だそう。この常識からかけ離れていた自分に苦笑い。工事現場の指示、ストレスばかり溜まる。
)朝から工事の特に幼稚園のトイレの床の、ドアの色の打ち合わせ。先生方に委ね、責任は私が負えば良い。本部に負担金を納めにいくが外は暑い。
)工事は続く。夏休みを来週から5日間取ることを代議員と相談。母の納骨を兼ねて、新婚旅行をした山口を訪ねてみることにした。



2012年7月16日月曜日


聖霊降臨後第7主日          2012年 7月15日



夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるか、その人は知らない。            マルコ4:27

  
【説教要旨】
1954年の復活日に献堂され、私たちの信仰を育んでくれた会堂と今日、お別れの礼拝です。この会堂はフィンランド系アメリカルーテル教会の貴い献金によって建てられました。ここに見たこともない主にある兄弟姉妹の祈りと願いが込められていたことを忘れてはいけないと思っています。そののち、幼稚園の認可を得るために一部取り壊され、今日に至っています。
米国系スオミシノッドという小さな宣教団体によって育み育てられていた私たちの信仰の群れは、この会堂によって守られてきました。
聖書の一日の数え方は、「夜昼」という言葉にあるように一日は夜に始まり、昼で終わるということです。一日の大切な初めを夜の寝ることから始められたというところに何か意味があるのではないでしょうか。寝付けない夜があるということは、そこに深い悩みがあるときではないでしょうか。私たちが眠りに入るというのは、「一日の苦労、一日で足れり」ということを心から受け入れ、神に自分を任せることができることから眠りに入るのではないでしょうか。神さまに委ねる事から一日が始まる、これが「夜昼」という一日の捕らえ方ではないかと思うのです。一日を神に任せていくということが私たちの生活の基本であるということです。
私たちがその信仰生活をある意味では、この会堂に身を任せること、それはまた神さまに任せてきたことではないでしょうか。
「土はひとりでに実を結ばせる」という言葉です。この「ひとりで」という言葉は、オートマチックという言葉です、つまり全自動というものです。オートマチックというものが私たちの周りに多くあります。いわゆるスイッチひとつで何でも出来上がるというものが。全自動といいますが、機械はそのように作られているわけです。そのように動くように作った人がいるわけで、自然にそうなるということではないのです。つまり、神が実のなるように私たちを作られたということです。「おのずから」と言う言葉の中には神の働きがあるということです。私たちの歩みは神の働きによって動かされているということです。
神は、働かれていました。恵みをもって支配し、支えてくださっていました。この恵みの支配、恵みによって私たちは守られてきたのです。これは、神の筋道なのです。神としても筋道、それは愛の筋道です。わざわい、貧しさ、苦しみのただ中で、なお神の愛を信じ抜いて生きてきた歴史をこの会堂に託してきました。「おのずから」という言葉のうちには、神の筋道が働かれているという意味があります。私たちはこの神の筋道をこの会堂と共に生かされてきたことを感謝して、信仰の道を行きたいと願っています。
私たちの生きるということは、深い神の筋道のなかで歩いているのであるということに私たちは気づきたいのです。 神の懐にいだかれて私たちはいかされています。この懐こそこの会堂が私たちに実感させてきてくださったのではないでしょうか。

 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4・28)

 大森教会の宣教の歴史の中で、建物が時代時代に応えてきました。またこれからも応えていくでしょう。
 現代の建物にした福本牧師は、おさのご園から生まれた幼稚園を時代に応えるものとするために無認可幼稚園から公認幼稚園とするために今日の建物にした。そして責任ある幼稚園として今日まできています。先生は50周年誌に「立派な建物が出来ました。でも最善のものではありません。出来れば、礼拝堂も幼稚園も、牧師館もそれぞれの建物であってほしい。ぜひ、将来の目標にしてほしいと願っています」と願っていました。今回はこれに応えることが出来ませんでした。
しかし、今日まで私たちが神の道筋を生かされてきましたように次への段階へと進むべく私たちは新しい段階へと進んでいるのです。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実」。私たちがどの段階であるかは定かではありませんが、確実に私たちは豊かな実を与えられようとされているのです。
この私たちを育み育ててくれた会堂とお別れするのは寂しいものがあるでしょう。しかし、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実」と確実に未来への祝福された歩みの一歩でもあるのです。
さらにその未来は「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」というように「収穫の時」を信じて歩みつつ、これまで私たちを育ててくれた会堂に感謝しつつ、このために祈り支えてくれた米国系スオミシノッドの方々、また信仰の道をここで歩まれた方にも感謝の思いをささげつつ会堂にお別れを言いたいのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると

温かい言葉が久しぶりに紙面から聞こえてきた。いじめの問題がクローズアップされるとき、「いじめられている君へ」という記事で、元ボクシングの世界王者になった内藤大助さんからのメッセージである。彼自身、いじめにあっていた経験から語りかける言葉は説得力のある言葉である。
「いじめられてよかった」なんて思ったことは、ただの一度もないぜ、いまだにつらい思い出なんだ。
俺は一人で悩んじゃった。その反省からも言うけど、少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい。先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。あきらめちゃいけないんだ。
私たちは、相談にのれる教会を作っていくために何かをしたい。



新米園長・瞑想?迷走記

区の園長会である。ここに出るのも園長の仕事である。情報を得ていく大切なことである。
今回も研修があり、「幼保一本化の総合こども園」についてであった。経済の格差化からくる地方と東京の受け留めが違うということを知る。今、何をとっても格差ということを考慮して発言しないと相手の気持ちを汲めなくなり、痛みを分かち合えなくなり、ことを前進させていくことが出来なくなってきているという。さらにいえば私は、人の感性が問われてくると思っている。
感性は小さなときから養われていく、この感性を育んでいくのは幼児教育だと思う。そのためにも子どもたちに多くの経験をさせていきたい。


ルターの言葉から」

もし自分が選ばれた者のひとりであるかどうかを心配し、選びの問題で悩む人があるならば、自分が心配していることを感謝し、喜ばなければなりません。なぜなら神は決して偽ることのできない方であり、しかも、「神の受けられるいけには砕けたる魂」、すなわち絶望せる魂であると約束されていることを確信ともって知ることができるからです。「砕かれた、悔いた心、神よ、あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51・17.
自分が砕かれていることを、彼は知っています。それゆえに、約束してくださった神の真実に、全身全霊を投げかけ、神の怒りについての知識から離れます。そして選ばれ、救われます。
         ルターの「ローマ人への手紙講解」

宗教改革者は、神の選びについて語ります。自分が神によって選ばれているかどうかは人間の業で決まるのではないというのです。
自分がどうしようもない人だとそう感じる砕けた心こそ、自分に絶望する心こそ神がお望みになることです。

わたしがわるかったのだ
わたしがわるかったのだ
こうして草にすわるとそれがよくわかる。
八木重吉

 何がよく分かるか。自分が愛された存在であり、また選ばれた、救われた存在だと気づかされるのです。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)
牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)バザーのあとは、礼拝出席が減る。これもしかたないことかと思っている。建築が近づいてくるギスギスしてくる。やはり今日の建築委員会ももめる。疲れ気味。気持ちが荒れているのが分かる。平常心でなくてはいけない。夕礼拝まで訪問し、笑点を見ながら眠りに。夕礼拝の礼拝後の語らいを静かに時を過ごしていく。妻は11時を越して大学に帰って行った。お疲れ様でした。
月)区と保育室、運動場の面積の最終打ち合わせ。園舎増改築届けを出さなくてはいけない。幼稚園はお休みで静かである。こちらは休むことなく建築への準備である。こんなときいろいろと課題が沸騰してくる。
)幼稚園が始まる。久しぶりに門に立ち子どもたちを迎える。昨日の疲れを引きずっているがふんばりどころ。引越しの準備。特に教会のものを引越しするとなると大変である。例のごとく家財、本が入るのか心配である。午後、仲人をしたM氏が訪問。しばらく手を休めて歓談。夜に幼稚園の誕生会のケーキを家内が届けてくれた。感謝である。
)手作りケーキで、誕生会。引越し、建築準備のなかであるので落ち着かないが、ケーキを食べてみると疲れもとれる。区の園長会、帰宅途中、入院中の信徒さんを訪問。アメージンググレースの歌が好きだという。次回はもっていこう。
)今日も建築ことで一日がふりまわされる?その間、入園説明会など続く。幼稚園の工事の準備もある。聖書の学びも終えて、一緒に食事に行く。くるくるずしだけど。
)朝から引越しの準備。書類の整理。なかなか分からなかった敷地内にあった区の土地の関係が分かる書類が見つかる。これは宝の発見。幼稚園の最後の礼拝、もう夏休みか。今年は建築でなさそうである。午後から工事の打ち合わせ、夜までかかる。すべてが終わると友人から相談を受けるために出かける。大雨。終わり友人が集まり、カラオケ。みんなエグザイルを歌われるとこちらはお手上げ。
)朝から礼拝堂のお別れ会の準備。仕事をし、休み、仕事をし、休む。一週間の疲れがとれない。体力、気力が衰えてくる。午後から使徒信条の学び。信仰は、学びの連続であると思う。準備だけで終わり、祈る気力さえ、失ってくる。会堂の建築はいつもの通り、消耗戦。


大森通信    
 思いで
 
自分が携わった教会堂建築は、大森で4件目である。それぞれの旧会堂は壊すには惜しいほどのものがあった。ボーリス設計の高師教会(小田原教会と同型)は形が綺麗で、どこかに移築したくなるほど。刈谷教会は、緑の芝生が会堂を際立たせて、芝の上に浮くような教会であった。やはりボーリスの設計だった。浜名教会は浜名湖の側にあり、赤屋根に浜名教会と書いてあり車窓から見えて情緒があった。
ある牧師は「僕は幸いにも一回も建築がなかったが、先生、ご苦労さま」と励ましてくれた。そして4回目の会堂建築である。他に会堂、牧師館改修、施設建築となると5件となる。そこで生きていた人々の息づかいを感じつつ、その重さに責任を感じる。 
今回も、みなさんには、それぞれの思い出があり、いろいろなことが走馬灯のようにまわってくるでしょう。ここで信仰が育まれていったのである。この会堂は単なる物でなく人生そのものであると思うのである。



(大森日記)本格的に耐震工事が始まろうとしているとき、覚悟は決めていたが、目まぐるしい日々が続く。代議員を筆頭に処理していただく。探していた書類などを発見。幼稚園もいざ始まろうとしていると先生のパワーで準備がなされていていく。課題にぶつかる度に、多くの助けがある。資金の整えをしている。九州が大雨。どこも自分の知っている土地で心配である。実家の後ろが、よく壊れる崖で心配である。「経験もしたことのもない大雨」という表現どおりである。会堂お別れ会にむけてT君が準備をしてくれる。歴史がパソコンに記録されていく。感謝である。来週から耐震補強工事が始まる。来週も忙殺されていくだろう。そして課題が残るだろう。これを共に祈りつつ、解決していくか。「試みに合わせず。」





2012年6月3日日曜日

三位一体主日             2012年6月 3日

 

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 ヨハネ3:5


【説教要旨】

ルーテル教会の創始者であるルターという人は、新しく生まれたという体験をした人でした。

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国(神の支配)を見ることはできない。」

人が新たに生まれるということはどういうことかというと、「神の国」とありますね。「神の国」という意味は、神の支配ということです。

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

ニコデモという人が出てきます。まずファリサイ派の人であったと紹介されています。彼らは実に真面目な信仰者であり、ファリサイ派の人の信仰生活は実にすばらしいものであり、宗教的にも政治的にも指導者である最高法院の議員であったのです。しかし、当時のユダ人社会は、ファリサイ派の人からすれば、実に信仰的に堕落したもののように見えました。この腐った社会から自分たちを分けて、律法を遵守して、神に喜ばれる生活をするということに実に真面目に生きた人たちでした。ファリサイ派というのは区別する、分離するという意味です。腐った社会から区別され、分離してまじめに生きるということです。

この当時の社会が神の支配を見ることのできないような社会だと思っていました。だからニコデモは神の支配を誰よりも見たかったと思うのです。

「新たに生まれる」、そんなことはできないと思います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。」、その通りですね。歳をとってきたこの頃、とみに自分が新しいものでなく、過去の中で生きようとしているかをつくづく感じます。新たに進みだすなど至難の業です。ルターは、「私たちが新たに生まれなければならないとは、実に厳しいことばです。」と言っているように、本当に思います。こういう現実にある私たちにイエスさまは、『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」』と言われます。

水と霊」というのは洗礼です。

では洗礼を受けるとはなんだということになります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ということを信じることだということです。自分がキリストに愛されているということです。ルターは、「この新生、すなわち義認からだけで、」と言っています。私たちが一人も滅びないためにイエス・キリストが十字架にかかって、私たち罪びとを救って下さったということを信じるということです。

宗教改革の完成を目指し働いていましたルターは、ヨハネ3章の説教をする前年に死ぬような状況にありました。肉体の内も外も決して彼の思うような状況にありませんでした。そんな中で、彼は神の支配を見、信じ、体験していました。この困難の中で、自分は新しく生れ変わったと感じたというのです。それは「人が霊によって新たに生まれ、体験することがなければ、決して理解できないことなのです。」というように「霊」に生きることを言っています。彼はいつも霊を感じていた。霊に生きるとはルターが「義認のみ」と表現したように「神の愛、イエス・キリストの愛のみ」に生きるということです。神の愛、イエス・キリストの愛のみしか見えないということです。ルターという人は神の愛、イエス・キリストの愛のみしか見えない人でした。神の愛、イエス・キリストの愛に生きる、ここに新たな生き方がいつの時代、どんな場所でも起きてくるのです。

 自分がからっぽになるここに「風は思いのままに吹く。」とあるように神の愛が、イエス・キリストの愛が人の思いを越えて自分の内にあることを知ります。それは新たになる、愛の人となるとうことです。「この新生、すなわち義認からだけで、善い業は続いてやってきます。」ということです。

ルターの自由さは、日々新たにされ、すべてがイエス・キリストの愛に支配されていたということから起きたのでしょうか。聖霊が働いておられる、イエス・キリストの愛が私たちのうちに働かれておられる力が私たちを新たにし、愛の人と変えてくださいます。愛することができる。

「愛する兄弟たちよ、私たち自身が神の国なのだが、この神の国は話やことばによって立つのでなく、行なう力、すなわち、行為、働き、鍛錬によって立つのである。・・・信仰において、愛によって従う者を欲しておられる。愛のない信仰は十分ではない。」と彼は説教しています。キリストの愛に動かされ、つまり聖霊に動かされ、私の力でなく、新たにされた私が神の国に入り、愛を行なう者とされていることに感謝して歩みましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると


太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。

下手に使ってその富を失い/息子が生まれても、彼の手には何もない。コヘレト5:12-13

あれほど脱原発であった橋下大阪市長が大飯原発の再稼働を一時的であるが認めたという報道があった。夏の関西の電力不足を考えるなら首長としてはしかたないのかもしれない。しかし、何か腑に落ちない部分を残している。

3・11の震災、福島原発事故ということを通して、見えてきたのは、私たちが託した日本という富の管理をしている政治が、管理を十分にしていなかったということである。そして、持ち主の私たちが損をし、未来に何の財産も残さないかもしれないというところにいるということである。期待されている橋下さん(私は期待してはないが)さえ、いとも簡単に前言を翻すなら、誰を管理者として決めて良いのかと悩む国民は不幸のうちいる。しかし、コヘレトは「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。7:3」と言う。これも真実かもしれない。



新米園長・瞑想?迷走記

やっと園児らが幼稚園に慣れてきて、自分ということを表現できるようになってきた。良い子が少し我儘の子になってきているが、これが本来の姿であり、これを表現できるか出来ないかというのが先生方の保育能力になるのであろう。

幸い、先生方の保育指導により、子どもたちは自分を出し、個性を出し、表現出来始めた。園が一番、活気づく季節だが、同時に、大変な季節になったのかもしれない。


大森通信    
 
名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。
コヘレト7:1-2
母が危篤だと、兄からの電話があったが、やっと彼女もよく生きた人生を閉じることを許されたんだという感謝の気持ちが湧いた私は変なのだろうか。終わりということに負のイメージでしか私たちは持っていないように思う。しかし、みな終わりがあることをこころしなくてはいけないのではないだろうか。
でも、終わりは決して負ではないとコヘレトはいう。「死ぬ日は生まれる日にまさる」。これは人間の死について語っているのだが、命は神が与え、取りたもうというように、神の地上での最後の働きの時であり、これが私たちの時を閉じる時に起きるとするならなににも代えられない恵ではないだろうか。
また、この頃、同労者で共感できる先輩牧師を天に送ることが多い。寂しさはあっても、彼らに羨ましさを感じ、晴れやかな気持ちで出席することが多い。「弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。」ということを心からアーメンと言える歳になっている。

(大森日記)耐震補強、改築ということで、それも大きな地震がやってくるという時のなかで準備をしている。今週も時間も、心もこのことで奪われている。なぜ急ぐかというとやはり子どもたちの命を守るためであるということに尽きる。小さきものにしたるは我にしたりと主の語りかけを聞く。教会の組織ということに長く関わって思うことは、組織がなくては、自分は何も出来ないと思うようになることが一番、危険だということに心することだと思う。今週もしばらく教会を離れている方、病気などで来られない方に手紙を発送した。まだ会ったこともない方がいるが、一人一人を思い起こすことは感謝である。五月もあっという間に過ぎっていった。
おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)子どもたちが教会学校にやってくる。卒園生も多くやってくる。どう子どもにイエスさまの福音を伝えていくかが課題。昔ある教会は土曜日から教師が集まって準備をしていると聞いたことがあるが、そういえば、それが当り前のようにしていた。そんな情熱は教会から消えていったのかもしれない。今日も最終段階に入った耐震工事で会議。子どものために。
)全国書記に選ばれたために牧師が不在になるのでどうするかという会議だが。この原因を作った担当者から何の話もない。決まったことだから聞けということか。小さな教会はいつも無視され泣くしかないのか。最も教会らしくないことに腹が立つ。抜くなら抜く良心があっても良いが。今日は耐震工事の資金のために銀行に交渉に行く。良い園ができるために。
)全国のルーテル幼稚園・保育園の総会に九州に向かう。変化していく社会にどう幼児教育、保育をしていくかを討議されていく。柔軟に教会はそれぞれの現場に任せた方が良いとひしひし感じる。夜、93歳の母を見舞う。まだ親父が来いといわないと一言。息子の教会に泊まる。色々と目につくが見ざる、言わざるかな。
)始発の電車で東京に、元牧師だった古財牧師の葬儀に帰る。その途中、大変にお世話になったMさんが天に帰られたという電話。古財牧師のとき園児だったT君が葬儀中に泣き出した。きっと良い園生活だったんだろう。葬儀が終わり、すぐにM兄の葬儀に名古屋に向かう。よくカラオケで「どうにかここまで生きてきた、女房を道連れに、まだまだなにかありそうだ」という節を真似できない味で歌っていた。
)葬儀に出て、昇天日礼拝のために東京に引き返す。なんだか空な気持ちになる。
)溜った仕事をいっきにやるが手につかない。職員会議も耐震工事へむけての準備に入る。雷、いやな感じの地震と今日はどうもというところ。銀行と打ち合わせ。そのあと、私学財団と。こどものため。
)設計士と打ち合わせをする。欲は出てくるが子どものための欲でありたい。

2012年5月6日日曜日


復活後第4主日




  父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。  ヨハネ15:9

【説教要旨】

私の婚約式のときに家内と交換した聖書に私を導いてくださった内野牧師が、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」今日のみ言葉を書いてくださいました。

結婚して、結婚生活をしていくとき、男と女の愛し合うという、人間だけの愛だけでは、結婚生活は、到底維持できないということをひしひしとこの歳になり、さらに重く感じています。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

私たち二人だけのものでなく、クリスチャンはもう一人の方と共に繋がっているということです。それはイエス・キリストと繋がっているということです。それを私たちは、人生の歩みの中で忘れがちになります。結婚式の誓約を思い出してください。初めは神さまと誓約を交わします。次に結婚する二人同士が誓約します。私たちが神の前で結婚するということは、結婚が私たち二人だけの繋がりでなく神との繋がりがあって成立するということです。

夫婦であり続けることができるのは、人の力を超えたもう一つの力に支えられていたと思っています。枝が木につながり水や栄養分をもらって生きて、成長しているように、神の愛をもらって人の愛を超えたものをいただいて、私たちは生きているのです。

ブラジル聖公会の弓場司祭のお父さんが天に召されるとき、息子を呼んでいわれたそうです。「お前は、よく勉強し、良い司祭になった。しかし、聞きなさい。繁、いいかイエスさまのどこでもいいからしっかりと握って、離さないでいなさい。そうすればきっと間違いない」といわれたそうです。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶというみ言葉、そのものではないでしょうか。長い甘いも辛いも信仰生活の中で経験しながら、イエスにつながることの力強さを心で受け止めていた者の言葉ではないでしょうか。

イエスさまに繋がることは農夫である神さまの働きがあるのです。神の働きこそ私たちを作っていくのです。私たちは神に繋がるということを自明のように受けとめてはいけません。だからイエスさまは「わたしにつながっていなさい。」とあるように命じられるのです。私たちは一瞬、一瞬、このことを心に刻みつつ、一瞬、一瞬、この命令に従っていくことが大切なのです。すなわち、

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」

父なる神がイエスさまを愛した。イエスさまが私たちを愛してくださった。愛という意味では同じです。しかし、ここで大きな違いがあることに気づきます。父なる神が愛すべきイエスを愛された。イエスは愛すべき私たちを愛したのではありません。私たちは愛される存在ではありません。むしろ、神に背く者であり、罪を犯す者であり、神に敵対する者です。しかし、イエスはこんな私たちを愛してくださっているのです。これは当然のことのように私たちは思っていますが、当然なことではないのです。だから「わたしの愛にとどまりなさい。」と命令がやってくるのです。

さらに「戒めを守るならば」とあります。戒めとはなんでしょうか。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

互いに愛するということです。その愛とは、愛する対象になりえない者を主イエスが愛されたように愛するということです。これは自分が愛されるに相応しくない存在であるということを知ること、「つながっていないさい」ということを日々、噛みしめるということ、それゆえに「互いに愛し合いなさい。」ということが起きてくるのです。

神の愛、イエスさまの愛に留まるという事です。人の愛でなく、神の、イエスさまの愛に留まることこそ、すべての基が私たちの内にあるのです。

イエス・キリストの贖いによって、私たちはすでにキリストに結びつき、キリストの愛に留まっているのです。私たちはイエス・キリストのうちにいるのです。私たちは愛される存在とされているのです。それはいつも「つながっていないさい」、「互いに愛し合いなさい。」という命令、励ましの言葉があり、これに聞くものでなければなりません。これに聞いていく者が私たちキリスト者なのです。豊かな実を、愛の実を結ぶのです。すべて、ここから私たちをはじめていくこと、私たちが主の弟子となることです。神に、キリストに、支えられ、愛され、育てられている自分に深い感謝をもって、人生を一歩踏み出しましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると


新米園長・瞑想?迷走記

入園児を私たちは多く迎え、経営は安定しているが、地方の教会は大変に苦しい状況にあることが分かった。今月、ルーテル幼稚園保育園連盟の総会があるが、痛みを自分の痛みとして、共にキリスト教保育を発展させていくことを考えたくなった。自分の園だけでなく、他者のことも考えることが出来る教会の園となりたい。


ルターの言葉から

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」            ヨハネ15: 9

キリスト者の間から愛を締め出し、そこに憎しみと嫉妬をきたらせようと、ひたすら努力するほど、悪魔が喜び、望むことはありません。愛によってキリストの国が建設され、維持されることを悪魔もよく知っているからです。

キリストは、私たちが何よりも愛を保つようにと熱心に勧め、そして父とご自分とをそのことの最高で完全な手本としてお示しになりました。(イエスの言っておられる意味はこうです。)わたしの父はわたしを限りなく愛して、わたしの内にあらゆる力と権威を置いてくださった。今、父はわたしを苦しみにいれようとしているがわたしが行い、苦しむすべてのことを、あたかも神ご自身に対してなされたかのように受けとっておられます。そして、わたしを死から命へと甦らせ、万物の主とし、わたしの内に神のみいつの誉れを帰させてくださるのである。(イエスはさらに言われる)そのように、わたしも<あなたがたを>愛するのである。わたしはあなたがたを罪と死から救い出し、わたしの純潔ときよさ、死と甦り、わたしの権威のうちにあるすべてのものを与える。それゆえ、わたしの愛の中にとどまりなさい。たとえわたしのために激しい苦悩に見舞われ、激しい試練を受けて、わたしから離れさせようとしても、耐え忍びなさい。あなたがたの苦しみや痛みよりも、わたしの愛をより強く、より大きく感じなさい。

私たちはこのキリストの模範に従い、それぞれの能力に応じて、互いにこの命令を実行することを学ぶのです。
ヨハネ福音書講解より



(大森日記)礼拝後、耐震工事への最終の説明会の信徒会、その後の建築・役員合同委員会と続く。みなさんがよくついてきてくださっていることを感謝します。翌日、ブラジル伝道報告会が開かれ、神さまのくすしき御手を感じさせられた。神さまは生きておられる。1日から全国牧師会、2日から全国総会と雨の中で開かれる。聖書を生きる大切な力は座力(コーアハ・イェシヴァ)、座る力だという。座ることから始まる。まさにそんな時間の4日間でした。総会後、名古屋の役員さんが生まれた文京区を散策。神田川、湯島聖堂が遊び場だったという。そんなとき防空壕の跡、強制疎開で家が壊された話などを聞き、平和の大切さを感じ、今を生きている幸いを感謝している。昼食をご馳走になりながら、伝道とは何かということを熱く会話する。もっと伝道しなくては。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。 

日)耐震工事の信徒会。説明をしながら理解をしていただくのが、色々な貴重な思いがあるので、一つ一つに完全に応えていくことの難しさをひしひしと感じている。いつも教会の建築がついてくる。別府時代は集会室の建築と会堂、牧師館の改修、サンパウロ時代は教会堂の建築、資金はあったのだが、これは計画倒れで終わった。刈谷は教会堂、牧師館の建築、静岡は数教会、施設の建築、名古屋は改築と続いている。もって生まれた星の下というのがあるのだろう。夕礼拝後にみんなでゆっくりと聖書のことを話す。時の穏やかさに心静か。
)ブラジル伝道報告会、50名の方々が来てくださり、熱心に耳を傾けてくださる。夜はブラジルの婦人に、くるくる寿司は行きましたかと聞くと行かれていなかったので連れて行く。日本の文化です。長男が来たがすぐに婚約役者の所へ。嬉しいようで寂しい。
)木曜日のブラジル報告会の朝食の材料を買いに鶴見に行く。つい、買いすぎてしまう。夕刻より牧師会。だれていると大きな声をあげて発言した方が、夕礼拝にはいなかったのはなぜだろうか。やはりだれているからかも。友人と新橋で飲み、電車がなく品川まで歩く。そこから次男にSOS
)今日は、教師会、全国教会総会と続く。雨が強く、足元が濡れてしまう。地方の教会の幼稚園の経営環境の厳しさをうったえるアピール。
)総会、朝のブラジル朝食会の準備。雨。足元が悪いのにもかかわらず出席くださる。感謝。昨日の幼稚園のアピールにたいして、責任教区の役員の弁明あり、自分たちは存知せず、まことに遺憾、なんと冷たい答えか。腹立たしくなる。久しぶりに怒り。
)総会最後の日、終わり議事進行のお役を終わり、ほっとしていると名古屋の役員さんがご褒美に高い21階のレストランに夫婦を招待してくれた。いつも牧師をきづかってくださる。関東大震災後に作られた震災復興公園である文京元町公園を散策。震災後鉄筋コンクリートの小学校と避難所となる公園をセットに作ったという。この英知を昔の人はもっていた。
)総会疲れの上役員会の準備などしているとうとうと。妻は友人宅でパーティー。帰ってきて原稿を推敲してくれる。感謝。明日は息子は礼拝に出てくれるだろうか。

2012年4月22日日曜日

2012年4月22日


「わたしたちも一緒に行こう」
ヨハネ21:3

【説教要旨】

花が上を向いて咲いている  私は上を向いて寝ている
あたりまえのことだけで 神さまの深い愛を感じる
これは星野富弘さんの詩です。私たちはどこを向くのかということを復活の出来事を通して私たちは知らされていくのではないでしょうか。
今日の聖書の日課にある物語に由来する教会がガリラヤ湖にあります。その床に魚とパンのモザイク画が描かれていたのが印象的でした。ヨハネ福音書は20章で終わっているはずなのですが、ペテロを中心として、ガリラヤでの出来事の一章を加えて復活の物語を展開しています。
エルサレムにおいて、二度、復活の主とお会いしていたのにもかかわらず彼らはなんとなくはっきりとしていません。ここで主は、弟子たちにどこを向くのかということを示されています。
彼らはもとの仕事である漁師にもどろうとしています。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。』
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え
なさい。という主の言葉はどうなっていったのでしょうか。
わたしは漁に行く」ということは、主のお言葉に反するではないでしょうか。私たちは「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。マタイ4:19」という主のお言葉を思い出しませんか。彼らは復活した主にお会いしたのにもかかわらずまだ主のお言葉と反している。しかし、確実に主は、人の思いを超えて、人のなす業を超えて、弟子に約束されたことが成る準備をしていてくださいます。「人間をとる漁師になる」とは言わないで、「人間をとる漁師にしよう」とあるように、人間をとる漁師に、私たちを主がしてくださるということが準備されていっていることがわかります。
 「わたしは漁に行く」とあるようにペテロらは、その日の糧を求めてでかけました。しかし、聖書は「しかし、その夜は何もとれなかった。」と記しています。彼らはその日の糧を得ることが出来なかった。食べるものがなかった。しかし、主は彼らをほってはおかなかった。「イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
復活の主は、私たちの生活の場にきてくださる。「子たちよ、何か食べる物があるか」、主は語りかけてくださる。そして指示してくださる。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と。主に導かれた私たちがいる。私たちの食べるという最も基本のところに主も生きてくださる。生きた主に気づく。「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
ペテロは気づくのです。またやった。自分の弱さ、主に促され、支えられて生きている自分に気づいていない罪のうちにいる自分に、それ以上に「すべての人の中で最もあわれむべき存在」であることに気づくのです。
しかし、主は、弟子を顧てくださいます。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」朝の静かな湖畔で、決して豊かといえないけど、しかし、日毎の糧が用意されている。体を温める暖が用意されている。この主が私たちとともにおられるのです。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
自らの弱さを自覚し、悔いている弟子の姿があります。それを赦し、主の弟子として出発すべき温かく愛に包んでくださる主の姿を読み取れはしないでしょうか。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と弟子らを整えてくださろうとする主のみ手を感じます。
わたしたちも一緒に行こう」、それは弟子らが仲間を作って出かけていくのですが、弟子の、私たちの人生を一緒にいくのは、仲間でなく主です。私たちが向くのは私の前におられる生きた主です。私たちが歩んでいくときに主から離れて、かつてに生きようとする自分、罪深い私がいる。しかし、主は一緒に歩んでくださり、指示してくださいます。支えてくださいます。私たちを主の弟子に相応しい人にしてください。主は「わたしたちも一緒に行こう」と今日も私の方を見てくださっています。だから「花が上を向いて咲いている  私は上を向いて寝ている あたりまえのことだけで 神さまの深い愛を感じる」者となるのです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

本能であり反射
私たちの世代によく知れた雑誌にポパイ(POPEYE)がある。そのポパイの創刊者・木滑良久さんの記事と言葉が目にとまった。
「大切なのは本能であり反射だと木滑は言う。『丁寧に突き詰めて、筋道を追求すると、僕たちの仕事は面白くなくなっちゃうんですよ』。」
信仰の表現にも通じるところがあるのではないだろうか。教会を表現するとき、組織としての教会(キルヘ)、交わりとしての教会(ゲマインシャフト)という具合に表現する。この交わりとしての教会が本能と反射で動くとき、交わりは面白くなるのではないだろうか。
組織としての教会(キルヘ)、交わりとしての教会(ゲマインシャフト)を使い分けたときこそ木滑さんの言葉が生きてくるのかもしれない。



新米園長・瞑想?迷走記

玄関を入ると左側にチューリップの花が咲いている。これは昨年の卒園生が、在園している時に植えたものである。右側には百合の芽が出て成長している。これも同じである。卒園した子どもたちが残してくれたものである。
彼らはもう園にいないが、それぞれの植物を見ながら、成長して、花をきっと彼らもやりとげるんだと思いつつ、「ありがとう。頑張れ」と声をかけている。
に兄弟のいるお母さんが「チューリップどうなっ た」と子どもが気にしていますと聞く。彼らも園のことをきにかかけてくれているのだろうか。                           


ルターの言葉から


音楽は神から与えられた最も美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽を嫌います。音楽は、誘惑と悪しき思いを追い払う大きな力をもっているからです。悪魔はこの女性(音楽)を受け入れません。
音楽は最もすばらしい芸術のひとつです。ことばを生かします。サウル王の例に見られるように、悲しみの霊を追いやります。
音楽は、悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。
音楽は神学と並んで、神の与えられた栄光の贈り物です。私はこの世のなにものをもってしても、この小さな贈り物と他の物を交換することを望みません。私たちは青年たちにこの芸術をもって教えるべきです。立派な賢い人々を作り出すからです。
讃美歌集の序文より

ルターは音楽に対して天才と思われる才能を発揮したひとです。しかし、音楽を単なる芸術作品として理解したのでなく、彼は音楽を「神の与えられた栄光の贈り物」として受けとめました。
この神の恵みこそ人を救うということこそ彼の信仰の中心でした。神の恵みとしての音楽は「悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。」と彼は発見しています。今日では、音楽で心の癒していくことに日野原重明氏などが注目をしていますが、ルターはすでにこのことに気づいています。
音楽の教会として、たゆまず私たちの教会が熱心なのは、ルターの神の恵みとして音楽を受けとめていったからです。



大森通信    
 

森一弘司教が「開かれた教会づくりをめざして」という本の中で「無力」ということについて書いている。
「宣教の現場は、私たち司祭がどんなに無力な存在であるかを否応なしに、教えてくれる。・・・・・・どのケースも重い。安易な解決はない。言葉は無力である。何かいわなくては・・・・・と思っても、現実を前にして喉にひっかかったまま言葉にならない。
こうした重く悲しい現実に共感し、それを背負い、共に苦しまれたのが、キリストではなかったか。
教えを説く以前の福音宣教の原点となる心が、ここにあるような気がするのである。」
全国総会が開かれる。教会の宣教について協議していくわけであるが、いつもひかっているは、私たちが何かが出来る、何かをしなくてはという人の誠実さである。ではなく、「こうした重く悲しい現実に共感し、それを背負い、共に苦しまれたのが、キリストではなかったか。」というキリストに向かうことではないだろうか。
無力を語る教会のトップの司教をいだいたカトリック教会は幸せなのかもしれない。


(大森日記)数ではないというがやはり数は気になる。しかし、毎週出席くださる一人一人方を覚えつつ迎えるのも礼拝である。今日も夕礼拝は一人の方であるがこの一人こそ大切にしなくてはいけないと思っている。礼拝後、復活祭の卵を届けに訪問に出かける。共に祈りつつ時を過ごす。今週も耐震工事のために多くの時間、心を取られる。携わりながら大切なことは工事がどうかでなく、ここにいる人、園児が大切にされていくことである。資金については課題が残るがアドナイエレ(主が備えてくださる)である。土曜日に義母の納骨式に出席。浄土真宗高田派である。「弥陀の本願」についてお話を受ける。どこかキリスト教徒と似ている。風邪で熱が出てくる。こんなときにすることが多い。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今週から本格的に教会学校が始まる。卒園した子どもたちが来てくれる。また父親の方も一緒に礼拝に出席してくださる。子どもへの説教を語りつつ、親御さんにも伝えていく努力をしている。教会、幼稚園の耐震工事のための委員会、並行して女性会とある。全ては計画通りにはいかないが、これも主の心があるのであろう。墓前礼拝には間に合わないので急遽、神奈川の信徒さんを訪問することにした。一週間遅れの復活祭を祝う。夕礼拝を静かに祈る。終わり、どっと安堵感に包まれる。
)何かをしていたのだが思い出せない。たぶん休んでいたのだろう。
)静岡のキリスト教道友会とその子、デンマーク牧場福祉会の協議で静岡に久しぶりに向かう。教会と福祉、初任地、別府から引きずっている課題である。夢を共に負っていけると思った。小田原まで各駅停車で本を読みながら時間を遊ぶ。心地よい疲れであった。
)都庁との耐震工事の実施についての協議。課題を整理していくのだが正直、綱渡りのようなところがありしんどい。子どもの安全を考えるとやらなければならない。午後から財務委員会、終わって古本を探していると悩んでいる青年から電話。いったん三鷹に明日の誕生会のケーキを取りに行き、引き返し青年と会うが、なかなか話さない。終電がなくなる。朝方になりぽつぽつと。真面目さと戦っている。力を抜け、頑張らなくても良いよと言いかけたがやめた。祈るしかない。
)朝の祈り、庭を掃きながら待つが誰も来ない。ベンチに座り一人祈る。夕刻から聖書の学び。ガラテヤ書である。その後出席した方と夕食を共にする。
)明日は、義母の納骨式、土曜日は空けなくてはいけないからやることはやっておこうと思うが熱でさっさと寝てしまう。起きたのは翌朝。
)納骨式、いらいらしていて妻と喧嘩。この頃、妻の正当論にいらつく。正しいことが正しくはない。熱がでて節々が痛いがやるしかない。長男に説教が出来ていたらくれというと拒否をくらう。そんなことで熱の中を作業している。これも楽しもうと慰めている。

主にあるみなさん
 週末風邪をひき、計画が大いに狂ってしまいました。熱とのどの痛みの中をやっと準備が出来ました。そんななかで息子に説教をくれというとやる理由はないと拒否されてしまいました。
 耐震工事の建築があり、百人いたら百人の意見があります。これを大切にしながらやっていると結構、ストレスがあります。なにを言おうと決断すればいいのですが。
 人の思いを超えて祈りつつ、計画をしています。
 先週からガラテヤ書に取り組んでいます。これがおもしろいのです。
 今週も皆さんの健康が守られますように。      竹田孝一