2013年4月14日日曜日

復活後第2主日

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ルカによる福音書24:36

【説教要旨】
幼稚園で毎朝、門のところで子どもを迎え、朝の挨拶を交わしています。「おはようございます」という挨拶は、日常的な挨拶ですが、しかし、ごく日常的な挨拶でも誰とどこでどのように挨拶するよって、大きく意味が違ってくると思います。園児と保護者と交わす朝の挨拶は、形式的に挨拶するとのは違った重みがあります。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
「あなたがたに平和があるように」という言葉は、当時の日常的な挨拶です。ですが、復活したイエスさまに出会ったときの「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、いつもと違った意味があるように思えます。
復活という出来事の中で、この挨拶はこういう意味をもってきているのではないでしょうか。
生前にイエスが十字架に死に、三日目に甦るということを聞いていたし、期待していたのですが、現実ということでその期待を押しつぶしていたということです。本当に信じきることが出来ないでいたということです。その暗い、イエス・キリストを信じられなくなっている弟子の罪を打ち破るように弟子らの前に復活して、イエスさまは現れたのです。人間の信じきることできないこの罪を、私たちが信じることのできるように神さまはイエス・キリストを遣わしてくださり私たちのあらゆる恐れは取り除かれ、罪と死の支配は終わり、私たちが神との平和、人々との平和を得た。今や、あなたがたのうちに、平和が与えられているという強い意味ではないでしょうか。
私たちのために、ひとりで平和を勝ち取った方が、このように挨拶をし、イエスさまご自身、「平和」である方が、十字架につけられて、甦られたイエス・キリストが私たちと共におられるという意味の挨拶です。復活を信じるということは、いまや私たちが一人で生きていくのではないということです。私たちと同じように生きておられるイエス・キリストとともに生きるということです。それは地上の命のなかで永遠の命を生きていくことです。ここに、私たち信仰者の土台があるのです。
なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」という復活したイエスさまのお言葉です。それは逆に復活を信じる者においてはうろたえるという闇が命の光のなかで消し去られていくということです。
イエスさまの復活を信じるということは、人が一切の自分の思考、行動がイエスさまの復活ということで規定されていくということです。それは人間を縛っている死さえ乗り越えて命という開放であり、自由です。ここに本当の救いがあるのです。この救いの自由によって、私たちの生き方が規定されていくのです。
弟子たちは、今まで自分を縛っていた、規定していたこの世の論理から、イエスさまへの復活の信仰においてのみ規定されていくのです。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
「平和があるように」という主のこの言葉によって、不安で暗い日々の後で、再び喜びが与えられるのです。
佐藤優氏が「キリスト教を十字架とは別の物語として読むことも可能だ。神が神の栄光を回復していく物語としてである。・・・・・イエス・キリストは十字架につけられて死んだが、それは復活のために必要だったのだ。復活によって死と罪に対する神の勝利が明らかになった。それだからわれわれは、神の勝利を基礎に、神の栄光のために生きるのである。」と言っています。
「神の勝利を基礎」として私たちは、生かされているとのです。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」とあるように、喜びの中を生きることができるのです。
「平和があるように」というイエスさまの挨拶は、私たちにとっては、神の勝利の言葉であり、私たちの人生の基礎であります。
大きな変化の時代を私たちは、自分の意志がどうであれ生きて往かなければなりません。不安で暗い日々もありましょう。確かに可笑しなことにイエスさまが共におられるということを心から待ち望むときに限って、いつも信仰が揺らぎ、他のことがらへの恐れがあり、イエスさまから離れようとする、しかし、「平和がある」という主の勝利の挨拶、言葉が私たちがめぐらした壁を越えて語りかけられてきます。主と共に歩んでいます、いきましょう。
「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか」というイエスさまのお言葉をもう一度噛み締めながら復活の命のなかをともに生きてまいりましょう。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると

「社会性」
今、「同志社大学 神学部」(佐藤優著)という本を読んでいる。
「キリスト教という『物語』が十字架におけるイエスの死に集約されているというのは、キリスト教を読み解く際のひとつの切り口だ。十字架に神の死、苦しみの全てが集約されている。十字架から『物語』を構成するならば、ルターが説いたように、悔い改めを中心とする信仰義認論に行き着く。実をいうとここから真の社会性はでてこない。デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」と言って、これも一つのキリスト教を組み立てる神学だと言っている。
「実をいうとここから真の社会性はでてこない。」という言葉に私も常々感じるものがあった。とくに社会性をもって活動している牧師らを神学がないと切り捨てる声を聞きながら、これで良いのかと思っている。
「デモに参加することも、物語の中で内面の救済を得るためになる」という言葉にも私は真摯に向かい合いたいと思った。


■ 新米園長・瞑想?迷走記

入園式の言葉には、いつも悩む。キリスト教主義の園であり、ルーテル教会の園で、どう園児が三年間を過ごしていくのか伝えなければならない。一晩中、悩むのだが、出たとこ勝負にいつもなる。入園式とともに、実践が始まった。


■ ルターの言葉から

おそれの中にあるとき、神に向かって叫び求めるなら、神はいつでも助けてくださいます。キリストは、おののく弟子たちを捨てておいて、いつまでも外にいるということをしないで、入ってきて「平和があるように」と言って慰め、「わたしだ。恐れることはない。勇気を出しなさい」と言われました。それと同じように、今日も神は私たちを慰めてくださいます。私たちが恐れる時、私たちを引き上げ、福音を知らせ、再び、私たちに喜びと揺るがない心を与えてくださるのです。
キリストがおられるところには、聖霊も来られます。・・・・私は、自分でなしたかのように、キリストのみわざのうちにあって慰めを受けるのです。(復活後第一主日の説教)ルターの信仰に復活信仰は強く、それは「神が共におられる」というとなっていく。


■ 北米のルター派・その歴史 19チャールズ フレドリクソン
第二の波(1850~1890)2
 大勢のスカンジナヴィア人の到来で、新しい言葉の要素と共に、ルター派のアイデンティティにこれまでと違ったものが加わりました。それは礼拝式文に顕著に現れました。例えば、主にスウェーデンの教会出身のスウェーデン人移住者は、礼拝の中に、初期のアメリカのルーテル教徒の多くが除外していた要素を取り入れました。
 この大きな第二の移住者の波によって、民族的な背景をもとに、多くのルター派教会、シノッド、コンファレンスが組織されることになりました。1853年にノルウェイ・シノッド、1860年にオーガスタナ・シノッド(スウェーデン)、1878年にデンマーク教会、1890年にスオミ・シノッド(フィンランド)などです。これらの組織は、どこにも属していないものを、移住者の出身地に応じて、沢山あるシノッド、コンファレンスの中に取り込んだだけという形で大きくなりました。

2013年4月7日日曜日

復活後第1主日

わたしたちの心は燃えていたではないか。
ルカによる福音書24:32

【説教要旨】
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」
エマオ途上の出来事として、大変に有名な物語です。私たちも人生の途上にあり、夢破れて、意気消沈し、自分の故郷へ帰るという状況に置かれるときもあるでしょう。途上にある私たちですが、私たちが生きていく、信仰生活をするということはどういうことであるのでしょうか。神を信じるという一言につきるでしょう。
「『神を』信じるという場合の『信じる』ということの側面について話が進んでいますが、信仰以前に、人間関係における他者との信頼関係について考えてみますと、人間の成長において信頼関係が築けるかどうかということが大事だと、心理学的には大事だといわれていますよね。信頼がないと心がすさみます。信頼というものは人間の成長段階では親子関係に始まるものかもしれませんが、『信じるに足るものがある』という感覚は人間存在にとって基本的なものだと思われますし、理屈ではなく、誰でも共有できることがらです。宗教のことを考えてみたいのです。信仰は人生にとってプラスαのような付加的なものでなく、人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になるのだろうと思うのです。現代という時代は他者との信頼関係を築くことが乏しくなっているために、心が不安定になる人が多いのでは、と感じています。」(福音宣教3月号)
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、」と主イエスが言われるとき、私たちの心が主への信頼を欠く、「宗教のことを考えてみたいのです。・・・・・人間存在の根底に信頼というものがあり、その信頼の対象が超越的な存在に向かう時に宗教になる」というとき、同時に信頼もなくなり、信頼の対象をも失い、今、信頼の対象から逃げていくのです。それは、私たちの中にも日々、起こることでもあります。心が不安定になる。
これとは逆の言葉が、出てきます。「心は燃えて」という言葉です。
聖書に聞いていこう。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。弟子が「心がもえた」のは、自分のうちに確信と力満ち溢れていたからではありません。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とありますようにイエス・キリストの対話のなかで「心が燃える」ということがおきるのです。
イエス・キリストとの対話の中で、心をイエス・キリストに向かわしめる。そして、さらに人間存在の根底にある信頼を回復してくださる方が私たちの傍に立ち、歩んでいてくださるということを受け入れたとき、燃えさせるものが生まれてくるのです。そして、私たちを作っていくのです。
今日、教会の制度も、教育もすべてにおいて整えられたのにもかかわらず、教会の現状を憂いている牧師さんがおられました。教会に覇気がない、元気がない、つまり「心が燃える」ことが欠落しているように感じられているというのです。

二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると

今日、私たちの教会に欠けるのは、私たちの傍らで歩んでくださるイエス・キリストに目が開けていないということではないでしょうか。私たちの信仰の生活においても、私たちの傍らに立ち、歩んでおられるイエス・キリストに目を開くことが大切ではないでしょうか。また、私たちの信仰生活とは「いつもイエス・キリストに目を開く」ということの日々ではないでしょうか。
遠藤周作は、「決定的に何かがそこに加わらなければ、弟子たちは結束して、信仰に燃え、多くの異邦人の国々に旅する筈はないのだ。決定的な何かが加わらなければ、あれほどの師について理解少なかった弟子たちが本当の教えを知る筈はないのだ」といって、生きたイエスに出会ったことにある。復活にあるというのです。ルカは復活を神のイニシアチブと強調します。神が働く、ここに私たちが復活の力をいただき燃えていく。私たちが何よりも神の働きを強く信じることです。信頼していく、イエス・キリストに目を開き、向けていくことです。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった
私たちも旅の途上にあります。その途上にあって、イエス・キリストが見えるところは、今、私たちがいるここ、礼拝の場です。ここから神の働きを受け、心が燃やされ、神の愛を証しするものとして旅立てるのです。


■ 牧師室の小窓からのぞいてみると
「豊かなのに苦しいわけ」
  大阪大学の大竹文雄教授が「現状の豊かさを維持するだけでも、私たちは従来とは異なる水準、異なる質の能力を身につけていく必要がある。それが豊かなのに苦しいと感じる理由である」と言われている。確かにそうだと思う。異なる水準、異なる質の能力をつければ、さらに豊かになると違い、現状のまま、あるいは少し落ちるということははつらい苦しいことだと分かる。
しかし、ここでいう「豊か」ということは何なのだろうか。現状の生活の豊かさであると思う。
 豊かさの質を問われているのだと思う。
 「現状あるいは少し低いレベルを維持し続けるだけでも相当な努力が必要だ。豊かな社会を生きていくためには、その覚悟がいる。」といっているように、豊かさの質こそ違えども「覚悟」がいるというしんどさが必要な時代にきていると思う。そのことに教会が取り組むことが宣教方策ではないだろうか。


■ 新米園長・瞑想?迷走記
都からの補助金作業がまだ続いている。昨年、計画書を出し、-その書類の多さ、細かさー、今年は、申請書、次に調査を受け、補助金申請の金額が決まり、さらに今週は実績報告書、支払金口座の依頼書と続いた。経験出来ないことをしている。大きな幼稚園ではこれを事務担当が整えるのだが、小さな園では園長になる。事務職員をおいていない園さえあり、園長がやっているところもある。三月から五月にかけて補助金を含め諸書類の作成、提出に翻弄されるのが常である。


■ ルターの言葉から      
だから、十分注意するがよい。賜物としてのキリストがあなたの信仰を養い、あなたをキリスト者とするのである。模範としてのキリストはあなたの行いの訓練をするが、その行いはあなたをキリスト者にするのではない。それは、あなたがすでに前もってキリスト者となったのちに、あなたから発するものなのである。だから、賜物と模範とを十分区別するように、信仰と行いも十分区別すべきである。信仰はないにひとつ自分のものを持たない。持つのはキリストの行いといのちだけである。行いはあなた自身のものを有しはするが、あなた自身のものではなく、隣人に属するものであるべきである。
(福音書においてなにを求め、期待すべきか)

ルターの「キリストのみ」という信仰原則が、ここにもはっきりと示されてくる。   


■ 北米のルター派・その歴史 18.チャールズ フレドリクソン第二の波(1850~1890)1
 ヨーロッパの、ルター派が多い地域からの移住者がピークに達した年は1882年でした。1882年には、それ以前やそれ以後にもないほど多くのドイツ人やスカンジナヴィア人が大西洋を渡ってアメリカにやって来ました。1890年代になるとドイツ人移住者の数は急激に減少しましたが、スカンジナヴィア人は引き続き第一次世界大戦(1914~1918)まで大勢やって来ました。
 この第二の移住者の波で、アメリカのルター派移住者は新たに複雑な経験をすることになりました。既に述べたように、1800年代半ばまでは、アメリカのルター派は新、旧、穏健に分かれていました。また、言語によってグループがさらに増えました。基本的には、英語、ドイツ語、スカンジナヴィア圏の言語です。

2013年3月31日日曜日

復活日

あの方は、ここにはおられない。
復活なさったのだ。

(ルカによる福音書24:6)

【説教要旨】
復活信仰は、キリスト教の中心です。その復活が商業ベースにのり、クリスマスと同様に商業的に扱われようと日本ではなってきているというのです。聖なるものを俗なるものとする、芥川龍之介流によると日本は沼だ。全てを飲み、腐らせる。
では、腐ってはならない大切なこととは、どんなことでしょうか。
死人の中から復活したキリスト・イエスの甦りを私たちが信じるというのですが、これは世の中の人と激しく衝突するわけです。聖書は11節で「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記しています。
「途方にくれている」とあるように、あるいは「婦人たちが恐れて」、「二人は暗い顔して」と聖書は復活の出来事のなかで、人の気持ちをあらわしています。私たちが生きていくとき、途方にくれる、恐れがある、暗い顔になる。そういう自分がある。しかし、復活はこの途方にくれること、恐れ、暗い顔から自由にされていく出来事なのです。
 しかし、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように復活が「たわ言」にしか聞こえないのでしょうか。弟子たちは善い意図をもってイエスさまと行動しました。しかし、結果は意図に反して不条理で、理解出来ない十字架の出来事で終わりました。結果は弟子の意図とはチグハグで不調和に終わりました。ここに途方にくれる、恐れがある、暗い顔になる、そういう世界がある。死の中にあるのです。
 今日の復活日に私たちは新しい会堂で礼拝をしています。1954年、旧会堂で復活日に最初の礼拝を守りました。同じ復活日に礼拝を始めたことは、偶然とも思えません。それは神さまの導きではないでしょうか。
 その年に初代牧師であったエルソン牧師が急死します。彼の死を通して、私は一つの聖句を思い出します。
「一粒の麦、地に落ちずば、一粒のままである。友のために命を捨てることほど最大の愛はない」なぜ、私たちは命を友のために捨てられるのか。いや捨てられる力などは、私たちの中にはありません。しかし、捨てることの出来る力がやってくるのです。
神からやってくるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と強く宣言するのです。
「生きておられる方」が、生きていますイエスさまが共にいるのです。生きたイエスさまと共に生きること、ここに「友のために命を捨てることほど最大の愛はない」というみ言葉が私たちの中に起きるのです。イエス・キリストの生命の中にいきてこそ、私たちはすべてから自由にされ、強く、生きていくことが実感できるのです。
エルソン牧師が遠い日本に来て、宣教し、命を投げ出した。命を投げ出すという宣教がキリスト教会の歴史で繰り返されてきました。「最大の愛」の愛に育まれてきたのが私たちの歴史です。
「あの方は、ここにはおられない。」というように地上の私たちの生きている命を生きるのでなく、それは死を超えた「生きたお方」とともに歩む。
「復活なさったのだ。」という新たなの命を私たちは生きるのです。イエスさまが死に勝利した命を私たちは生きるのです。だから地上の死に私たちは縛られない。イエスさまが十字架において私たちのために命を捨ててくださったように友のために命を捨てて、最大の愛を示すような存在として私たちは地上を生きられるのです。
復活は、私たちの弱さの清算です。罪と死に負けそうになる私が、これをたたんで友のために命さえ捨てきる強いものとされるのです。
私たちの教会の基礎を作ってくださったエルソン牧師も私たちに命を差し出す勇気を神さまから与えられ、私たちに今日を残してくれました。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
永遠の命を生きる。このような存在として、私たちも今日、ここにいるのです。ここに初代の宣教師が残してくださった命を投げ出してもという出来事が起こされるのです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
復活の、真の命を生きる者として、復活の日をともにお祝いしましょう。


牧師室の小窓からのぞいてみると
「二つのことば」
堤清二氏の「もう、自分の能力では及ばない時代になったという意識がありました」という言葉に驚いた。彼ほどの人がここまで言うのかと共感を覚えました。私もかねがね感じていたことです。しかし、時代から逃げる訳にはいかないのです。自分の能力が及ばないのだが、私たちはどう生きていけばいいのだろうか。
 能楽師の亀井氏が、「私は、40代、50代、60代でもいつでも、基礎を学んだ10代のころの気持ちでいるようにしています。」と言っている。基礎、人生で会得した基礎が「もう、自分の能力では及ばない時代」で問われているように感じる。
 

新米園長・瞑想?迷走記
桜の開花とともにやっと、完成した。園舎が、二年前の3月11日、桜の木が大きく揺さぶられましたれました。東日本大震災でした。この経験を通して、耐震工事がいっきに実現へと向かいました。もし、地震がなければもっと先になっていたのかもしれません。
一人の命を守らなければならないという強い願いが建築へと向かわしめたのかもしれません。命を守る耐震補強、耐震改築工事が無事に終わりほっとしています。 
 命を大切にすることは、どんな代価を払っても買い取れません。私たちの保育に一人一人の命を大切にしていくということが隅々まで行き届くものでありたいとこれからも努力していきます。
やっと、ホッとできる。感謝。


ルターの言葉から
「キリストは死より復活された」、もしこのように信じるなら、私たちは良く生き、よく死ぬであろう。なぜなら、キリストは、ご自身のためにだけに死を克服され、復活されたのではないからである。それは、私たちにも関わり、私たちもその「復活」に立ち、捉えられ、また、そのゆえに、それを通して私たちも復活し、彼とともに永遠に生きるのであるということを、身近にしっかりと心にとめなければならない。


北米のルター派・その歴史 17.チャールズ フレドリクソン
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」2
 新ルター派は数代にわたってアメリカにおり、清教主義とメソジストなどアメリカの神学の影響を受けており、「実践的で進歩的」であった。彼等は、大方「言葉だけでなく心情的にも英国側で反ドイツであった」。
 第二のグループは「旧ルター派」で構成され、彼等はドイツから渡ってきたばかりであり、「アメリカ精神」と融合していなかった。このグループは、「信仰深く、真面目で、自己犠牲の精神に富んでいた」。しかし、それと同時に、仲間うちでも意見が一致していなかった。
 「中庸ルター派」は、上記の両極端派の真ん中に位置していた。旧ルター派の排他精神には与しなかったが、そのかわり「アメリカで心からのルター派として生きること」に心を砕いていた。シャフは、このグループを解く鍵は言語にある、と指摘しています。シャフが出した結論は、このようなグループ化が何故起こるかは、ルター派の礼拝、懺悔、文学を見ればわかる。それらにはヨーロッパの言語が使われるので、アメリカ人ルーテル教徒が大集団では加われないのだ、というものです。これに対して、一般的なアメリカのプロテスタントや改革派の文学や讃美歌は、容易に英語を使いこなしていた。


2013年3月24日日曜日

枝の主日


死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピの信徒への手紙2:8)

【説教要旨】
アシュラム運動(聖書に聴受)に生涯をかけた榎本牧師の「ちいろば」という本がある。「いつのまにかそれを(子ロバ)自分に自身に当てはめてみるようになりました。というのはこのロバの子が向こうの村につながれていたように、私もキリスト教に全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼友達が、私が牧師になったことを知って、キリストもえらい損をしたものじゃのうといったそうですが、その評価のとおり、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じ馬科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見栄えしない『ちいろば』にひとしお共感を覚えるのです。」と言っている。

さらにこのちいさなロバがイエス様と喜びと感動も味わえたという歴史の物語に自分も参加できている幸いを喜んでいます。実に私たちも神が必要なる一人一人なのであるということに気づきたいのです。

では、私たちがイエスさまの歴史の物語に参加するということは、どういうことなのでしょうか。
先週、教区総会が開かれました。その宣教方策の基本に「苦難をともにすること」、「希望を示すこと」であると言われています。まさに今日的においては、大切な二つの言葉ではないだろうか。その言葉のルーツは「災害等の苦難についての信仰的・神学的理解について」という報告文にあるのです。

「苦難」について、特に災害の苦難において「災害、苦難は、人は神の領域に立ち入ることはできず、最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく」とあります。
明日からイエスさまの苦しみを思っての聖週間に入ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、」とあります。今、十字架の苦難を受けようとするイエスさまは、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだってくださった。人として生きられた。人として、十字架の苦しみ、苦難を神の領域と受けとめつつ、ここに立ち入らず、また最終的な善悪の判断や歴史的判断をするのでなく、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように受け入れていかれたのです。

先週も言いましたが、若者の死因の一位は自殺であるというのです。私たちの知らないところで若者は苦しんでいる。そして、この時代を生きている私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。私たちはこの苦しみの原因を知りたいし、苦しみから逃れたい。しかし、この苦しみについて、苦しみ自体をどうであるとかこうであるとか判断するのでなく、苦しみを生きるということが、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」というお姿でイエスさまは私たちに示されたのではないでしょうか。

「災害にあう時節には、災害にあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」という良寛さんの言葉があります。受け入れていくことここに妙法があるのです。
十字架に妙法があるのです。苦難の象徴である十字架、しかし、私たちプロテスタント教会の十字架は復活十字架です。この十字架には復活という希望があるのです。苦難にあって、希望をもつ、それが妙法なのです。

「苦しみにあう時節には、苦しみにあうがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよろしく候、是災難をのがるる妙法にて候」となるのです。

言葉が罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
十字架の妙法において示されたことは、私たちの人生を貫くのは、イエスさまの十字架の愛です。ここに私たちは「イエス・キリストは主である」という恵みをもって生きることが出来るのです。
だから、私たちは時代が苦しんでいるとき、「信仰と希望と愛をもって、共に苦難の中を生き抜く者として、絶えざる『神の希望』を掲げながら歩む道を取ることを願う」と「災害」における信仰の理解を示した東教区信仰告白委員会の信仰理解は、災害だけでなく、苦しんで生きている人と共に生きる私たちの姿勢であり、その中で私たちが必要とすること、「イエス・キリストは主である」という信仰であり、ここから「神の希望」が生まれてくるのです。


【牧師室の小窓からのぞいてみると】
「豊かさ」
 「豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは『やむえない』」というのが、50%を超えたということが報告されていた。
 新聞はこれを「広がる格差社会」と論じつつ、教育の分野まで定着してきた。
 教育の機会均等と目標を掲げてきた社会は崩れつつあるのであろうか。
今、一方、奨学金が返せない若者が増えてきて、社会的に問題になっている。それは、奨学金を確実に返せるという雇用構造になっておらず、その不安から経済的なことで教育を受けるという道を閉ざしていくことになってきている。
いったい私たち社会は、どこを目指して歩んでいるのであろうか。
論者は「問題だと感じる人はまだ4割いる」ということに期待して、教育費、保育費の補助を厚くして一つの方向を提言している。
教会はすべての人において、教育の均等を訴えていくべきではないだろうかと私は思う。


【新米園長・瞑想?迷走記】
卒園式が、無事に終わった。担任の先生の助けをいただき卒園するこども一人一人に声をかけていく。みんなが幼稚園で一年、二年、三年間で、どんなに神さまに愛されて成長したかを伝えていくことにしている。
また保護者にこれからも神に愛され成長していくんだということを伝えるためである。どれだけ、伝わっただろうか。


【ルターの言葉から】      
キリストを遣わされた神のみ心は、キリストご自身の従順以外の何ものでもありません。パウロも、「彼は私たちのために従順であられた」と言っています。この神のみ心によって私たちすべてはきよめられています。「自分を卑しくし、死に至るまで従順で・・・・」
このように主がなされたのは、私たちのその価値やいさおがあるからではありません。ただ、父に従順であったために、主はこれらをなされました。パウロはひとことで天国の門を放ち、私たちに父なる神の愛と、口に言い表せない恵み深いみ心を示してくれました。それによって、私たちは、世の初めから、私たちのためのキリストの犠牲がどれほど神に喜ばれるものであったかということを感じるようになります。
・・・・・・・・愛される者として神の近くにおり、御子の従順のうちに豊かに示し、注がれた父のみ心を認めるならば、他のことはすべてとるに足りないことなのです。
「信従」という言葉がある。信じて従うということであるが、ルターはイエスの十字架の従順を示されることによって、従順の豊かさを生き抜いた人であった。


【北米のルター派・その歴史 16.チャールズ フレドリクソン】
移住者およびルーテル教徒の「アメリカ化」1
 1800年代後半、ルター派の人々は幾つかの厳しい争いを闘い抜かねばなりませんでしたし、奴隷問題や南北戦争で国自身が分裂していました。
 内部の争いを一番よく言い表しているのは、ペンシルベニアの大学教授、フィリップ・シャフ牧師が、1854年にベルリンで、アメリカのルーテル教会について行った講演である、ということで学者達の意見は一致しています。シャフは講演で、当時アメリカのルター派は「新ルター派(Neo)、旧ルター派(Old)、中庸ルター派(Moderate)」に分かれていたと見ています。


2013年3月17日日曜日

四旬節第主 2013年3月17日


わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
フィリピ3:8

【説教要旨】
今、ガラテヤ信徒の手紙を勉強していますが、キリスト教会の信仰を方向づけたのは、パウロだと思います。
そのパウロの気持ちが素直に出ているのが、フィリピ信徒への手紙だと思うのです。なみなみならない決意をここで聞きます。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と。
強い、パウロの意思が伝わってきます。私たちは世の中を生きていくとき、また小さな私自身を見ても、自分を有利に導くために多くのことを知ろうとします。知識を得ることによって自分の安心を手に入れようとします。情報社会にあって、いかに知識をえるかが、私たちの将来を決めます。しかし、これほど私たちが多くの知識を得ても、心から幸せだと言えますか。今、若者の死因の一位は自殺で、先進国の中で日本だけにある現象だそうです。新聞は自殺を「若者からの三行半」と言っています。だから決して幸福な社会が私たちの前にないと言えるのではないでしょうか。最後に「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と社説を結んでいます。
では、私たちの杖とはなんでしょうか。
お金がないと生きていけない。確かに現実はそうです。具体的な生き方の中で私たちはこれだけのものがなければ、私たちは何も出来ないと言う現実にぶつかります。ですから私たちはより良いもの、より多くを得ようと思うのです。失うことでなく持つということに必死になろうとして複雑化してしまうのではないでしょうか。
しかし、パウロは次のように言うのです。
肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
彼は、この世的な多くのものを持っている。これを頼りにして生きようと思えば自分は生きていける。それは信仰においてでさえ「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」とあるように立派な誇るものを持っていた。
しかし、今まで自分を支えた、自分に自信を与え続けたこの世のもろもろの杖が、神の前を生きるわたしには全く意味をもたないというのです。
彼は「救い」ということに確信をもって語ります。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」キリストのすばらしさとは、神から離れていこうとする罪人である私たちをどこまでも愛してくださる神の愛、それも、イエスの十字架で示された神の愛こそがすばらしいことだというのです。
だから、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言いきるのです。
このすばらしさが、私たちの杖なのです。
私たちが生きていくとき、私たちにはいろいろなことがあるし、いろいろな局面に立たされます。そこで「転んでもかまわない。もう一度立てばいい。そう思えるのは杖があってこそだ。」と言うように、真の意味での杖を私たちは神さまから与えられているのです。それは、イエスさまの十字架の愛です。イエスさまもここで神の子としての生きることに転んでしまいました。十字架により苦しみを負われ、死において希望を無くしました。しかし、ここに生きる杖、神の愛が与えられているというのです。
「キリストによって救われた」という杖は、私たちの常識を超えています。だから私たちはこの杖をもって従うことがなかなかできませんが、「神の愛によってわたしが救われた」ということに自分を開いていく。徹底的に神の愛に従うことが真の杖です。私たちの常識が教えることはあってはならないこと、十字架の愛から私たちの人生の杖が与えられるのです。 

八木重吉は詩います。

基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中に入ればいい/彼につれられてゆけばいい/何の疑いもなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張り合いがしぜんとわいてくる/むつかし路もありましょう/しかしここに確かな私たちにも出来る路がある/救ってくださると信じ/わたしをなげだします


ルターの言葉から
      
私たちが苦しむことは、必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対する誉れと大能と力を示すために必要であるばかりではありません。苦しみと悩みがなければ、私たちのもっている偉大なすばらしい宝がかえって、平穏のうちに眠らせ、いびきをかかせてしまうからです。残念なことに、多くの人々が聖なる福音を乱用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でいます。これは罪であり、恥ずかしいことです。
神がこのような悪を訂正される方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、私たちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、より一層深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長出来ない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。・・・十字架を負う時にのみ、福音は私たちを通して前進します。

                      
北米のルター派・その歴史 15.チャールズ フレドリクソン
フロンティアの拡大(1800~1875)3
1840年にはルター派は大西洋沿岸からミシシッピ川まで進展していました。ルター派の人口は移住者増によって増えていたのですが、その新しい移住者が問題をかかえて、いろいろと問題を引き起こしました。新しい移住者の生活体験が、今では数世代にわたって北米で生活している「米国化した」ルター派の人達とかけ離れていたからでした。移民という共通の経験を通して多くの点では一つになっていたものの、両者は一つのキリストの体にはなりませんでした。そのかわり、この新しいグループは引き続いてやってくる新たな移住者が抱える問題に対応するように変わっていきました。西部開拓と民族の絆を強くする教会の新しい道作りが始まったのです。

2013年1月13日日曜日

主の洗礼日 2013年1月13日

主の洗礼日 2013年1月13日



聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  ルカ福音書3:22     

【説教要旨】
2013年も、十数日経ちます。そして、いつものように社会は、日常が動き始めました。私、教会は教会総会へむけて準備しています。新しい年への宣教の備えを始めようとしています。教会の在り方を問い直して、新たな宣教に向けていくときとなりました。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われる。」
福音を宣べ伝え、洗礼を授けることが教会は、目標です。今日は「主の洗礼日」です。その大切な目標である洗礼ということについて、私たちは今日は聞いていきたいのです。主が洗礼を受けられたのです。そして、その洗礼の場で「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞くのです。文語訳聖書は「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」とあります。
「心に適う」でなく「悦ぶ」という訳からすると神にとってイエスさまは、愛しむ子であり、悦びの源であるということです。
初代の教会では救い主であるイエスさまが、罪の赦しである洗礼者ヨハネの洗礼を受けるということが大変に問題になったといわれています。メシアなら罪は存在しないのであって、罪の悔い改めである洗礼を受ける必要はないのではないかと。しかし、イエスさまが罪の悔い改めである洗礼を受けるということは、イエスさまが罪人となったということです。それはイエスさまが単に高い所から私たちを慈しむということでなく、私たちの罪深い同じ場所、同じ目線に立たれたということです。ヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と表現し、さらに「恵みと真理とに満ちていた。」と語ります。
イエスさまが悔い改めの洗礼を受けるということは、罪人である私たちと神との関係をイエス・キリストによって結ばれるということです。「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」という神の言葉はイエスのうちにあるのですが、同時にこの言葉はイエスさまを救い主と受け容れ、洗礼を受けた私たちの中にも轟きわたっている言葉です。洗礼は、私たちが神によって新たに神の愛する子、悦びの源になることに他ならないのです。
ヨハネ福音書は次のように言います。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
別府教会の教籍に児童養護施設、別府平和園の子どもらの幼児洗礼者が記されています。戦争孤児、あるいは色々な状況で親に捨てられた子どもらです。その子どもらに洗礼を与える。それは創立者の信仰である。一人一人が神に愛しまれ、悦ばれるものであり、悦びの源であるということを愛しみを失った、自分が悦びの源であるということを信じられない子どもらにそうではない、あなたは愛しまれ、悦びの源であるということを園に入った瞬間に新たに生まれ変わったのだということを「洗礼を施す」ということで示したのかもしれません。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」のだということを示したのです。
洗礼を受ける・・・恵みの上に、更に恵みを受けるということです洗礼を受ける・・・罪びとであるこのどうしようもない私が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」となるということです。
私たちの人生のいたるところで「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」という声が響きわたっているということです。
その洗礼に導くために、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」ということを義務として、どうしてもそうしないとすまないということで、私たちは福音の宣教に励むのです。
ですから宣教は信者獲得ではなく、一人一人が神に愛しまれた、また悦ぶ者とされているということをどうしても伝えたいためにするのです。
教会総会を前にして、私たちの教会の目標とは多くの人々が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」と声を聞き、人生が確かに支えられていくために洗礼を授けていくことです。一人でも多くの方々を洗礼へと導くために福音を宣べて伝えていく一年でありたいものです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

「手抜き除染 横行」

  学生たちを食い物にする「ブッラク企業」の存在が、若者に被害を与えているという。ブッラク企業といえば暴力団が関係する企業だったが、今は「若者を使い捨てにする企業」で、初めから使い捨てを前提として大量に採用し、大量に解雇していくことによりコストを抑えていくのだという。ここで心まで病気に侵されていく若者が増えているという。それは「日本の未来や社会も食い潰す大きな問題になっている」と指摘されている。
その解決が「そのまま会社に残って、病気になったら元も子もない。再就職の不安も分かるが、辞めるリスクより辞めないリスクの方が大きい」と指摘されている。
今、若者が置かれている状況は、厳しいものがあるが、これが社会を衰退さえているのである。若者への伝道というとき私たちはこのことを踏まえて考えていくべきである。
良心が弱っている社会に私たちの宣教の課題は重い。


新米園長・瞑想?迷走記

今週、朝日新聞の社説に「企業の挑戦―個性に裏打ちされてこそ」というのがあった。
「個性が競い合う世界の中で埋没しないために。」と指摘している。しかし、教育世界は、ゆとり教育を批判、転換していくなかで、ますます個性を出すことを否定する雰囲気があり、子どもたちの個性を潰していく傾向があり、子どもは息をし難くなってきている。幼稚園まで子どもたちの個性を生かしつつ、保育にあたっているが、これが小学校に入ると、消されていく。むしろじゃまになっていく子ども世界があることに心が痛む思いがある。しかし、世界化して時代、個性が問われていくのだが。



ルターの言葉から
      
アーメン。そうです。私たちは、主キリスト、神の子に運命をかけました。そして、キリストは決して私たちを捨てられません。私たちの生涯も魂も、キリストに縛られています。キリストのおられるところに、わたしたちもおります。キリストから離れては、世と戦う何ひとつの武器をももちません。それゆえ、もしキリストが生きておられるならば、宣教、教え、著述によって、私たちが主のために奉仕し、あらゆることを耐え忍んでいることをご存知です。もし彼と運命を共にするならば、私たちを必ず助けてくださるということを、世も私たちも知っています。それにもかかわらず、すべてのものは一度壊されなければなりません。何事も、そのままで残ることはできないのです。            卓上語録から
                      

北米のルター派・その歴史 7.チャールズ フレドリクソン

揺籃期の北米教会(16501783

ヨーロッパと北米が遠く離れていることだけが問題ではありませんでした。ヨーロッパ中のルーテル教会が、自分の都合や利害がもとで、争いを続けていたのです。血なまぐさい30年戦争の後、多くのルーテル教会がヨーロッパにいる会員のための牧師を見つけるのに難儀していました。それに、ヨーロッパの牧師の多くは、単身で、あるいは家族と共に海を渡って来て欲しいとの願いを断りました。新しい入植地のむずかしい状況を考えてのことでした。ルター派の牧師がいなくて、いくつかの教会が閉じられました。それらは、強力なリーダーシップを持つ信徒がいなくなった教会や、近隣の改革派ないしは英国教会と合同した教会でした。しかし、移住者が増え続けるにつれて、米国のルーテル教徒達はヨーロッパからの牧師が足りないことへの対策を見出していきました。その良い例が、牧師アンドリュー・ルドマンと信徒ジャスツゥス・フォルクナーの話です。ルドマン牧師は1697年にスウェーデンからやって来ましたが、着いて間もなく重い病に倒れ、半分引退しました。しかし、スウェーデンには帰らず、健康状態が良いときには、フィラデルフィア近辺に移住して間もないルター派入植者の小さなグループを支援しました。




大森通信    

 大森周辺 2

大森駅に一枚のポスターが貼られているのに気付いているだろうか。
大森駅開業135年、新橋、横浜に続いて3番目の開業の駅だそうである。
T君の話によると鉄道技師がドイツ人で、散歩好きなドイツ人が坂のある大森に住んだことにより、技術者を乗せるために自然発生的に出来た駅であると聞いた。そういえば、私の保健の先生がドイツで医師免許を取り、奥さんがドイツ人だった。よく、林の中を散歩をされていた。単語、バンデルンという言葉を今も思い出す。
教会の前の道がジャーマン通りとあるが、明治のとき、丘と林の小路をドイツ人が散歩している光景をかってに想像している。
ドイツから生まれたルーテル教会である私たちは、このドイツというキーワードで、何か宣教のプランを立てられないだろうか。



(大森日記)

  通常の気持ちになり一週間が始まる。多くの方が出席し、一年を始めた。喜びの一歩。建築状況を見る。思ったより大きく、天井が高くとれている。完成が待ちどおしいし、責任を感じている。役員会を開き、総会の準備、すなわち来年の宣教計画を立てる。主の道を備えることが出来るよう祈る。夕礼拝が終わった後、急に熱が出てきてダウン。月曜日、寝ていれば良いのだが、新年の準備、機械の修繕、ホームページの修正、職員会議と寝られずに待機。次の日、始園式だが、出ずに待機。夕刻、本部で打ち合わせ。水)医者に行く。今日の夕刻まで熱が出なければ出ても良いというので待ち遠しい。木)子供たちを迎える。午後から訪問出来る。夜、心臓発作で亡くなった友人の父の葬儀、掛川で一泊。金)社会福祉法人の県監査で立会い。勉強になることばかり、ぜひ幼稚園でも取り入れていきたいと思った。東京に引き返し、息子の学生時代の親子会に出席。5年ぶりの子どもの成長に感謝。土)主日の用意。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)今年、最初の礼拝である。静かに過ぎていく。役員会が開かれ、2013年度の宣教にむけての総会の準備の時となった。建築があり、なかなかそれでは次ですというわけにはいかない。この辺が不器用である。夕礼拝も終わり、家内の宿舎の三鷹に行くつもりだった。長い休みの後に先日、泥棒が入ったので心配してであるが、熱が出てくる。風邪をひいたようです。「良いわよ」と一言。一
人で帰宅。気丈夫な人である。夜中から熱が出てくる。
)幼稚園の新学期の準備日だったので、昨年より印刷機の修繕の約束、ホームページの指導、職員会議を組んでいたので、寝るに寝れずに起きているが、ひいていた熱が再びでてくる。病院にいくが、すぐに治る訳がない。
)始園式だが、出ずに待機。熱は下がってくるが、体は重い。午後から新年の挨拶。コンピュータの操作で色々とお世話になった小鹿教会の信徒さんから親父さんが心臓発作で天に帰られたと電話をいただく。祈る。若い時は「祈りましょう」という言葉がすぐに出てこなかったが、躊躇なく言えるようになった。
)熱は、さがったが、早く子どもたちと接したいので、病院に行き、許可をもらうが、熱がさがって48時間を越しても何も起こらなければ良いですよと言われる。明日から門で子供を迎えることが出来る。正月、一緒に遊んだ友人がインフルエンザA型にかかったというので、医者に言うと「いまさら、どうだったか分かりませんよ」と諭される。知ったところで遅いか。
)朝から門に立ち子供を迎え、教会の総会資料、週報を作成し、小鹿教会に葬儀に出かける。みんなににこにこ迎えていただく。葬儀説教を聞きながら牧師になっていた。明日は県の監査なので掛川に一泊。不味い高い焼き鳥。まいったまいった。
)早朝から監査を受ける。監査委員として教会会計を監査していたが基本的には変わらない。しかし勉強になることばかり。牧師なのにこんなことを楽しんでは。息子が卒業して5年後ということで自由学園卒業生、父母の集まり。人生色々かな。
)朝から礼拝の準備。これもあと10年。あっと過ぎていくだろう。息子の結婚式の日が決ま
る。式後のお茶の会にお菓子を作らなければ。

2012年10月25日木曜日


聖霊降臨後第21主日         2012年10月21日



主を求めよ、そして生きよ。

アモス5:6     


【説教要旨】      「神にできないことはない」

今日の聖書日課を読むとき、私たちにはとてもできないと感じませんか。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」という言葉を聞くたびに私は、戸惑ってしまいます。
私たちが祈る「平和の祈り」を作ったフランチェスコやマザー・テレサに代表される特別な人ができても、私たち普通の人にはできないと思いがちです。では、イエスさまは特別なことを言っているのでしょうか。
加藤常昭牧師はこの説教箇所で宗教改革者たちのことを語っています。「宗教改革、マルティン・ルターやカルヴァンが起しました宗教改革の時に、この聖書の言葉が再び光を放つようになった。ルターもカルヴァンもこの箇所について喜んで書きました。そしてふたりとも共通のことを言った。それまでのローマ教会はこの言葉をこういうふうに理解していた。すべての財産を施してイエスに従う、それは私たちにはできない。しかしそれを実行できた人もいる。できた人は修道院に入り、あるいは司祭さまになっている。私たちにはできない、できなくてもいい。フランチェスコのように、あるいは自分の教会の司祭さまのように、皆財産を捨てて神さまのために生きて、主イエスの後について行く人、それは特別な人たちだ。だがルターもカルヴァンも言います、それは間違っていると。主イエス・キリストの恵みによって生かされる者は、すべてを捨てることができる。この世にあってすべてを捨てることができる。」
宗教改革者がこの箇所を、キリストの恵みに生きるということであると捉えたのです。ここに私たちを捉えていた「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」という財産から解き放たれ自由にその振る舞いをできるのです。私たちが生きていくにあたり、どうしても財産というものが必要になる。そしてこの財産にこだわってしまう。だから、わたしたちは「これだけしかないからこれだけしかできない」というふうに縮こまってしまう。いつも私の内にある力、知識、地位、財産をどれほど持っているかということからしか判断できなくなっている。ここに縛られている。だから、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」という世界が分からなくなって、いかに不自由な世界を生きているだろうか。
私が、経験した最高の献金は8500万円です。いただいた方のご主人は僧籍のある方でした。お寺に1億のお布施をし、奥様が属している教会へ8500万円でした。寄付後もいっさい口出しをしませんでした。この寄付をされた方のお父さんもやはりそういう方だったとうかがいます。アメリカから鈴木大拙という立派な仏教学者を呼び返すために、自分の給与を出して、日本での鈴木大拙の給与を支えたと聞きました。
では、そうさせることは何なのでしょうか。「あなたに欠けているものが一つある。」、では、何が欠けているのでしょうか。信仰に生きる、つまりイエスさまの愛の中に飛
び込むということではないでしょうか。このイエスさまの愛に飛び込むことをさまたげるもの、財産であれ、知識であれ、地位であれ邪魔なことなのです。
ルターの有名な死ぬ2日前の言葉があります。「我々は乞食である。それは真だ。」ということばです。これは神の、イエスさまの恵みだけを生きていこうとする者のすべてを失っていく歓喜の言葉であるとおもうのです。この世のもろもろから自由になるのです。
イエスさまが求められるとき、自由になったものは全財産も献げることもできるし、人生、すべてをかけて主に仕えることもできるのです。
初代宣教師エルソン牧師の墓前で思うことは、この異国で30歳で散って行った勇気はどこにあるのか。やはりキリストに捉えられていたからではないかと。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という60年があったことを感謝しつつ、私たちは、次の60年があることを思います。
今、一度、私たちは、自分の人生を見ていきましょう。私たちが神の、イエスさまの愛に飛び込んでいくことが私の人生であるということです。
アモスは、「主を求めよ、そして生きよ。」と言います。私たちがこの世にあって、信仰者ということは神を求めていきることであり、ここにわたしたちは「主を求めていく」ことに何の妨げがあってはならないのです。
人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」このすばらしい自由な世界に今日も私たちは自分の人生を託される喜びが与えられています。ともに主イエスに最後まで従っていきましょう。



牧師室の小窓からのぞいてみると

「風度」

見なれない言葉に出合った。「風度」という言葉である。
「人間には『風度』というものがあります。中国の古い言葉で、『らしさ』のことです。この人なら協力しよう、この人のためなら思わせる。リーダーには、この風度が必要だと思います」と言ったのは、歴史小説家・竜門冬二さんである。
私たちの教会は、今年で60年の歩みをしてきました。この60年に私たちはどんな『風度』、『らしさ』をもったでしょうか。次の60年にむけて、私は『風度』というものを知りたくなりました。これが教会がリーダーとなっていくことかもしれないと思うからです。



新米園長・瞑想?迷走記

先週、牧師会があり、同級生だったk牧師が「保育料も値上げして、豪い目にあった。次年度の募集が激減した。今の時代、一円でも安い方向に人は向かう。」と言われて、ドッキッとさせられた。次年度保育料を上げるからである。この影響がどうでるか、入学願書受付までびくびくしなくてはならない。では上げないで、やっていけるかというといけない。ここは吉と出るように祈るしかない。まさに神頼みである。



主の祈り 1
「天にまします父よ」と祈るとき、私は一人でない。呼びかける方、確かな相手がいるという強い心の支えを感じている。しかし、「天にまします父よ」というより「天にまします母よ」の方が実感として感じるのはわたしだけであろうか。


ルターの言葉から
      
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
マタイ19:29

私たちの神が恵み深い神で、私たちはその保証、すなわち神の御子を、洗礼や聖餐、福音を通して授けられるなら、たとえ神のお望みなるのがつらいことがあっても、神の恵みを疑うことが出来ず、疑うべきでもない。
しかし、もし、私たちから、からだと命、父母、兄弟、王や諸侯、名誉や権力、その他、人がこの世で名指すことのできるすべてが失われて、神の恵み、すなわち、神が私たちの父であり、み子は私たちの兄弟であり、天国と被造物を私たちは受け継ぎ、すべての天使と聖徒は私たちの兄弟姉妹であるという恵みのみが、私たちに留まっているとしたらどうであろうか。
それでも、私たちは一ヘラーも失わないのである。私たちがすべてを失い、そこに王国もなく、天地もなかったとしても、神ご自身と永遠の命を失うことはあるまい。
         
宗教改革の歌、「神はわがやぐらで」で、ルターは、「我が命も 我が妻子も 取らば取ね、神の国は、なおわれのものぞ」と詩っている。ルターをかくも詩わしめるのは、「私たちの神が恵み深い神」であるという信仰につきる。これは目に見える、手で感触を得る「人がこの世で名指すこと」でなく、ただ信じるということの中で起きる出来事である。この出来事こそ人を支え、勇気ある大胆な人生を生き抜く秘訣であることを彼自身をもって、ルターは証をした。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑭)

東京と地方、都会と田舎ではそれぞれ神経の使い方が違う。今回、東京という都会で、住宅地での建築であって、目に見えない近所の人への配慮にいつも張り詰めるように気を使っていなければならなかった。
目に見えない近所の人というのがしんどい。実際、解体の時に、埃、振動音に気を使ったが、抗議の張り紙が夜中に張られてしまった。その内容については、自分がその立場になると分かる気がするので、建築について説明したく思うのが、説明をしに行くにも、匿名で誰に説明をしにいけば良いか分からないのである。
なにげなく解体され、建築されていく街の建物に私は気にも留めなかったが、みんなこんなときにどうしているんだろうと思うことがある。
都会の特徴かもしれないが、匿名ということに気をつかってしまう。しかたないので目に見えない人にむけて事情を説明した紙を掲示し、理解を求めるしかなかった。苦情がでないように、苦情がでないようにと気を遣いつつ毎日、胃が痛くなっている。



(大森日記)今日は久しぶりに午後から集会もなく、幼稚園のホームページを直していった。園児願書配布が始まったからである。夕礼拝の後に教理、教会の歴史、経済のことなど話が続く。願書配布が始まった。気になりつつ牧師会へ。旧約から苦しみをどう捉えるかという学び。東日本大震災を踏まえてのことだった。翌日、静岡に法人三者会に出かける。帰路、東名を走るが集中工事で、帰宅が夜中になる。こんな距離、昔はたいしたことはなかったが・・。幼稚園の誕生会にルターの形をしたクッキーを配る。今月はルーテル教会の誕生日である。幼稚園の礼拝にもルターについてお話。工事は土留め、最終の解体で振動がある。近所の目で心落着けない。



おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今礼拝の説教を要旨にそって、説教中に内容を変更していった。ときどき会衆を見ながら変更していく。午後から久しぶりに時間があり幼稚園のホームページを新しく変更した。パソコンを使いこなせなくてはならない。夕礼拝後、教理のこと、経済のことなど話が進む。
月)午前中に幼稚園の仕事を終わり、久しぶりに車で教師会に出かける。仙谷原のススキは美しく輝いている。「苦しみ」について。ルターは「たとえ神のお望みなるのがつらいことがあっても、神の恵みを疑うことが出来ず、疑うべきでもない。」という言葉を思い出す。夜は同級生のO牧師と同室になる。彼の耳が遠くなっているに驚く。お互いに歳をとったものである。そして色々あったし、色々ある。見渡すと東海教区の旧牧師たちが多くいる。
)教師会途中で退席して、補助金申請の打ち合わせに静岡の西村設計事務所に向かう。つい静岡おでんを食べてしまう。時間があったので知り合いの信徒さん宅を訪問。さらに車を走らせ袋井のデンマーク牧場に行き、法人三者会の話し合い。夢に描いていた福祉村構想が徐々に完成に向かっている。僕は聞きます。成就しますように。東名渋滞にぶつかり帰宅は翌日の2時を越す。家内の住宅に久しぶりに泊まる。
早朝、幼稚園の誕生日会のお菓子をもって大森に帰る。ルターの顔のクッキーであった。子どもたちは喜んで食べていた。家内の心使いに感謝である。
夕べの祈りにくるT君はスクーリングで不在である。体調が整えられて良い学びが出来ますように祈る。夕刻、蝶ネクタイが欲しくなり銀座、日本橋にいく。帰り、家にいると夜中には激しい雨、風。
)耐震工事の解体の振動が激しく、園児を公園に遊ばせにいく。神経を使い、胃の調子が最悪。私は新宿の中村屋のカレーが食べたくなって家内を誘うが車で帰るといわれ、さらにお小言を言われ喧嘩。夕食を作り待っていたが口もきかず。
)朝から解体の振動で気を使う。二度と建築なんかしないぞ。牧師仲間から「先生は幼稚園が好きだから」と言われて建築を揶揄される。ここに遣わされたからやっているだけで、好きじゃなくてはやれない。何が好きだというと牧師だと言える。