2013年1月13日日曜日

主の洗礼日 2013年1月13日

主の洗礼日 2013年1月13日



聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  ルカ福音書3:22     

【説教要旨】
2013年も、十数日経ちます。そして、いつものように社会は、日常が動き始めました。私、教会は教会総会へむけて準備しています。新しい年への宣教の備えを始めようとしています。教会の在り方を問い直して、新たな宣教に向けていくときとなりました。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われる。」
福音を宣べ伝え、洗礼を授けることが教会は、目標です。今日は「主の洗礼日」です。その大切な目標である洗礼ということについて、私たちは今日は聞いていきたいのです。主が洗礼を受けられたのです。そして、その洗礼の場で「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞くのです。文語訳聖書は「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」とあります。
「心に適う」でなく「悦ぶ」という訳からすると神にとってイエスさまは、愛しむ子であり、悦びの源であるということです。
初代の教会では救い主であるイエスさまが、罪の赦しである洗礼者ヨハネの洗礼を受けるということが大変に問題になったといわれています。メシアなら罪は存在しないのであって、罪の悔い改めである洗礼を受ける必要はないのではないかと。しかし、イエスさまが罪の悔い改めである洗礼を受けるということは、イエスさまが罪人となったということです。それはイエスさまが単に高い所から私たちを慈しむということでなく、私たちの罪深い同じ場所、同じ目線に立たれたということです。ヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と表現し、さらに「恵みと真理とに満ちていた。」と語ります。
イエスさまが悔い改めの洗礼を受けるということは、罪人である私たちと神との関係をイエス・キリストによって結ばれるということです。「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」という神の言葉はイエスのうちにあるのですが、同時にこの言葉はイエスさまを救い主と受け容れ、洗礼を受けた私たちの中にも轟きわたっている言葉です。洗礼は、私たちが神によって新たに神の愛する子、悦びの源になることに他ならないのです。
ヨハネ福音書は次のように言います。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
別府教会の教籍に児童養護施設、別府平和園の子どもらの幼児洗礼者が記されています。戦争孤児、あるいは色々な状況で親に捨てられた子どもらです。その子どもらに洗礼を与える。それは創立者の信仰である。一人一人が神に愛しまれ、悦ばれるものであり、悦びの源であるということを愛しみを失った、自分が悦びの源であるということを信じられない子どもらにそうではない、あなたは愛しまれ、悦びの源であるということを園に入った瞬間に新たに生まれ変わったのだということを「洗礼を施す」ということで示したのかもしれません。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」のだということを示したのです。
洗礼を受ける・・・恵みの上に、更に恵みを受けるということです洗礼を受ける・・・罪びとであるこのどうしようもない私が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」となるということです。
私たちの人生のいたるところで「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」という声が響きわたっているということです。
その洗礼に導くために、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」ということを義務として、どうしてもそうしないとすまないということで、私たちは福音の宣教に励むのです。
ですから宣教は信者獲得ではなく、一人一人が神に愛しまれた、また悦ぶ者とされているということをどうしても伝えたいためにするのです。
教会総会を前にして、私たちの教会の目標とは多くの人々が「これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり」と声を聞き、人生が確かに支えられていくために洗礼を授けていくことです。一人でも多くの方々を洗礼へと導くために福音を宣べて伝えていく一年でありたいものです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

「手抜き除染 横行」

  学生たちを食い物にする「ブッラク企業」の存在が、若者に被害を与えているという。ブッラク企業といえば暴力団が関係する企業だったが、今は「若者を使い捨てにする企業」で、初めから使い捨てを前提として大量に採用し、大量に解雇していくことによりコストを抑えていくのだという。ここで心まで病気に侵されていく若者が増えているという。それは「日本の未来や社会も食い潰す大きな問題になっている」と指摘されている。
その解決が「そのまま会社に残って、病気になったら元も子もない。再就職の不安も分かるが、辞めるリスクより辞めないリスクの方が大きい」と指摘されている。
今、若者が置かれている状況は、厳しいものがあるが、これが社会を衰退さえているのである。若者への伝道というとき私たちはこのことを踏まえて考えていくべきである。
良心が弱っている社会に私たちの宣教の課題は重い。


新米園長・瞑想?迷走記

今週、朝日新聞の社説に「企業の挑戦―個性に裏打ちされてこそ」というのがあった。
「個性が競い合う世界の中で埋没しないために。」と指摘している。しかし、教育世界は、ゆとり教育を批判、転換していくなかで、ますます個性を出すことを否定する雰囲気があり、子どもたちの個性を潰していく傾向があり、子どもは息をし難くなってきている。幼稚園まで子どもたちの個性を生かしつつ、保育にあたっているが、これが小学校に入ると、消されていく。むしろじゃまになっていく子ども世界があることに心が痛む思いがある。しかし、世界化して時代、個性が問われていくのだが。



ルターの言葉から
      
アーメン。そうです。私たちは、主キリスト、神の子に運命をかけました。そして、キリストは決して私たちを捨てられません。私たちの生涯も魂も、キリストに縛られています。キリストのおられるところに、わたしたちもおります。キリストから離れては、世と戦う何ひとつの武器をももちません。それゆえ、もしキリストが生きておられるならば、宣教、教え、著述によって、私たちが主のために奉仕し、あらゆることを耐え忍んでいることをご存知です。もし彼と運命を共にするならば、私たちを必ず助けてくださるということを、世も私たちも知っています。それにもかかわらず、すべてのものは一度壊されなければなりません。何事も、そのままで残ることはできないのです。            卓上語録から
                      

北米のルター派・その歴史 7.チャールズ フレドリクソン

揺籃期の北米教会(16501783

ヨーロッパと北米が遠く離れていることだけが問題ではありませんでした。ヨーロッパ中のルーテル教会が、自分の都合や利害がもとで、争いを続けていたのです。血なまぐさい30年戦争の後、多くのルーテル教会がヨーロッパにいる会員のための牧師を見つけるのに難儀していました。それに、ヨーロッパの牧師の多くは、単身で、あるいは家族と共に海を渡って来て欲しいとの願いを断りました。新しい入植地のむずかしい状況を考えてのことでした。ルター派の牧師がいなくて、いくつかの教会が閉じられました。それらは、強力なリーダーシップを持つ信徒がいなくなった教会や、近隣の改革派ないしは英国教会と合同した教会でした。しかし、移住者が増え続けるにつれて、米国のルーテル教徒達はヨーロッパからの牧師が足りないことへの対策を見出していきました。その良い例が、牧師アンドリュー・ルドマンと信徒ジャスツゥス・フォルクナーの話です。ルドマン牧師は1697年にスウェーデンからやって来ましたが、着いて間もなく重い病に倒れ、半分引退しました。しかし、スウェーデンには帰らず、健康状態が良いときには、フィラデルフィア近辺に移住して間もないルター派入植者の小さなグループを支援しました。




大森通信    

 大森周辺 2

大森駅に一枚のポスターが貼られているのに気付いているだろうか。
大森駅開業135年、新橋、横浜に続いて3番目の開業の駅だそうである。
T君の話によると鉄道技師がドイツ人で、散歩好きなドイツ人が坂のある大森に住んだことにより、技術者を乗せるために自然発生的に出来た駅であると聞いた。そういえば、私の保健の先生がドイツで医師免許を取り、奥さんがドイツ人だった。よく、林の中を散歩をされていた。単語、バンデルンという言葉を今も思い出す。
教会の前の道がジャーマン通りとあるが、明治のとき、丘と林の小路をドイツ人が散歩している光景をかってに想像している。
ドイツから生まれたルーテル教会である私たちは、このドイツというキーワードで、何か宣教のプランを立てられないだろうか。



(大森日記)

  通常の気持ちになり一週間が始まる。多くの方が出席し、一年を始めた。喜びの一歩。建築状況を見る。思ったより大きく、天井が高くとれている。完成が待ちどおしいし、責任を感じている。役員会を開き、総会の準備、すなわち来年の宣教計画を立てる。主の道を備えることが出来るよう祈る。夕礼拝が終わった後、急に熱が出てきてダウン。月曜日、寝ていれば良いのだが、新年の準備、機械の修繕、ホームページの修正、職員会議と寝られずに待機。次の日、始園式だが、出ずに待機。夕刻、本部で打ち合わせ。水)医者に行く。今日の夕刻まで熱が出なければ出ても良いというので待ち遠しい。木)子供たちを迎える。午後から訪問出来る。夜、心臓発作で亡くなった友人の父の葬儀、掛川で一泊。金)社会福祉法人の県監査で立会い。勉強になることばかり、ぜひ幼稚園でも取り入れていきたいと思った。東京に引き返し、息子の学生時代の親子会に出席。5年ぶりの子どもの成長に感謝。土)主日の用意。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。  

日)今年、最初の礼拝である。静かに過ぎていく。役員会が開かれ、2013年度の宣教にむけての総会の準備の時となった。建築があり、なかなかそれでは次ですというわけにはいかない。この辺が不器用である。夕礼拝も終わり、家内の宿舎の三鷹に行くつもりだった。長い休みの後に先日、泥棒が入ったので心配してであるが、熱が出てくる。風邪をひいたようです。「良いわよ」と一言。一
人で帰宅。気丈夫な人である。夜中から熱が出てくる。
)幼稚園の新学期の準備日だったので、昨年より印刷機の修繕の約束、ホームページの指導、職員会議を組んでいたので、寝るに寝れずに起きているが、ひいていた熱が再びでてくる。病院にいくが、すぐに治る訳がない。
)始園式だが、出ずに待機。熱は下がってくるが、体は重い。午後から新年の挨拶。コンピュータの操作で色々とお世話になった小鹿教会の信徒さんから親父さんが心臓発作で天に帰られたと電話をいただく。祈る。若い時は「祈りましょう」という言葉がすぐに出てこなかったが、躊躇なく言えるようになった。
)熱は、さがったが、早く子どもたちと接したいので、病院に行き、許可をもらうが、熱がさがって48時間を越しても何も起こらなければ良いですよと言われる。明日から門で子供を迎えることが出来る。正月、一緒に遊んだ友人がインフルエンザA型にかかったというので、医者に言うと「いまさら、どうだったか分かりませんよ」と諭される。知ったところで遅いか。
)朝から門に立ち子供を迎え、教会の総会資料、週報を作成し、小鹿教会に葬儀に出かける。みんなににこにこ迎えていただく。葬儀説教を聞きながら牧師になっていた。明日は県の監査なので掛川に一泊。不味い高い焼き鳥。まいったまいった。
)早朝から監査を受ける。監査委員として教会会計を監査していたが基本的には変わらない。しかし勉強になることばかり。牧師なのにこんなことを楽しんでは。息子が卒業して5年後ということで自由学園卒業生、父母の集まり。人生色々かな。
)朝から礼拝の準備。これもあと10年。あっと過ぎていくだろう。息子の結婚式の日が決ま
る。式後のお茶の会にお菓子を作らなければ。