2012年1月15日日曜日


天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

    マルコ1:9

【説教要旨】

 ルターは、洗礼について、「君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。」と言った逸話が残っています。洗礼を受けるとは、私はもう私自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなるということです。そういう意味で今日の主の洗礼という出来事は、私たちにこのことを語りかけていてくださっているのではないでしょうか。

人の子となれたークリスマスの出来事を通してーイエスさまが洗礼を受けるということは、イエスは、私たち人がどのような者となるかということを示しているのです。

イエスさまが、聞かれたように、私たちも洗礼を通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声に聞くという存在となるということです。ルターがいう洗礼をうけて、主のものとなっているのだということです。

洗礼を受けてキリスト者となっていくということは、この神の声を受け容れ、信じていくということですね。私が、


どんな人間であれ愛された者であること、神のみ心に適う者であるということです。

これは「天から」とありますように、一方的な神からの恵、贈り物なのです。自分が愛されているということはなんという平安でしょうか。それも神に愛されていることです。年の初めにあたり、私たちは今一度、「あなたはわたしの愛する子」という天からの恵に感謝しましょう。そして、私たちはこの神の愛、恵にすべてを委ねていく、主のものなのです。一人だに、神に愛されない、恵をいただかない者はいないということです。私たちの一歩を神の愛、恵みから初めるのです。自分が神さまに愛されている存在であるという信頼に徹底的に立つこと、この神の愛に支配されているのです。

自分が洗礼によってどう変わったかと問うより、自分がこの天の声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」をイエスさまとともに聴き、従うということです。むしろ、自分でも認識できないほど深いところで、自分の洗礼はわたしを支え、魂を支えているのです。起き上がりこぼしに据えられているような重心がそこにはあります。揺れても戻ります。それが今日のルターと元雇人の逸話になるのです。

自分が愛されているということを、または愛されているということに自分の重心があるのです。ルターは歴史の大きな流れに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけたとき、幾度も幾度も「わたしは洗礼を受けている」と書いたそうです。洗礼という揺れてももどる重心を持ちながら、私たちが揺れる中であなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたに違いありません。

ジャン・バニエという人が作ったラルシュ(箱舟)共同体があります。彼はカナダ総督の息子として生まれ、海軍士官になり、後にパリ大学で哲学を学び、トロントで哲学を教えます。そのころ親しかったトマ神父の影響を受け、哲学の教授をやめて、精神障害のある二人の方と生活をはじめ、この生活のなかで平安を得て、共同体を作っていきました。彼はこの共同体を通して、現代と言う時代をどう生きるかということを発信しています。彼がこう言っています。
愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを気づかせてあげることです。その人に向かって、「あなたが生きていることは素晴らしい。私はあなたが生きていて幸せです。あなたの存在をとても喜んでいます。あなたは大切な、価値ある人です」ということを伝えることです。
これが神の思いです。「私の愛する子」。
さらに次のように彼は言います。
人は愛されて初めて、愛されるにふさわしいものになります。そして何かができるようになります。積極的になります。愛されることによって、人はこの世界で何かを果たすことができるのです。
これが「わたしの心に適う者」となるということではないでしょうか。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この神の声は私たちにかけられており、私たちが一年を始めるに相応しい天からの声ではないでしょうか。
新しい年が始まりました。私たちはこの「天から聞こえた」という「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、高らかに私たちの歩みのなかで響き渡っていることを忘れないで、今年も神さまの子として、福音に生かされ、積極的になり、何かが私にはできるのだという確信と希望をもって、今年も兄弟姉妹ともに歩んでまいりましょう。
君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。
牧師室の小窓からのぞいてみると

以前から君が代斉唱起立、国旗掲揚に対する学校での対応を巡り、斉唱、起立に反対する教師に対して、処罰うんぬんが問題となっている。
その是非というよりもこのデリケートな問題を法であるから守らなければならないという搦め手のやり方が、力づくに見えてならない。弁護士出身の大阪の市長は、法律家出身らしく法によって処罰の対象とするという。法を力として、良心までも縛ろうとしているやり方に違和感を感じる。法は確かに守らなければならないが、法がもつ力の恐ろしさもあることに気づいて、法を執行してほしい。
今、私たちはどこかで強い力を待望している。確かに力は魅力がある。しかし、それは決して良い結果を生んでないことを歴史は教えている。力でなく相手を重んじる愛が歴史を切り開いている。愛を感じる感性こそ大切な時代ではないだろうか。
 

新米園長・瞑想?迷走記

今日はお店見学である。園児は近くの商店街を散歩して、実際にお金を使って買い物をするのである。みんなは寒い中を嬉々として散歩している。それぞれの店で目を輝かしてお買い物をしている。
しかし、商店街はシャッターがおりていて、子どもたちが立ち寄ることのできる店が毎年、毎年減っていっている。今年も花屋さんが閉店していた。子どもたちのお店見学は、段々と難しくなってきている。人の温もりを感じる商店を大切にしたい。私は幼稚園の購入の物を地元商店から購入することにしている。子どもたちが温もりを感じるお買い物が出来るために。

ルターの言葉から

「洗礼の賜物」



「洗礼は何をあたえ、どんな役にたちますか。」

「それは、神のみことばと約束とが宣べているように、罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し、信じるすべてのものに、永遠の祝福を与えます。」

(小教理問答書より)



ルターの逸話が多くある中で好きな話がある。

かつてウィッテンベルクのルターの家にひとりの貧しい女が召使として働いてが、この女はのちに堕落し非常に惨めな状態に陥った。ルターは彼女を訪ねて、なぜこんなになったかを尋ねた。「だんなさま」彼女は答えた、「私が惨めになったわけですか。私は神から離れて、悪魔に私をまかせたのです」と、そこでルターはいった。「それはいけないね。エルサ。いいかね。君はここにあるこのお金や書物や服をフロリンス君にくれてやることができるかい」「いいえ、それは私のものではないんですもの。」「そうだろう。できないね。君もそのとおりだよ。君はイエスさまに救われている。君はもう君自身のものではない。洗礼をうけて、主のものとなっているのだ。だから、自分を自分でかってに悪魔にわたす権利はないんだよ。さあ、悪魔との契約を破棄なさい。そうすれば神さまが熱い火を悪魔の上においてくださる」と諭した。

洗礼は主のものとなっていることだという。ここに私たちの存在のすべてがあるのだろう。また洗礼の恵みがある。この恵みに気づき、常に恵みの洗礼が私たちを支えていることを忘れたくない。洗礼は、神が、あなたを救うために選ばれた救いの手段であるということを伝える逸話である。


大森通信    
 京セラの創立者の稲盛氏は、次のように言っている。人類が備えるべき思想の軸とは何か。宗教を信じる人
もいれば、信じない人もいます。だからキリスト教の思想でも仏教の思想でも、何でも構わないと思う。ただ、いずれにせよ大切なのは「思いやりの心」を持つことです。これは、仏教でいえば「慈悲」、キリスト教でいえば「愛」でしょう。このもっとも大切な心を人類はいま見失いつつある。だからもう一度、蘇らせる必要があるのです。そうすれば、われわれが抱えている問題の多くは、自ら解決へと向かうはずです。
・・・・・人類も、欲望をエンジンとした近代文明に別れを告げ、「優しい心」や「美しい心」をエンジンにした、新しい文明社会を作っていくことに努めていくことが、いま大切なのではないでしょうか。
今週、息子が牧師試験、牧師任用試験に合格して、4月から牧師になる。近代文明が大きく変化しようとしているとき、新しい生き方と宗教家は示していかなければならない厳しい時代を生きるのだが、稲盛氏がいうように「新しい文明社会を作っていく」人となる
ことであるという自覚し、宣教を担っていっ
てほしい。難しい時代の旅立ちだが、働き甲
斐のある時代への旅立ちだと大いに期待して
いる。
(大森日記)今週は、幼稚園も始まり、また総会資料も準備しなければならない日々であった。幸いにも先生方の働きに、信徒さんらの奉仕に支えられ日々を乗り越えていった。一人ではない。総会資料印刷に5時間をいただき感謝である。そんな日々に追われ、息子の牧師試験のことをまったく忘れていた。彼からの合格のメールで気づく。こちらは戸惑いしかないが、思いっきり頑張ってほしい。子育てはなかなかしんどいが、ひとつ仕事が終わったように思う。忙しい中、数冊の本を読め、感謝。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)幼稚園児が教会学校の始まる日を間違って、やってきて寂しくなり、大泣きをし始めた。泣く子をなだめながら家へ送っていく途中、いろいろな会話をして遊んだ。おかげでこちらが礼拝に遅れそうになりタクシーで。家内が初めてのオルガニスト、久しぶりで息が合わず、困ったものである。役員会で総会の準備。いつも思うのだが日本の小さな教会で必要なのだろうか。夜の礼拝後、誕生日の青年らと夕食を共にする。次の世代へのバトンタッチか。息子が礼拝に出席しておらず、これもいらいら。
)高齢者の方を訪問。いつも気になっているがなかなか全部をまわれずにいる。これもいらいら。横須賀まで足を延ばし、家内と散歩する。こういう時間もあとどのくらい続くのだろうか。三笠公園の横に横須賀学院があった。ここに召天した友人の牧師が教えに来ていた。ここでどう教え、思っていきていたのだろうか。親しい人は天に多くなった。
)幼稚園の三学期の始園式。風邪をひいて休んでいる子もいる。みんな元気で来てく ださいと願う。寒い。稚内の友人に寒中見舞いのメール。
)すべてが総会の準備に時間をとられる。うんざりかな。必要ない、それより祈ること。
)園児のお店見学の引率。可愛くてしかたない。それにしても歯が抜けるように店が閉店。来年はこられるのだろうか。今日は明日帰ってくる家内の夕食と思い名古屋の土手煮を作る。結果は、誰も手を出さず、一人で食べる。朝の祈り、聖書の学びと日常が帰ってきた。長男が牧師試験に合格というメールをもらう。すっかり試験のことを忘れていた。この4月から牧師かと思うとこちらの行く道を考えなければ。
)家内が帰宅する。息子に対してのこれまでの努力にご苦労様と言いたのだが、恥ずかしくて言わず、言葉が少なくなる。よくここまで育ててくれた。)総会資料の印刷で奉仕をいただく感謝。なかなか説教が出来ずに夜中、散歩に出る。帰ってみると次男が実習の制作をしている。きっとこれを言い訳にして礼拝に出ないだろう。考えるだけでも胃が痛くなる。朝、四時に完成。

2012年1月8日日曜日


ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。       マタイ2:12



【説教要旨】



 1月6日の顕現日に近い日曜日を顕現主日として、今日は、礼拝を守っています。それはもうひとつの古いクリスマスなのです。東方教会では、「大いなる新年」としてキリストの誕生日としてこれを祝ってきました。今日も東方教会の流れをくむアルメニア教会は、旧暦の1月6日をクリスマスとして、今も祝っています。

私たちは いつのまにか12月25日がクリスマスと思うようになりました。しかし、もう一つのクリスマスがあるのです。私たちの教会はローマを中心とした西方教会です。かつてビザンチウムを中心とした東方教会というもうひとつの教会の世界があるのです。今、私が見ている世界だけが世界ではないのです。多様化した世界があるのです。そして、そこでももう一つのクリスマスが祝われているのです。イエスさまの誕生がいくつかあるということは、それはいくつもの違う世界にイエスは生まれ、生きておられるということです。これはとても今日、大切になってきて


いるのではないでしょうか。イエスさまが生きて、命を与えて下さっている世界は自分だけの世界でなく多くの自分と違う世界にも生きていてくださるのです。

 今日は三人の博士の記事が読まれています。この三人の博士は、ユダヤ人でなく外国人です。この当時、外国人は救いの外にあると思われていました。この記事は、救いはユダヤ人という世界だけでなく、違う世界にまで及ぶということを私たちに教えていてくださるのです。

 主の救いのうちに世界は確かなものとされているということです。そして世界は互いに主の救いを分かち合う道があるということです。

新年にあたり思うことは多様の国々が主の救いのうちにあるという深い思いをするということではないでしょうか。今、世界は狭くなり国境を越えて人、物、お金が動くグローバルの時代にあります。「国家の品格」という本の中で、今日の潮流であるグローバル化から起きる危険性について、次のように指摘しています。「最大の問題は、グローバル化が世界をアメリカ化、画一化してしまうことです。これは経済の分野にとどまらず、必然的に文化や社会をも画一化してしまいます。」だからこそ私たちはこの多様な人、国を広く受け容れ、多元な価値を認めることがイエスさまのもう一つのクリスマスのメッセージではないでしょうか。

相手をいつもおかしいと決めつけ、認めず一つの価値観を力で制していく道は主のみ心ではありません。へロデはイスラエル最高権力者でした。彼は自分の力で王まで這いあがってきました。力こそ政治でした。彼の力がどんなに大きかったかはエルサレムの城壁をみると分かります。その石の大きさは他をよせつけない大きさです。ちょうど秀吉が大阪城を築いたような大きな石です。しかし、力がいかに醜いものであり、真実から遠ざかっているかをイエスの誕生物語は教えています。


さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」力の醜さを聖書は教えています。私たちは天使が、「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあるように私たちはヘロデのところに帰ってはいけないのです。力でなく平和の君として来られた救い主イエス・キリストに帰っていくことです。それはどんな人、国にも救い主として来られた方です。どんな人にも、国もイエス・キリストの救いのうちにあるのです。互いに認め、愛し合っていくことこそ私たちの道であることを今日のもう一つのクリスマスは教えてくれているのではないでしょうか。榎本恵牧師が「バタフライエフェクト」という言葉を紹介してくれています。アマゾンの熱帯雨林で一羽の蝶がはばたけば、地球の裏側では激しい嵐になる。自然界は複雑に均衡している。あらゆるものが相互に依存しあい、まったく関係ない小さな行為さえ、時間や空間を越えて大きな効果をもってくるというものです。

小さな者の、国の痛みは、やがて私たちの大きな痛みとなって帰ってくることを忘れずに、すべてに主の命が与えられているということを見つつ、相手を認め合うものでありたいものです。

またもう一つは、私たちの小さな力もやがては大きな力となるということです。ですから諦めずに「主よ、御国がきますように」と神の支配される愛の国が実現するように希望をもって今年も歩んでいきましょう。「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とあるように世と違う別の道を選び取ってこそなんと幸いなことと言えるのです。


牧師室の小窓からのぞいてみると



新年にあたり、再度、「国家の品格」(藤原正彦著)を読み直した。

グローバル化していくことは効率化、能率化していくことにはなるが、しかし、経済ということだけでなく、それは広く社会、文化、教育を腐敗させると彼はいう。「最大の問題は、グローバル化が世界をアメリカ化、画一化してしまうことです。これは経済の分野にとどまらず、必然的に文化や社会をも画一化してしまいます。」というように「画一化」、それは神のお作りになった秩序を壊すことになる。私は今の状況はあのバベルの塔の物語を想起させる。

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

私たちは再びバベルの塔を作っているのではないだろうか。

 


新米園長・瞑想?迷走記



休み中、街を歩いているとつい小さな子供に目がいってしまう。うちの園の子どもではないかと。実際、数人、子どもたちと合って話をしている。山王だけでなく、こんなところでというところで会う。子どもに目がいくのは職業病かなと。



ルターの言葉から

外から見れば、ヘロデはまことに好運な、連戦連勝の強い王でした。剣を取って戦う時、全てはゆきました。また、賢い、機略に富んだ王であり、権力もあり、外国貿易によって栄えました。しかし、家にあっては、もろく弱い、不幸な人でした。このように、ヘロデは表面は好運で、内面はみじめな王でした。一方、私たちのまことの王キリストは、表面はまったく貧しく、みじめで、軽蔑され捨てられましたが、内面はまったく喜びと慰めと勇気に満ちておられました。

そこで私たちは、この世的に表面だけ好運なヘロデが、私たちから、まことの恵み深い王キリストを奪い去らないように努力しなければなりません。キリストは貧しい惨めな幼子として、飼葉桶に横たわっておられますが、私たちは、この方のところに行かねばなりません。

それゆえ、もしまことの幸福を願い、純潔で幸いな良心をもちたいと欲するならば、ヘロデ王の生活様式を捨て、もう一人の王キリストのもとに行かねばなりません。それは、私たちが、わざによって義認を求めたり、望みを働きのうちに置いたりするような高慢を捨て、なんのみせかけもなさらない、いつくしみ深い主キリストの姿のみを心の内に飾ることを意味します。三人の博士も、あらゆる人間のわざを捨て、人の助けをあてにせず、神のみ言葉に信頼して、ベツレヘムまで来たときに、すぐに星を見たのでした。                1521年の説教より

ルターは、「我、ここに立つ」と言って、主の言葉に信頼し、生き抜きました。この説教においても、私たちがどこに立つかということをはっきりと示しています。

あらゆる人間のわざを捨て、人の助けをあてにせず、神のみ言葉に信頼する


大森通信    

 宮田光雄先生が、「いま人間であること

ー大地震の災禍の中で考える」という文章の

中で、次のように言っている。

この文書は(コヘレトー「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。・・・・・・わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」)「懐疑の書」でもなければ、諦観的ニヒリズムの告白でもありません。この短い文書には、暗いトンネルをくぐり抜けるときに点在する信号灯のように、三十数回も『神』という名が出てきます。コヘレトは、地上的な人間がさまざまな形でー富や地位や力を求めー苦しむ営みを冷徹に見通し、厳しい言葉を発しています。それは《空しい》日常性から、いっそう《高次の次元》へと人間が目を開くことを促しているのです。・・・・・・・・・・日常を越える《いっそう高い次元》というのは、宗教的にいえば神への《祈り》であり、終末論的希望にたいする根源的信頼の表明です。・・・・・・・この信頼と希望に支えられるがゆえに、なおこの地上に踏みとどまり、新しい将来を形成するために働く勇気をもちうるのです。・・・・今回の大震災は、私たちに対して重大な警告を発しています。これまでのような政治、経済、社会の在り方を根本的に改革し転換しなければならない。そえは、現代文明そのもの構造改革を問うているのです。

新しい年を迎えて、私たちが、神の言葉に立つこと、「我、ここに立つ。」、ここを問われ、問い続ける日々でありたい。

(大森日記)除夜礼拝、新年礼拝と共に祈る幸いを得る。高い次元、祈りこそ。誕生日のS兄を訪問し、信仰の歩みの確かさを思う。手術前日、N姉を訪問し、祈る。「祈ってください」という言葉を強く感謝する。K牧師夫妻が訪ねて来てくださり、新年の挨拶をいただく。祈り、祈られての時間だった。そろそろ仕事も始まるころ、夫婦で湯治場に行く。そこで出会った方で、癌の手術をした奥さんを労わりつつ来られていたご主人の優しさに感動。今週も色々な方と出会った。主に感謝。  

  おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)除夜礼拝、新年礼拝と続く。新しい年を迎えて大きく世界が間違っている方向に向かっているように感じる。こういうとき私は何も出来ないもどかしさを思う。厳しい一年が待っている。私は どこに立つかである。神学校の試験を受ける兄弟と神学生の息子と飲み会。お金だけをおいて、二人で話させるために退散。出費はきついが。こんなときに金を使う。
)誕生日を迎えた高齢の方を訪問する。明日、手術、入院をなさる婦人のことばかり思って歩いているとばったりと道で合う。こういう偶然はある。気になる方がまだいるが解決の道を見出せなくている。
)息子と教会の木を剪定する。気になっている所があるが、なかなか体が動かない。明日、手術を控えている信徒さんを病院に訪問し帰ると、K牧師夫妻が来てくださり新年の楽しい時間をいただく。
)かねてよりの休み中の旅行を伊勢路にする。各駅停車で向かうが、電車の事故で予定が狂い、SLと温泉にして、大井川鉄道に変更する。その後、名古屋に入り、夕食に味噌煮込みうどんを久しぶりに堪能。
)朝から伊勢に向かう。雪もちらつく生憎の天気だが夫婦同伴で楽しむ。途中、タクシーに乗るが伊勢の歴史について運転手から聞く。こういう楽しみがある。各駅停車の旅で23時に東京に着く。明日からは幼稚園が始まる。旅の間に読んだ本が2冊。こういう旅だから読書が出来るんだろう。息子がガールフレンドを連れてくる。ひやひやである。
)今日から幼稚園。職員会議をして三学期の準備。都庁と建物改築についての連絡。午後からは信仰の兄が訪問くださり楽しい時間を過ごす。訪問。主日の準備をしていると一日をまたいでいる。明日は病院訪問、友人の展示会、総会の準備をしなくてはいけない。あっという間に時間は過ぎた。
)病院訪問、総会資料作りと続く。一週間が過ぎるが、どう宣教していこうかばかり頭の中を巡る。難しい時代だから「我、み言葉に立つ」である。

2012年1月1日日曜日


初めに、神は天地を創造された。      創世記1:1

                               

【説教要旨】


新しい年を私たちは神によって、開かれました。この初めの時の時は、数億年前に起きたということではありません。創造があって、時が動き出したのです。ここには、私たちはいません。ここにおられるのは神のみです。

「初めに、神は天と地を創造された。」とあるように、主語は私でなく神なのです。

ルターは小教理問答書で、「わたしは、神がわたしをすべてのものとともに造りたもうたことを信じます」と言っています。遠い過去の、神話的な、あるいは科学的な創造の話でなく、私の生存にかかわる神のみわざとして、信仰的に受けとめていくことです。神の主権を賛美し、神のみ手によって造られた私、世界を見、感じ、考えていくことを私たちは神に求められています。

今年もそうですが、多くの人が明治神宮、川崎大師、お伊勢さんにお参りをしています。それは、人間を越えたところで、何かが起きているという素朴な感情、信仰が出てくるのが元旦の神社への参詣ではないでしょうか。

コヘレトの有名な言葉があります。


彼は、一切は空であると断言しつつ、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」と記しています。空に見える世も、つまり時は神の創造者の中で作られていると。

創世記の天地創造の物語が語り始められたのはバビロン捕囚の時代である。奴隷として国家を失った時代、讃美歌459「バビロンのながれの ほとりにすわり 都を思って涙にくれた」にある時代を生きた。「空の空、一切は空」という毎日の生活の中でこの時の中にも神の強い意志と偉大なる知性が、歴史の中のすべてを造られている、時の只中に、中心に神がおられるというということを創造ということで信仰の告白をしたのです。

初めに、神は天地を創造された。

確かに神がおられるなら、なぜこんなことがおきるのかという悲惨な、不条理なことを私たちは、昨年の東日本大災害で経験しました。未だに人々の痛みが、悲しみが、苦しみが続いています。

社会もまた然りで、大きな時代の変革期にあって、いっきに社会は混乱してきています。不条理に満ちた社会があります。しかし、私たちはここにこの時にキリスト・イエスが来られる、そして私たち一人一人が新たに造られていく。

コヘレトは、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」と。「初めに、神は天地を創造された。」という神の創造にこそ私たちの希望があるのです。イスラエルは、国も亡び、人格も打ちのめされる奴隷の民となったとき、「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」神の言葉によってすべてが造られていくことに真理を見、希望をみました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、」無の世界でありました。


無の混沌とした世界から、神の言葉によってすべてが創造されていったように、つまり無から有なるものが起きた、私たちには何もない、無である。しかし、無は無のままでなく、ここに神の言葉が響き渡っている、そして、「光あれ」と神が言われたとき光が生まれたように、創造が起きるのです。

新しい年を一歩、踏み出した私たちが進んでいくこの「時」の船に、主が共にいてくださり、言葉をかけてくださいます。ここに新たな救いの創造をされていることに希望をもって、今年も歩みだしましょう。

初めに、神は天地を創造された。」という「初め」は、神の創造から起きているのです。この一年の初めのこのとき神の言葉がこの礼拝に語られ、同時に御手が私たちのすべてを超えて働かれているのです。

確かに東日本大震災は、私たちに神がいるならなぜという問いを今もなお問うことを迫ってきています。しかし、私たちはたとえ厳しいこの問いかけが突きつけられていても、私たちは見るのです。神の創造のわざが働かれているということを。それゆえに私たちは、希望に包まれ、前に向かうことができること、これが信仰です。

大きな課題が、今年も、一人一人、また教会に課せられる一年かもしれない、それを誠実に受け取り、み言葉が豊かにこの出来事の内に響きわたっていることを聞き、み言葉に立って、前向きに課題を担っていくものでありたいと心からいのりを合わせていきましょう。

初めに、神は天地を創造された。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。


牧師室の小窓からのぞいてみると

消費税値上げについて議論がある。朝日新聞は消費税値上げについえ、値上げそのものの有無より、しなければ国家破綻へと向かうと論説している。それは同時にこの日本がどのような国を作るかということが問われているのではないだろうか。

私たちが今、知りたく、求めているのはどのような国家を作るかという国家像ではないだろうか。

たとえ小さな教会であっても、私たちがどのような国家を作っていくのが、主の望まれる国家となるかということを発言し、訴えていかなくてはいけない。そういう意味でも教会は、世から問われている厳しい時にあると思う。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。                 マタイ5:13

 


新米園長・瞑想?迷走記


ポンプ室が壊れて、部屋にあった荷物を整理しなくてはいけなくなった。先生方に冬休み中にもかかわらず出勤してもらった。私が着任して、一度も見たこともなく、使ったこともない物はあるし、一番古い先生すら知らない物が出てきた。全部を部屋に出し、要るもの要らないものに分別すると、部屋いっぱいの物で足場のなかった部屋が整理されていた。

物を管理していくということがどんなに無駄をはぶくかという常識を再確認し、整理整頓が大切だというごく当たり前のことを確認した一日であった。

今年は、教会は60周年、物を整理し、新たな歩みの整えをしていかなくてはいけないと思っている。



ルターの言葉から

「信頼」



私は、天地の造り主、父なる神を信じます。私は、この世のだれにも頼りません。自分自身にも頼りません。力、技巧、財産、信心深さ、その他いっさい私のものには頼りません。・・・・また私は神にしるしや証拠を求めません。主を試みることを願わないからです。まことの信仰、信頼のうちにあって、神のみこころのうちに、すべてをゆだねるのです。

主が全能者でいますならば、主が私に何をも与えることもなすことも出来ないゆえに私が窮乏する、ということがありうるでしょうか。主は天地の造り主、万有の主でいましたもうならば、だれが私から奪ったり、私を傷つけたりすることができるでしょうか。あらゆるものを従わせ支配したもう方が、私に善いものを与えたもうならば、どうして万物が私に仕え、善とならないことがあるでしょうか。

使徒信条の要解より

ルターの時代も中世から近世へと大きな動乱期にあり、ドイツは宗教改革以降、国内に大きな対立ができ、戦いが繰り広げられていく。

時代の大きな変革期、動乱期にあって、ここを生き抜いた人物としてルターを見るとき、私たちは宗教臭いことから解放され、変革期、動乱期を生きた人として大いなる私たちに示唆をくれるのではないだろうか。

ルターの言葉ではないが、ルターの言葉として伝えられている「たとえ明日が終わりであっても、今日私はりんごの苗を植える」という言葉は、神への絶対信頼と未来への大いなる希望を生きることの強さを感じさせはしないだろうか。


大森通信    

   

神の望まれること



お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、

新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

  わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。エゼキエル書18:3132

教会は60周年を迎える。私たちは、この歩みに心から感謝をしましょう。

それとともに毎週、罪の懺悔とともに始まる礼拝にあるように、神のみ心をなすことができなかった罪を心から悔い改めていきましょう。

60年のこれからの歩みは、決して楽観できないものがあります。しかし、私たちは目に見えることばかりに一喜一憂するのでなく、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。」と言われる神のみ心が貫かれていることをいつも思いたいのです。私たちが教会を作り上げてくのでなく、神のみ心のうちに作り上げられていくという思いを強く持ちたいのです。

「新しい心と新しい霊を造り出せ。」と言われる主の言葉を味わう日々の営みでありたいものです。

(大森日記)礼拝後、クリスマスのお茶の会、中高生のクリスマス会と華やいだ一日だった。今週もしばらく来られていない方々に週報などを発送し、祈った。発送しながら教会の歴史を感じる。誕生日の方々を訪問したり、恩師の未亡人を訪問していると時間が足りなくなる。入院されている方もおられるが訪問出来ず、時間配分の悪さを思う。そうこうしているうちに一年が終わろうとしているし、苦しい年だった。新しい年を迎えようとしている。すべてに時があり、時宜に叶ってみな美しい。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)昨日はクリスマス・イブだから今日は礼拝は少ないだろうと思っていたら、皆が揃ってくれる。嬉しい誤算である。クリスマスお茶会、中高生のクリスマス祝会と続く。その間、週報の発送などいつもと変わらないことも並行して行われる。息子が我儘から中高生の担当をおりる。困ったものだと思い、腹立たしくなる。命がけの信仰継承だ。一人は神学校に行くので男の担当者がいなくなる。

)幼稚園は冬休みだが、ポンプ室の後片付けに先生方に出勤をしてもらう。すべてを出して分別してもらうが誰も知らない物まで出てくる。ついでに資料室も片付けてすっきりする。片付かないのは我が家ばかりである。休み中には整理いていく予定(笑い)
)信徒さんの誕生日なので訪問にいくが不在であった。祈りのカードとケーキをおいて失礼する。夜は寒い。
)久しぶりに静岡の友人と会う予定だったが、財務委員会があるのに気づき慌てて、約束をキャンセルして、委員会に向かう。財政の厳しさは、教会の現状の厳しさを意味するが、すべてに時がある。時が良くても悪くても忠実にすることをしなくてはいけない。
)預かり保育も終わりホッとして、寝坊。今日は恩師の未亡人を訪問。最後は越谷のU夫人を訪問し、夕食を共にする。懐かしい時間を過ごす。私の若い時の写真をいただくが苦笑。
)今日も日頃、来ることが出来ない方を訪問している。そんなことで一日が終る。そんなおかげで移動中、本を読み2冊完了。それにしても今日は冷える。
2011年最後の日、今日も誕生日の方を訪問し、川崎からサッカーの応援で浦和まで行くが、間に合ったが入れず。その上、負けてしまう。要領の悪さをぶつぶつ家内が言うが、この頃、このぶつぶつが心臓に堪える。キツイ。一言も交わさず家に帰る。後、一時間で除夜礼拝。ここまでよく来ました。東日本大震災は、根底から考えさせられた出来事であった。もっと祈りを強め、学ばなければならな。昨日の延長であってはいけないと思い年を終わる。