2012年8月19日日曜日


聖霊降臨後第12主日         2012年 8月19日


すべての人が食べて満腹した。
マルコ6:42

「幸 せ」

説教要旨】
今日の5000人の給食の物語は、四福音書全部に記されています。よほど印象に残ったイエスの奇跡物語だったのでしょう。食べることの好きな人にとって、「すべての人が食べて満腹した」という言葉に至福を感じます。いま、世界では食べられないで多くの方々が亡くなっています。そのために多くの援助がなされていますが、なかなか飢餓の問題は解決しません。マザー・テレサの言葉「大海も一滴からなる」ということを心にとめて私たちはイエスさまから託された業をなしていきたいと願っています。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル上16:7)」という言葉があります。
目に見える事実は、5000人を食べさせるには「パン5つと魚2匹」では、不可能であるということです。「パン5つと魚2匹」は、13人分の食事だと記している本がありました。つまり弟子とイエスの13人分であって、人を助ける余裕などはないということです。私たちはこういう現実にいつも立たされているということです。「人は目に映ることを見る」わけですが、「が」でつながる「主は心によって見る」という視座を私たちは忘れがちです。
イエスさまは、弟子の5000人の食事をどうするかという依頼に対して、「イエスは『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』」と言われました。私たちに責任というか私たちの働きを期待されているのです。そして、私たちは、その期待に誠実に応えようとします。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」という現実にぶつかるのです。しかし、私たちは、しばしばイエスの期待に応えられない自分に気づきます。「人は目に映ることを見る」ということの誠実さです。しかし、それでは限界があるのです。この限界を超えさせるものは、「主は心によって見る」という言葉です。
イエスさまは、「パン5つと魚2匹」をとり、「天を仰いで讃美の祈りを唱え」というのです。人の限界はどこまで行っても限界です。私たちの心がどこをむいているかということです。先週、私たちは、「悔い改め」ということに聞いていきました。自分が向いている方向から180度向きを変えるということでした。私たちが自分ばかりを向くのでなく、私たちが天に向くことです。ここに限界を超えていく出来事がおきてくるのです。このことを主は今日の奇跡の出来事の中で私たちに示されたのです。
 私たちは、5000人の食事を用意するように主が弟子たちに命じられたように世に私たちが生きていくということは使命が与えられています。命に対して私たちは常に使命を与えられた共同体が主の共同体であるということです。だから教会は常に世に対して責任をもっています。決してこれから私たちは逃れてはいけないのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主のご命令がいつも私たちにあるのです。しかし、私たちはいつも今日の日ごとの糧を与えたまえというものしか用いえない存在であるということです。しかし、それが私たちの使命の遂行の妨げにならない、むしろこの小さなものを大きくされるという神の事実を神の使命の実行には起きてくるのです。なぜなら、私たちが起こすのではないです。イエスさまが、神が起こされるのです。わずかな物を天に仰ぎ、イエスさまは「讃美の祈りを唱え」られたのです。「讃美の祈り」とはなんでしょうか。人間の思いを超えて起きてくる神の出来事の素晴らしさを讃美する祈りであり、神は奇跡を起こされるのです。
「主は心を見る」ということはこの祈りが「讃美の祈り」となっている私たちの心を主は見られるのです。
今、一人の医師が戦乱のアフガニスタンを緑土に変えようと努力をしています。小さな、小さなグループです。緑土に変えるなど出来はしないと誰も思えるのですが、一人のクリスチャンがアフガニスタンの真の平和を求めて、戦乱の前の緑溢れる土に変えようとしているのです。困難と闘いつつもなお前へ進み、段々と緑を取り戻してきています。それは四福音書の記者がどうしても書き留め、伝えたいことを現代に証しているのではないかと思うのです。主の使命に応えることは自分の力が僅かもしれない。その僅かこそ大切であり、この僅かを主にささげることこと、それも天に向かって、僅かなことを感謝して「讃美の祈り」が私たちから起きてくるとき、私でなく神が私たちの使命を完成させてくださるという事実を私たちは見ることが出来るのです。私たちの周りには主の使命に生きている群れをみます。ここで起きている出来事は主が起こされているのです。
私たちの教会は、幼稚園という主の業、使命を与えられています。私たちは僅かなものしかもっていません。この僅かな物を主に返し、天に向かって讃美の祈りを唱えるところに、「すべての人が食べて満腹した。」という主による大きな奇跡が起こされてくるのです。私たちもこの出来事に出会うべく招かれている幸いが今、ここにあるのです。



牧師室の小窓からのぞいてみると

 竹島、尖閣列島

815日は、また違う動きが起こってくる。竹島に韓国大統領が上陸。理由は慰安婦問題への十分な日本の対応がなかったからだという。尖閣上陸にいたっては暴挙である。石油が出てくることが分かるまでは、中国は何も主張していなかったが、それ以降急に主張する。
領土というものは、確定して不動のように思っているが実は時代の政治・経済状況によって変わるのだということを私たちは知っておくべきだろう。
ただ、土地は王といえども自由にはならないことを聖書は言っている。そこには良心が問われる。歴史的事実を前にして、良心が問われている。その良心を踏みにじるようなことは断固として「ノー」という毅然とした態度が必要だ。
世界に問われているのは良心であるように思える。この良心が軽く取り扱われていることに世界の混乱と不幸があるように思える。



新米園長・瞑想?迷走記

設計変更により、トイレの天井が低くなると言われた。現場に行き、さてどうしたもんかと思うとき、こどもの目線になってみるとどうなのかということを考えてみた。
やはり高い方が良い。天井を作らず配管も出しっぱなしにすることにした。そしてトイレが子どもたちにとって楽しい場にならなくてはいけないと思いを巡らしてみた。配管を明るい色にするが、しかし、トイレは落ち着く場所だからそれなりの雰囲気を作らなくてはいけないと思う。こんなことを考えながら改築していくのもおもしろいし、こどもの反応がどうなるのか楽しみになってくる。




ルターの言葉から



エラスムス、エコランバディウス、ツヴィングリ、カールシュタットはすべてをその知恵で推し量ろうとして、混乱している。しかしわたしは神がわたし以上により知っていることを知り、信じていることを神に感謝している。神はわたしが理解するよりも高いことをなすことができる。不可視的なものから可視的なものを創り出すことができる。なぜなら福音の光を通して起こるすべてのものは不可視的なものから出た可視的なものである。かつて10年前に誰がこの結末を予期したであろうか。肉は最も不信心である。(1532年)

ルターの生涯の論敵であったエラスムス、エコランバディウス、ツヴィングリ、カールシュタットが出てくる。特にエラスムスについては、ルターは痛烈に批判していく。エラスムスほど理性的であり、誠実な人間はいなかった。この理性的、誠実こそルターの許しがたいことだった。人文主義者において、人間を自分のあるがままに理解しようとして、自己自身の中にとどまり、人間に固有なものに価値を与えようとする。しかし、ルターは人間は罪人であり、破滅しており、この人間を神が義とする救済者であることによって規定されている。神との関係の中での自己認識であるのである。
神はわたしが理解するよりも高いことをなすことができる。不可視的なものから可視的なものを創り出すことができる。なぜなら福音の光を通して起こるすべてのものは不可視的なものから出た可視的なものである。」という視座をもって、理性と人間の誠実さでは得ることの出来ない、神の力にすべてが規定されている世界が神のダイナミックスによって創り出されているのを見ることが出来た人であった。



大森通信    
 思い出(会堂をめぐって⑤)
 
サンパウロのSE(真ん中)広場にサンパウロの大聖堂がある。数十年をかけて、やっと私の時代に完成にむかっていた。最初に入れたパイプオルガンをあまり使っておらず、いざ使おうとしていたら白蟻にやられていたという、これを辻パイプオルガン製作者が修繕したというエピソードがあった。
日本は宣教年数が浅いことや日本とヨーロッパの風土の違いがあるだろうが、日本の教会は献堂即完成となるが、教会は時間をかけて、少しづつ完成にむけて作っていくのが、良いと思っている。確かに先にあげた例のような嘘!と笑ってしまうような無駄なことがあるだろうが、この無駄も大切なことではないだろうか。「大聖堂の作り方」という絵本がある。ゆっくりと時をかけて、みんなで大聖堂を作りあげていく喜びの作業を見ることが出来る。
今、木造建築から鉄筋コンクリートの石作りに近いヨーロッパ型になってきているとき、ゆっくりと完成させても良いのではないかと思っているのだが、日本では、なかなか受け入れてもらえない。


(大森日記)今週は、耐震補強工事だけでなく、耐震改築工事が始まる。毎日、寝室が埃であり、寝る前に掃除するのが習慣になってきた。埃が少なくなってくると完成だと思って楽しみにしている。しかし、日常の業務と建築の業務があり、天手古舞である。暑い、蒸す日々が続く。クーラーがない時、朝早く起きて仕事をしていたが、日中も出来るようになったが、やはりペースは落ちる。やっと本を一冊読める。借家生活をしたことのない私は家賃が前月末に先月分を払うなんて知らなくて不動産屋から請求の電話。なんと無知なことか。土曜日に雷が鳴り、大粒の雨。暑さも一休みかな。


おまけ・牧師のぐち(続大森日記)牧師だって神さまの前でぐちります。ぐちらない聖人(牧師)もいますが。

日)今日は、礼拝も早く終わり、とりとめもない時間をゆっくりと信徒と話す。昼食も一緒にレストランで。家内と整骨院に行き、訪問し、帰って夕礼拝まで、一眠り。夕礼拝も出席者と説教を巡って対話。夕食もすることなく家内も帰り。私もそのままねてしまう。久しぶりの神経を休ませた聖日だった。三階を壊し臨時の講堂を作るが、広さに驚く。夜は沖縄戦で心の障碍をおっている人たちのレポートを見る。戦争はしてはいけない。悲しく重くなった。
月)朝、早く起きて、来週の主日の準備にはいる。工事も補強、改築が同時に行われるようになり、さらに騒がしくなる。なかなか外に出られない。
)一日中、区への幼稚園変更手続きの書類を作る。また資金計画のやり直し。代議員と話し、頭をかかえつつ、するしかないが知恵と祈りが必要である。
)千鳥ヶ淵に戦没者慰霊の祈りをささげに行く。T君も参加してくれる。祈りというよりも集会で、没者の遺骨納骨堂に背を向けてはついていけなかった。礼拝観の違いか、日本人としての感性の違いか。来年からは納骨堂に祈りをささげてそっと帰ろう。今の平和の十字架を負ってくださった方々に祈りを捧げる。区役所への幼稚園変更手続きの書類を提出。今日も耐震工事で一日が終わる。合間を縫って誕生日の方の家を訪問する。
)今日は早朝に起きて工事業者が入れるように準備をし、遅くまで寝ることにした。昼に起きてきて息子の昼食を作り、仕事に入る。不動産屋から家賃の請求。前月に次の月の家賃を払うことになっているという。これが常識だそう。この常識からかけ離れていた自分に苦笑い。工事現場の指示、ストレスばかり溜まる。
)朝から工事の特に幼稚園のトイレの床の、ドアの色の打ち合わせ。先生方に委ね、責任は私が負えば良い。本部に負担金を納めにいくが外は暑い。
)工事は続く。夏休みを来週から5日間取ることを代議員と相談。母の納骨を兼ねて、新婚旅行をした山口を訪ねてみることにした。